V9時代の巨人や、日本ハムで活躍した左腕、高橋一三(たかはし・かずみ)氏が亡くなったことが14日、分かった。同日午後4時ごろ、都内の病院に救急搬送されたが、同病院で死亡が確認された。死因は不明。69歳だった。09年に山梨学院大の監督に就任したが、体調不良のため14年に退任していた。右の堀内恒夫氏(67)とともに巨人のV9時代を支えた「左のエース」が、亡くなった。
巨人、日本ハムで現役19年、通算167勝。巨人の一時代を支えたサウスポーが、静かにこの世を去った。昨年まで監督を務めていた山梨学院大関係者は「心臓が悪かったようです。大学の監督をやめられてからは、自宅で療養をされていた。この日、容体が急変したようで、亡くなられたという連絡が入りました」と説明した。
この日午後4時ごろ、都内の病院に緊急搬送されたが、病院で死亡が確認されたという。巨人時代は右の堀内、左の高橋の両輪で活躍した。「悪太郎」と呼ばれ、ヤンチャな堀内氏とは対照的に実直な人柄だった。左右のエースは公私ともに信頼が厚く、堀内氏が監督就任した04年には2軍コーチから2軍監督に昇格した。1歳上だったが、堀内監督の右腕として、監督を支えた。
誰からも慕われる、人望があった。現役時代に中心選手として活躍しても、誰に対しても謙虚な性格を貫いた。右手にはめたグラブを高く掲げ、左腕を上から地面へ投げつける、ダイナミックな投球フォームが特徴だった。巨人2軍監督時代は、若い選手が、フォームを形態模写すると、若手と一緒に笑い合った。
ある巨人OBは「巨人の現役時代は本格派だったが、日本ハムでは技巧派のイメージが強かったですね。指導者になられてからは温厚な方だったが、勝負には厳しかった。最近は大学野球にとても情熱を傾けていた」。04、05年の巨人2軍監督時代は、当時の阪神主砲金本ら、左の強打者を抑えられる左腕育成に尽力。左打者の内角に対してのシュートの習得を熱心に説いた。内海にチェンジアップの手ほどきをしたのも、実は高橋氏だった。
内海は高橋氏への感謝を語っていた。「チェンジアップを習得したのは、プロ1年目時の2軍監督だったカズミさんの助言があったからです。それまでの僕は、直球とカーブが主な組み立てでしたが、新たな球種を模索する中で、行き着いたボールでした」と以前の取材で答えている。現役としても指導者としても球界に偉大な足跡を残した人が亡くなった。今日にも大学側が対応する。
◆高橋一三(たかはし・かずみ)1946年(昭21)6月9日生まれ。広島県出身。北川工からV9初年度の65年に巨人入団。69年22勝で最多勝、最優秀勝率、沢村賞を獲得し「左のエース」と呼ばれる。71年公式戦から最終戦でV9を達成した73年の公式戦まで日本シリーズを含めての5連続、V9時代の優勝決定試合で通算9度勝利投手となる。73年最多奪三振、沢村賞。75年オフに富田勝とともに張本勲との交換トレードで日本ハム移籍。81年に14勝を挙げ、優勝に貢献。83年現役引退。ベストナイン2度。オールスター出場6度。引退後は巨人、日本ハムで投手コーチ、2軍監督などを歴任。09年4月~14年4月まで山梨学院大監督。現役時代は178センチ、78キロ。左投げ左打ち。夫人は元映画女優の橘和子さん。ダイナミックな投球フォームは、アニメ「巨人の星」の主人公、星飛雄馬のモデルになった。