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坂井三郎インタビュー
太平洋戦争は無駄ではなかった

我々を侵略者呼ばわりするけれど、ではイギリス、フランス、オランダは何をしたのか。
我々が戦ったためにアジアは白人から解放されたのだ!

坂井三郎(さかいさぶろう)
1916年(大正五年)佐賀県生まれ。1933年、海軍入隊。戦艦霧島、榛名砲手を経て37年、霞ヶ浦海軍航空隊操縦練習生となり、首席で卒業。翌年の初陣以来、九六鑑戦、零戦の操縦士として200回以上の空戦に参加し、敵機64機を撃墜。著書に世界的ベストセラーとなった「大空のサムライ」、「零戦の真実」「零戦の運命」などがある。2000年(平成12年)9月22日没。


画期的だった「剛性低下方式」

とにかく忙しいですね。講演やら何やらで。私、今年でもう八十四歳になります。そろそろ斎藤(正久)司令のそばに行かなければならんかなと思っているくらいですから、いいかげん楽をさせてくれと言いたくなりますよ(笑)。以前はよく堀越先生と一緒にあちこち講演に行ったものですが。ええ、零戦の開発者の堀越二郎先生です。お亡くなりになってからもう二十年近くなりますが(一九八二年没)。
堀越先生というのは本当におもしろい方で、元日の朝に電話をかけてこられたことがありまして。ふつうなら「明けましておめでとう」とか必ず言うものだけど、いきなり「零戦のね……」って切り出すんです。「百四十ノットで操縦桿を動かすと、私の計算ではこうこうこうなるはずなんだけど、いろいろな人に聞いてみるとどうも合わないから」って言って、あれこれ質問し始めた。私が答えているとカタカタ計算機の音がしてね。「ああ、やはりあなたがいちばんよく覚えていますね。私の計算とぴったり。ハイ、ありがとう」で電話を切ってしまう。まあ、私などはわかっていますからいいですが、知らない入は驚くでしょうね。
先生は零戦で初めて「剛性低下方式」というのを開発されたんですが、これは実に画期的なものです(昇降舵操縦系統の剛性を意図的に低く、つまり柔らかくした方式)。先生のお書きになった零戦の本(「零戦」)にも出てきますが、私もパイロットの立場から、これについて書いておくつもりです。ぜひとも歴史に残しておかなければならんと思いますから。
 零戦の操縦系統がどうしてああいう効き方をするのか。ふつう戦闘機というのは、中高速時には舵が効きすぎましてね、かといって低速時にちょうどいいように合わせておくと、戦闘の時に舵が重くなったり、急に高速に切り換えると機体がロールしたりする。ところが剛性低下方式を採用した零戦の場合は、低速でも高速でも同じように操縦桿を引いて、思ったとおりの動きをするんです。高速時に細かく動かしても、操縦桿の動きが大きくとれる。
 それはそうでなければなりません。Aクラスの腕前のパイロットでも難しいのに、Bクラス、Cクラスのパイロットが速度に合わせていちいち舵の操作を考えていたらどうしようもない。それが零戦の剛性低下方式だと思いどおりの操作ができる。
 機首を上げ下げするエレベーター(昇降舵)の効き具合と操縦桿の効き具合が、低速でも高速でもパイロットの考えているとおり動いてくれるように設計されているんですね。だから縦の運動にも優れていて、宙返りが楽にできる。敵機の真後ろ三十五メートルから四十メートルに尾いたら、相乎はもう絶対に逃げられません。ガチッとキーロックがかかったようなものです。めったにないことですが、たとえ逆に後ろに尾かれても、縦の運動で三旋回か四旋回すれば敵から逃げて挽回できる。
 だから零戦はまるでパイロットの手足のように動くんです。地上で自分の体を動かすより、空中で零戦を動かすほうが機敏な動作ができるくらいでした。ちょうどスピンナーの先端が眉間くらいの感じ、左右の翼端が両手の中脂くらいの感覚ですね。もう零戦はパイロットと一心同体になって動いていました。零戦以降は、ジェット戦闘機であっても、すべてこの剛性低下方式を取り入れています。堀越先生の功績は大変なものですよ。しかし、いまはそのことを誰も知りませんね。

下仁田ネギをかついで

この画期的な操舵方式を考案するときに、先生は一度壁にぶち当たって、「えらいことになった」と頭を抱えたそうです。それがある日の明け方、ひらめいた。ほとんど夢から覚めたばかりのような状態で、「剛性が低下したっていいじゃないか」ということに気がついた。あえて剛性を下げるなんて、それまで誰も考えもしなかったんです。常識否定の精神ですね。堀越先生はこの方式を考案したことで戦後、工学博士になられたんです。先生は肩書のようなものはまったくかまわない方で、どうでもいいからって博士論文もなかなか書かなかったですから。
 戦後、先生がいろいろ講演をされてこの方式のお話をされて、そこヘパイロットとして私がついていってね、「私の話で足りないところがあったら補足してくれよ」って。先生が「剛性低下方式」をどう考えていたか、どう発展させようとしていたか、そもそもそれがどういう装置だったかをいま生き残っているパイロットは誰も知らない。私がわかりやすく書いて発表しておかないと、永久にわからずに終わってしまう。
 先生は下仁田(群鵬県)のご出身ですから、名物のネギをかついで「これ、おいしいですよ」っていいながら、よくこの家へ来られました。気さくな方で、「あなたは本当に笑わせてくれますねえ」って上機嫌でね。ところがあるとき、奥様が「ウチの人がちょっとヘンです」っておっしゃるんです。だから、「ほかの人には預けられないけれど、坂井さんなら」って、先生の研究資料をお頂かりしました。
 たしかに、その頃、こんなことがありました。やはり講演があって厚木飛行蜴へ向かっているときに、先生が「坂井さん、きょう行く厚木は海軍でしたね」とお聞きになるから、「そうです、海軍です」と答えました。ところが、十何分かするとまた、「きょう行く厚木は海軍でしたね」。「そうです、海軍ですよ」と答えると、「ああ、そうですね。あなた、さっきもそうおっしゃいましたよね」とうなずく。それが、また十分くらいすると「きょう行く厚木は……」。同じように「海軍です」と言うと「そうでしたね。私も何回も行ったことがあります」。
 アルツハイマーです。あれだけの方が。なのに、そういう状態になっても零戦のことになると、もう何でもぜんぶ覚えていました。すごいものですね、若い頃に打ち込んだ執念というのは。

二百時間乗ったら廃棄処分

 ご存じのとおり堀越先生は三菱の技術者ですから、零戦を開発したのは三菱ですが、実際は六十何パーセントかが中島飛行機製でした。でも、同じ零戦でも、やはり三菱製のほうがいいんですね。機体とか、翼の張り具合なんかが。全体がまろやかなんです。中島のはどこかいびつでした。ビョウ打ちとかの熟練度の違いでしょうね。りベットにも打ち方があって、熟練工は、ひずまないように、延ばすように打っていくんです。それがなかなかむずかしい。熟練工でもむずかしいんだから、戦時中の若い臨時工は大変だったと思いますよ。ビョウ打ちが均等でないと、三時(東へ九十度)四時(同百二十度)に急旋回したときシワがよる。危険を感じたことさえありますから。
 「三菱にしか乗りたくねえよ」って言ってたヤツもいました。まあ、そういうわけにもいきませんが。搭乗機を選べたのかとよく聞かれますけど、そんなことはできません。航空雑誌なんかに「誰々の搭乗機」とか「愛機」とか出ていることがありますが、そんなの大ウソ。
 ほんとうに最初だけ、括揮官以下、順番に乗っていきました。総指揮官機のV-101から始まって102、103。当時は三機編成でしたから、V-104がわれわれの隊長で、私は107でした。アタマの「1」が戦闘機で、「2」が爆撃機、「3」が雷撃機というふうになっていた。でも、そうやって乗ったのは初日だけで、あとはもうバラバラ。そのときたまたま乗った飛行機というだけです。被弾したら乗り換えますしね。迎撃戦ともなると、士官でも下士官でも、いち早く離陸して戦わなければなりませんから、誰の機だろうがかまっている暇はなかった。
 だいたい九六式戦闘機で百五十時間乗ったらオーバーホールですから。零戦で二百時間でした。そんなものアッという間です。それだけ乗ったらぜんぶバラしてしまう。捨ててしまうか、どうするのか、ちょっとそこまでは私ら知りませんが、まあ廃棄処分にしたんじゃないですか。唯一決まっていたのは総指揮官機ですよ。機体に二本線が人っています。これだけはいつも同じ。だいたい、一下士官が専用機なんて持てるわけがない。
 あるとき、総指揮官機が故障したことがあって、指揮官が「島川、貴様の飛行機をよこせ」と言って、そいつの飛行機に乗って行ってしまったんです。そのうち指揮官機が直ったというので、島川がその飛行機で追いかけて行った。帰還したら、指揮官機が戻ってきたというので、皆が出迎えにどんどん集まってくるから、島川が動転して、操縦席から手を振って「違います、違います!
」。マフラーを下ろして顔を見せながら「私です、私です!」って叫んだという笑い話があるくらいです。
 ただ、どれに乗ったかは覚えています。九四年にガダルカナル島で発見された零戦二一型の破片が私の手元に届いたんですが、その機体番号がV-lO3だった、私、台南空(台南海軍航空隊)でこの、零戦に乗っています。私が負傷して内地に送還された後で、同僚がこれに乗って戦死していたんですね。めぐりあわせのようなものを感じます。

航続距離は米軍機の倍

剛性低下方式もそうですが、零戦の最大の特徴は航続距離でした。何しろ最大で三千キロ以上ありましたから。太平洋で戦うには、これが大きな武器になったんです。メッサーシュミットのようなドイツの戦闘機は、陸続きのヨーロッパ戦線で戦うから、航続距離はさほど重要ではない。陸地で補給すればいいわけだから。一方、太平洋の大海原の上で、これ以上飛べないとなったらどうなるか。飛び続けることができる、これが、実に重要なことです。
 格闘戦では、零戦の前の主力戦闘機だった九六戦戦闘機のほうが強かった。零戦が開発された時に行われた摸擬空中戦では、九六戦に歯が立たなかったんです。私も、九六戦では圧勝しましたが、反対に零戦に乗ったら手もなくひねられてしまった。みんな、これなら零戦より九六戦に乗りたいと言っていましたが、これからの戦闘機は格闘力だけが能じやない、ということに気づかなかったんですね。
 ただ、重量を軽くしてありますから、機体全般が弱かったのが欠点でした。制限スビードというのがあって、それを超えるとパリッというんです。すごく危険なんですね。だから、攻撃には弱かった。やられるとパッとライターみたいに火がつきます。
 航続力の長さは、当初は米軍機の倍以上ありましたが、ただ何百マイルも飛んで攻めていくときには落下傘を持っていかないんです。「生きて虜囚の辱めを受けず」ということになっていて、絶対に捕虜にならないのが前提でしたから。正確には落下傘は座布団がわりに持っては行きましたが、そのベルトを置いていくんですから、持っていかないのと同じです。ということは、やられたら自爆するしかない。そのために惜しい命がずいぶん失われました。
 私がガダルカナルでSBDの銃撃を頭に受けて、目もほとんど見えなくなって半ば失神しながら一機だけでラバウルに帰ったときは、ほとんど勘だけでたどり着いたんです。コンパスも見えないし、海ばかりで島も見えないから起点がとれず、自分がどこにいるかもわからない。自分の飛行と飛行機のクセを考えると、そろそろこのへんだろう、このままだとハワイヘ行ってしまうと思って、勘を働かせて、思い切って直角に曲がった。そうしたら、それがドンピシャ。燃料ギリギリでラバウルに着きました。
 日本軍最初の特攻のときもそうでした。敵艦隊を発見する前に敵機に見つかって戦闘に入ってしまい、結局、敵機動部隊に出会えないまま、硫黄島に戻りましたが、帰りのことはいっさい考えていませんでしたから、正確な位置もわからなかった。にもかかわらず、闇夜の太平洋を、小隊の僚機二機を率いて勘だけで硫黄島に帰還できたんです。長年の経験からくる勘と、鳥の帰巣本能のような何かがあったんでしょうか。

鳥と気脈を通じる

 それと関係あるのかどうかはわかりませんが、私には鳥と気脈を通じることができる特技があるんです(笑)。一昨年、アメリカに住んでいる娘の家に行ったんですが、広い庭に鳥のエサ箱が置いてあって、スズメのような野鳥が三十羽ほどエサをついばんでいました。あのなかに俺と気脈を通じるのが二羽いるから、念を送ってみようか、と言ったんです。そこにペンタゴンの陸軍少佐もいて、「そんなことできるわけがない」と笑っていた。そこで、庭に出て私が近づいていくと、パーッといっせいに逃げたなかで、私の念波を感じた二羽だけがちゃんと残っていた。「こっちの烏は逃げないよ、さわってみようか」と言って、そのうちの一羽のしっぽをなでてみると、逃げずにジッとしてエサを食べている。もう一羽は屋根のテレビアンテナの上に飛んでいったけれど、こっちのほうは羽の下に手を入れたりのどをなでたりしても逃げない。スズメみたいな野鳥は人になつかないものなんですけどね。フワッと両手で包むようにして家に連れてきても、手のなかでそのままエサをつついている。いつでも逃げられるように手のすきまを開けてあるんですよ。少佐がびっくりして「奇跡だ」って言うから、なあに、俺ににらまれたら誰も逃げられねえんだ、太平洋戦争のときだってそうだったんだよって、大笑いしましたけどね。

日本はアメリカの寄生虫

 このあいだから「寄生虫論」なんてことが言われていますが、日本人は一億総寄生虫ですよ。アメリカにずっと寄生してきたから、ごらんなさい、いまはこのざまです。アメリカに見放されたらもう日本は滅亡ですよ。五十年も寄生していたら確実に人間は変わります。コロコロ変わるから「心」というんです。
 戦争直後、夫を戦地でなくして家を焼かれ、子供たちを抱えてどうしようもなくなって乞食をして暮らしていたおふくろさんがいた。それをあわれんだパン屋さんが売れ残りのパンをあげたんです。おふくろさんは「ありがとうございます、ありがとうございます」と随喜の涙を流して喜んだ。それで次の日も、その次の日もパンを与えたんですが、たまたま遠くへ出かける用事ができて、しばらく行かなかった。そうして何日かして顔を見せたら、おふくろさんは「咋日もおとといも、何で来なかったんだ」と言ってパン屋さんをなじったそうです。最初は涙を流して喜んだそのおふくろさんがですよ。いったん寄生してしまうと人間はそれほど変わる。
 戦後の日本の物質的な繁栄はアメリカに寄生してきたおかげです。日本人の勤勉さがどうとか言いますが、これだけ繁栄することができたのは幸運の一語につきます。
 終戦時、ソ連はもう北海道に上陸し始めていました。あのままいったら日本は分割されて国はなくなっていた。それを助けてくれた方がいらっしゃる。蒋介石総統とトルーマン大統領です。「これほど勇敢で賢い民族を共産主義に渡してはならない。わが陣営につければこんなに頼りになる民族はない」と、四カ国分割政策に「ノー」と言ってくれた。これが幸運の始まりです。連合軍といいながら、アメリカ一国だけが占領した。その直後に勃発した朝鮮戦争の特需にわいた日本は経済復興の道を歩み始め、六十年代から七十年代にかけてはベトナム戦争の大軍需基地として外貨をたらふく貯め込んだ。
 韓国が経済的に苦しかったとき、朴正熈大統領が日本に五十億ドルの援助を申し入れた。大統領はこう言ったそうです。「朝鮮戦争で我々韓国人が血を流して戦ったからいまの日本がある。五十億ドルくらいなんだ」と。それはそうなんです。ベトナムでもいちばん勇ましかったのは韓国兵だった。戦死者が多かったのも韓国軍だ。日本は戦後、血も流さず、汗も流さず、何もせずにひたすら金儲けをしていた。
 アメリカのフォード大統領が日本と韓国を来訪したとき、日本には儀礼的に数日いただけでしたが、韓国に行ったときはタラップを降りる途中で亡ち止まり、出迎えた韓国の国民に向かってこう言った。「韓国の兄弟よ、私はここへ再び帰ってきた」。何という親しみのこもった言葉ですか。フォードも朝鮮戦争で戦ったからです。いま、日米と韓米、どちらが親しい関係にあると思うかと聞くと、ほとんどの日本人が「日米」と答えます。そうじゃない。本当に仲がいいのは「韓米」です。一緒に戦ったんですから。
 日本は何もせず経済発展に邁進した結果、アメリカの寄牛虫になってしまった。その寄生虫がてんでに勝手なことを言っている。高校や大学でそういうことを教えないと、日本は危ういと思います。

もう女どころじゃない

 学校で本当のことを教えればいいんです。たとえば、「従軍慰安婦」なんて、言葉は、当時はなかった。第一、戦地に女なんかいませんよ。一人も見たことがない。それに、これは重要なことなんですが、一日行軍したらもう女どころじゃありません。三八式歩兵銃を担いで、背嚢しょって、前に四十発、後ろに八十発の弾丸下げて手榴弾持って。行軍終えて荷物を下ろしたときには腰にこすれてそれこそ血だらけです。もう性欲どころか食欲もない。バタングーですよ。そんな状態で女を引き連れていけますか。まして道々片っ端から強姦しながらなんて、冗談じゃない。
 たしかに、戦闘の行われていない後方基地には慰安婦はいました。けれど、これはどこでもそうでしたが、慰安婦は司令官の給料の何倍ももらっていた。バラバラにならないように軍票を積み上げてヒモでしばって、その一束がちょうどレンガくらいの大きさになるので「レンガ」と言っていましたが、それを四つも五つも下げていたんです。それに自由もあった。きょうは接客したくないと言えば、飯だけ食ってブラブラしていてもよかった。
 「南京大虐殺」だってそうです。南京が陥落したら陸軍のほとんどはすぐに出て行ってしまった。残ったのは干五百人くらいですよ。干五百人でどうやって二十万人、三十万人を殺すんですか。穴を掘るだけだって大変ですよ。そうかといって川へ流そうものなら、たくさんの遺体が上海までプカリプカリ浮いていく。世界中の報道班が来ているんですよ。大虐殺があったら気づかないはずがない。東京裁判まで、そんな話はまったく出ていませんでした。

慰安婦・南京のウソ

 日本軍の唐殺行為を搬影したというアメリカのドキュメンタリー映画がありましたが、あれは日本軍ではない、共産軍です。見落としている人が多いようですが、我々が見ればすぐわかる。日本軍、蒋介石軍、共産軍でそれぞれ脚絆の巻き方、靴が違うんです。私が見た映画で日本軍とされていたのは、すべて脚絆の巻き方が共産軍のものだった。たしかに軍服と軍帽は日本軍のものでしたが、どんなに欺いてみせようとしても、ちょっとしたところで馬脚を現してしまう。
 要するに、慰安婦問題も南京虐殺も、日本が経済大国になってカネができてから韓国、中国が言い出したことです。日本が食うに困るような国だったらそんなことは言わない。カネ狙いの捏造ですよ。だから理路整然と対抗しなくてはいけない。弁明するんじゃなくて、事実を言うんです。
 そんなことよりも、ラバウルには韓国人が三干名、台湾人と高砂族が合わせて二千名、計五千名の私設部隊がありました。その部隊の長が、このあいだもここを訪ねて来られましたが。あの人たちは天皇の軍隊、皇軍としてラバウルまで行き、大変な働きをしたんです。だから当然、退職金がわりに恩給を支払うべきです。負けて旧籍が変わったからって払わないというのは日本の道義に反していますよ。
 謝罪だ、補償だって、払ってはならないところに言いなりに払って、皇軍として命がけで働いた人たちに何もしない。これはどう考えてもおかしいんじゃありませんか。

「死」に酔う美学は過ち

もう一つ、私が書き残しておきたいと思っているのは、日本人の戦争論の過ちは、「内戦思想と外戦思想の混同にあり」ということです。日本では応仁の乱から明治維新まで、ほとんどが内戦でした。言ってみれば、自分のふところのなかだけでカネを動かしているようなもので、秀吉が死のうと、家康が生き残ろうと、毛利元就が死のうと、すべて内戦での、ことです。
 そのうちに「武士道」という妙なものが出来上がって、勝ち負けは問題じゃない、自分の仕える殿様のために死ぬのが忠臣だということになってしまった。そこから戦争イコール死、という観念ができてしまい、「生きて虜囚の辱めを受けず」などと言われるようになりました。とんでもない、戦国武将を見てごらんなさい。自分のおふくろさんを人質に出し、よこせと言われれば女房だって差し出した。
 とはいえ、戦国時代からすでに日本には妙な美学があった。上杉謙信と武田信玄、この二人は戦争が大好きで、信濃と甲斐はしょっちゅう戦っていました。その結果、戦争が長引いて、甲斐には海がないから塩が足りなくなった。そこで謙信は信玄に塩を送った、と。それが美談ということになっています。バカモン、ということですよ。塩がなくて敵が困っていたら徹底的に塩を遮断して倒さなければいかん。敵が因ったらもっともっと困らせればいいんです、なのに敵を助けることが美談とされる。
 楠木正成は、足利尊氏に勝つには兵站を伸ばして京都の山岳地帯に引きずり込んで、兵糧攻めにして一撃を与えなければ勝てないと考えていたんです。ところが後醍醐天皇も公家どもも尊氏の怖さを知っているから、戦争はできるだけ遠いところでやってくれというわけで、兵庫で新田義貞を助けて戦えと命じた。臭いものにはフタ、汚いものはできるだけ遠ぎけようという発想ですよ。このとき正成は「素人は黙れ、戦争は私にまかせろ」と、軍司令官なら言うべきだった。それが本当の忠臣ですよ。それなのに、例の「桜井の別れ」になってしまう。歌がありますね。息子の正行(まさつら)を呼んで、「父は兵庫に赴かん。彼方の浦にて討ち死にせん」。バカじゃないか。初めから死にに行ってるんだ。
 負けても勝っても、死ねば忠臣。どっちが勝ったっていい。それを「内戦思想」と私は言うんです。戦争の目的というのがまったくわかっていない。
 支那事変当時でも、こんな歌がありました。「夢に出てきた父上に、死んで帰れと励まされ、覚めてにらむは敵の空」(露営の歌)。この歌なんか、情緒民族の最たる例だ。息子を戦地にやって、死んで帰れと励ます親がどこにいるかということですよ。右腕をやられたら左腕で戦え、両腕をやられたら足で蹴って戦え、両手両足がなくなっても生き残れ、必ず勝って生きて帰れ。それが親心じゃないですか。なのに、「死」という言葉に日本人は酔ってしまうんです。
 外国と戦う以上、「俺のために死んでくれるのが忠臣だ」と、「死ねや死ねや」と、そういう内戦思想ではどうしようもない。外国と戦って負けたら、普通、国は滅亡ですよ。国を守るためには万難を排して英知を集め、いったん戦争が始まったら、何が何でも勝たなきゃダメなんです。

特攻、むごい話だ

私はラバウルで搭乗員を集めて、「絶対に自爆や体当たりはするな」と言いました。俺たちは死にに来たんじゃないぞ、勝ちにきたんだ、と。ところが、敗戦の前年には硫黄島で最初の特攻命令が出た。途中グラマンの大部隊に遭遇して空中戦となり、私の小隊は幸か不幸か敵機動部隊を発見できずに三機そろって生還を果たしましたが、その三力月後、フィリピンで正式に「神風特攻隊」が始まった。しかし、牡攻なんて、そうそう当たるものじゃないんです。そもそも特攻機一機当たったくらいじゃああいう大きな航空母艦は沈みません。じゃあどうするか。
 沈めなくてもいいから、使いものにならなくすればいい。つまり、甲板の中心に大穴をあければいいんです。そうすれば甲板に上がっている連中は海にドボン、下にいる連中は上がって出られない。戦闘能力を失って、民間の汽船と同じことになります。だから、零戦は二百五十キロ爆弾を積んで突っ込んでいったけれど、五十キロ爆弾でよかった。二百五十キロ爆蝉を積むと、スピードが時速二百キロくらいに落ちるから、目標到達前にほとんど撃ち落とされてしまったんです。五十キロ爆弾で高速で突っ込んでいけば、もっと確率が上がる。そうすれば、アメリカは犠牲が増えるのをいやがるから、勝てないまでも負けない戦争になった可能性はある。
 にもかかわらず、やみくもにどまんなかを狙え、そう教える。貴様らの命と引き換えに一艦をつぶすんだから、当たらなければ無駄死にだ、役に立ちたいだろう、だったら俺の言うことを聞け。そう言われれば誰だって「ハイ」と答えますよ。よし、まず角度だ。あまり深く突っ込むな。深く行くとスピードが出過ぎる。三百ノット(約五五六キロ)以上出すと舵が効かなくなるから、それ以上スピードを出さずに、どまんなかを狙え。最後まで目をつぶるな、目をつぶったら命中しない、目的を果たせず、無駄死にだ。最後まで目を見開いて、目標を失わず犯ったところへ行け。……そう言われたって、当たる寸前にはどうしたって目をつぶってしまうんです。だから外れる。言われたとおり突っ込んでいってもなお当たらない。むごい話しですよ。こんなひどい話がありますか、ここれが狩攻の真相です。
 そういうむごいことを言ったのが大西瀧治郎と、それに付いていた源田実。二人とも山本五六のイエスマンですよ。調子のいいオッチョコチョイです。こいつらが決めるものだから、まったく実戦にそぐわない。まして特攻なんて誰もやったことがないんですから。

「カミカゼ」は元祖=アメリカ

ミッドウェー海戦だって、敵の十倍の兵力で行きながら全滅をくらった。昭和十七年の六月四日(日本時間五日)。これで日本の敗戦が決まったようなものです。それを国民は誰も知らなかった。そのときの航空参謀が源田実じゃないですか。日本の虎の子である赤城、飛馳を失って、わずか三隻の米航空母艦とそれに随伴する二、三隻の駆逐艦にもうコテンパンにやられた。
 アメリカ海軍がよく言うんです。「カミカゼ、カミカゼって勇ましいことを言うけれど、カミカゼ特攻をしたのはアメリカが先だ」って。ミッドウェー海戦で、そのとおりのことがあったんです。
 エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウンの三隻の空母から、まず雷撃隊を発艦させる。雷撃機というのは、七、八百メートル上空から魚雷を落とすんですが、魚雷を積んで飛んでいくと、重いから巡航スピードが七十五ノットくらい。練習機より遅いんです。これが先に出て行って、次に急降下爆撃機SBDが出て、最後に戦闘機が飛び立っていく。日本は戦闘機が真っ先に行くんですが、これは逆です。戦闘機は高速だから、バラバラに出て行っても、うまく無線電話を使いながら、ちゃんと目的の位置に着くんです。
 そのときに、アメリカの雷撃部隊の搭乗員全貝、「俺たちが犠牲になる」と宜言して出て行ってるんですよ。「俺たちが超低空を這ってゼロを全部引きつけるから、上空がからっぽになったすきにあの空母四艦を屠ってくれ。ハワイの仇をいま討つんだ」って。日本軍のような上から押しつけられた無茶苦茶な、ヤケのヤンパチのような特攻じゃない。飛行長以下、全員納得して犠牲になっているんです。

源田実は実戦知らず

それにまんまと引っかかって、零戦がみんな低空におびき出されて雷撃隊に向かっていった。それを艦橋で双眼鏡のぞきながら「ハイ、零戦かかりました。一機撃墜、二機撃墜、三機撃墜。ハイ全機撃墜。ワーッ」てノンキに喜んでいるとき、上空はドンガラガンのからっぽじゃないですか。そこから急降下爆畢でドーンとやられた。源田実は何してたってことですよ。
 一艦一艦の上に零戦をたった一機上げておけばすむことです。一機いればもっといるだろうと思いますから、雷撃機もいいかげんに投弾して行っちゃうんです。五百メーター上空から魚雷を落とせば命中するところを、七百メーターからほっぽり投げて逃げてしまうんですよ。
 敵が零戦を高射砲で撃とうったって、もともと高射砲なんて宝くじのようなもので、めったに当たらない。六千メートル上空にいるものを、下であれこれ計算したって当たるはずがありません。当たったら、それはよほど運が悪かったとしか言いようがない。
 零戦がいるのといないのとではまったく違う。どれくらい戦闘機が怖いかというと、雷撃隊とか輸送隊、艦爆隊の同期生たちに聞けばよくわかる。最後部の銃手が「機長、敵の戦闘機!」と叫ぶと、たとえ一機でもゾーッと鳥肌が立って震え上がる。機長たちはみんなそう言いますよ。戦闘機に後ろにつかれたら、まずやられますから。実戦の場では戦闘機はそれくらい怖いんです。源田実は実戦を知らないものだから、そんなこともわからない。まんまと敵の作
戦に引っかかった。
 先日、森(喜朗)総理大臣が「日本は天皇を中心とした神の国である」なんて失言をしたらしいですね。「神の国」なんて、バカを言っちゃいけない。だいたい、ぼくらは「皇軍」という天皇の軍隊で戦って、負けて武装解除されて、尾羽打ち枯らして帰ってきました。そのとき、「軍隊が勝手に戦争始めて負けて帰ってきやがった」なんて、ずいぶんののしられた。それは大きな間違いです。軍隊はあくまで上からの命令で出動し、戦闘を行うんです。一兵卒、カッター一艘に至るまで勝手に動くことはありえません。もしも戦闘中に勝手なことをしたら、ただちに射殺されても文句は言えない。

天皇から「ご苦労」の一言が…

日本は明治維新から、廃藩置県、廃刀令をへて武上がいなくなりました。だから、明治天皇が将来を案じて軍人勅諭を下され、軍隊は「世論に惑わず、政治に拘わらず」と諭された。これは大正天皇も昭和天皇も継承しているんです。それが、「世論を動かし、政治まで動かす」といういちばんやってはならんことをやった。
 「上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義なり」ですから、上からの命令があって初めて飛行機も動かせる、給油もできる。だから、我々が戦闘を始めたわけじゃない、開戦の詔によって戦争が始まったんです。
 その命令によって、我々はいちば歩の悪い、いつ死んでもおかしくない戦闘を引き受けた。そして国民も、それをバックアップするという役割を担ったんです。それで私は頭を打ち割られ、耳をつぶされながらも敵機六十四機を撃ち落とした。にもかかわらず、負けたらすべて軍人のせい。国民は知らない。冗談じゃない。
 勲章をくれとは言いません、負けたんだから。しかし、我々は天皇の命令で南半球まで行って帰ってきたんです。いまは漫才師や落語家ですら勲何等とかって叙勲を受けます。それなのに我々に一言もないのはどういうわけでしょう。開戦の詔勅を下した天皇から「ご苦労」の一言があってしかるべきではないか。それが日本の道ではありませんか。私はたとえ首を斬られても、これだけは言い続けます。死んだ仲間のためにも。
 終戦後、外国人記者クラブが、戦時中の日本の外交官や軍人を呼んで話を聞こうということになったとき、最初に呼ばれたのが私でした。その席で、ニューヨークータイムズの記者が「太平洋戦争をどう思うか」と聞いたので、「そんな大きなテーマを短い峙間では語れないが、しかし、どうしてもというのなら、私はこう思う」と前置きして、答えました。
 石油も出ない、資源もない、地球儀を見ればわかるが、こんな小さなトンガラシみたいな国が世界を相手にして勝てるわけがない。無謀な戦争を始めて惨敗した。国破れて山河だけが残った。しかし、負けはしたが、戦争の目的は十分に果たした、と。

日本はアジア解放に貢献

ニューヨーク・タイムズが「どういうことか」と聞くので、国際連合を見てみろ、と答えました。第二次大戦までの国際迎盟の加盟国は、日本が脱退した頃は五十力国ほどだったのが、いまの国際連合は百七十力国くらいあるじゃないか--現在は二百力国近く加盟していますが、当時はそれくらいでした--つまり、独立国がおよそ百二十カ国もふえたことになる。その中身を見ろ、と。その大多数が非白人の国だ。日本が戦争を始めたおかげで、それだけの有色人種の国が独立した。我々を侵略者呼ばわりするけれど、ではイギリス、フランス、オランダは何をしたのか。白人たちがどれだけ有色人種を殺し、搾取していたか。それを排除するには現地に行くしかないじゃないか。我々が戦ったためにアジアは白人から解放された。そう考えなければ死んだ戦友たちはどうなる。貴様らの死は無駄だったなんて言えるか。私がテーブルをたたいてそう言ったら、シーンとしてしまいました。
 私が日本人として非常におかしいと思うのは、広島の原爆慰霊碑です。あそこに何と刻まれているか。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」。これで眠れますか、二十何万の入が。こういう間違った戦争を始めたのは誰なんだ、と。誰が原爆を落としたんだ、と。その者は罰したぞと、そう言うことができて初めて、以て瞑すべしということになるんじゃありませんか。
誰に責任があるのか

誰が「過ち」を犯したのか、誰が「繰り返さない」のか、それがあの碑文ではわからない。責任の所在をこんなふうにあいまいにするのが日本人です。文章を書いても標語を作っても、日本人は名前を出したがらない。「俺が書いた」とは言いません。責任をとりたくないから。
 以前、自衛隊が私の話を聞きたいというので小松基地まで行って、防衛庁の考え方とはすいぶん違う話をしたことがあります。そのときの話が「理論と真実」というタイトルで防衛庁の「セキュリタリアン』という雑誌に掲載されました。そうしたら、その号の最後のぺージに、その記事に触れて「坂井の言っていることは正しい」と書いてある文章が載っていた。ところが署名がないんです。誰が書いたかわからない。私のことを正しいと言ってはいるんですが、私は「なぜ名前を明らかにしない。卑怯者」と怒りました。もし私が海軍兵学校または海市大学を出ていたなら、きっと署名記事にしたはずです。ところが私は兵隊上がりのノンキャリアだから、そういう人間の語った理論をほめるのは沽券にかかわる、そう思っているんでしょう。
 仮にいまなお海軍が存続していたとしても、兵学校を出ていない私を海軍が正当に遇することは、決してなかったと思います。その点、アメリカは違います。「どうやってあなたは戦闘を勝ち抜いてきたのか。なぜアメリカの戦闘機をあれだけ撃ち落としておいて、自分は致命傷を受けず、いまなお元気なのか」と真剣に聞いてくる。米軍の戦法はどうだったか、それに対してあなたはどういう戦法をとったのか。日米の飛行機の性能の違いはどうだったのか、どう考えてどう行動したのか、ミスを犯したことはなかったか、それをどうやって克服したか・・・・・。アメリカの軍人は熱心に、それこそありとあらゆる質問をしてきます。そして、かつて敵として戦った私に対しても、功績があれば素直に認め、敬意を払ってくれる。日本とはそこが違いますね。
 誰が何をしたのか、誰に責任があるのか、この功績は誰のものか、そういうことをH本人もそろそろはっきりさせなければいかんと思いますよ。戦争についても、戦後の問題についても。






歴史通
2012年1月号別冊より
このインタビューは、2000年5月、坂井氏の自宅で












コメント一覧

shilow  投稿日時 2013-11-5 6:25
この記事は、雑誌「歴史通」の記事を許可無く「引用」したものです。
ですから、私が「許可する、許可しない」とか言えない記事なのです。
その辺をふまえて、自己責任でお願いします。


寺田隆夫   投稿日時 2013-11-4 16:08
私のOCNブログ人matuchan.blog.ocn.ne.jpに転載させて頂きました。太平洋戦争の本当の歴史的真実を学び、皆様方にも読んで頂きたいと思いました。何卒御許可をお願い申し上げます。

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