「あなたは誰ですかあなたは男ですか女ですか。
大人ですか子供ですか。
あなたは黒い人型をしたかたまりでした」。
「私一人になりました。
もう二度と被爆にあいたくないです。
もう二度とあいたくないです。
ノモワ広島ノモワ長崎」。
「私には何もできませんでした。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
見捨てるより仕方なかったのです」。
「こんな死に方をしなければならないなんて本当に悲しくて悔しくてそして苦しくてどんな思いが去来したのでしょうかどうしたらこの思いは消えるのですか」。
「私と同じこんなにつらい生きざまは誰にもさせたくありませんこの事実を伝えるために生きていますいや生かされています」。
広島・長崎に原爆が投下されてから70年。
被爆の記憶をとどめるために被爆者の方々から手紙をお寄せ頂きご紹介する番組「ヒバクシャからの手紙」。
被爆70年の節目の年で9年目を迎えました。
今年も新たに217通の手紙をお寄せ頂きました。
これまでの総数は2,200通以上に上っています。
手紙をお寄せ下さった皆さん本当にありがとうございました。
今夜は皆様の手紙をコピーしてスタジオに用意しました。
この2,200通の声とともにお届けします。
被爆70年の節目の「ヒバクシャからの手紙」。
今年は作家の小山田浩子さんそして被爆者で現在も語り部の活動を続けていらっしゃる岡田恵美子さんにお越し頂きました。
どうぞよろしくお願い致します。
よろしくお願い致します。
岡田さんは8歳の時に被爆をされているんですけれどもここに寄せられた被爆者の方々の経験それから思いの籠もった2,200通を超える手紙。
どのようにお感じになりますか?そうですねこの会場に入りまして本当に2,000通…お一人ずつが本当に手紙に託して下さるまでの努力とそして投かんして下さった事に対してまず私はお礼を言いたいと思います。
私は2,000通の手紙を拝見した時に何かお一人ずつの息遣いを今感じております。
そして昨年芥川賞を受賞された作家の小山田浩子さんですけれども実はおばあさんが被爆されているという事でこのお手紙どのように受け止めていらっしゃいますか?広島にいる作家でかつ祖母が入市被爆なんですけれどもしているという立場であるにもかかわらず今まできちんと戦争や原爆について向き合ってこれてないんじゃないかっていう不安や罪悪感がずっと持っているんですけれども今回のこの番組への参加を機に逃げずに向き合う一つのきっかけにできたらなというふうに思っております。
それではお寄せ頂いたお手紙をご紹介していきます。
過去にお寄せ頂いたお手紙の中から70年前のあの時何が起きたのかその後どのような苦難を生きてこられたのか被爆者の体験をつづった2通です。
「母さん。
今年も八月六日がやって来るよ。
今でも僕は原爆で連れ去られた母さんたちの命を甦らせて手を取り抱き合いたいというむなしい願いを持ち続けているんだ。
母さんたちの死は戦争だから仕方がなかったという考え方は絶対に許せない」。
「一瞬にして崩壊した広島の町並み。
母さんは崩れ落ちた家の下敷きになっていた。
『母さん!』と呼ぶと屋根の下から『ここよ』という声が聞こえた。
『ああよかった。
生きていてくれたんだ』しかしその喜びもつかの間だった。
そのうちに爆風の吹き返しの火事嵐がものすごい勢いで追ってきた。
『母さんダメだよ。
火事の火が近づいてきたよ。
こっちからはもうそばまで行けんよ』。
悲鳴に近い叫び声をあげた。
母さんは『そんなら早よう逃げんさい』と言ってくれた。
それなのに気も動転していた僕は『母さん。
ごめんね。
父さんの所に先に行っていてね』。
何という不遜な親不孝の言葉だろう。
死別の際に母さんを裏切る言葉を告げたんだよ。
母さんは死を覚悟したのか『般若心経』をとなえだしたね。
僕はその声に後ろ髪を引かれながら原爆の業火で生きながら焼き殺される母さんを見殺しにして逃げたんだ。
二〜三日後家の焼けあとに積もった灰の中を探したら母さんが倒れていた場所から遺体らしいものを見つけ出すことができた。
それが母さんだったんだ。
でもそれは人間の姿ではなかったよ。
母さんは小柄な女性だった。
まるでこどものマネキン人形にコールタールを塗って焼いたような油でずるずるした物体だった」。
「母さんはあんな姿で殺されたんだね。
人間としてではなく『モノ』として殺されたんだ。
悔しい。
本当に悔しい」。
「忘れる事のできない『あの日』一九四五年八月九日午前十一時0二分。
爆心地より八百メートル離れた横穴の防空壕にかくれていました。
そのときです。
ピカッと光り吹き飛ばされました。
気が付いたとき壕の中は眼が飛び出ている人黒焦げの人血だらけの人たちがいっぱい入っていました。
『母ちゃん助けて!!』と叫びましたが誰も助けには来てくれません。
八才の妹と十才の私は一才の甥を背負い我が家を探しました。
『母ちゃん母ちゃん』と家を探し焼け野原の中ガレキをはらいのけると黒焦げの死体が見つかり…『姉ちゃん』としか声がでません。
近くに母も黒焦げになっていました。
一発の原子爆弾で7万4千名近くの人々が黒焦げになりました」。
「妹は毎日のように『母ちゃんのところへ行こう』という日が続くようになり私は『母ちゃんのところへ行くということは死ぬことなのだから。
母ちゃんの分まで生きていこう』というと『生きらんばツマランとやろか』と言っていましたがある日妹が学校から帰ってきません。
どこに行ったんだろうと探していると遠くの方から若い女の子が列車に飛び込んだゾーという声が聞こえてきました。
急いで行ってみると線路の真ん中に『丸はだか』で腕はなく足もなくおなかの傷口に多くの『ウジ虫』が這い回っています。
私は『妹です妹です』と叫び『なぜ死んだのせっかく生き残ったのに』といいつつ妹を抱きかかえました。
妹の血液で私の胸は真っ赤になりました」。
「母と姉と兄は原爆で死にやっと生き残った妹も自殺し一人になった私も死のうと思いました。
疾走してくる列車の前に立ちましたが怖くて死ぬことができません。
死ぬにも勇気がいります。
生きるにも勇気がいります。
残念ながら妹は死ぬ勇気を選びました。
しかし私は生きる勇気を選びました。
今は生きていてよかったと心の底から思っています。
生きていればこそ次の世代の人々に戦争のおろかさ平和の尊さを伝えることができるからです」。
広島の被爆者の最後に言っていらっしゃる「悔しい本当に悔しい」この言葉は魂から出た言葉だと思います。
原爆はその瞬間多くの方を殺しただけではなくてそしてまた時間を置いて病気で殺しただけでもなくて精神的にもここまで人々を痛めつけたのかという事を改めて知りました。
今年は被爆70年の節目の年です。
それを機に初めて筆を執る決意をした方もいらっしゃいます。
2通ご紹介します。
「七十年ややもするとその時体験したことが自分自身の中でも風化してしまいそうになることがありどうしたものかわが身とともに朽ち果ててよいものかと思いあぐねています。
それも毎年八月六日を迎えるこの時期になると胸騒ぎがするのです。
これまで被爆体験に関し口を閉じてきましたが卒寿を迎えた今こそ最後の機会だと思って筆をとる決意をしました」。
「今年で83歳になり身辺の整理を始め大体片付きました。
しかし何か胸の中がすっきりせず1つの塊のようなものがころころしておりました。
死ぬまで語らず黙って背負って行こうと思って来たあの悲しみはやはり重くこの手紙を書く決心をいたしました。
原爆にさえ合わなければ…そう思うと気が変になる時があります。
しかしこの度『戦争』の悲惨さひどさを伝え続けなければならない使命があるのだと思うようになりました」。
岡田さん語り継ごうという気持ちになるまで70年の月日が必要だったという方もいらっしゃるんですね。
そうですね。
キノコ雲の下で何が起きたか1人ずつ皆さん体験が違って当たり前なんだけど戦後の生活の中で生きるというのは本当にもう想像を絶するような苦しみ憎しみ怨念その中を本当に生きて下さってこうして手紙にしたためて下さる勇気本当に私はここにお一人ずつの魂が宿ってるんじゃないかなと思って今そういう中でやはり諦めてはいけない。
語り継がなかったら被爆者は年も取りますけれど被爆証言する事が本当になくなる事を一番私は恐れております。
被爆者の方々の平均年齢は今年80歳を超えました。
一層高齢化が進んでいます。
そうした中で被爆者の皆さんの心にどのような変化が起きているのでしょうか。
取材に当たった小岩ディレクターです。
7年前にこの番組に送って頂いたお手紙があります。
こちらのお手紙なんですけれども原爆が地球上から無くなるまで活動を続けていこうと力強いメッセージをお寄せ頂きました。
当時81歳の出島艶子さんからのものです。
今出島さんがどのように過ごされているのか取材しました。
7年前手紙を寄せて頂いた出島さんに会うため東京にやって来ました
被爆体験を語り続けたいと手紙につづった出島さんは今どんな暮らしを送っているのでしょうか?
(取材者)お邪魔します。
お邪魔します。
どうぞ。
(取材者)じゃあお邪魔します。
出島さんは広島で被爆後東京に移り住み3人の子どもと2人の孫に恵まれました
あの日出島さんは爆心地から600メートルの電話局で働いていました。
18歳でした
(出島)だから美人だったんですよ。
原爆の爆風で吹き飛んだ無数のガラス片が出島さんの顔に突き刺さりました
ここの上それからここにこうありますでしょ。
おでこの横ですか?ここらとか。
ここなんかね指が入るほど穴が開いてたんですよ。
出島さんは顔に負った傷の事を7年前の手紙にもつづりました
「私は被爆者だとわかる顔を何とか見られたくないと化粧もしてみました。
それでもいびつになった顔は眉を引くことも困りました。
右と左と違う顔になってしまいました。
六十三年間整形することもできずに生きてきました」。
母となった出島さんは後ろめたさから子どもたちに顔の事は触れずに過ごしていました
しかしただ一度だけ当時小学生だった息子に胸の内を漏らしてしまった事を今も悔やんでいます
下の息子が…。
悪い事言っちゃったなと思ったんですけど長い間胸の中にありましたでしょ。
自分のような思いを二度と誰にもさせたくない。
出島さんは証言者として生きる道を選びました
この顔が原爆に遭った顔です。
地元の小学校や集会所を訪れ多い時には年に30回ほど自身の体験を話してきました
核兵器と人間は共存が絶対にありえないという核兵器を無くそうという運動に…。
ヒロシマの思いを世界に訴えるためイギリスに渡って証言した事もありました
出島さんは自分をさらし40年にわたって証言活動を続けてきた思いを7年前の手紙につづっていました
「この顔が役にたつなら被爆者の苦しい生き方を一人でも多くの人に見てもらい聞いてもらうことで…」。
絶対に私はね私の話の中身の中の一行でも忘れないで覚えてて何かあった時には平和運動やってくれるんじゃないかっていうそういう確信を持って頑張ってきました。
しかし5年ほど前から出島さんは活動する事ができなくなりました。
原爆の後遺症と思われる甲状腺の機能障害やぜんそく突然襲う手足のしびれがあり医者からこれ以上薬の量は増やせないと言われました
そしていくら語り続けても無くならない核の現実
失望感が出島さんから気力さえも奪っていきました
みんなみんなね私の話や被爆者の人の話を聞いた人がもっと力を出して世界中に訴えていかなきゃいけないんじゃないかとむなしいですよ本当に。
本当にむなしいです。
出島さんは実は取材中にももうちょっと頑張らなきゃいけないんじゃないかというふうにおっしゃっていました。
決して証言活動をやめたい訳ではなくて体調の問題と葛藤していらっしゃいます。
私はごく最近久しぶりに広島の平和記念資料館の方に行ったんですけれども想像していたよりもすごくたくさん人がいらっしゃって若い方もたくさんいらっしゃって例えばカープのユニフォーム着ていらっしゃる方きっとこれからこれを見たあと観戦されるのかなという方もいらっしゃって知りたいと思っている若い方は実はたくさんいてしかも今日本は平和や戦争に対するスタンスを変えられようとしているすごく大きな局面にいると思うんですがその現代に生きる私たち若い人の危機感ってすごく大きいと思うんですね。
知りたいって初めて思った方々にこういう手紙のようなものがうまく届けられたらなというふうに思いました。
記憶の風化がささやかれる中私たちは今年あるテーマで被爆者の皆様からの手紙を募集しました。
それは「一番伝えたい『あなた』へ」です。
被爆者というとひと言で語られがちだと思うんですけれども本当はお一人お一人にお名前があって人格があってそれぞれ別々の人生を歩まれていたんだと思います。
それぞれの方が今70年の年月を振り返った時に今誰にどんな事を一番伝えたいのかというテーマで手紙を募集させて頂きました。
そんな中で多くの皆さんがあの日亡くなったあなたに宛てた手紙を寄せて頂きました。
「わしの二つ違いの弟勝。
当時は二人とも動員学徒でわしは工場おまえは建物疎開の片付け作業の毎日じゃった。
六日これが運命の日になった。
ズン!腹に響く衝撃と共に周りがマグネシュウムを何百発も焚いたような青白い光に包まれた。
得も言われん恐怖を感じて即防空壕に飛び込んだ。
ものすごい轟音!しばらくすると逆に静かになった。
恐る恐る出てみるとあの5階建てみたいな工場が骨だけになっとる。
竹藪にゃ瀕死の重傷者がうめいとった。
看護しよる人からお前達何で無傷なんじゃと白い目で見られた。
鉄道に多くの負傷者とともに乗り込みお母ちゃんのもとに逃げ帰った。
ほいたら喜代三お兄ちゃんが先に帰っとって『勝が死んだど!』と大けな声で言う。
それらしい頭の骨を拾うて持って帰ったと言うんじゃ」。
「どのくらい経ったかのお。
『松本の坊ちゃんが逃げよりんさった』という連絡を受けたんじゃ。
おじさんと喜代三お兄ちゃん二人で自転車で即広島に向かった。
夜中の道を四十キロ。
七日の午後救護所となっとった寺で勝を見つけたがホンの数時間前に息を引き取っていた。
直前まで『お兄ちゃんが助けに来てくれる』とかすかな声で言いよったそうな。
お前が言いよったお兄ちゃんあれはわしじゃったんか?わしのことじゃったかと思うとつらい。
凡庸なわしを生かして兄弟で一番出来がええと言われた弟を死なせてしまう。
運命のいたずらを甘受せにゃあいけんのか」。
「わしは昨年まで被爆の証言を断ってきた。
それは己が『ずるいヒバクシャ』だと自認しとったからじゃ。
己は怪我一つせんで逃げ回った。
あの時は仕方なかったとは申せずるかったかもと犠牲者達に申し訳ない気持ちを七十年も持ち続けて来とる」。
「三方文子ちゃんへ文子ちゃんあなたが全身にガラスが刺さったまま逝かれた日から70年もの月日が過ぎました。
被爆後3日目にあなたは爆心地から35キロ離れた家に戸板に乗せられて帰りました。
せっかく家に帰っても医者も薬もなく赤チンキを塗るだけです。
開け放たれた座敷の中央に寝かされていました。
親類の人やお母さんおばあさんが心配そうにあなたをのぞき込んでいます。
熱が高いのか紅潮した顔であなたは周りの人に言葉をたくさん遺しましたね。
『お母さん泣かないで。
私は髪が乱れたお母さんは見たくありません。
文子はもうすぐに死にます。
死んだら私の墓の周りには美しい花をいっぱい植えてちょうだいね。
お母さんは一人で兄さんと私を育ててくれて日本一のお母さんよ』。
『ばあさん泣きんさんな。
おばあちゃんはよう転げるけんね下駄をゆっくりと履くんよ!!転んで怪我をしんさんな…』。
そして私に…『きよみさん小さいときから仲良くしてくれてありがとうね。
学校に行ったら三方文子は母校の発展と先生方の健康を祈りながら死んでいったと必ず伝えてくださいね』。
それにしても人間は死を前にして心が研ぎ澄まされるのでしょうか。
わずか16歳で多くの言葉を遺された文子ちゃんの臨終の聖なる場面を思い出すときあなたが生きておられたらどのような人生を生きられただろうかと悔しいです。
私も84歳になりました。
一人でも多く当たり前のような平和な今の生活が多くの人たちの犠牲の上にあると言うことを考えて欲しいと思います」。
(小山田)すごく苦しくて痛くてつらかったと思うんですけどその中でこういう美しい言葉美しい態度を残された方がいらっしゃったっていうのは私たちが一般的に持ちがちな被爆者っていうイメージとはまた少し違っていて一人一人人間であって例外なく誰かの子どもであって誰かの親であったり兄弟であったりお友達であったりしたっていうそういう当たり前の事をこういう手紙は改めてこう痛感させて下さいますね。
家族愛兄弟愛知人友人…そういう優しい本当に思いやりのある愛情がこの手紙から私は受け止められるんで人間ていうものは最後まで愛情を持って接するのが人間だなっていう事をまた改めて教えられました。
今ご健在で被爆された方は当時10代あるいは20代だった方も多くいらっしゃいます。
そうした青春時代多感な時期だからこその声も寄せられました。
「永久に十八歳勤労学生の君たちへ十八歳の私は兵隊になることを志願しました。
汽車で到着した所は広島市でした。
不思議なことに戦火に遭わず美しい街並みを残していました。
私たちを待っていたのは防空壕堀りでした。
相当辛い仕事で体力の消耗は激しいものでした。
ここで登場したのが君たち勤労学生でしたね。
ちょうど年齢が同じだったところから彼らとは特に親しくなり町の情報を教えられたり私の東北弁を笑い合ったりしましたね。
そして一緒に『ふるさと』や『荒城の月』などを合唱しました。
それは灰色の日々の中に一瞬太陽の光が差し込んだような貴重な時間でした。
ぼくたちは生きているんだねというメッセージの確認のようでもありました。
そこに襲ってきたのが原子爆弾。
潰れた兵舎から飛び出して見渡した広島の町は地獄と化していました。
私たちは早速被爆者の救援活動を始めました。
水を配りに回っている途中大きな樹の下に固まっている五六人を見つけました。
その内の一人が声を掛けてきた。
『兵隊さん良かったね。
ぼくたちみたいにならなくって…』。
差し伸べられた腕の付け根を見てがく然となりました。
顔が半分ほど無くなったようで黒褐色の全身からは血の固まりや皮膚が垂れ下がっています。
あまりの恐ろしさに私は薬罐を捨てて逃げ戻ったのでした。
それから何時間たったでしょう。
不意に思いだしたのです。
『さっきのあの声は?あの昨日まで一緒に働いた勤労学生のものじゃないか?』急いで見覚えのある箇所に行きましたがそこにあったのはもうものを言うことのできない遺体でした。
せっかく私を見つけて声をかけてくれたのに…。
返事もせずに遠ざかった私は何と不人情だったのだろう。
何時間か前に『オーソレミオ』を歌ったあの輝くような頬の色はどこにもない。
夢も希望も輝く未来も青春も突然に断ち切られて破れ草履のように道端に捨てられた学生たち。
でも勤労学生の方々よ。
あなたたちは生きています。
原爆の証人となって」。
「あの日広島市で死亡した『Y・N』さんへ被爆から70年誰にも一言も話さなかった事を今回が最後のチャンスだと思い筆を取りました。
私と貴女は小学校の同級生でしたね。
当時の私たちは中学生までは男女で『好き』『嫌い』などを言う表現はほとんどしませんでしたね。
私もあの日中学2年生で『Y・N』さん貴女にその様な事は一度も言いませんでした。
私は学徒動員で被爆を免れましたが8月7日早朝より母校の焼け跡に向かいました。
私は『Y・N』さん貴女の無事を願い貴女の姿を捜し求めて毎日のように焼け跡をそして死傷者収容所をさがしました。
私はこの時点で貴女に対する愛を強く感じ始めていました。
どんなに傷ついていても良い生きていてくれ…。
神にも仏にも私の一生でこれほど心から祈った事はありません。
日暮れに君の家に尋ね君の様子をお母さんから聞く毎日でした。
焼け爛れた中学生の女の子を一人ずつたしかめていく毎日でした。
『Y・N』さん貴女を求めてという意思がなかったら私は連日9日間も焼土を歩き求める事はなかったでしょう。
私は今入市被爆者として被爆者手帳を所持しています。
しかし何一つ後悔して居りません。
現在のように『放射能』の知識を得た状態であっても私は同じような行動をするでしょう。
それは私の人生における『初恋』だったのです。
『Y・N』さん貴女にはその様な感情はなかったかもしれません。
私の片思いでも良いのです。
私にとっては誰にもマネのできない最も大きな最も美しい初恋だったと信じます。
『Y・N』さんありがとう」。
あの…私は8歳で被爆してるんですけど私より4歳年上の姉12歳だった…憧れで。
空襲警報解除になったあとに元気よく「行ってきま〜す」と手を振って出ていったきり姉はまあ今日まで帰ってこないんですけど…。
私の自宅にオルガンがございまして姉が一生懸命その当時の軍歌はもちろん私と弟と一緒に口ずさむようなオルガンでこう歌を歌った事もいい懐かしい思い出と。
…でそういう戦禍の中でやっぱり子どもは子どもなりに楽しいひとときを過ごしたなというのをこの中で私は思い出しました。
(小山田)そうですね。
苦しい中でも若い人は…。
当たり前の感情だと思うんですね。
当然その本当は享受できるべき輝きがあって恋であったり友情であったりっていうものを。
当然そこには未来への希望も含まれていた。
そういう輝かしい日々を過ごすべきだった人たちがこうやって大人の起こした戦争に巻き込まれて…。
結局この方は初恋の方ともお会いできなかったっていうそういう事はやっぱり教科書にはなかなか書かれていない事だと思うのでこうやって改めてこう突きつけられるとちょっと…自分の若い時の気持ちとかと照らし合わせると本当に何だか身がすくむような思いが致します。
もう一通被爆体験を抱えながらも人生を生き抜いた母へのお手紙をご紹介します。
「お母さんへあなたがそちらに行ってから2年近くになりますね。
光は取り戻しましたか?お母さんがあの8月6日の原爆投下により光を失ってから70年となりますね。
その時私はお母さんのおなかの中。
5か月だったよね。
その後いろいろ病院を回ってみたけどとうとう光を取り戻すことはできなかったですね。
死も覚悟したそうですけどおなかの中の子供を殺すことはできないととどまり死を選ばず私を生んでくれたから現在の私があります。
『ありがとう』。
目が見えない事で家事子育て人には言えない数々の苦労があったと思います。
よく頑張ったよね。
私は今やさしい主人子供孫たちに囲まれて幸せな生活を送っていますよ。
私がいつも言ってたよね。
『今は人間が月に行く時代だよ。
私の片方の目を上げるよ』と。
それはとうとう叶いませんでしたね。
お母さんが亡くなる間際まで言った言葉を私は忘れる事ができません。
『一瞬でもいい。
光が見たい。
明るさが見たい。
子供の顔が見たい。
あの原爆がにくい』と。
お母さんが生きた証子供たちを育てあげた事二度と原爆戦争のない世界を次の世代に伝えて行きたいと思います。
見守って下さいね」。
「今一番伝えたい『あなた』へ」というテーマで募集した今年のヒバクシャからの手紙。
次の世代を生きるお子さんやお孫さんへ宛てた手紙も多く頂きました。
その中からいくつかご紹介します。
「私の愛する孫たちへおばあちゃんは平和への希求の叫びに一歩でも二歩でも参加したい意思で一杯です。
したがって足を痛めて動けないおばあちゃんのかわりに君たちが君たちの場所で意思表示をしてください。
おじいちゃんは半身原爆にケロイドをつけられた被爆者であり二つのガンをクリアし3つ目のガンとたたかっています。
おばあちゃんおじいちゃんの社会的遺言です」。
「愛する三人の孫たちへ四歳で被爆したとき死んでいても不思議ではなかった私の命がこうしてあなたたちとつながっていることに感謝の念しかありません。
どうかあなたたちの澄んだ目をしっかり見開いて耳をすませて頭でよく考えて平和な世界を作っていって下さい。
よろしく頼みますね」。
私たちのもとには2,200通を超えるヒバクシャからの手紙が寄せられてきました。
そこに共通するのは次の世代に伝えたいという皆さんの思いです。
7年前に寄せられた「17歳の茜ちゃんへ」というお手紙があります。
17歳で被爆した藤平典さんから同い年になったお孫さんに宛てて書かれたものです。
お手紙を受け取った時高校2年生だった茜さんがどう手紙を受け取ったのか取材しました。
「17歳になる茜ちゃんへ私にとって17歳という年齢は一生忘れることの出来ない年齢です。
私は広島で世界最初の原爆の惨禍にったのです。
原爆がつくりだしたのはまさに“地獄”でした。
自分が人間であることを忘れねば生きていけない“地獄”でした。
高校生の茜ちゃんを見ていると『平和っていいな!』としみじみ思います。
茜ちゃん“青春”を大切にしてください。
ジージより」。
茜さんは当時どんな気持ちで手紙を受け取り今どんな生活を送っているのでしょうか
(茜)は〜い。
あっこんにちは。
よろしくお願いします。
お願いします。
現在大学で薬学を学んでいます
手紙を受け取った17歳当時の茜さんはその事を深く考える事はありませんでした
(茜)毎日部活終わったあとに友達とマック行ったり公園でしゃべったり人生で一番青春してたのが17歳だったかな。
その17歳っていう輝かしい時をジージはこんな事があったんだっていう衝撃がすごいあって…。
でもすごい衝撃だった反面やっぱり異世界みたいな。
あんまりリアルに感じなくて…。
ジージです。
ジージこと…
手紙を書いた3年後に亡くなりました
藤平さんは被爆者団体の会長を務めるなどその生涯を懸けて被爆者の思いを訴えてきました
最近そんなジージへの見方が変わる出来事がありました。
遺品の中からある古い手紙が見つかったのです。
それは茜さんの母暁子さんへ宛ててジージが30年前に書いた手紙でした
そこには意外な文章が書かれていました。
被爆者として活動する事への後ろめたさがつづってあったのです
「私は心配があります。
私が被爆者運動をしていることがあなたの婚期を遅らせているのではないか。
それは私にとって耐えられないことです」。
(茜)ジージはすごいもう本当に大勢の前でエネルギッシュにいつも講演をしててそこに何の迷いもないと思っててもうそういう姿しか見てこなかったんですけどやっぱりこういう自分が被爆者の活動をしていく事にやっぱり葛藤もあったんだなと思ってこういう弱音というか本音の部分は初めて知ったので…。
この3行には茜さんの知らないもう一人のジージの姿がにじみ出ていました
自分が見てきたジージはほんの一部だったのではないか。
茜さんはジージをよく知る人物を訪ねる事にしました
ジージと被爆者団体の活動を共にしてきた山本英典さんです
ジージこと藤平典さんを30年間一番近くで見てきました
ご一緒に活動されていた時にそういう弱音といいますかそういう部分ってございましたか?講演会とか…?
(山本)はあ。
私泣いたところはあまり見た事がなくてそういう姿っていうのは私たちにはあまり見せてこなかったものだったと思うんですけど…泣き虫だったんですね。
自分には見せなかったジージの一面を知った茜さん
ジージがそこまでして伝えたかった事は何なのか。
そう考えた時ジージが17歳の自分に宛てた手紙の最後の言葉が胸に突き刺さりました
ジージはどんな思いで自分にこの言葉を残したのか。
その答えを探しに広島に来ました
手紙には被爆した時の惨状も書かれていました。
ジージは爆心地から4キロ離れた軍需工場で被爆。
多くのけが人を目にしながら町の中心部へ救護活動に向かいました。
茜さんはその時ジージが渡った橋に自分も立ってみます
(茜)これが今のここなんですよね。
ジージが見てた光景がこれで…。
ここにこんなに多くの傷ついた人が…。
70年前ジージは何を見て何を感じたのか。
手紙を頼りに思いを巡らせます
「ものすごい爆風で崩壊しており家の下敷きになっている人の『助けて!』とかすかな声が聞こえても救い出せないのです。
しかも火は燃え移ってきます。
生きている人がいることが分かっても見捨てて次の家に行かなければなりませんでした」。
助けられる状態じゃなかったからいろんな声を聞いてここまで来たってどんな気持ちだったんだろうって思います。
助けられなくて…。
今私が歩いてきた道は建物もびっしり建ってるしみんな元気に自転車こいでるしなかなか…でも想像…。
2人の間に70年の年月が立ちはだかります
初めまして。
茜さんは広島で被爆者として証言活動をする宮川秋三さんを訪ねました。
ジージより2歳年下で当時ジージと同じ動員先で働いていました。
今も体験を語り続けています
伝えるって心が重いんよね。
うん…。
茜さんはジージの足跡をたどってもその心境を分かりきれなかったもどかしさを宮川さんにぶつけました
じゃあ自分には何ができるんだろうって考えた時に…でも体験してる訳じゃないからそんな臨場感ある事は言えないし…。
祖父と一緒に活動なさってた方には…。
なるほど。
そういう方からね。
はい。
普通に生活しててはないんですけど。
だから何していいんだろうと思って最近ずっと考えてるんですけど…。
3世とかですか?あの人の孫なんだからみたいなところがあって…。
結構…正直重荷なとこがあります。
義務感を感じている茜さんの心を見抜いた宮川さんは茜さんに思わぬ言葉をかけました
宮川さんの口から出た「自分で自覚して生きていく」という言葉がジージの手紙にあった最後の文章と重なります
茜さんはジージからの手紙に7年越しに返信を書きました
スタジオには北原茜さんにお越し頂きました。
どうもありがとうございます。
よろしくお願いします。
茜さんはジージおじいさんへの返信の手紙を今日は持ってきて下さったんですよね。
読んで頂いてよろしいでしょうか。
はい。
「ジージへ…ジージが私の前からいなくなってからもう4年が経つね。
私ももうすぐ24才になります。
改めて手紙を読んでジージは私にどうしてほしかったのかなと考えるようになりました。
今回広島に来て今の広島からは想像もできないような地獄を17才のジージは見てきたんだと言うことを改めて考えました。
この時初めてジージと一緒にここを歩けたら良かったなと思ったしジージには思い出したくないことかもしれないけど一緒に歩いてもっといろんな話を聞いてみたかったなと思いました。
ジージが活発に被爆者活動をしていたこともあって私は『三世』であるということを認識させられる機会も多く三世だからという重荷もあり何も深く考えぬままじゃあ平和活動すればいいの?って思っていました。
でもジージが望んでたのはそんなことじゃなかったのではないかと思いました。
ジージは私にちゃんと原爆に興味をもってちゃんと積極的に正しい知識をつけていく力を持って欲しかったんじゃないのかな。
今すぐ語り部になって欲しいとか大きな活動をして欲しいとかそういうことではなくてまずは私に興味を持ってもらってちゃんと自分で考えてほしかったのかなと今なら思えます。
ジージが伝えたかったことをちゃんと受け止めたいという気持ちが芽生えただけでも今の私ではとても大きな変化でした。
今まで聞き流してむしろ聞きたくないとすら思っててごめんなさい。
7年越しではありますがもうすぐ24才になる私がこの手紙をちゃんと受け止めます。
話そうとしてくれて伝えようとしてくれてありがとう」。
ありがとうございました。
最後に「伝えようとしてくれてありがとう」と結んでいらっしゃいましたけれどどのような思いからですか?やっぱり祖父にとって思い出したくもない事だったと思うし。
そういう思い出したくなかった事を鮮明に思い出してそれを伝えようとしてくれたその気持ち自体にはありがとうっていう思いです。
(岡田)おじいちゃんが茜ちゃんに伝えたい事は理解してほしかったんだよね。
そういう事なんだよね。
だからお金でも代えられない品物でも代えられないおじいちゃんの思いをやっぱり孫の茜ちゃんに分かってほしかった。
それがすごく私にもよく理解できますしだから1人ずつやっぱり体験も違うんでしょうけど心をこうつないでいきたいっていうのが被爆者の今の気持ちなんですよね。
それがやっぱりこの2,000通の手紙のお一人ずつの魂だと思います。
茜ちゃん今日本当にありがとうございました。
ありがとうございます。
さてここまでお送りしてきました「ヒバクシャからの手紙」。
小山田さん。
全体を通してどのようにお感じになりましたか?そうですね…戦争を知らない私たちのような世代が毎日平和について考えるっていうのはなかなか難しいと思うんですけれどもでも例えば年に一度8月6日あるいは9日もしくは終戦記念日ですとかに平和についてこう考える。
そしてその考えた事を例えば選挙であるとか何かの選択を求められた時にきちんと生かす事ができるそういう平和への生きたチャンネルというかそういうものを一人一人が持つっていう事がすごく重要な第一歩なんじゃないかなというふうに思いました。
そういった意味でもこういう今回たくさん集まっている手紙っていうものが私たちのこの世代と被爆者の方をまさにつないでくれるすごく大きな架け橋になると思いましたね。
(岡田)やはりお一人ずつ事実を体験された事をこう手紙に書いてらっしゃるいう事は本物なんですよこれは。
作り物じゃないです。
テレビの向こうでご覧になった方お一人ずつの手紙の裏に書かれてる気持ちを受け止めて下さい。
そして今普通に家族と一緒に食事しながら普通に学校に行けたり普通にお仕事に行けたり笑ったり泣いたり。
普通の生活が平和っていう事をね皆さん分かって頂いたらもう二度とこの地球上で核戦争いう言葉を本当になくしていくのはあなたたち1人ずつのこれからの任務なんです。
これを未来に向かって世界に向かってこの手紙を心の教科書にして頂きたいなと思います。
岡田さん小山田さんそして北原さん今日はどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
そしてお手紙をお寄せ下さった被爆者の皆さん本当にどうもありがとうございました。
この9年間に寄せられた2,200通を超える手紙の思いそして被爆者の方々の願いそういった事を私たちは改めて真摯に受け止めてNHK広島放送局としてこれからも被爆の実態や戦争の事実と向き合い平和へのメッセージを伝え続けていきます。
では「ヒバクシャからの手紙」最後に受け止める世代からある被爆者の方へのお手紙をご紹介します。
「原爆養護ホームのおばさんへ中学1年生の時私はいやいやながらも慰問活動に参加していました。
もともと人見知りの激しい私は人と話す事が大の苦手でした。
おばさんも口数の少ない方でしたね。
いつもベッドにそおっと横たわっている物静かな品の良いご婦人という印象でした。
青空がとびきりきれいな日でした。
『今日はよい天気ですね空がきれいですよ』と話したあと話題がなくなりました。
『すみません私口下手でつまらなくて』と思わずつぶやいてしまいました。
するとそれまでほとんど話した事のなかったおばさんが『あなたがここに来てくれるだけでいいんよ。
あなたが学校に通っておられるゆうことがわかるだけで私はしあわせなんよ』といわれました」。
「なぜ私が元気に学校へ通っていれば幸せなんだろうと不思議でした」。
「私が40才を過ぎ一人娘が中学校に入学しました。
初めての授業参観の日校舎からきれいな合唱の歌声が聞こえてきました。
見上げるととびきりの青空でした。
『きれいだな平和だな幸せだなあ』。
思わず心の中でつぶやいた瞬間あなたの事を思い出したのです。
『ああおばさんは戦争で女学校に通えなかったんだお友達と合唱する事もできなかったんだ原爆が落ちてお友達も家族も失って原爆症になって病院の中でじっと暮らすしかなかったんだ』。
『だから子供たちが学校へ通えている事がただそのことだけを幸せに感じてくれていたんだ』。
母親になっていい歳をしてやっとわかったのです。
ごめんなさいあの時にわからなくて。
かける言葉は沢山あったはずなのに気付かなくて…こどもたちが学校へ通うというあたりまえのことが何より平和の証だということ戦争というものが子どもが子どもらしく暮らせない世の中にしてしまうこと機会ある度に伝えていきたいと思っています。
毎朝学校へ通う子供たちを見守りながら『おばさん今日も元気に登校していますよ』と空を見上げています。
本当に大切なことを教えていただきました」。
2015/08/07(金) 02:20〜03:35
NHK総合1・神戸
ヒバクシャからの手紙[字]
9年目を迎えた「ヒバクシャからの手紙」。被爆から70年の節目。これまでに届いた2200通をこえる手紙の声にじっくりと耳を傾ける。朗読は市原悦子と石橋蓮司。
詳細情報
番組内容
9年目を迎えた「ヒバクシャからの手紙」。今年、新たに217通の手紙が届き、これまでの総数は2200通をこえました。被爆者の方は私たちに何を託そうとしてきたのか。被爆70年の節目となる今年は、家族や古い友人、孫など被爆者自身が「一番伝えたいあなたへ」宛てた手紙を募集。強い思いが込められたメッセージひとつひとつにじっくりと向き合いながら“これから”を共に考えていく。朗読は俳優の市原悦子と石橋蓮司。
出演者
【出演】小山田浩子,岡田恵美子,北原茜,出山知樹,小岩美穂,【朗読】市原悦子,石橋蓮司
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他
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