<  2006年 04月   >この月の画像一覧

  • 「ブッシュが手に入れた拉致カードの行方」
    [ 2006-04-30 02:11 ]
  • 朝まで生くらテレビ
    [ 2006-04-29 16:55 ]
  • 娑婆ダバダ、お帰りホリエモン
    [ 2006-04-28 01:08 ]
  • ゴミ箱から拾った映画
    [ 2006-04-26 04:12 ]
  • 医者もいろいろ病気もいろいろ
    [ 2006-04-25 02:18 ]
  • デス・マッチ「竹島」VS「独島」
    [ 2006-04-23 22:57 ]
  • 「今日のお話から僕は何を学べばいいんですか?」
    [ 2006-04-23 02:21 ]
  • 幻のドキュメンタリー企画
    [ 2006-04-22 02:15 ]
  • キャバクラ選挙の野次馬的コラム
    [ 2006-04-21 02:21 ]
  • 阿呆言うなよ、オッサン
    [ 2006-04-19 23:35 ]

「ブッシュが手に入れた拉致カードの行方」

横田早紀江さんたち拉致被害者の人たちがブッシュ大統領に会った。これは素直に素晴らしいことだ。これで拉致問題はたんに日本と北朝鮮の二国間の問題から、国際問題に飛躍するきっかけを得た。
 しかし、政治的な動きのすべては単なる善意や同情でないことも確かだ。これまで冷ややかに、他人事のように一歩も二歩も距離を置いていたアメリカが、ここに来て何故、急に拉致事件に注目し、ブッシュとの対面まで実現させたのか?
 マスコミの中には6カ国協議が行き詰まったアメリカが新たなカードとして、韓国まで巻き込みつつある拉致事件を利用しようとしているという見方があるようだ。
 アメリカの金融制裁で臍を曲げている北朝鮮が、金融制裁+拉致と言う重圧を被ることになる。
 さあ、北はどう出てくるか? 噂では金正日は7月に小泉のラストパフォーマンスとして、めぐみさん帰国をプレゼントし、拉致問題を一気に終止符を打つだろうなんて情報もあるが、拉致問題はそんなことでは終わらない。
 そもそも拉致を認めて、何人か返せばケリがつき、日本から経済援助を引き出せると考えた金正日の誤算。首領様にとってはこの過ちを繰り返す結果になるだけだ。
 オール・オア・ナッシング。北朝鮮としてはこのままシラを切り通すか、拉致被害者全員を返すしかない。全員返すと金正日の失脚は避けられないから、首領様としてはシラを切り通すしかない。
ところがシラを切り通すと、まかり間違えば国際世論の非難を浴び、北はますます孤立化を深めていくことになる。孤立化=経済危機=金正日体制の崩壊。どちらにころんでも勝ち目はない。
 北朝鮮の選択肢はそう広くない。今や天下の宝刀とも言える「核」をたよりにどこまで戦えるかにかかっている。だが、いくら「核」を大上段に振りかざしたって、残る5カ国がギブアップして、北の言い分を丸呑みすることは絶対にない。
 もし俺が金初日だったら? また悪癖の成り切り虫が騒ぎ出した。許せ。もし俺が金正日だったら、こんなことを考えるだろう。
①一か八かの賭けに出る~つまり戦争。中国・韓国に換わって竹島や尖閣列島でトラブル を起こし、代理戦争で中国・韓国の口を封じつつ、局地戦、早期決着を目指す。
②完全に中国支配を受け入れ、金正日は命と財産の保証付きで中国に亡命する。中国はア ジアの平和を守るという口実で、北朝鮮を支配下に置く(評論家の一部はこれを第二のチベットと呼ぶことだろう)
③日本の国会議事堂または皇居を一気に占拠して、日本の得意芸である超法規処置によって経済援助と引き替えの和平に持ち込む(この時、金正日は声明を発表するだろう。先の戦争はまだ終わっていない。これは過去の戦争の継続である)
④韓国ソウルを一気に攻め、占領下に置き、世界大戦の勃発を怖れる国連の調停を引き出 す。
⑤すでに判明している拉致被害者の中から、たとえばめぐみさん等数人の声明を発表。自分たちは帰国を勧められたが自由意志で朝鮮人民共和国国民であることを決意した。日本に帰る意志はないと言わせる。
⑥「核」の放棄を宣言。それに見合う経済援助を引き出し、その後、再び「核」の製造を開始する。(北朝鮮のお家芸)
⑦突然、労働党の幹部数十名を一斉逮捕、そして処刑
「拉致事件を究明した結果、その容疑者を全員逮捕、主犯格は死刑に処した」
 と発表。同時に判明している拉致被害者の数人の帰国を実現させる。
 いずれもさび始めた脳細胞が軋みながら思いついた幻想だ。
 通常の常識でははかれないあの国のやることだけに、極めて常識人の僕には金正日に成り切るのは不可能かもしれない。あの首領様の出腹スタイルだけはもう少しで成り切れそうなのだが……

泰三のブログのフロク「悪魔のひとこと事典」
「成り切るとは ブッシュ大統領が民主主義の伝道者を演じること」
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by minamikawa-taizo | 2006-04-30 02:11

朝まで生くらテレビ

 久しぶりにテレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」につきあった。「テレビに未来はあるか」というテーマで、テレビ局が自らを否定するようなテーマにどこまで突っ込んだ議論が展開されるのか興味があった。
 ところがまずパネラーを見てがっかりした。デープスペクター、宮崎哲弥、松原聡と言ったワイドショーのコメンテーターと、十数年前にNHKの報道局にいたというプロデューサー、それに、かつて「電波少年」を作ったとかで今は第二日本テレビにいるというプロデューサーなど、この連中に果たしてどこまでテレビを批判できるのかと不安になる顔ぶれ。
 自らテレビに頻繁に登場しながら、「テレビに未来はない」などと言えるわけないもんな。
 NHK問題がサブテーマになっていながら、十数年前のプロデューサーのみというのも辛い。
 番組ではNHKに出演交渉をしたが断られたと苦しい弁明をしていたが、パネラーに今、現場で仕事をしている、あるいは現場で様々な問題に直面している人が皆無というのも、迫力に欠ける。
 立教大学の服部公章教授が出ていたのはせめてもの救いだが、この人とてテレビの現場を知っているわけじゃない。
 また、テレビによく出る出演者がテレビを知っているわけじゃない。今のテレビがかかえる深刻な問題は、ゲストで出演していたのでは分からない。彼等もまたテレビに踊らされている文化人とやらに過ぎない。
 しかもこの「朝生」にテレビ朝日の会長で、民放連の会長が自ら出演した勇気は買えるが、立場上、言いたい放題というわけにいかなかったようだ。
 議論は大きな対立点も激昂することもなく、NHK問題に対する欠席裁判的な議論や、
竹中平蔵の肝いりで松原氏が座長を勤める「放送と通信」の中身と問題点が話されたが
いずれも上滑りで内容がなく、安穏な議論に終始した。
 これでは「朝まで生テレビ」の看板をはずして「朝まで生くらテレビ」に改名すべきだ。
 数年前、僕は田原さんに「今、テレビが危ない」というテーマで朝生をやってくれない
かと提案した。田原さんはすぐに反応してくれて、当時、朝生をやっていたプロデューサーから電話が入った。
 朝生で僕の企画を取り上げてくれると言うのだ。ところが内容についての相談は一切なく、僕は所属する日本放送作家協会から問題意識のある人物を選んでご推薦するつもりで
いたが、プロデューサーが選んだのは協会員ではあったが、さほど問題意識のない彼のお友だちだった。
 放送された朝生は今回同様、現場意識の希薄な頭でっかちなテレビ論に終わった。
 かくて二度も朝生のテーマとなった「テレビ局が自己批判する」という画期的な試みは中途半端に終わった。これがテレビ局の限界なのか?朝生に失望。
 その後、僕はフジテレビの「フジテレビ批評」という番組に出演し、僕が痛切に感じているテレビの問題点を語った。
「フジテレビ批評」は同局への批判をかわすガス抜き番組と言うひともいるが、今のテレビ番組づくりに対する批判をカットもせず放送したフジテレビの姿勢は立派だ。
 僕がこの「フジテレビ批評」で語ったことは
★「やらせ」は民放だけでなくNHKもやっている
★持ち込んだ企画を視聴率の予想だけで却下した編成マンがいた
★報道番組の堕落
★局のプロダクションいじめの実態。
★ニュースやドキュメンタリーは視聴率の対象からはずすべき
細かいことは忘れたが上記のごとき内容だった。放送後、仲間から電話が入った。
「あそこまでしゃべったら仕事がなくなるぞ」
と言われた。永年、飯を食ってきた放送業界だ。その業界のあり方を問うて仕事を干すなら干せばいい。
 幸いにして、干されずにすんでいる。カミさんに逆らえば途端に夕食のおかずで報復をうけるが、テレビ局はカミさんよりは寛容なようだ。

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「朝生とは 近頃、お利口さんばかり集めてマンネリ化している時間の無駄番組」
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by minamikawa-taizo | 2006-04-29 16:55

娑婆ダバダ、お帰りホリエモン

 堀江貴文被告が保釈された。東京拘置所前には300人の報道陣。堀江を乗せた車が走り出すと空から陸から追い回す。
「今、信号で止まりました」
「飯倉方面に向かっています」
「どうやら六本木ヒルズの自宅に向かっているようです」
エキセントリックに興奮しながら、その一挙一動をレポートする記者。阿呆かお前等は!車が信号で止まるのは当たり前だし、自宅に向かうのも保釈なんだから当然だ。ヒルズに向かえば普通、飯倉を通るわな。第一、堀江が保釈されることが何でそこまで報道体制を敷かなきゃならないほどのニュースなんだ。
 僕はそもそもこの事件、堀江が逮捕された時から解せないでいる。証券取引法違反、粉飾決算で逮捕されたわけで、大量殺人の容疑者でも幼児誘拐の容疑者でもない。被害者と
言えばライブドアーの株を購入した一般の株主だ。株の値上がりを期待して買ったんだから損をするのも仕方がない。堀江に騙されたと喚いたって、その堀江を見抜けなかった責任もある。
「気の毒に」「かわいそうに」
という気持ちは全く起こらない。だってライブドア株はまだ紙屑になったわけじゃなく、ライブドアーがユウセンに吸収されれば、そこそこの値段で引き取ってもらえるというではないか。
 しかも、94日間、完全黙秘を貫いて、調書さえ取らせなかった堀江の言い分は必ずしも荒唐無稽の悪あがきとは言えない。
 元側近の重役達が大筋で認めているとしても、堀江が有罪であることにはならない。
彼は自分の力を過信して、常に法律すれすれの所でマネーゲームをやって大金を稼いだ。 
 何をどうやれば塀の向こうに落ちるかを絶えず計算し、用心してきたはずだ。法の盲点を突き、抜け穴を探し、充分に勝算ありと見て動いていたはずだ。
 大丈夫と思ったら大丈夫じゃなかった。あるいは法の隙間をついて銭儲けをする若造を法の番人である検察が許せなかった。ただそれだけの事件だ。
 不法か遵法か、それだけは気をつけろと堀江が側近に言い続けていたとすれば、それを充分に認識していながら側近達が不法に走ったとすれば堀江の罪は道義的なものでしかなくなってしまう。
 会社の貸金回収のノルマのために取り立てに関する法律を充分に知りつつ、ついやりすぎて逮捕される金融会社のサラリーマン。この場合ノルマを強要した幹部は文書で不法な指示を出すなど余程でないと逮捕にはいたらない。
「法律は絶対に破るな。抜け穴を探せ。頭を使って黒字を出せ」
こういう指示を堀江がしていたとしたら、たとえ側近達が不正をやっていたとしても、そのことを堀江が認識していたとしても
「きっと側近達は何らかの法の抜け道を知ってやっているのだろう」
と財務の専門家でもない堀江が思っても、経営者としての結果責任であって、主犯などと言えるものじゃない。 
堀江のやったマネーゲームに好感がもてるかどうかと問われれば持てない。「株」というだけで嫌悪感を持つ僕には考えることさえ不可能だ。
 しかし、好感が持てないことは犯罪ではない。女性に貢がせて遊んでいる男は詐欺罪や脅迫罪などの不法行為がない限り、悔しいかな罪は問えない。
 保釈になったホリエモンは8キロ痩せて、一層、若返った。どう見たって悪党面ではない。94日完全黙秘を貫いたというふてぶてしさは微塵もない。確信犯というよりオリンピックで、スキー板の長さが決まっているにもかかわらず違反して出場権を失った選手のような表情だ。
 耐震偽造の連中とは根本的に違う。にもかかわらずマスコミは対審偽造よりも悪質な犯罪者のごとき扱いだ。
 マスコミのフラッシュ攻勢に思わず顔を背けたホリエモンだが、それ以外は顔を隠そうともしていない。事実はともかく自分は犯罪を犯していないとホリエモンが信じていることだけは確かだ。

泰三のブログのフロク「悪魔のひとこと事典」
「保釈とは 警察沙汰も金次第」
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by minamikawa-taizo | 2006-04-28 01:08

ゴミ箱から拾った映画

 深夜2時。寝るのはまだ早い。やるべきことはいくつかあるのだが、何となくその気にならない。ふと気まぐれで無料動画「ギャオ」を開いて見る。只ほど高いものはないと言うが、この「ギャオ」で観た映画で、これまでかなりの時間を無駄にした。
「見始めた映画は詰まらなくとも最後まで観る」
というのが僕の信条だったが、この「ギャオ」の映画に関してはあっさりと信条を捨てることにした。まさに映画のゴミ箱だ。よくもこれだけつまらない映画を揃えたものだと感心する。
 CM枠が全部埋まっていないので、黒味のまま待機させられるのも辛い。
 しかし、ゴミ箱漁りはやめられない。ひょっとしたら拾いものがあるかもしれないとスケベ根性を起こしてしまう。
「ドッグヴィル」という映画を見つけた。2003年デンマークとある。2003年ならそれほど古くないし、デンマーク映画と言うのは珍しい。主演はなんとニコール・キッドマンだ。しかもR指定になっている。少々、スケベ心も手伝って観ることにした。
「何なんだ? これは! 」
それが見始めた印象だ。広大なスタジオに小さな集落を象徴する抽象的なセットが組まれている。それはどこか谷に面した崖の上にある吹きだまりのような所でドッグヴィルと呼ばれている。 ドッグヴィルに行くにははかなり離れた町から一本の道しかなく、よそ者が一本道を登ってくると、ドッグヴィルに突く頃には情報が集落中に知れ渡ることになる。
 このドッグヴィルには家族者や独り者を含めて二十人ほどが暮らしているが、彼等がどこから来て、何のためにここにいるのか分からない。ともかくかなり長い間、この崖っぷちに住んでいるのだ。
 住人達それぞれの家はあるが、たんなる区画を線で引いただけで、中央に描かれた二本線の間がこの集落のメインストリートと言うわけだ。
 登場人物は小説家を目指す若者や盲目なのに目が見える振りをしている老人や、唯一、トラックを持って集落の産物であるリンゴを売りに外の町に行く運転手や、牧師や藪っぽい医者など、いずれも排他的で集落を出る勇気もない連中だ。
 ここまで書くと「何だかかったるい映画だな」と思い始めた人がいるに違いない。そう、かったるいのだ。場面はその書き割りの線画のまま、退屈で何の変化もない集落の日常が延々、続く。 まるで一幕ものの舞台劇。(多分、実際に舞台劇だったんじゃないかな)
ドラマが詰まらなきゃR指定部分に期待するしかないと思ったが、待てど暮らせどRちゃんは登場しない。
「ああ、やっぱりゴミだったか」
 と捨てようとしたら、突然、ニコール・キッドマン扮する謎の女が、ギャングの集団に追われてこの集落に逃げ込んでくる。
 このあたりから「ウニョニョ」と映画への好奇心が頭を持ち上げてくる。小説家志望の若者がギャングから追われていることを住人に隠して女を匿ってやる。
 匿まわれた女はこの集落から逃げ出すとギャングたちに殺されると思いこんでいるため、何とかドッグヴィルの住人に気に入ってもらおうと、一生懸命集落のために働く。
 若者は次第にその健気な女に惚れていくのだが、女がギャングに追われていると住人達が知ってから、このドラマは大きく転換するんだな。住人達には女が迷惑な存在となり、女達は彼女を奴隷のごとくこき使い、男達は彼女をレイプして性のはけ口として利用し始めるのだ。(このあたりから期待通りR指定らしくなるがたいしたことはない)
 そこにギャングたちが車を連ねて乗り込んで来て、ドラマは意外な展開を見せるのだが、辛抱して良かった。掃きだめに鶴。ゴミ箱で見つけたカミさんのへそくりみたいな映画で、面白かった。
 この手の一幕もの風な映画と言えば以前観た韓国映画も強烈な印象を残している。
「魚と寝る女」 監督 金基徳。出演はソ・ジョンとキム・ユソクで2000年度の作品だ。この映画の舞台は釣りが出来るいくつかのバンガローが浮かぶ湖のみ。
 この湖で釣り客に求められればボートでお茶や食い物、酒などを運び、求められれば身体も売る女ヒジン(ソ・ジョン)が主人公だ。
 ある時、この湖に恋人を殺した男ヒョンシク(キム・ユソク)が釣り客を装ってバンガローを借りる所からドラマが始まる。女はすぐにその男に自分と同じ孤独の匂いを感じ惹かれていく。
 ラストは刑事がやってきてヒョンシクを守ろうとしたヒジンが刑事を殺害し、二人とも死んでしまうというお話だが、最初から最後まで主人公のヒジンは無言のままというのが衝撃的で、その摩訶不思議なキャラクターに引きつけられた。
芸術作品ぶった映画は好きじゃないが、時々、掘り出し物があるからおろそかに出来ない。人間だってそうだよな。詰まらないと思っていた人間にある日突然、素晴らしい輝きを見せることがあるもんな。
 少なくともビートたけしの映画を観るぐらいならゴミ箱をあさる方がいい。

泰三のブログのフロク「悪魔のひとこと事典」
「ゴミ箱とは そこにこそ本当の真実が眠っている」
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by minamikawa-taizo | 2006-04-26 04:12

医者もいろいろ病気もいろいろ

まわり中病人だらけだ。自分の年齢を考えれば交友関係の年齢も必然高く、病人が多いのも当然だが、近頃は病気を通り越して入院・手術とくるから困ったものだ。おまけに骨折なんてのも緊急参加してくるからやりきれない。
 今日は術後の友人と骨折の友人を慰め励ます会食に参加した。術後の友人M氏は脳腫瘍の手術を受けた。脳腫瘍と言うからてっきり頭蓋骨を開いて~と思ったら鼻の横、口腔内に出来た腫瘍で、これも分類すると脳腫瘍に入るんだそうだ。
 読者には当たり前だと言われそうだが初めて知った。顎から上はすべて脳のテリトリーなんだってね。
 しかもヒトデみたいな腫瘍が張り付いていて、鼻から特殊なメスを挿入して、顔面に傷をつけずに腫瘍を取り除いたらしい。
 そんな話から必然、医者談義になった。東京の町田市の脳外科病院では、オウムのヘルメットのようなものを被って、脳腫瘍を取り除くそうだ。
 T氏の親戚は前立腺癌で余命いくばくもないと言われその上、脳に4ヶ所の腫瘍が見つかり誰もが絶望視していたのだが、その町田市の脳外科でヘルメットを被って腫瘍を4つとも除去、翌日退院となり、今も元気に暮らしているという。
「本当かいな? 」
と思ってしまうがT氏は冗談を言うタイプじゃない。
 僕はつい最近、頭蓋骨を開かなくとも腰のあたりから極細のスチールを血管に通して脳の腫瘍部分に到達させて治療する方法を知り医学の日進月歩に感嘆したばかりだったが、ヘルメットには脱帽した。
 肝硬変で死んだカミさんは川崎にあるM病院に入院していたが、いよいよ末期に迫ったある日、僕は担当医に呼び出された。
 詳しいことは忘れたが、肝臓にバイパスを通す手術が必要だというのだ。滅多にやらない手術でM病院では彼女で二例目で成功の確率は高くないという。
「一例目の手術は成功したんですか? 」
「残念ながら失敗しました」
 一例目が失敗で二例目が彼女。確かに成功の確率は高くない。他の病院でも似たり寄ったりだそうだ。
「成功率は悪いが手術をしなければ奥さんの余命は限られています。うまく成功すれば数年生きられます」
そう言われて僕は迷った。一か八か手術に賭けるべきか? 悩んだあげく彼女に多少の嘘もまじえて相談した。多少の嘘とは難しい手術で二例目であることを隠したのだ。
 彼女は手術に望みを託した。僕は手術の同意書にサインをして腹を決めた。
 手術日の前々日、病院から電話があり話したいことがあるから来て欲しいという。何事かと思って病院に行くと担当医が申し訳なさそうに話を切り出した。
 数日前に担当医が和歌山で開かれた学会に行った折、肝硬変のバイパス手術の権威という医者に会い今回の手術のことを話したら、彼女の症状を細かく聞いたあと絶対に手術をすべきじゃないと反対された。
 そこでせっかく同意してくれたが、今回の手術は見送りたいと言うのだ。
 あきれかえった。もし担当医が和歌山の学会で、権威とやらの先生に出会ってなければ手術は予定通り行われ、おそらく彼女の寿命はその時点で終わっていたことになる。 
 そう言えば僕の胸に抱えている腫瘍も、今年、三年に渡る定期的な検査の結果、癌ではないというお墨付きを頂戴し、保険に入るなら保証書を書いてもいいとまで太鼓判を押してもらったが、昨年までの担当医は癌じゃないと言いつつも、しきりに手術を勧めた。
 その担当医が病院をやめる最後の診療では
「万が一、癌だったら怖いのでペットという最新検査を受けたらどうでしょう」
と6~7万円かかるペット検査を熱心に勧めた。何でもペット検査なら1㎜の癌でも発見出来ると言うのだ。
 ところが後で知ったのだがペットで癌が発見される確率は低く、医師はペット検査は完全じゃないことを告知すべきとされているのを知った。
 新しい担当医はきっぱりと癌じゃないことを告げ、これからは半年か、一年の定期検診でよろしいとまで言った。
 もし前任の担当医の勧めに乗って手術を受けていたらどうなっていたことだろう。
脳腫瘍と骨折を励ます会は俄然、医者批判になった。中の一人は癌になっても絶対に手術をしたくない。自然に寿命を待つという。
 僕は医者もいろいろ、病気もいろいろ。いい医者に当たるも八卦、当たらぬも八卦と思っているが、骨折のUさんが言う名医も命も金次第という話を聞くと、未熟な外科医に痛い想いをさせられるよりは、命を神様に預けた方がいいかもしれないと思ってしまう。
 ところで骨折のUさんも今夜の主役のはずだったが、歩いていただけで足首を骨折したという話に同情が集まらず
「太りすぎだね」
のひと言で終わってしまった。俺が骨折したら飛行機から飛び降りたと言ってやろう。

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「名医とは 治らない患者は絶対に診ない医者」
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by minamikawa-taizo | 2006-04-25 02:18

デス・マッチ「竹島」VS「独島」

 日本は竹島周辺の海洋調査を断念し、韓国は6月に開催される国際水路機関の国際会議で竹島周辺の海底地形に韓国名を提案する計画を見送ることで、一触即発の危機は一端、回避された。しかし、何も解決していない。先延ばしにしただけだ。
 日韓双方が今後、境界ラインについて協議をすることになったようだが、日本が竹島を放棄しない限り絶対に解決はない。韓国はこの間、彼等の呼称である独島へ実行支配をますます強固にし、既成事実を積み上げるだけだ。映像で見る限り港もある。ヘリポートもある。建物も、住居もあり、韓国軍が駐留し、定期的な観光船も通い、郵便番号もある。
 独島せんべえや独島饅頭もあるかも知れない。まあいくら実行支配を強めても歴史的にも、国際法上も根拠を失えば不法占拠になるのだが、不法占拠だからと言って日本が力づくで追い出そうとしても、おめおめと引き下がる韓国ではない。
 第一、そうなったとしても日本は力づくで追い出すほどの度胸は微塵もない。韓国は国際裁判所とやらへの提訴を拒否し、国民も巻き込んで何が何でも「独島」は韓国領で一歩も譲らないだろう。
 日本は韓国に歴史的な引け目を感じているから、力の行使は絶対に出来ない。うっかりやろうものなら韓国国民の怒りに火をつけ、戦争だってやりかねない。
 韓国は日本のそうした弱みを充分に把握している。海底の地形に韓国名をつけることも周辺海域を自国の艦隊で占拠することも、「独島」にリゾートホテルだって建てるだろう。
(ただし、あの小さなスペースに建つかどうかは疑問だが)
 竹島は日本にとって地雷島だ。うっかり扱いを間違うと爆発する。長い間、爆発を怖れて触らぬ神に祟りなしできた日本は今後とも、遠慮がちに自国の領土だと主張しながら、韓国の実行支配を指をくわえて眺めていくことになる。
 そもそも今の日本人に竹島を日本領とする根拠と、韓国が「独島」を韓国領と主張する根拠を聞いたら何人が答えられるだろう。
 少なくとも僕は島根県が「竹島の日」を制定して、韓国が大騒ぎした時までは全く知らず、その後、少しは調べてみたが結局、よく分からない。
 ハングル語が読めないから、韓国の文献も学者の論文も読めないし、韓国の言い分を紹介する日本の学者のレポートは、僕が知る限り元々、竹島は日本領説を唱える学者だから、どこまで信じていいか大いに疑問だ。
韓国が日本が竹島を日本領とするはるか以前の6世紀初めから、竹島は韓国領だったと主張すれば、日本の学者は韓国の文献解釈は間違っているという。
 韓国が江戸時代に日本にやってきた韓国人が、時の鳥取藩主に竹島は韓国領であると告げた記録があると主張すれば、日本はそんな資料はなく、むしろ江戸時代、竹島が日本領だったことを示す資料は山のようにあると反論している。
 さらに韓国側は日本が竹島を島根県に組み入れたのは、韓国が日本の支配下にあった時期で文句が言えなかった。従って竹島は日本の韓国支配の象徴だと息巻けば、こちらは日本が韓国の外交権を得て実行支配したのは、島根県に組み入れた後のことだと言い返す。 
 全くもう、どっちの言い分が正しいやら。学者同士でもこれだけの意見の相違があるのに、その上、政治や面子、国民感情が絡み合ってくると、日本政府が言う
「双方が冷静に話し合って」
等という言葉があまりにも白々しい。
 こうなったら韓国のテレビ局と日本のテレビ局が共同して、徹底討論、徹底検証「朝まで生竹島(独島)」でもやりますか。
 過去に浮気をしてカミさんに弱みを握られた亭主が、以来、何かにつけ
「私はあの時の浮気を忘れてないからね」
と責められ、ちょっとカミさん以外の女に愛想よくしただけで
「あなたまた浮気をするつもりなんでしょう」
と攻撃され、亡父が残した山奥の別荘を
「お父さんは私に譲ると生前に約束していたわ」
と言い張り、夫は
「あの別荘は先祖代々、長男が受け継ぐことに決まっている」
と主張。カミさんはサッサと別荘に自分の荷物を運び込んで、事実上、自分の別荘として使っている。
 そんな夫婦げんかを思わず想像してしまう。これが僕たち夫婦なら100%カミさんの勝利で終わってしまうのだが……

泰三のブログのフロク「悪魔のひとこと事典」
「真実とは いくつも存在するが一つの真実に絞るのは力次第」
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by minamikawa-taizo | 2006-04-23 22:57

「今日のお話から僕は何を学べばいいんですか?」

作家、向田邦子を育てた名プロデューサーで自らも作家として数々の名作を残した久世光彦氏が逝去されてから早、一ヶ月が過ぎた。
 今日、氏が亡くなられてからはじめて、久世さんの会社「カノックス」に行った。5階と6階の2フロアーを占めていたカノックスは6階部分のみとなり、土曜日だったせいか人もまばらで、ドラマのカノックスとして権勢を誇った頃の面影はない。
 事務所の片隅に久世さんのデスクが、亡くなられて1ヶ月以上たった今も、生前のままに置かれていた。今にも入り口から「やあ」と言って久世さんが現れ、椅子に座るや否や煙草を吸い始めそうだ。
 雑然としたデスクは最早、主はいないのに、たった今まで仕事をしていたという雰囲気を残している。ヘビースモーカーだった久世さんらしく、缶ピースと未使用のピースが4箱灰皿に置かれていた。
 そっと缶ピースの蓋を開けると、まだ銀紙の封がされ未使用であることが分かった。
デスクの左には胡蝶蘭が飾られ、その傍に制作中のドラマ「東京タワー」の台本が無造作に置かれ、何故か久世さんの名刺ケースが蓋が開いたままになっていた。
 本棚に目をやると「雛の家」「大遺言書」「昭和恋々」「燃える炎」と言った自作の本が並んでおり、その横には「向田邦子全集」が寄り添うように置かれていた。
 そこまでは久世さんらしいのだが、僕にとってはちょっと意外な書物が目に飛び込んだ。いずれも重厚な厚みのある書物だ。その中で「天皇陛下」は久世さんらしいと言えるのだが「同和差別歴史的根源」「差別根絶大全」などはその物々しい分厚さの書物と久世さんがストレートには結びつかなかった。
 もっと違和感を持ったのは「日本歴代総理大臣所信表明」という大書だ。僕ならただでやると言われても読みたいとは思わないが、何か仕事や執筆上の資料として必要だったのだろうか?
 久世さんんとの最大の想い出は「久世塾」だ。第二の向田邦子を作ろうと言うキャッチフレーズで久世さんが塾長になり、僕は専任講師として参加した。今日の打ち合わせ相手はその時のカノックス側プロデューサーT氏だ。
 T氏と僕は久世塾のカリキュラムを作り、久世塾に必要な講師陣を選び、塾生達を三ヶ月間ドラマ漬けにするためのアイディアを出し合った。
 塾生は授業料が比較的高かったにもかかわらず120名以上集まった。塾生の中には毎週、京都から通ってくるのもいた。
 僕とT氏は今は亡き久世さんのデスクを眺めながら、厳しくも楽しかった久世塾の3ヶ月に想いを馳せた。
 久世塾がスタートして1ヶ月ほどした頃だっただろうか? 塾生の一部がT氏に抗議してきた。その塾生たちの不満を聞いて僕は驚いた。
「高い授業料を払っているのに第一回目の講義の時に自己紹介をさせ、それに20分以上 費やしたのは無駄である」
と言った不満や、「○○先生は講義が面白くないから外してほしい」と言った類だ。
 僕とT氏は一方通行の講義ではなく、クラスごとのコミュニケーションを深めつつ、人と人の繋がりの中で学んでいく「塾」を目指したから、最初の自己紹介を重視したのだ。それを授業時間を単純に授業料で割って、自己紹介に費やした時間を無駄だと言ってくる塾生に唖然とさせられたのだ。
 講義が面白い、面白くないと言うのも問題だ。近頃、大学や専門学校では学生に講師を評価させ、人気のない講師を解雇する傾向があるようだ。
 塾生を退屈させず時には笑わせながら講義する教師もいれば、懸命に下調べをして来て地味だが内容のある講義をする講師もいる。たんに面白くないというだけで講師を変えるわけにはいかない。
 T氏とそんな想い出を語りながら僕は最近体験したあることを思い出した。
 僕は時々、西葛西にある映画学校で講師を引き受けているが、先日は四月に入学したばかりの100名の学生を相手に90分の講座を持った。
 「脚本分析」と名付けられた授業だが、脚本を勉強したいという受講生は5~6人で、大半は監督希望や俳優、メイク、宣伝、美術と志望が異なっており、脚本への興味は薄い。
 そこで僕は脚本を書くより脚本を読めるプロに育って欲しいと思い、僕が体験した「動物映画」における脚本体験を導入に、某脚本のたったひと言の台詞の捉え方、そこから一本の使い捨てライターを例に、ライター1本から100本でも1000本でも脚本が生まれることを具体例を示しながら講義し、後半は韓国映画、中国映画の魅力について語った。
 最後に「質問がある人」と言ったら、何人かの質問者の中に
「先生、今日のお話から僕は何を学べばいいんですか? 」
という質問をする学生がいた。思わず質問者の顔を見て唸ってしまった。
「ひょっとしたらこの学生は脚本の書き方や、台詞の表現方法など具体的なノウハウを学びたかったに違いない」
と思った。僕は新一年生の初期授業で書き方などのノウハウを教えるつもりはない。教えるとすれば僕は不適格者だ。そんなものを教える必要を感じていないからだ。
 ノウハウを学ぶことが勉強と思っている学生がいるとすれば、久世塾の自己紹介は無駄と訴える塾生と同じだ。はっきり言おう。そういう学生はどれだけ一生懸命勉強したってまともな脚本は絶対に書けない。

泰三のブログのフロク「悪魔のひとこと事典」
「アホ学生とは 運転を習えば免許が取れる、書き方を学べば脚本が書けると思っている奴」
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by minamikawa-taizo | 2006-04-23 02:21

幻のドキュメンタリー企画

コロムビアレコードの博物館に1枚のSPレコードが保存されている。
 戦前に古賀政男がロサンゼルスの日系二世の為に書き下ろした「二世行進曲」だ。まだ日本で紹介されたことがないこの行進曲は、3000曲を越える古賀メロディの中で、幻の行進曲と言われている。
昭和を歌い続けた天才作曲家、古賀政男、幻の二世行進曲に秘められた音楽家と、忍び寄る日米開戦の影で屈辱と差別に耐えながら、日本の歌を熱望した日系人たちとの知られざるエピソードがあった。
日本が国際的な孤立を深め、日米関係が悪化していた昭和13年11月。古賀政男は音楽親善使節として米国に渡った。当時、既に売れっ子の作曲家で、テイチクの社員でもあった古賀は、芸術家として社の方針についていけず、退社を発表したその月に、再び母国に戻らない決意で渡米したのだ。
米国で古賀が見たものは、悪化の一途を辿る日米関係の中で、差別され、息を潜めて生きる日系一世、二世の人たちだった。
 彼等の現状に心打たれた古賀は、二世たちによるバンド、「ホリーウッドエコー管弦楽団」を作り、彼等のために「二世行進曲」を作詞・作曲したのだ。
 これはリトル東京の大和ホールで演奏され、満員の観客は感動のあまり慟哭したと言われている。
 「二世行進曲」は日系社会で大ヒットとなった。この大和ホールの演奏に加わった日系ジャズバンドの祖「小東京バンド」の一員にかまやつひろしの父、ディーブかまやつがいた。
 当時、大和ホールで「二世行進曲」を聞いて、感涙した日系人、及び、その遺族に会い、古賀メロディが彼等に残したものを探りたいと思った。
日本のレコードを持っているだけでスパイとして疑われる状況の中で、収容所内で制作されていた古賀メロディ。彼等は 「二世行進曲」だけでなく、古賀の楽譜だけが残る「一世に捧ぐる歌」も大事に保管しているらしい。一体どんな曲なのだろうか? 楽譜を元に曲を再現してみたい。
 古賀は音楽親善使節として米国の文化人に熱烈な歓迎を受ける。
 音楽に国境はなし。何とか戦争を回避したいと願う人たちの想いはひとつだ。岡本米蔵邸で行われた公式レセプションでは「丘を越えて」や「男の純情」が絶賛を浴び、作曲家のオスカー・ラスバッハは「日本的で簡素であり天才と呼ぶにふさわしい」と賞賛。これは当時の新聞記事も残っている。 
しかし、僕にはまだ分からないことがある。
 音楽使節として米国に渡るとき、古賀は二度と日本には帰らない決意をしていたと言うのだ。彼は何故、故国を捨てようとしたのか? それには古賀の人生を辿ってみなければならない。
 九州福岡の片田舎で陶器の行商人の子供として極貧の家庭に育った古賀は、作曲家として大成してからも自殺未遂を起こすなど、成功の影に苦悩が読み取れる。
 古賀は何に苦悩し、何が原因で生まれ育った母国に絶望したのか?
 そんな想いを抱いて、いつかドキュメンタリーにしたいと思いつつ、まだ実現できないでいる。僕の疑問や古賀政男に対する興味はフリーズしたままだ。
日本人の心、震えるような情感を音符に託した古賀は迫り来る軍国主義の風潮の中で、好むと好まざるとにかかわらず、威勢のいい行進曲を作らされた。この国ではもう自分のいる場所はないと思ったのか。
 古賀政男が好きなのは作曲家として大成功を収めたはずの男に孤独と絶望のかげりを見るからだ。
 いわゆるヒーローや成功者には興味がない。成功者とは言い難い僕の僻み根性もある。
 挫折した成功者、おちぶれた成功者、苦悩する成功者にカタルシスを感じてしまう。長嶋茂雄よりジャンボ尾崎が好きだし、楽天の三木なんとかという社長より獄中にいるホリエモンの方に興味がある。
 ブッシュ大統領よりもなんてたってイラクの元大統領フセインに人間的な共感を覚え、アレキサンダー大王よりセントヘレナ島で孤独に死んで行ったナポレオンだし、毛沢東やスターリンよりヒトラーの最期に想いを馳せる。
 何故なんだと言われても理屈じゃない。赤ずきんちゃんより赤ずきんちゃんを食ったために腹を割かれて石を詰め込まれ川に放り込まれたオオカミに魅力を感じてしまう。
 赤ずきんちゃんを食べたオオカミは悪くない。オオカミには人間の子供も鹿の赤ちゃんも同じ食糧の肉でしかないんだもん。
 オット、またまた脱線してしまったようだ。そうそう古賀政男の話だった。実はこの古賀政男のドキュメンタリー企画を3年ほど前から機会があるごとにあちこちで提案している。いつも立ちはだかるのは視聴率の壁。NHKからは分からないという部分を調べてから提案してくださいと言われた。
「バカヤロウ! 古賀政男のミステリーを探るのがこの番組じゃないか」
最初から答えが分かっているドキュメントなんて作りたくもない。今年もまたどこかで提案して見るか。僕はしつこいのだ。

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「天才と馬鹿の違いは リンゴが落ちるのを見て引力を発見するのが天才。リンゴが落ち るのを見て食欲を感じるのが馬鹿」
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by minamikawa-taizo | 2006-04-22 02:15

キャバクラ選挙の野次馬的コラム

 郵政選挙の時、小泉首相は民主党の挑発を無視して、対立軸を郵政法案反対派に絞って大勝利を収めた。ところが今度の千葉補選では民主党の挑戦を真っ向から受けて立った。
小泉首相には前回のような圧倒的なブームは最早ない。にも関わらず小泉自民党の総力をあげて勝ちに走っている。
 小泉首相のたんなる奢りか? それともこの補選に敗れれば民主党を勢いづけ、参院選で敗北するという危機感の表れか?
僕が小泉首相なら小沢が民主党の代表になったとき、この政治屋のタヌキ親父を徹底的に無視するネ。
「手強い相手ですね」
なんて絶対に言わない。
「まあ、またぶち壊さないように頑張って欲しいですね」
ぐらいに言ってサラッと受け流す。千葉補選も必要以上に力を入れない。金持ちケンカせず、にこやかに笑ってお手並み拝見と余裕を演出して見せる。民主党だって単独ではいまほど盛り上がれない。
 郵政の時みたいに小泉首相が髪を振り乱して、絶叫すればするほど小泉は本当に小沢に
びびっていると思われるだけだ。
 マスコミは代表選の時以来、小沢に肩入れしている。小沢は小泉の株を奪って
「民主党が変わる。私も変わらなければ」
と名キャッチフレーズを成功させた。その勢いに乗って千葉補選へ。ついこの間までのガセネタ騒ぎはどこに行ってしまったのだ。
 千葉補選は自民が勝つか? 民主が勝つか? どっちに転んだってそれで日本の政治が大きく変わるもんじゃないが野次馬的興味はある。
 自民党が負けてキャバクラの姉ちゃんが勝つと面白い。小沢一郎が完全に民主党のキャスティングボードを握り、俄然、政治がドラマチックになる。僕の中でキャバクラ政変の政界ドラマが浮かんでくる。
 前の選挙で自民が大勝して、衆議院で絶対多数を確保し天下を取った。負けた民主党はガセネタメールでどん底に落ち、小沢を担ぎ出して千葉補選に勝ち、勢いに乗って参院選で大逆転を果たす。ところが策士の小沢が策に溺れて、政界再編にゴソゴソ動きだし、民主党内の反感を買って民主党は分裂……波瀾万丈の政界三流ドラマ。
 しかし、面白がってばかりいられないぞ。その間、日本の調査船が韓国の警備船に拿捕され国際問題に。横田めぐみさんの夫、金英男が拉致被害者と判明し、せっかく生まれつつあった日韓の拉致事件に対する共通の気運は跡形もなく消え去り、そこに持って来て尖閣列島で中国艦船による日本の漁船への発砲事件発生。さらには北朝鮮が……
 少々、安易な展開だが、被害妄想狂の物書きはついつい悲観的なシナリオを頭に描いてしまう。ある日突然、そう、まさにある日突然、それは始まるのだ。
 千葉補選に自民が負けたら小泉首相は新たなパフォーマンスで国民の注目を集める戦略に出るかもしれない。民主党が千葉の補選で勝ったなんんてのはささいなこと。今や一票ぐらい減ったって痛くも痒くもない。さあ、小泉は何をやる?
①靖国神社に参拝し、竹島の調査を強行する
②北朝鮮に三度目の訪朝を果たし、横田めぐみさんを帰国させる
③自分の後釜を発表し、国民の目を民主党から総裁選に向けさせる
などなど、任期は残り5ヶ月。今、小泉首相の頭の中は歴史に名を残す名宰相となるための最後の打ち上げ花火の構想でいっぱいだ。
変人だから引退した後の影響力や自らの派閥を作るなんていう生臭さはない。イチローや新庄と同じ一匹狼のダンディズムがこの男の心情だろう。ただ違いがあるとすれば小泉には最早ホームランを打つ力はない。
いずれにせよ小泉さん、今の日本、浮かれている場合やおまへんで。

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「小沢一郎とは 政党解体受け入れ業代表」
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by minamikawa-taizo | 2006-04-21 02:21

阿呆言うなよ、オッサン

負け組と勝ち組、所得格差、弱肉強食、最近、頻繁に耳にする言葉だ。
「金、金、金の世の中になってしまった。金が全てじゃない。世の中、負け組と勝ち組に分かれてしまった」
 よくテレビのコメンテーターがしたり顔で言う台詞だ。
「阿呆言うなよ、オッサン」
 彼等は自己矛盾に気づいていない。金が全てじゃないと言いつつ、負け組と勝ち組という物言いの中で金を基準にしてしまっている。負け組・勝ち組とはとどのつまり金儲けが出来なかった奴と金儲けが出来た奴のことだろう。 彼等は勝ち組から儲けすぎた金をぶんどって、負け組に分けることで格差社会を是正しろと言いたいようだ。
 金を価値基準に置くと僕は堂々たる負け組だが負けたと思っていない。超多忙のほとんどをボランティアに近い仕事で忙殺されてはいるが、今の仕事に誇りと充実感を感じている。正直に言ってもう少し金は欲しいけどね。
 金儲けが生き甲斐の人はどうぞ何億でも何百億でも儲けなさい。濡れ手で泡の株で数百億稼いだっていいじゃないか。ほとんどニートに近い若者が株で一夜の内に数十億?いいね、いいね、ラッキーじゃないか。汗水垂らして苦労しなければ金を稼いではいけないという法律はどこにもない。
 三年寝太郎という民話がある。怠け者の寝太郎が働くのが嫌で、悪知恵だけで大金持ちになるという話だが、昔の日本人は寝太郎に拍手喝采した。誰も寝太郎が稼いだ金を貧しい者に分けろとは言わなかった。
 金持ちがいて、貧乏人がいる。それが世の中だ。自由主義の利点はそれが時々ガラガラポンで逆転することだ。昨日の金持ち今日の貧乏人。だからこそ面白い。
 資本主義の良さは誰もが金儲けできるチャンスがあるってことだ。犯罪以外の金儲けにきれい、きたないはない。大抵の広告は詐欺まがいだし、品のいい美しい金儲けなんぞ僕は知らない。
 やりすぎて法律違反をしたら、運が悪かったと思ってさっさと豚箱に入るべし。
 金でゲップをするほど稼ぐのは自由だが、金儲け=勝ち組という発想は止めて欲しい。
逆に金儲けが下手だからと言って負け組なんて言わないで欲しい。
 弱者、強者という言い方も気にくわないね。何が弱者で何が強者なんだ? 貧しい者は弱者なのか? 障害がある者は弱者なのか? 
 数年前、新宿にある障害者施設に取材に行った時のことだ。近くの道路を5~6人の障害者が車椅子で「そこどけ~!」と叫びながら、道路のど真ん中を疾走していた。
 僕はとんでもない奴らだと怒りを覚えたが、彼らに直接、注意する勇気はなかった。
後日、ある障害者にそのことを話したら
「あんたは障害者は道路の端を遠慮がちに歩けというのか!」
 と言う。僕は思わず
「たとえ障害者であろうと健常者であろうと道路のど真ん中を突っ走る権利はない」
 と言ってやった。
 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という標語のパロディが昔、流行ったが、最近、弱者と思われている人たちが、大きな圧力団体になっていて、マスコミも彼らに気を遣いながら、彼らの主張に行き過ぎがあろうとも、ズバリ批判出来ないでいる。
 それこそ障害者であろうが間違いは間違いで、彼らに「間違ってる!」ということが対等なつきあいではないのか。
 彼らに気を遣うこと自体が、ある意味では差別そのものだ。僕は強度の近視でメガネを取ると1メートル先もよく見えない。メガネがなかったら完全な障害者だ。
 たとえ足がなくったって将来、自由に動く義足が登場すれば、メガネによって、辛うじて健常者の仲間入りをしている僕と同じだ。
 手が不自由な人には代わりの手があればいい。代わりの手がなければ誰かが手の代わりになればいい。
「お前らに障害者の気持ちが分かるか!」
「ハイ、分かりません」
 両手両足のない人の苦しみは、目は悪いが五体満足の僕には分からない。
 障害のある部分から目線を外しながら、言葉に気を遣いながら話したくない。それこそ差別だ。
貧しい者、障害がある者を弱者と呼んで欲しくない。「弱者の味方」「格差社会をなくそう」等と叫んでいる政治家はインチキ臭い。この国に、世界に格差のない社会が実現したことは一度もない。格差社会をなくすことより、金のあるなし、障害のあるなしに関わらず、個々の生き方、価値観を認め合う社会にしたいものだ。
 なんのかんのと言いつつ、結局は金じゃないかという理屈がはびこっている。ああ、それにつけても金の欲しさよ。

泰三のブログのフロク「悪魔のひとこと事典」
「弱者とは 我が家で言えばボク」

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by minamikawa-taizo | 2006-04-19 23:35