夏、幼い少年は家の土蔵の石段で、ひとりで遊んでいた。アリが次々とやって来たので、指で潰した。次々と。無我夢中だった。日が暮れて、幻覚に襲われた。真っ赤な炎の河が流れ、奇怪な生き物たちが薄闇の中で少年を眺めていた――▼70年前のきょう、広島で被爆した原民喜(たみき)の小説「心願の国」の一節だ。かつて幻視した「地獄絵」は、後に見せつけられた本当の地獄の前触れだったか。作家はそう書く。無邪気な遊びの描写が、人をアリくらいにしか思わぬ原爆投下の非道と重なる▼奇跡的に死を免れた原は、廃虚となった市街の光景を見て、手帳に記した。「コハ今後生キノビテ コノ有様ヲツタヘヨト 天ノ命ナランカ」。惨禍の記憶を後世に残す決意だろう。この手帳のメモから代表作「夏の花」は生まれた▼歳月は流れ、記憶の継承が問われている。本紙が先に行った被爆者アンケートを見ると、被爆体験が次世代に「全く」「あまり」伝わっていないと回答した人が5割を超え、伝わっているとした人を上回った▼そうした中で原の手帳が先日、他の被爆作家の資料とともに、ユネスコの世界記憶遺産の国内公募に申請された。登録が実現し、核使用の悲惨さが世界に共有されることを望みたい▼原には詩も多い。広島へのメッセージを込めた「永遠(とわ)のみどり」は、〈若葉うづまけ……青葉したたれ〉と、励ますかのようだ。作家が描いた〈死と
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