2015-08-08

金原ひとみ誤読が恥ずかしい

山田詠美の「姫君」という短編集を読んでいた。私は山田詠美のファンなので楽しく読んだ。巻末に、「蛇にピアス」などで知られる作家金原ひとみ解説寄稿しているのだが、それを読んでひっくり返った。

完全に誤読してる。解釈とかそういう問題じゃない。基本的国語問題だ。

短編フィエスタ」は、「欲望」が主役だ。「欲望」という感情擬人化され、その一人称で、自分が宿っているブスな主人公の状況を愚痴ったり嘆いたりして話が進む。「欲望」は、主人公のことを「主人」とよんでいる。

なのに、金原ひとみ解説にはこう書いてある。

主人公名前は瞳である。私はこれを読み始めた瞬間、「醜いだと?」と思った。ごめんなさいね名前というのはとても大きな力を持っていて、他人事をは思えなかったのです。瞳だからではないけれど、私はこの主人公が好きだ

主人公→瞳と言う名前自分名前と一緒。えっ、名前なんて出てきたっけ?と本編を見直してみた。やっぱり主人公は「主人」としか呼ばれていない。でもなぜ誤読たかは分かった。

「瞳」という単語が出てくる2つの文章を拾ってみる。

主人の瞳がせかしている。(中略)瞳はもうルーペ状態になっている。男の姿は拡大されている

主人の瞳から得た男の仕草やらたたずまいを元手に力を蓄えている

「主人の瞳」。この格助詞「の」を誤読してるのだ。

金原は「の」を同格の格助詞として読んでいるのだろう。つまり、主人(である)瞳(ちゃん)。

しか文章からも分かるように、ここは主人が男に見惚れている比喩なのだ。だから、この「の」は所属の「の」だ。主人(のものである)瞳。

これはちょっと、「解説」として文庫についてしまうのはけっこう酷くないか?

他人の間違いながら、ちょっと恥ずかしくなってしまう。

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    まあ金原はね・・・ 色んな意味でバブリーな新人類な新鋭作家だからね 村上龍が審査員の賞に応募するときに堂々と村上龍の作品が好きです影響受けましたとか言っちゃう人だからね ...

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