広島原爆の日:「生ましめんかな」モデル「今、私が語る」

毎日新聞 2015年08月06日 13時33分(最終更新 08月06日 13時42分)

被爆死した姉玲子さんの名前が刻まれた銘板を見る小嶋和子さん=広島市中区で2015年8月6日午前9時20分、大西岳彦撮影
被爆死した姉玲子さんの名前が刻まれた銘板を見る小嶋和子さん=広島市中区で2015年8月6日午前9時20分、大西岳彦撮影

 広島は、鎮魂と祈りの朝を迎えた。人類史に刻まれた「1945年8月6日午前8時15分」。米軍が投下した1発の原子爆弾は全てを焼き払い、生き残った被爆者の心身に深い傷を残す。70年の歳月を経て体験の風化は進むが、その記憶を忘却のかなたに押しやってはいけない。節目の日、広島に集った人たちは決意の一歩を踏み出した。

 ◇小嶋和子さん その日、奇跡の産声

 大切な人たちが、この10年間で次々に亡くなった。ヒロシマと同じ歳月を生きてきた小嶋和子さん(69)=広島市南区=は今、「生かされたことの恩返しをしなければ」との思いに駆られている。反戦を訴え続けた詩人・栗原貞子さん(2005年3月に92歳で死去)の代表作「生ましめんかな」のモデル。6日夜、広島市内の小さな集会で、詩とともに生きた半生を語る。

 被爆直後の広島に生まれた赤ん坊を希望の光と詠んだ「生ましめんかな」。1945年8月6日が、小嶋さんの母美貴子さんの出産予定日だった。自宅は爆心地から約1.6キロの広島市千田町(現・同市中区)。美貴子さんは近所にある夫の勤め先の広島貯金支局に避難し、8日夜に産気づいた。重傷を負った助産師の助けと、負傷者たちの励まし。地下室に産声が響いた。

 自分が詩のモデルと知ったのは高校生の時。何人もの記者から取材を受け、テレビ局の企画で栗原さんとも対談した。しかし、どこか人ごとだった。「被爆の記憶がない自分が何を話せばいいの」。栗原さんも「遠い存在」だったが、イベントなどで会ううちに交流が深まった。美貴子さんが81年に72歳で亡くなったときには「力になるから」と手紙をくれた。いつしか「母のように」慕っていた。

 栗原さんが亡くなったのは10年前。「あなたは生きているだけでいい。話せるときが来たら話せばいい」。生前語ってくれた言葉をかみしめた。経営する小料理屋の常連客や、依頼があれば修学旅行生にも少しずつ思いを話すようになった。

 栗原さんの業績は、肉筆原稿や資料などを収めた広島女学院大(同市東区)図書館の「栗原貞子記念平和文庫」で確認できる。08年の開設に尽力したのが長女の真理子さんだ。「姉のように思って」と言ってくれた真理子さんは12年、76歳で逝った。その前年には、栗原さんと親交が深く、小嶋さんの短大時代の恩師でもあった被爆証言者の沼田鈴子さんが、87歳で世を去っていた。

 「栗原さんの思いを知る人がいなくなっていく。自分にできることはないだろうか」

 広島の市民団体が昨年、「生ましめんかな」を書いた栗原さんの創作ノートなど原爆文学資料を、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録しようと活動を始めた。「役に立ちたい」。小嶋さんは賛同し、8日に店の常連客らと開く自身の誕生会の会費から、活動に寄付することにした。

 また、知人から6日夜、女優の斉藤とも子さんが参加して開かれる詩の朗読イベントの話を聞いた。出席して、自身の思いを話すことにした。

 「人は自分の力だけで生きているのではない。多くの力に支えられ、生かされている。だから命には輝きがある」。小嶋さんは詩に込められた意味をこう解釈している。

 「たくさんの奇跡が重なって、私は生まれたのだから」。これまでになく多忙な夏を迎えた小嶋さんは、自分にできることを一つずつ果たしていこうと思っている。6日朝、学徒動員中に亡くなった姉の名が刻まれた慰霊碑の前で静かに手を合わせた。【大沢瑞季、道岡美波】

 ◇栗原貞子

 1913年、広島市生まれ。45年8月、爆心地から約4キロで被爆した。知人から聞いた実話を基に「生ましめんかな」を書き上げ、46年3月に発表。この他にも反戦・反核を訴える詩を数多く書いた。原水爆禁止運動や護憲運動にも力を注いだ。著書に「黒い卵」「ヒロシマの原風景を抱いて」「核・天皇・被爆者」など。2005年3月に死去。広島市内の墓のそばには憲法9条を刻んだ「護憲の碑」がある。

最新写真特集