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【社説】

原爆忌に考える ふり返って希望を語る

 被爆と戦後七十年。この国はあの日のように、分かれ道に立っています。ヒロシマとナガサキの歴史に学ぶべきもの、それは、希望なのかもしれません。

 長崎の夏も暑かった。

 アスファルトが放つ熱にあぶられ、せめてもの涼を求めて、街かどのスターバックスに駆け込んだ。そのメッセージは店内の柱に掲げてありました。 

 <“ほっとする”“のんびり”“落ち着く”という言葉で表されるコーヒーは、実は世界でも危険(政情不安定)な地域からやって来ることもあります。戦争と平和というとあまり身近に感じないかもしれませんが、今のんでいるコーヒーやフラペチーノがのめなくなるかもしれないと思うと、平和について考えるひとつのきっかけになるのではないでしょうか。

 今年長崎は戦後七十年の夏を迎えます。あなたにとって“平和”とは何ですか>

 ちょうど七十年前の夏、その街の歴史に刻み込まれたものの大きさが、アイスコーヒーの冷気とともに身にしみました。

 長崎大学元学長の土山秀夫さんは、待ち合わせの場所につえをついて来てくれました。世界平和アピール七人委員会の一人として、核兵器の廃絶を訴え続けてきた人です。

 九十歳。長年の疲労が重なって腰椎を骨折し、少し不自由な体を押して、五月に発足した「平和憲法を守る長崎ネットワーク」の共同代表を引き受けました。この穏やかな老紳士を誰が、何が、行動へと駆り立てるのか。

 長崎医科大学(現長崎大学医学部)の三年生だった土山さんは直接の被爆者ではありません。佐賀県の脊振(せぶり)山のふもとの遠縁宅で療養中の母親を見舞うため、原爆投下の四時間前に長崎市を離れ、命拾いをした人です。

◆見過ごすならば加担

 爆心地から五百メートルの母校の木造校舎では、一、二年生合わせて約四百人が、基礎医学の講義を受けていました。そのほとんどが爆風でなぎ倒された校舎の中で瞬時に圧死しました。

 かろうじて校舎をはい出た数人も、全身にやけどを負っていて、時をおかずに亡くなりました。

 土山さんの命を救った母親は福井の士族の出身で、女学校時代にはガリ版刷りの文芸雑誌を一人で作って配っていたという、当時としては珍しい進歩的な人でした。

 「理不尽を黙って見過ごすことは、理不尽に加担するのと同じこと」

 やさしかった母親が、時に厳しく語った言葉が心を離れません。

 土山さんは今年も、九日に市長が読み上げる長崎平和宣言の起草委員を務めています。

 当初示された原案は、「安保法制」に触れてはいなかった。

 土山さんは、強く訴えました。

 「戦後七十年、被爆七十年の節目の年に、日本がどう変わるのか、極めて重大な岐路に立たされている時に、ただ海外に向かって核兵器を廃絶せよと絶叫しても、あなたの足元はどうなのか、戦争に巻き込まれてもいいのかと、言われるだけだ。節目の年だからこそ、よけいに避けては通れない」

 「安保法制」という文字は、かろうじて書き込まれることになりそうです。

 土山さんの原動力とは、長崎の街の隅々にまで刻まれた、歴史ではないのでしょうか。

 世界中でヒロシマとナガサキだけが、戦争の行きつく果てを知っています。その悲しくも正視すべき歴史を踏まえ、特に若い世代に訴えたい。

 戦後七十年の節目は、内憂外患の年になりました。

 核拡散防止条約(NPT)の再検討会議は決裂し、日本は戦争ができる普通の国になろうとしています。地球が逆回りを始めているようです。今を直視しようとすれば暗い気持ちにさせられるかもしれません。

◆歴史に学ぶことから

 歴史は絶対に変えられないし、変えていいものでもない。だが、歴史に学び、今に働きかける人が増えれば、必ず未来は変えられます。未来を生きる皆さん自身が、「希望」そのものだからです。

 きょう、節目の原爆忌。街かどのカフェで冷たいコーヒーでものみながら、さりげなく自分に問いかけてみてください。

 あなたにとって、「平和」とは何ですか。

 

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