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議員への道
 
目 次
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    ▲ 国会議事堂前に初めて立った中学生のくまだ裕通。何年か後には…
政治家になる条件とは
くまだ裕通 政治家になる人間の条件とはなんでしょうか。学校の成績が優秀で、先生から誉められるようなまじめで良い子でしょうか。もしそうならば、くまだ裕通は失格です。

 忘れられない思い出があります。選挙事務所の場所を無償で提供してくださった方のお宅に、ご挨拶に伺ったときのことです。悪ガキの中学時代、その家にひどいイタズラをして、奥さんに大変叱られた苦い記憶がありました。

 改めてそのことをお詫びすると、「あれくらいの元気がなければ、議員は務まりませんよ」と、奥さんは笑っていました。この言葉に大変勇気づけられました。

 「政治家になりたい」。少年の一途な夢の実現のために、どれだけ多くの方が支え応援してくださったか。「議員への道」をたどりつつ、改めて感謝申し上げます。愛知県議会議員・くまだ裕通は、少年の心を忘れずここまでやってきました。これからも、志と勇気を持って挑戦していきます。
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「僕は政治家になりたい」小学生の一途な夢
 
 小学校4年生の時です。「大きくなったら何になりたい?」と聞かれると、くまだは「政治家!!」とはっきり答えていました。何がきっかけだったのか。思い出されるのは、父親と一緒に夜7時のニュースを必ず見ていたことです。テレビで見る政治家の姿に憧れていたのかもしれません。

 
 ロッキード事件が大々的に報じられている頃でした。国会の委員会で指名する議長の「イデ カンボウ チョウカン」という独特の言い回しを、よくマネしたことを覚えています。「井出」といえば「官房長官」、「官房長官」といえば「井出」、セットというか固有名詞でした。

 ある時、父は当時から熱心に応援していた衆議院議員の海部俊樹さんのところに、連れていってくれました。「こいつ大きくなったら、政治家になりたいって言ってるんですよ」と紹介されて、握手して頭をなでてもらった記憶があります。

小学校の卒業アルバムの「36歳のクラス会」という寄せ書きに、くまだは「衆議院議員」と書いています。頭がツルツルにはげたおじさんのイラスト付きで。
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超元気! 悪ガキ「ガクラン」時代
 
 今では想像もつかない(?)と思いますが、中学・高校の時は決していい子じゃない、というかやんちゃな悪ガキでした。母は何度も学校に呼び出され、時には涙を流していました。「お宅はどういう教育をしとるんだ」と、担任に厳しく言われていたそうです。

 先生とイタチゴッコをするのが楽しみで、グループでいつもワアワアやってました。そう、こんなことがありました。ある時、産休補助でみえた若い女性教師が生意気だということになって、いつかギャフンと言わせようと仲間とチャンスをうかがっていたんです。
恥ずかしながら気合い入ってます。あの頃のたくさんの友人のお陰で現在の私がいます
 
 放課後、先生がトイレ掃除の点検にやってきました。好機到来です。中に入ったところで外からドアを押さえて閉じ込めたんです。そして、天窓を開け、用意していた爆竹を次々に投げ込んだんですよ。はじめは「開けなさい」と命令していた先生も、そのうち「開けてください」とお願い調になり、最後は涙声で「開けて〜」と絶叫調に変わってきた。「やった〜」と快感でしたね。

 「もういいか」とドアを開けると、廊下にモワァーっとたちこめる煙。その中を先生が一目散に職員室に逃げ込む。すると反対に、担任がぼくらの教室に駆け込んで来て…。後はご想像に任せます。

 さすがにやりすぎたと反省し、翌日、自主的に全員丸坊主。それまでかぶりもしなかった学生帽を目深にかぶって登校しました。職員室の掃除を2週間やらされましたよ。

 そんな悪ガキ時代でも、一貫して政治家への夢は持ちつづけていました。ただ、何をどうすれば政治家になれるのか分かりません。だれも教えてくれません。とにかく大学は法学部と決めて、机上の勉強だけでなく友達を沢山作って、たくさんの事を経験することが議員への準備と考えていました。
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少年の憧れが「決意」に成長
 
 大学はとにかく親元を離れて有意義に…と、横浜まで足を伸ばしました。大学生活にとってサークル活動は不可欠なものです。当時は超のつくテニスブーム、誰もがテニスサークルを選んでいました。が、私の選んだサークルはズバリ「ギターアンサンブル」。わかりやすく説明するとクラッシックギター部です。このサークルの選び方にも、ちょっとしたエピソードがありました。
大学時代はギターが恋人だったのかも…(笑)
 
 早稲田に入学していれば迷わず雄弁会ですが、我が大学には残念ながら存在しません。せめて演説の間合いでも勉強できればと、門をたたいたのが落語研究会でしたが、部員数わずか数名の寂しい現実でした。昼近くになって大学構内を歩いていたとき、ふと見知らぬ人に呼び止められました、「1年生?クラブはもう決めた?」、くまだはそれには答えず「お腹すきましたね」。笑顔で見知らぬ人は「学食でも行きましょか」。

 メニューを前にして、その見知らぬ人は「僕が奢るから好きなものを選んでね」。その言葉に私のいたずら心が芽生え、食べたくもないのに一番高いメニューを選びました。その見知らぬ人が「ギターアンサンブル部」の副部長でした。

 中学・高校の同級生には、「ホントにそんなサークル入ったの?」と笑われるし、最初は気乗りのしない中での出発でしたが、わりと楽しい仲間や先輩にも恵まれ、徐々に本格的な活動へと移っていき、最後は副部長まで勤めました。
学生時代のたくさんの楽しい仲間達。僕の大切な宝物です
 
 通っていた大学には、時代遅れの学生運動の残り火がくすぶっていました。キャンバスには立て看板が並び、タオルで顔を隠したヘルメット姿の学生が、盛んに演説をしていたんです。その輪にくまだも参加して、何度か議論を吹っかけました。勢い余って生卵を投げつけたこともあるんですよ。くまだには彼らの主張が上滑りしている気がしてなりませんでした。熱い時代でした。

 「政治家になる」。小学生の「憧れ」は、学生時代が終わろうとしていた若者の「決意」に成長していました。「卒業時に気持ちが変わっていなかったら、一度いらっしゃい」と言ってくださった海部代議士を頼り、就職先は秘書と決めていました。一直線でした。
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秘書1年目「歯を食いしばる」とは、このことか
 
 代議士秘書。国会が相手の東京事務所。政治家への第一歩。
 新調した背広に身を包み、私はエネルギー120%全開です。しかし、現実は甘くありません。想像もしていなかった沢山の雑用が待っていました。当時、東京事務所に秘書は6人。すぐ上の先輩は秘書経験すでに5年。彼にしてみれば「苦節5年。やっと下働きから解放された」気分だったのでしょう。

食事会のひととき。思いっきり食いだめしました
 
 今でも誰にも負けぬ特技があります。それは洗車です。秘書1年目、毎日、朝6時から洗車しました。2台を1時間半かけて。もちろん雨の日も。洗って、拭いて、磨いて。終われば奥さんの買い物のお伴やお使いなど、次々と用事が待っています。

 中元・歳暮の時期は山のような品物の処理。車に積むと後ろが見えないほどの数です。アパート代にも足りぬ安い給料。朝食はぬいて昼は事務所が用意した食事。夜は代理で出席するパーティー(当時はパーティー全盛でした)で思いっきり食いだめ。そして休日はなし。

 アパートの部屋の壁は穴だらけです。その日のうっぷんを、壁に思い切りぶつけていたんです。後日、引越しをした時、管理人さんにえらく叱られました。

 「いじめじゃないのか」と思うくらい辛い日々でした。「歯を食いしばる」とは、このことかと実感したこともあります。先輩秘書達は、くまだのことを後援者の息子でボンボン育ち、そのうち音を上げて辞めるだろうと思っていたようです。

 「こんな日々がいつまで続くのか…」「こんなことでいいんだろうか…」。正直いって不安にかられ、辞めようと思い詰めた時もありました。
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一大転機、海部代議士が首相になった!
 
 そんな人生に、一大転機が訪れたのは秘書2年目の年です。海部代議士が内閣総理大臣になったのです。生活は一変しました。くまだは公邸付きの秘書に昇格。理由は独身だったから。公邸に24時間・365日張り付いて、首相のお世話と取次ぎが仕事。朝5時に起床。休日なんてありません。家族を持つ先輩秘書達では勤まりません。
総理専用飛行機内にて 海部元首相夫妻と記念撮影
 
 公邸は首相官邸の後ろにあり、首相が寝起きするプライベートな所。電話は全てくまだが受けます。小沢一郎幹事長ら自民党幹部や政府高官も、全て取り次ぎます。国外の要人も同様です。海外にも同行しました。

 1年前とは比較にならぬ異次元の世界です。国会や内閣の動向、議員の行動をこの目で見て肌で感じた2年3ヶ月。こんな経験望んでもできることではありません。運が良かった。勉強になりました。

 冷や汗をかいたこともあります。その日、首相は午後10時に就寝。くまだは公邸警護のSP達とくつろいでいました。深夜、電話が鳴りました。

 「こんな夜中に」と思いながら受話器を取ると、何を言っているのか全然わからない。電話を切ると再度ベルが鳴る。また、何を言っているのかわからない。いたずら電話だろうと、頭に来て受話器を置く。

 しばらくして、またかかってくる。今度は外務省からでした。「すぐ首相を起こして欲しい。湾岸戦争のことで、アメリカのブッシュ大統領から電話がある」との事でした。ブッシュ大統領は直接電話をかけることで有名で「ブッシュホン」と呼ばれていました。そうです。あの2本の電話はブッシュ大統領が直接かけてきたのです、英語で…。
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「くまだを県議に」5,000人が署名
 
 秘書生活は7年続きました。結婚もしました。くまだが28歳の時に地元・名古屋で、ある自民党県議が亡くなりました。その後、地元では「くまだを県議に」と署名運動まで起こり、約5,000人もの署名が集まりました。地盤も看板も鞄もない私です。しかし、この署名は勇気を与えてくれました。

 次の平成7年4月の統一地方選挙を目指して、新たな人生が始まりました。当時、愛知県議選の西区選挙区の定数は3人。ところが次回は定数が1人減らされます。現職2人のどちらかに勝たねばなりません。

左の写真は、署名を集めた地域の方々が、
「くまだを県議に」と海部総理に提出した嘆願書
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つらくて、悔しくて、そして嬉しくて
 
 秘書を辞めて名古屋に戻り、さっそく西区行脚を始めました。署名してくださった5,000人の方々のお宅を、一軒一軒回り挨拶をする毎日。当然温かい言葉が返ってくると思っていました。

 ところが、現実は厳しかった。玄関のインターホーンで「くまだ裕通です」と告げると、後も聞かずに「間に合ってます」と切られてしまう。訪れる家々で同じ繰り返しです。これには参りました。
 
 朝「今日も頑張るぞ」とハイな気分でスタートしても、だんだんブルーな気持ちになる。時々「応援してます、頑張って」と言われると、また元気になる。一日に何度も気分が上下する。

 そんな時に思い出すのが、野田聖子衆議院議員のお言葉です。彼女は一度落選して、再挑戦した時の教訓を話してくれました。「選挙は足ですよ」。かかとが疲労骨折するくらい、歩いて歩いて歩き抜いたそうです。

 負けてられません。くまだも1年半続けました。そして迎えた統一地方選挙で新進党から立候補。「自分ほど歩き抜いた候補者は他にいない!」。自信がありました。
 
待ちに待った開票日、早くから選挙事務所のテレビの一番前に座って、結果を待ちました。 普通、候補者は後援会員が集まった後に現れます。でも、当選を信じていましたから、皆さんとその瞬間を味わいたかったのです。結果はすぐ出ました。「くまだ裕通、当選確実」。県内最年少の30歳、しかもトップ当選でした。

 時が経つのは早いものです。あの初当選以来、社会は大きく変わりました。しかし、変わらぬ・変えてはならぬ思いもあります。くまだ裕通は少年の心を忘れず、ここまでやってきました。これからも、志と勇気を持って挑戦していきます。
この長い「議員への道」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 

衆議院議員 くまだ裕通 名古屋事務所 〒451-0061 名古屋市西区浄心1-1-41 浄心ステーションビル北館1階102号 TEL 052-521-1144
衆議院議員 くまだ裕通 国会事務所 〒100-8982 東京都千代田区永田町2-1-2 衆議院第二議員会館508号室 TEL 03-3508-7513

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