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【芸能・社会】

花紀京さん 逝く 吉本新喜劇、ドラマで活躍

2015年8月7日 紙面から

「京やん」の愛称で親しまれた花紀京さん

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 「京やん」の愛称で親しまれ、吉本新喜劇などで活躍した俳優の花紀京(はなき・きょう、本名石田京三=いしだ・きょうぞう)さんが5日午後7時44分、肺炎のため大阪市内の病院で死去した。78歳。大阪市出身。通夜は6日、同市内で営まれ、葬儀・告別式は7日に行われる。

 父は昭和前半の人気漫才師横山エンタツ。関西大文学部を中退し、大阪で初舞台を踏んだ。草創期の吉本新喜劇の座長として人気を集め、ニッカーボッカーに腹巻き姿の「京やん」は当たり役。「お笑いの吉本」の発展に貢献した。

 自在のボケとツッコミが特徴。故岡八朗さんは盟友で一時は漫才コンビも組み、「エンタツ・アチャコの再来」として脚光を浴びた。1989年に新喜劇を退団した後も舞台で活動を続けた。

 テレビではTBS系「スチャラカ社員」、同系「てなもんや三度笠」などのコメディーのほか、NHKの連続テレビ小説「やんちゃくれ」、日本テレビ系「明日があるさ」といったドラマなどにも多数出演。映画、CMなどもこなした。2001年にはダウンタウンなどと参加したユニット「Re:Japan(リ・ジャパン)」の「明日があるさ」でNHK紅白歌合戦に初出場した。

 02年に脳腫瘍の手術を受け順調に回復したものの、03年、自宅で入浴中に意識を失い入院、長期療養中だった。

◆「芝居もう一回…」 通夜で寛平ちゃん

 花紀さんの通夜には、交流のあったお笑いタレントらが参列し別れを惜しんだ。

 吉本新喜劇の後輩、間寛平(66)は「味のある、誰もできない芝居をする人だった。もう一回見たかった」と述懐。吉本興業に入ってすぐに花紀さんの付き人になり「何度も怒られましたけど『芝居は味と間や』と教えていただいた」と振り返った。間は療養中の花紀さんを年に2、3回は見舞っていたという。「今年も嫁さんと2人で行き、嫁が『寛平が来たで!』と声をかけると、目を見開いてくださいました」と話した。

 落語家の桂文枝(72)も、時折言葉を詰まらせながら「偉ぶったところがまったくなく、後輩に良くしてくれた」と回想。「倒れるちょっと前に『また一緒に仕事しような』と言ってくれた。あの時の笑顔が忘れられません」と故人をしのんだ。

◆ひょうひょうと…

<演芸評論家の相羽秋夫さんの話> 花紀京さんは今日の吉本新喜劇の基礎を築いただけでなく、岡八朗さんと組んだ漫才でも活躍した。いわば、新喜劇と演芸の両方にまたがりながら吉本の芸人すべてを統括した、精神的支柱だった。ひょうひょうとしていながらも存在感があり、面白い。その芸風は、喜劇役者が最後に行き着くところだった。花紀さん以後、そんな芸ができる人はいない。非常に残念です。

◆03年・名古屋の名鉄ホール公演 療養中でも雁之助さんの代役を快諾

 花紀京さんは2003年4月、名古屋市中村区の名鉄ホール公演で主演の故芦屋雁之助さんが病気で緊急入院したため、急きょ代役を務めたことがあった。

 舞台は人情喜劇「とんてんかん とんちんかん」。雁之助さんは同年4月10日夜、舞台を終えて戻った宿泊先のホテルで倒れ、名古屋市内の病院へ運ばれた。急性心不全と診断され、舞台に立つことができなくなった。

 このため名鉄ホールでは代役を立てることにして、スケジュールが空いていた花紀さんに決めたが、花紀さんは02年8月に脳腫瘍の摘出手術を受け、自宅療養中だった。名鉄ホールの関係者が大阪の花紀さんの自宅まで出向いて脚本を渡すと、花紀さんは療養中にもかかわらず「雁之助さんの代役なら、よし分かった」と二つ返事で出演を了承。名古屋までの2時間ほどの電車の中で、せりふを覚えたという。

 雁之助さんの途中復帰はならず、花紀さんが千秋楽まで務めたが「どうだ。よかっただろう」と笑顔を見せていた。

 花紀さんは自宅に帰った03年5月、入浴中に低酸素脳症で入院し、芸能活動を休止している。名鉄ホールでは「病気だったのに、今思えば感謝の言葉しかない」と話している。

 

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