アリランの歌
光山は父と妹を朝鮮に帰郷させた。戦況の悪化を知り及んだ光山が、朝鮮の方が安全だろうと判断して促した結果であった。
そんな光山にも、確実に出撃の日が迫る。
いよいよ迎えた出撃前夜の5月10日、光山はやはり富屋食堂の「離れ」にいた。光山はトメと彼女の娘たちを前にして、こう口を開いた。
「おばちゃん、いよいよ明日、出撃なんだ」
光山が心中を吐露する。
「長い間、いろいろありがとう。おばちゃんのようないい人は見たことがないよ。俺、ここにいると朝鮮人っていうことを忘れそうになるんだ。でも、俺は朝鮮人なんだ。長い間、本当に親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」
光山の着ている飛行服には、幾つかの小さな手作りの人形がぶら下がっていた。それらは、トメや娘たちが彼に贈ったものだった。トメが造った人形は、頭部が大き過ぎて「てるてる坊主」のようだったが、光山はこれを殊に大切にしていたという。
トメが目頭を押えながら俯いていると、光山が、
「おばちゃん、歌を唄ってもいいかな」
と切り出した。トメは思わずこう答えた。
「まあ、光山さん、あんたが唄うの」
トメには光山の言葉が意外だった。それまでの光山は、他の隊員たちが大声で軍歌などを唄っている時でも、一緒に声を合わせるようなことは殆どなかったのである。
「おばちゃん、今夜は唄いたいんだ。唄ってもいいかい」
「いいわよ、どうぞ、どうぞ」
薄暗い座敷の中で、光山が言う。
「じゃ、俺の国の歌を唄うからな」
光山は床柱を背にしてあぐらをかいて座り、両目を庇の下に隠すようにして戦闘帽を目深に被り直した。
トメと二人の娘は、正座をして光山が唄い出すのを待った。光山はしばらく目を閉じていたが、やがて室内に大きな歌声が響き始めた。それは、朝鮮の民謡である「アリラン」であった。
アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えて行く
私を捨てて行かれる方は
十里も行けず足が痛む
アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えて行く
晴々とした空には星も多く
我々の胸には夢も多い
彼の声の震えや鼓動、胸中に灯った心模様を想う。哀調を帯びたその節回しが意味する歴史の重層性を、我々は真に理解できるだろうか。
この歌を知っていたトメは、光山と一緒になって声を揃えた。トメと娘たちは、嗚咽しながら大粒の涙を流した。最後には4人、肩を抱き合うようにして泣いた。
それから、光山は形見として、トメに自らの財布を手渡した。
「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」
その夜の別れ際、トメは自分と娘たちが写った写真を、
「これ、持ってって」
と差し出した。光山は、
「そうかい、おばちゃん、ありがとう。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しいことはないよ」
と言い残し、灯火管制のために暗い夜道を、手を振りながら去って行ったという。
翌11日、第七次航空総攻撃の実施により、光山は午前6時33分、爆装した一式戦闘機「隼」に搭乗。知覧飛行場の滑走路から勢いよく出撃した。
光山の搭乗機は、陸軍計12隊29機、海軍計11隊69機と共に、沖縄近海を目指した。
やがて、航行する敵艦船群を確認した編隊は、特攻作戦を開始。結句、アメリカの空母1隻、駆逐艦2隻を「戦列復帰不能」とした上、オランダ商船1隻に損傷を与えた。しかし、轟沈した艦船は1隻もなかった。
この戦闘において、光山も散華。享年24である。
彼は「犬死に」か
知覧町には現在、富屋食堂を復元した資料館「ホタル館」が建っている。出撃前夜に光山がトメに託した形見の財布は、ここで大切に保管されている。
色褪せたその巾着の財布には、彼方此方に深い染みが浮かんでいる。小さな袋の内部には、虚空が収められているようにも感ずる。永劫の寂寞が時間と溶け合っている。
光山はその生涯の最期まで、朝鮮人としての矜持を忘れることなく、且つ日本軍の歴とした一員として南溟に命を散らした。では、彼が己の命と引き換えに守ろうとしたものは何だったのであろう。朝鮮人という意識と血肉への誇り、自らが育った日本の平和や安寧、それとも睦まやかな日本と朝鮮の友好か。
――或いは無念しかなかったのか。
単純なる散文への描写や、安易な推察は留めるとしても、光山が日本への呪詛や罵りの言葉を一片も残していないことは、軽視すべからざる事実として記しておきたい。
先の大戦中、特攻に限らず多くの朝鮮人が日本人と共に戦った。それら全ての行為を「強制」という平面的な表現で括ることは、光山を含む先人たちの生き様に対する重大な冒涜と不遜であろう。
現下の韓国は、自国を「戦勝国側」「侵略戦争の被害者」と位置付けているが、実際は「日本と共に戦った」のが真実である。あくまでも韓国は「日本側」であった。韓国は都合の良い歴史の歪曲を改め、史実を冷静に咀嚼する必要がある。
そして、戦後の韓国において「反日」という奔流が理性の堤防を決壊させる中、光山は「対日協力者」「親日派」として、あろうことか「国賊」「売国奴」などと罵倒されるに至った。
平成20年(2008年)5月には、とある日本人の働きかけにより、光山の故郷である泗川市に「帰郷記念碑」が建立されたが、これに地元団体が激しく抗議。結果、除幕式が中止に追い込まれる事態にまで発展した。泗川市の議員の一人は、「出撃前にアリランを唄ったなどという話は、とうてい信じられない」「日本軍に志願した人間を、この国の貢献者のように扱えるものか」と言い放った。
結句、記念碑は市によって撤去された。日本側の慰霊の気持ちを、韓国側が拒否するという歪な結末であった。現在、光山の遺影は靖國神社の遊就館に民族の別なく飾られているが、韓国側にはこれに反対する声も多い。
韓国側の歴史認識は、朝鮮人特攻隊員の御霊を無惨に毀傷している。これは韓国人に根強く存在する「在日への差別」の断片とも言えよう。このような韓国側の態度こそ、まさに「ヘイトスピーチ」「ヘイトアクション」そのものではないか。
韓国側の視座には、朝鮮人特攻隊員たちの心の底にあった気位や沽券、自尊心などへの洞察が著しく欠落している。無論、光山らが抱えた懊悩や葛藤の揺らぎは、日本人以上であったかもしれない。だからこそ、日本側はその死を心から悼もうとしている。特攻を仰々しく美化する必要はないが、御霊を弔いたいという心情にまでなぜ彼らは反発するのか。主義や情念に従属した愚行である。
「売国奴」の如き軽薄な常套句を使用した刹那、アリランの調べに内包されていた光山の自負と憂悶の混和は、途端に見えなくなってしまう。それでは、歴史から学ぶことにはならない。
知覧特攻平和会館の敷地内には多くの慰霊碑が建つが、その中には「アリランの鎮魂歌碑」という石碑もある。同碑は日本人の篤志家の寄付によって建立された。碑の前面には、
アリランの歌声とほく母の国に
念ひ残して散りし花花
という文字が刻まれている。
羞恥すべき「反日ナショナリズム」の悲哀と、それに伴う日韓関係の迷走に、光山も落涙しているのではないか。
はやさか・たかし ノンフィクション作家。1973年、愛知県生まれ。著書に、『愛国者がテロリストになった日 安重根の真実』(PHP研究所)、『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』(文春新書)、『鎮魂の旅 大東亜戦争秘録』(中央公論新社)、『昭和十七年の夏 幻の甲子園』(文春文庫)、『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ)ほか多数。