戦後70年 「MRJ」に「ゼロ戦」のノウハウが受け継がれています。

08/05 12:47
戦後70年シリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
日本初の国産ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」。このMRJ、戦時中に活躍したある戦闘機のノウハウが活用されています。70年以上の時を超えて受け継がれたのは、高い技術力とその精神でした。

2017年の商業化を目指し、開発が進められているMRJ。
日本の航空産業の悲願ともいえる、国産初の小型ジェット旅客機だが、大戦中、世界一の性能を誇った、ある戦闘機の技術が受け継がれている。
戦闘力の高さで、アメリカ軍に最も恐れられた零式艦上戦闘機「ゼロ戦」。
日本海軍の主力戦闘機として、最前線で戦い続けた。
そのゼロ戦の原点が、愛知・名古屋市にあった。
三菱重工業の大江工場。
「時計台」と呼ばれる白亜の建物は、戦火を逃れ、当時のままの姿が残っている。
この建物の3階でゼロ戦の設計が行われ、その同じ部屋で、MRJの設計も行われた。
現在は、入居者が変わってしまった建物。
FNNが、2013年に取材をした時の映像には、扉を開け、3階まで行くと、そこにはパソコンが置かれた設計室があった。
70年余り前、ゼロ戦は、この設計室から生まれた。
そして長い年月を経て、MRJが、この同じ部屋で設計された。
三菱重工業小牧南工場史料室の伊藤敏彦さん(73)は「ここでかつて、そういう飛行機を作っていたんだと。自分たちも、そういう由緒あるところで新しい飛行機を設計するというのは、1つの誇りではないですかね」と語った。
そしてもう1つ、ゼロ戦から受け継がれたものがある。
伊藤さんは「欧米に勝てる、最高の性能の飛行機を作るためには、軽量化と空気抵抗を減らす。それしかなかったんですね」と語った。
ボディの凹凸を最大限減らし、骨組みに使われた金属板には、ところどころ穴が開けられ、徹底した空気抵抗の削減と、軽量化を実現した。
こうした技術は、MRJの機体の随所に受け継がれた。
今と70年前との間をつなぐ精神。
最後に、伊藤さんに「ニッポンはなぜ戦争をしたのか?」について、質問した。
伊藤さんは「戦争に突入していった時代の背景が、いろいろあるだろうと思う。軽々に『こうだ』という判断はしがたいですね。われわれとしては、飛行機そのものが、いい飛行機であったというのが、1つの夢であったし、誇りであるということだけですね」と語った。

「ゼロ戦について誇りを持っている」という伊藤さんだが、戦時中に活躍したゼロ戦が、現代であまりに美化されてしまうことについては、複雑な思いを抱いていると語っていた。

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