1955年に毎日産業デザイン賞として創設され、デザインの多様化を背景に76年に毎日デザイン賞と名称を変更した後も我が国のデザインの活性化とともに歩み続けています。国際的、文化的な賞として高い評価を受けています。
新着情報
毎日デザイン賞60回 特別寄稿「毎日デザイン賞と私」(2015.5.14) New!!
2014毎日デザイン賞の受賞者が決定しました。(2015.3.4) New!!
2014毎日デザイン賞 受賞者
2014毎日デザイン賞・特別賞
作品紹介
『大きな空気の人』2013 / 金沢21世紀美術館 鈴木康広「見立て」の実験室(撮影:木奥惠三)
「札幌国際芸術祭2014 / ポスター」
2003年武蔵野美術大学視覚伝達デザイン科卒業後、博報堂を経て2014年デザイン会社「village ®」設立。グラフィックデザインを基軸に、ブランディング、CI、VI、プロダクトデザイン、パッケージデザイン、エディトリアルデザイン、サイン計画、アートディレクションなどを手がける。また2011年からの自身の活動「Human_Nature」では、“人と自然の間”をコンセプトにし、自然との調和や、人の動物的感覚を再認識するような作品やプロダクトを定期的に発表する。
「都市と自然」をテーマにした札幌国際芸術祭では坂本龍一氏のもと全体のデザインを担当した。主な受賞歴に、カンヌデザイン部門銀賞、ニューヨークADC銀賞、アジア太平洋広告祭グランプリ、ワルシャワビエンナーレ銀賞、日本パッケージデザイン大賞金賞、経済産業大臣賞等、東京ADC賞、JAGDA新人賞、国内外の賞を多数受賞。
「21_21 DESIGN SIGHT(撮影:本城直季)」
「無印良品 / 企業広告(2010)」
選考要項
作品対象年度
作品対象
選考
表彰
選考日程
2015年1月26日(月) 選考会開催
2015年3月4日(水) 毎日新聞紙上に発表
選考委員(五十音順、敬称略)
岡﨑 乾二郎 | 造形作家・批評家 |
葛西 薫 | アートディレクター |
内藤 廣 | 建築家 |
深澤 直人 | プロダクトデザイナー |
面出 薫 | 照明デザイナー |
調査委員(五十音順、敬称略)
浅葉 克己 | アートディレクター |
石井 幹子 | 照明デザイナー |
石上 純也 | 建築家 |
内田 繁 | インテリアデザイナー |
大貫 卓也 | アートディレクター |
柏木 博 | デザイン評論家 |
川上 元美 | デザイナー |
川崎 和男 | デザインディレクター、大阪大学名誉教授、名古屋市立大学名誉教授 |
河原 敏文 | CGディレクター |
喜多 俊之 | デザイナー・大阪芸術大学教授 |
北山 孝雄 | プロデューサー |
工藤 青石 | デザイナー |
操上 和美 | フォトグラファー |
黒川 雅之 | 建築家、プロダクトデザイナー |
小池 一子 | クリエイティブディレクター |
小泉 誠 | 家具デザイナー |
近藤 康夫 | インテリアデザイナー |
サイトウ マコト | 美術家 |
佐藤 可士和 | アートディレクター |
佐藤 晃一 | グラフィックデザイナー |
佐藤 卓 | グラフィックデザイナー |
佐野 研二郎 | アートディレクター |
柴田 文江 | プロダクトデザイナー |
須藤 玲子 | テキスタルデザイナー |
仙田 満 | 環境建築家 |
高島 直之 | 美術評論家 |
豊口 協 | インダストリアルデザイナー |
永井 一史 | アートディレクター |
永井 一正 | グラフィックデザイナー |
ナガオカ ケンメイ | デザイン活動家・D&DEPARTMENTディレクター |
中西 元男 | PAOS代表 |
中村 勇吾 | ウェブデザイナー・インターフェースデザイナー |
新見 隆 | 武蔵野美術大学芸術文化学科教授 |
長谷川 逸子 | 建築家 |
服部 一成 | アートディレクター |
浜野 安宏 | (株)浜野総合研究所代表取締役社長 |
原 研哉 | グラフックデザイナー |
日比野 克彦 | アーティスト |
平野 敬子 | デザイナー |
廣村 正彰 | グラフィックデザイナー |
藤井 保 | 写真家 |
藤原 大 | デザイナー |
松永 真 | グラフィックデザイナー |
水戸岡 鋭治 | デザイナー・イラストレーター |
三宅 一生 | デザイナー |
山中 俊治 | デザイン・エンジニア、東京大学教授 |
葉 祥栄 | 建築家・デザイナー |
過年度受賞者一覧 ※1976年(昭和51年)名称変更(旧:毎日産業デザイン賞)
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毎日デザイン賞60回記念
特別寄稿「時代の指標となってきた毎日デザイン賞」
柏木博 デザイン評論家
「毎日デザイン賞」が今回で60年になる。当初は「毎日産業デザイン賞」だったが、1976年に現在の名称となった。グッドデザイン商品選定制度(Gマーク)が57年だから、それに先んじていた。Gマーク制度は当時、外相の藤山愛一郎が訪英した際、イギリスのデザインからの盗用を指摘されたことを契機に制定された。当初デザイン盗用防止を目的としたGマークとは異なり、日本のデザイン向上と啓蒙を目的とした「毎日デザイン賞」の創設は画期的なことだった。
第1回の受賞は、小杉二郎の「松田三輪トラック、蛇の目ミシン」、そして早川良雄の「年間を通じての一連の作品」だった。三輪トラックもミシンも同時代の大衆に広がった製品であり、早川の「カロン洋裁」の優れたポスターも、人々が既製服ではなく洋裁店に頼っていた時代の文化を表現していた。60年、第6回の受賞「本田スーパーカブ」は、商用バイクの定番となり、現在もマイナーチェンジしながら使われているロングライフ製品である。
こうした中、61年の第7回毎日産業デザイン賞について、デザイン評論家の勝見勝は、まだ「日本の工業デザインは、成長していないように思われる」と書いている。しかし、66年に受賞した「ペルソナ展」は、宇野亜喜良、勝井三雄、木村恒久、田中一光、永井一正、横尾忠則らによるグラフィックの展覧会であり、日本のデザインの独自性が世界的に認識される契機となった展覧会だった。この展覧会は2014年、大日本印刷のギャラリーgggで再構成展が行われている。
その後、1973年の田中一光「『西武劇場ポスター、文楽の造本、観世能ポスター』一連のデザイン活動」、76年は「三宅一生の衣服デザイン活動」、87年はミニマルなデザインの「内田繁のインテリアデザイン活動」、いずれも日本の伝統からの固有のモダニズムの流れを生み出した活動だ。日本のデザインの成熟を示していたといえる。
95年の坂茂の「紙の建築のデザインとその社会性」、2002年の佐藤卓「展覧会『デザインの解剖』」、深澤直人の「環境と行為によりそうデザイン」などはデザインの新たな可能性や意外性を示唆するものであった。
14年の第60回。長嶋りかこの「潔いデザイン」、鈴木康広の「『感じ』をデザイン」が受賞した。どちらも表題が抽象的だ。前者は、迷いのない潔さを感じさせる。また後者は、たとえば季節など形のないものに、形を与えたとして受賞した。後者は、現代美術作品といっていい。こうした表現が、受賞の対象になっていることは、第1回の三輪トラックからみれば、デザインの範ちゅうが無限に拡大しているように思える。
毎日デザイン賞はデザインをどのように理解するかということの時代の指標となってきた。同時に、受賞者がいずれも時代を牽引する作家として活動してきたことは、この賞の社会的・文化的意味の大きさを示している。
(2015年4月12日付毎日新聞・毎日デザイン賞60年記念特集記事より転載)
毎日デザイン賞60回記念
特別寄稿「毎日デザイン賞と私」
60回を迎えるにあたり第38回以降の受賞者に、受賞までのご苦労や受賞時のことなど、毎日デザイン賞にまつわるエピソードを特別にご寄稿ねがいました。
(第37回以前の受賞者による「デザイン賞と私」は『デザインの毎日』=1993年毎日新聞社刊=に収載しています)
仲條正義 グラフィックデザイナー 第38回 1992年 受賞
入賞時59歳、若いとはいえない。大学を出て一流企業に入社。3年で辞めて転々自宅で細々と自立した。50年前は個性は尊重されず、私には生きづらい日々であった。その後資生堂「花椿」に起用され、デザインの面白さに目覚めた。デザイン界では変わりものと思われたし、事実そうだったであろう。メディアは氾濫、多岐にわたる多くの才能が必要とされた。私も多忙となり反省もなく多作を続けた。今思えば、私の入賞作も詰めの甘い出来である。荒々しい未熟さが新鮮にみえることもある。無為に見過ごしたわけでもなく、その度に修正する。すると又修正を生み、きりがない。修正が正しいかというと、生命感を失うこともある。デザインは常に新しくなくてはと思う。経験でお茶をにごすことは出来るが、納得はない。今、若い立派な作家が多数いる。私の若い頃より恵まれていると思う。老人はいつも同じことをいう。こんな愉快な仕事はない、幸せだったと思う。次にどんな時代が来るのだろう。
河原敏文 CGディレクター 第39回 1993年 受賞
デザインの世界では多岐にわたる分野がある。その中で、一年にたった一人PERSON OF THE YEARとして選ばれるのが毎日デザイン賞である。オリンピックに例えれば、各種目のゴールドメダリストの中から、更に一人だけ全体のゴールドメダリストを選ぶようなことなのだ。私は、1993年、43歳の時にコンピュータ・グラフィックス(CG)分野として、最初の受賞者となった。何よりも嬉しかったのは、CG以外の分野の超一流のデザイナーの皆様から選ばれたことだ。まだまだ、未開拓なCG分野の私の仕事を「コンピュータ・グラフィックスによる新しい映像表現」として表彰して頂いた。今では、あらゆるデザイン作業はCGなしでは成立しない。たった20年の間にCGは驚くべき進歩をした。しかし、これからの20年は、更に想像を絶する進歩、発展が予想される。この分野のパイオニアとして、常に精進し前人未踏の挑戦を続けたいと思っている。
坂 茂 建築家 第41回 1995年 受賞
僕は阪神大震災後、元ベトナム難民の方々のために紙の仮設住宅とたかとり教会の仮設教会(ペーパードーム)を、初めてのボランティア活動で建設し、その翌年に毎日デザイン賞をいただきました。ボランティア活動に疲れ果て、もう二度としたくないと思っていた時でしたが、この賞により「これからライフワークとしてボランティア活動をしなさい。」と奨励された気がしました。そのお蔭で、20年間世界中の被災地で建設ボランティア活動を続けてこられました。建築家は普段、特権階級の人々の持つ権力と財力を、モニュメンタルな建築によって社会に示す仕事をしています。しかし、たかが紙で作った建築も人々に愛されれば、パーマネントなモニュメントになりえます。例えば、神戸の紙の教会は、10年間愛され使用された後、台湾の被災地に移設され今でも使い続けられています。建築家は皆、40歳前後に自分の一生のキャリアに影響する仕事を残してきました。僕にとって神戸の仕事がそれだったと、毎日デザイン賞が知らせてくれた気がします。
皆川魔鬼子 テキスタイルデザイナー 第42回 1996年 受賞
テキスタイルデザインの分野での受賞、突然のことで非常に嬉しいことでした。私は1996年受賞ですが、80年代から90年はどんな贅沢な素材づくりも可能な社会背景、かつ日本から欧米へのファッション発信も全盛期で多忙な毎日でしたが、従来の素材づくりにも少し限界も感じていました。同時期に進行していた天然素材とは正反対の合繊素材使用で、軽量、安価、機能、スリムな服の素材づくりを目指し開発を進めました。(株)イッセイミヤケのプリーツ製品の誕生につながり、バブル後も安定した商材になり、時間を掛けた先取りの早期デザイン開発の重要性を学びました。そのような時期での受賞でした。現在は、2000年から日本で創る素材を主とした服のブランド、HaaTをスタートしています。この間、国内の繊維産業はあらゆる行程で工場が少なくなり、素材づくりは更なるデザインアイデアと工夫が必要になっています。しかし、こんな素材が出来たら、と日々、創意工夫を重ねている今日この頃です。
面出 薫 照明デザイナー 第43回 1997年 受賞
書斎の棚に「1997年度・毎日デザイン賞入選作品集」が見つかった。その頁をパラパラと捲ると当時の出来事を思い出す。私が受賞したのは今から18年前、47歳だから未だ白髪でない。
その本には「公共空間の光デザイン活動に対して賞が贈られた」と記されていて、伊東豊雄さんが受賞理由を書いてくださっている。その中で伊東さんは、「東京国際フォーラムや京都駅の照明デザインで卓越した成果を示した」と語っているが、文末には「市民参加の光の文化研究会=照明探偵団」の啓蒙活動にも触れて下さった。私はそれが嬉しかった。無我夢中で始めた「建築照明デザイン」と「照明探偵団」の両者を公然と褒めていただけた。「お前はその道を究めればよいのだ」と背中をドンと叩かれた感じがした。この受賞の後にも淡々と我が道を行っている。
今年は「Nightscape 2050-未来の街・光・人」という世界巡回展を開催する。健全に進化したいものだ。
葛西 薫 アートディレクター 第44回 1998年 受賞
あの頃は必死でした。サントリーウーロン茶の仕事が15年目をむかえた頃で、そのCM撮影のために、年に数回、中国の様々な所へ行きました。そこで広大な大地の風に吹かれると、子供時代にタイムスリップしたようで興奮しました。そしてカメラの前に立つ少年少女たちの懸命な姿に触れると、表現のめざすべきものが見えたような気がして、無心で目の前の被写体に向かっていきました。しかしそうして得た映像はときに「インパクト」に欠け、求められる広告の姿とかけ離れ、撮り直しとなった苦い経験もしました。そんななかでの毎日デザイン賞受賞の知らせは望外の喜びでした。田中一光さんの選評のなかに見つけた「発想の冒険を試み、月並みな表現を拒否している」という一文に励まされ、その後の創作の大きな推進力となりました。もし中国でのあの日々がなかったら、僕は今どんなデザインをしていたのだろう。受賞の喜びとともに懐かしく思い出します。
近藤康夫 インテリアデザイナー 第46回 2000年 受賞
大学を卒業後、設計事務所を経て倉俣史朗さんの事務所に入所したのが70年代半ば。初めてトップランナーの仕事を間近に感じるようになり、今迄は遠い存在だった毎日デザイン賞が急に大きな存在と感じるようになり始めた頃。まさか、その後自分が受賞し選考委員を8年も務めるなど考えも及ばない時期でした。日本全体が右肩上がりにジャンプアップを始めた80年代に独立し、脇目も振らず仕事をしていた時期に、突然毎日デザイン賞の推薦を受け、びっくりしたものです。
それから10年あまり、毎年一喜一憂しながら待つも落選し、諦めかけた2000年という区切りの年(故田中一光氏最後の選考の年でした)に受賞することが出来ました。現在、数々の賞が増え、デザインの意味が変容、拡散する中、毎日デザイン賞はデザイナーの指標、或いは金字塔としてこれからも感動を与え続けて欲しいと願っています。
原 研哉 グラフィックデザイナー 第46回 2000年 受賞
2000年度の毎日デザイン賞を「『紙とデザイン』のアートディレクション」でいただいた。これは「竹尾ペーパーショー」というエキシビションの成果に対するもので、いわゆる「もの」のデザインではなく「こと」のデザインである。受賞は「ことのデザイン」への運転免許を与えられたような気分で、以降の活動に弾みがついた。当該する竹尾ペーパーショーには「RE-DESIGN—日常の21世紀」という企画があった。多数のクリエイターに身近な日用品をデザインし直してもらうという試みである。自分のデザインだけではなく、多くの才能たちのクリエーションをひとつの大きなメッセージに編集し、世に発信していく作業であるが、この仕事で僕はその面白さと可能性に気付くことができた。以後「エキシビション・デザイン」は、鮮度ある問題を提起し、多数の才能と協同して世の中に新しい気付きを起爆させていく動的なプロジェクトになっていった。毎日デザイン賞はそういう自分の背中を押してくれたのである。
平野敬子 デザイナー 第47回 2001年 受賞
化粧品ブランドqiora(キオラ)のプロジェクトは、プロダクトデザインやスペースデザインなどの物質的な要素と、イメージなどの非物質的な要素を複合的に交錯させる試みによって、ブランドの理想を目指しましたが、この、ひとつのモノでは完結しない、有機的な組み立てゆえに、デザインとして読み解いていただくことは困難であろうと自己分析しておりましたところ、新聞ジャーナリズムを母体とする公的機関によって、2001年当時はまだ評価軸が定まっていなかった「ブランドのデザイン」という新しいジャンルとして私どもの導き出した方法論と結果に対し、光をあてて下さり、批評と評価をいただきましたことで、我々のスタイルの新規性と正当性を確信することができ、それ以降の活動の指標となりました。進む道の一途の光となりました。
工藤青石 デザイナー 第47回 2001年 受賞
「化粧品ブランドqiora(キオラ)のデザイン」の特徴は、商品企画段階から始まり、プロダクトデザイン、ビジュアルデザイン、コミュニケーションデザイン、スペースデザインなど、ブランディングに不可欠な複合的要素のデザインを、平野、工藤のミニマムでスリムなチーム編成で行えたことにあり、このスタイルが私たちの現在の活動形態であるコミュニケーションデザイン研究所の原型となりました。「ブランドのデザイン」という毎日デザイン賞史上初めてのカテゴリーによって、まだブランディングという言葉も語られていなかった2001年に毎日デザイン賞をいただいたことは、その後のデザインの潮流に照らしてみると、20世紀的な分業によるマスプロダクションデザインの時代から、21世紀的なトータルコミュニケーションデザインの時代へシフトする分岐点を指し示していたと、改めて確信しています。
佐藤 卓 グラフィックデザイナー 第48回 2002年 受賞
私が毎日デザイン賞をいただいたのは、2001年から始めた「デザインの解剖」というプロジェクトに対してでした。このプロジェクトは、広告の仕事からこの世界に入って、広告ではなく商品そのものに興味を惹かれ、そもそも商品がどのように出来上がっているのかを、もっと多くの人に知ってもらった方がいいのではないかという想いから始めてみた事でした。それは、物の外側から中に向かってデザインの視点で情報をバラバラにし、ひとつひとつ解明していくという解剖的アプローチだったので「デザインの解剖」と名付けたわけです。小さな頃から、壊れた時計などを分解することが好きだった私は、考えてみるとそのまま大人になってしまったのだと、今つくづく思います。そして、この経験がその後、21_21 DESIGN SIGHTの展覧会や茨城の「ほしいも学校」などの地域の活動、2011年NHK Eテレで始まった子どものためのデザイン教育番組「デザインあ」に繋がっていきます。この流れを最初に後押ししてくれたのが、毎日デザイン賞であったことは紛れも無い事実です。そのような意味で、私にとってこの賞は特別な意味を持っています。
深澤直人 プロダクトデザイナー 第48回 2002年 受賞
デザイナーになるということには免許も資格も試験も必要ない。だからある日突然「私はデザイナーです」と言ってしまえばそれも間違いではない。だがデザイナーになってみてから、自分のデザイナーとしての力量を知る術はあまり無い。デザインした製品が売れてもそれはデザインの力だけではないし、入学が難しい大学を卒業したからといって優秀であるとは限らない。その中でデザインコンペとか、デザイン賞といったものは客観的に自分を評価することはできる。毎日デザイン賞は自分の能力を高く評価してれるもので、なかなか簡単に取れない賞で、自分にとっての憧れの賞だった。2002年にこの賞をいただいたときには、それまでの努力が実った思いがした。大きな一段を一つ登った感じがした。佐藤卓さんとの同時受賞も嬉しかった。いただいた賞金を一晩で使ってしまおうと二人で話し、小笠原伯爵邸で大きなパーティーを開いた。それくらい受賞の喜びが大きかった。
藤原 大 デザイナー 第49回 2003年 受賞
当時はどうやって「ムダ」を「価値」に変換し、店頭を通じて効率よく社会に製品をだせるか考えていた。A-POCはモノづくり/craftとその考え方/thinkingのデザイン2つを兼ねる。歴史的な指揮者のチームで、いかにビジネスのリズムとエネルギーをつかみ仕事が楽しくなるか格闘していた。効率はデザインを考える大事なテーマの1つだ。デザインは今、人の命や地球環境を課題にしている。継続的な行為自体もデザインする必然から政策にも関係する。こうして社会の役割「つなぐ」媒体になった。人の考えることは面白い。「人」と「効率化」は相性を悪くするとよどみも出るが、創造がうごめく要諦だったりする。社会が次世代を育むことは、つなぎ方の質が伴う社会自身へのサービスでその結果が個人へも帰結する。受賞後に、未来のデザインについて考えたことがある。「人々が生活する意味とその意義を社会にムダなくつなぐのは理想だけど、可能ならデザインの存在は無限となり今のような姿はないだろうな」と。人と人がデザインでつながればいい、と今は思う。
山中俊治 デザイン・エンジニア、東京大学教授 第50回 2004年 受賞
2000年頃から私は仕事の主軸をプロトタイピングに移しました。製品デザインは人と技術の関わり方を決定づけるものですが、より早い時期にプロトタイプを製作し発表することによって、人と技術の新しい関係を先導することができると考えたからです。2004年に「テクノロジーと人間をつなぐデザイン」というタイトルで毎日デザイン賞をいただいたことは、まさにその活動が評価されたものだと理解しています。そして今、プロトタイピングは大きな潮流になりました。
ファブと呼ばれるパーソナルな製造技術を背景に、様々なプロトタイプがネットの上を流通し、それらを実際に人々の元に届けるための新しいファンディングの仕組みも充実してきています。プロとアマの垣根はなくなり、デザイナーとエンジニアの境界も失われ、もはや巨匠の時代ではないとも言われる中で、毎日デザイン賞が次にどのような潮流を見つめ、どんな宝石を見いだすのか、とても楽しみにしています。
佐藤雅彦 東京藝術大学 大学院教授 第51回 2005年 受賞
毎日デザイン賞をいただいて、一番嬉しかったことは、私の活動を「教育デザイン」として見てくれたことでした。「教育」が、自分の生涯のテーマになるだろうことは、10代の頃から感じていたのですが、自分が目指している教育が従来の教育の枠には無いということも徐々に分かり、自分が持っていた教育に対するイメージに近い、広告やテレビゲームなどの表現に没頭して行きました。その後、大学で教鞭をとることとなり、改めて、自分が考える新しい教育についての研究や開発をするようになりました。 しかし、世の中には、私の行っている活動全体を捉える枠組みがなく、展示や書籍、教育番組といった成果物のジャンルでしか規定がされませんでした。
そんな中、毎日デザイン賞が「佐藤雅彦氏が研究室活動を通して行ってきた『教育デザイン』に対して賞を与える」と言ってくれたのです。こんなに勇気をいただいたことはありません。私が歩んで来た、枠組みのない道を認めてくれたのですから。毎日デザイン賞のその鋭くもやさしい眼差しが、これからも濁らずに世の中を見てくれると思うとちょっとほっとします。
須藤玲子 テキスタイルデザイナー 第52回 2006年 受賞
2007年1月18日。ドイツ北東部にハリケーンが来るという予報。朝から猛烈な風雨で、ホテルにはキャンセル電話が絶え間ない。私は、歴史ある「ハンブルグ工芸美術館」での「布展」の設営準備のため、ハンブルグに滞在していた。今夜はそのオープニング。しかし悪天候で空も陸も欠航、運休。これではレセプションには誰も来ないのでは、と不安に駆られていた。その時、「レイコ、デンワ デス」とコンセルジェが呼びにきた。受話器をとる。何と毎日デザイン賞事務局からの受賞の知らせだ。私は興奮した口調で話していたのだろう。日本語が分からないはずのホテルスタッフが、シャンパンを手に、居合わせた客に振舞っている。どうやら、宿泊客の日本人女性が、私の電話の応対を聞き、スタッフに教えたらしい。この女性が、2014年にパリ・ギメ国立美術館で開催した、私の展覧会のキュレーターとなろうとは、その時は知る術も無い。「毎日デザイン賞」は、私に未来の夢まで運んできてくれた。
永井一史 アートディレクター 第53回 2007年 受賞
どんな賞でももらえれば、自分自身は嬉しいものだ。しかし自分以外の人が喜んでくれるかとなると話は違う。受賞した際に博報堂が受賞パーティーを開いてくれたのだが、社内の様々なセクションの人たちが沢山集まってくれた。みんなが自分のことのように喜んでくれたことに、また感激した。アートディレクターとして広告だけと向き合っていた日々から、まだ未開の地だったブランドコンサルティングの世界に飛び込み、試行錯誤を続けて約10年になろうとしていた頃の受賞だった。領域を超えたデザイン全般から選ばれる賞であり、錚々たる方が受賞されている歴史ある賞。そんな賞に、自分の「ブランディングの仕事」を評価していただけたことが嬉しく、自分の方向性にあらためて確信を持たせてくれた大きな出来事であった。
北山孝雄 プロデューサー 第53回 2007年 受賞
2007年に毎日デザイン賞をいただいてから今日までの間に、社会の価値観は180度変化したように感じます。特に3.11の東日本大震災以来、「幸せ」とは何なのか、「生きる」とは何なのか、という問いを、個人がそれぞれ自分なりに考え、多数決ではない答えを探し出そうとしています。生産が消費を追い越し、物を買うよりも思い出や情報が欲しいと考える人が増えました。自動車を所有するより、自転車で走ったり、歩くことを移動の軸にする人が増えました。オフィスを持たず、パソコン1台を持ち歩き、お気に入りのカフェで仕事をする人が増えました。アジアを東京−大阪間ぐらいの感覚で移動する時代。個人が大企業よりも早く、質の良い情報を得る時代。高齢者が増加し、人口が減少し、空き家率がもうすぐ20%に達する時代。期待よりも不安の多いこの時代に、DESIGN に何ができるのかといつも考えさせられます。
廣村 正彰 グラフィックデザイナー 第54回 2008年 受賞
2001年の秋、恩師である田中一光先生の事務所に仕事のファイルを持って出掛けました。「最近どんな仕事してるの?」と、しばらくぶりに先生から連絡があり、いくつかサインデザインの仕事をまとめて伺ったのです。当時、広告の仕事が減ったかわりに建築のサインデザインに関わることが増え、グラフィックデザインと空間やプロダクトデザインの狭間で、面白いことが出来そうな分野だと感じていました。「面白いじゃない、本出せば」と、いままで叱られたことはあっても褒められたことがないのでビックリしましたが、その足で出版社に相談しに行って進めることになりました。結局、先生は本の出版に間に合わず翌年逝去されましたが、サインデザインの仕事が評価され、毎日デザイン賞をいただくまでに背中を押してもらえたのだと思っています。授賞式の日、壇上に掛かっていた先生のマークを見て、もう一度褒めてもらえるかな~と考えていました。
藤井 保 写真家 第55回 2009年 受賞
写真家である自分が、このデザイン賞を意識したことは無かったのですが、受賞後は対象となった仕事の仲間や、故郷島根県での同級生によるお祝い会など、幾度となく受賞のありがたさを実感することになりました。デザインが姿、形の現象のみならず、人がどのように生活をして、どう生きるか迄をデザインとするならば、写真は目の前の人や物と対峙しながら、その姿、形の内にある光や真実を追い求めているのです。省略と誇張、象徴化と写実、そして何を思考してどう表現とするかなど、デザインと写真が共有しつつも住み分けていたことが、近年のデジタルや、コンピューターグラフィックの進歩でその境界はボーダーレスなものとなりつつあります。しかし全てのテクノロジーがそうであるように、そのことが人にとって幸福なのか、不幸なことなのか、実は誰にも分かってはいないのです。
水戸岡鋭治 デザイナー、イラストレーター 第56回 2010年 受賞
デザイン学校に入学して初めて知った賞の名は「日宣美」と「毎日デザイン」でした。デザイン至上主義の波に漂うままに欧米のトレンドにかぶれ、ようやく足元の日本に気づいたころに公共のデザインの仕事でこの賞をいただいたことは、一人前のデザイナーの証しとして生涯忘れえぬ記念になりました。しばらく前に一度最終候補に残ったことがありましたが、私としてはそれが精一杯、もう望外の仕合せと満足したものです。受賞に前後して、盆と正月が一度に来たように各方面からいろいろな賞をいただきましたが、正直なところ、うれしさと達成感という意味では、学生時代からあこがれていた毎日デザイン賞に如くはありません。エッジの効いたデザインは今も昔もできませんが、誰にでもわかりやすく、笑顔が生まれるようなモノや場所をつくっていきたい。それ以外に、これまで支えてくれた方々への感謝を表すすべはないと思っています。
小泉 誠 家具デザイナー 第58回 2012年 受賞
400年程続いてきた「産地」は、高度経済成長期を境に衰退の一途をたどっています。そんな重要な時期に様々な地域に関わる機会をいただき20年程デザイン活動を続けてきました。ただ、個人のデザイナーが関わる事ですから産業レベルではなく、あくまでも中小企業レベルの小さな工場ばかりです。どの工場も市場を追いかけ追いつけなくなり混沌としている中、デザインとの出会いから新たな価値観を見つけて、自分達らしい生き方を始めたケースがいくつか生まれました。
そんな地道な活動に対して2012毎日デザイン賞を頂きました。小さな活動ながらも心の通った強い活動として評価をして頂いたことが、現場の方々に自信と勇気をいただく幸せな機会になりました。そして自分たちもデザイナーとしての役目を「事業」ではなく「活動」として取り組むことに強く背中を押された大切な受賞となりました。
佐野研二郎 アートディレクター 第59回 2013年 受賞
毎日デザイン賞は幅広いデザイナーの中から毎年一人しか選ばれないから受賞するのは大変だ。ノミネートされて2回目での受賞は早すぎると言われそうだが実は虫の知らせで受賞できるような気がしていた。僕の虫の知らせは結構当たる。それはかなり幅広くデザインしている自負があったからだが、逆に幅が広すぎて、受賞タイトルがつけづらいから難しいかな、とも思っていた。後日、毎日新聞の方々がニコニコ笑顔でやってきた。「ほがらかなデザイン」で毎日デザイン賞受賞とのことだった。自分がやっているデザインを一言でまとめていただいたことが最大の喜びだった。
ナガオカケンメイ デザイン活動家、D&DEPARTMENTディレクター 第59回 2013年 受賞
2000年から「長く続く大切なもの“ロングライフデザイン”」をテーマにデザイナーとして活動しています。仕事も環境面を含め、継続することが世界にとって意味が深い企業しか引き受けないことにしています。生意気と言えば生意気。当然と言えば当然のスタンスで「デザイナー」という仕事自体のあり方を疑い、見直して考えてきました。昔は「ナガオカケンメイ」として毎日デザイン賞をいただけたらと夢見ていましたが、2000年から「ロングライフデザイン」がこの賞をいつかもらってくれないかなと思うようになりました。そして、その日は来たのでした。デザインはますますその意味を進化させていくとおもいます。おそらく、デザイナーというその道のプロの何倍もの速さで、生活者がその本質に気付くでしょう。私たちデザイナーがパソコンに向かっている間に……。