2030年01月01日 (火) | Edit |
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(2014年7月6日記す)

著者そういち自画像
ブログ「団地の書斎から」のテーマ
団地の小さな書斎(左上の写真)で,
たまには「大きなこと」について考える。
世界史の大きな流れ。時代の変化。
政治経済などの世の中のしくみ。
そして,時代や社会をつくった人びとの生きかた。
自分のアタマで考えること。
「考え」を,文章でどう表現するか。
古い団地をリノベして暮らしています。
「リノベと住まい」もテーマのひとつ。
暮らしの中の小さなたのしみについても。
これらを,わかりやすく・ていねいに書きたい。
●著者「そういち」について
〈近代社会〉のしくみ研究家。「文章教室のセンセイ」「団地リノベ研究家」も兼ねる。1965年生まれ。東京・多摩地区の団地で妻と2人暮らし。
大学卒業後,運輸関係の企業に勤務し,事業計画・官庁への申請・内部監査・法務コンプライアンス・株主総会などを担当。そのかたわら,教育研究のNPOに参加して,社会科系の著作や講演で活動。その後,十数年勤めた会社を辞め,独立系の投資信託会社の設立に参加するが撤退。浪人生活を経て,現在はキャリアカウンセラーとして,若い人のための就職相談の仕事を行っている。
社会や歴史に関し「多くの人が知るに値する・長持ちする知識を伝えること」がライフワーク。
●そういちの著書
『自分で考えるための勉強法』(ディスカバー・トゥエンティワン,電子書籍)
『四百文字の偉人伝』
(古今東西の偉人100人余りを紹介,ディスカバー・トゥエンティワン,電子書籍)
『健康と環境』(子ども向けの社会科の本,小峰書店,共著)
『フラッグス・る?』(世界の国ぐにをGDPでみる社会科の本,楽知ん研究所)
↑以上は,アマゾンなど多数のネット書店で発売中。電子書籍はスマホやパソコンでも読めます。
【講師いたします】
就職や勉強に関する作文指導のほか,このブログでテーマにしている勉強法,世界史,政治経済などについて。グループでも個人でもどうぞ。
くわしくは こちら をご覧ください。

撮影:永禮賢
(2014年7月6日記す)
著者そういち自画像
ブログ「団地の書斎から」のテーマ
団地の小さな書斎(左上の写真)で,
たまには「大きなこと」について考える。
世界史の大きな流れ。時代の変化。
政治経済などの世の中のしくみ。
そして,時代や社会をつくった人びとの生きかた。
自分のアタマで考えること。
「考え」を,文章でどう表現するか。
古い団地をリノベして暮らしています。
「リノベと住まい」もテーマのひとつ。
暮らしの中の小さなたのしみについても。
これらを,わかりやすく・ていねいに書きたい。
●著者「そういち」について
〈近代社会〉のしくみ研究家。「文章教室のセンセイ」「団地リノベ研究家」も兼ねる。1965年生まれ。東京・多摩地区の団地で妻と2人暮らし。
大学卒業後,運輸関係の企業に勤務し,事業計画・官庁への申請・内部監査・法務コンプライアンス・株主総会などを担当。そのかたわら,教育研究のNPOに参加して,社会科系の著作や講演で活動。その後,十数年勤めた会社を辞め,独立系の投資信託会社の設立に参加するが撤退。浪人生活を経て,現在はキャリアカウンセラーとして,若い人のための就職相談の仕事を行っている。
社会や歴史に関し「多くの人が知るに値する・長持ちする知識を伝えること」がライフワーク。
●そういちの著書
『自分で考えるための勉強法』(ディスカバー・トゥエンティワン,電子書籍)
『四百文字の偉人伝』
(古今東西の偉人100人余りを紹介,ディスカバー・トゥエンティワン,電子書籍)
『健康と環境』(子ども向けの社会科の本,小峰書店,共著)
『フラッグス・る?』(世界の国ぐにをGDPでみる社会科の本,楽知ん研究所)
| 自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library) (2013/11/01) 秋田総一郎 商品詳細を見る |
| 四百文字の偉人伝 (2013/02/04) 秋田総一郎 商品詳細を見る |
| 資源・環境・リサイクル〈10〉健康と環境 (2002/04) 落合 大海、秋田 総一郎 他 商品詳細を見る |
↑以上は,アマゾンなど多数のネット書店で発売中。電子書籍はスマホやパソコンでも読めます。
【講師いたします】
就職や勉強に関する作文指導のほか,このブログでテーマにしている勉強法,世界史,政治経済などについて。グループでも個人でもどうぞ。
くわしくは こちら をご覧ください。
撮影:永禮賢
2015年08月03日 (月) | Edit |
このところ更新が途絶えていましたが,再開です。
元気でやっていますが,ブログのほうへ時間や気持ちを向けられない状態が続きました。
最近「おもしろいなー」と思って取り組んでいることのひとつに,「そういち文庫」というものがあります。
妻がウチの近所で書道教室を運営していて,そこに小さな「家庭文庫」「学級文庫」のようなものを用意したのです。文庫の主催者である私の名をとって「そういち文庫」。
妻は「オフィス・教室可」の集合住宅の一室を借り,子どもや大人に書道を教えています。
その教室の一画に本棚を置いて,書道教室に習いに来てくださるみなさんが自由に手にとって気晴らしができるような本を並べました。貸出しもしています。1回に1冊2週間まで。
リンク: 奈昌書道教室
教室や,本棚の様子。メインの本棚(下の写真のうち2つめ)は,テラバヤシ・セッケイ・ジムショの寺林省二さんがDIYで製作してくださったもの。




教室には大人も子どもも通ってくださっています。
だから「大人も子どももたのしめる本」を並べようと思いました。
書道教室ですから,まず書道関連の本。
「建築・住まい」「暮らし・料理」関係は,おもに大人向け。
その中に,『地球家族』のような世界の国ぐにの暮らしを写真で紹介した本や,土門拳や木村伊兵衛の写真集やフェルメールを解説した本のような美術系のものも少し。伊藤計劃の『ハーモニー』や,最近読んで面白かったアンディ・ウィアー『火星の人』といったSFも。「昔を懐かしむ」類の本として,小泉和子『昭和のくらし博物館』や加藤嶺夫の写真集『東京 消えた街角』なども。
子ども向けは、『ぐりとぐら』『ちいさいおうち』『ちびくろさんぼ』『きかんしゃやえもん』のような,みんなが知っているものがおもに並んでいます。
私が子どものときに読んで,今みても「これはいい」と思うもの。だから,大人もたのしみやすいはず。
私は子どもの本に詳しいわけではないので,「自分の体験をベースにしたセレクト」でいこうと思いました。
子どもの本は,物語系が多いですが,加古里子(かこさとし)の『宇宙』やバージニア・リー・バートン『せいめいのれきし』のような「宇宙や世界を知る」本も。子ども向けの偉人伝も何冊か揃えました。
マンガも少し置いてます。手塚治虫『火の鳥 未来編』とか『鉄腕アトム』の朝日ソノラマ版の第3巻(地上最大のロボット,浦沢直樹の『PLUTO』の原作)とか,水木しげる『悪魔くん』とか。
あとは書道マンガの川合克敏『とめはねっ!』(全14巻)の最初の何巻か。
これらの本は私の家から持ってきたものものありますが,ブックオフやアマゾンの中古や新刊書店であらためて買ったものが大半です。つまり,文庫のためにあえてそろえた本が中心なのです。
こういう「文庫」をつくるにあたって,「文庫を本の捨て場所にしない」ということは大事です。公共施設や職場などにある小さな「文庫」のなかには「要らなくなった本をみんなで持ち寄って」というかたちでつくられたものがあります。でもそれだと,充実した本棚にはなりにくい。
今,そういち文庫には120~130冊ほどあります。
じつにささやかな蔵書です。今後も多少は増やしていきますが,スペース的にも200冊くらいがひとつの限度かと思います。
でも,それなりにセレクトしたものであれば,わずかの蔵書でもたのしい文庫がつくれるのではないかと。
書道教室の気晴らしコーナーとしては,それでいいのではないか。
そういち文庫の本を読む子どもたち。
書道のお稽古の前と後に10分~15分のあいだ,ちょっと読むくらいです。稽古が終わって,親御さんが迎えにくるまでの間とかです。わずかの時間ですが,それでも「ちょっと何かに触れる」というのはいいのだと思います。15分の読書は,子どもにとってはそれなりの内容のある時間です。



一番下の,女の子が向かっている座机は,家具職人の真吉(しんきち)さんの作です。書道でよく使う伝統的な座机に「二月堂」というのがあるのですが,それをベニア板製のモダンなかたちにしたオーダーメイド。塗装は墨汁を塗っています。
本来は書道をする机ですが,「読書用」としてもこれがお気に入り,という子がいます。写真は,硬筆(鉛筆書き)の書道のお稽古の様子ですが。
文庫をはじめたのは,今年の3月から。
貸出しもしていると述べましたが,この4か月余りで30冊弱の貸し出し実績があります。利用は子どもが中心ですが,大人の方も借りておられます。
書道教室の「おまけ」の,100何十冊の小さな文庫としては,まずまずの繁盛ぶり。
自分が選んだ本をお客さんに手にとってもらうと,ある種のコミュニケーションや交換をした気持ちになります。
本の貸し出しの実績や、妻から聞いた,みなさんが手にとって読んでいる様子などから,いろいろな発見もありました。こういう「文庫」は,私のような本好きにはじつにたのしい遊び・活動です。これを通じての「発見」など,またご報告したいと思います。
(以上)
元気でやっていますが,ブログのほうへ時間や気持ちを向けられない状態が続きました。
最近「おもしろいなー」と思って取り組んでいることのひとつに,「そういち文庫」というものがあります。
妻がウチの近所で書道教室を運営していて,そこに小さな「家庭文庫」「学級文庫」のようなものを用意したのです。文庫の主催者である私の名をとって「そういち文庫」。
妻は「オフィス・教室可」の集合住宅の一室を借り,子どもや大人に書道を教えています。
その教室の一画に本棚を置いて,書道教室に習いに来てくださるみなさんが自由に手にとって気晴らしができるような本を並べました。貸出しもしています。1回に1冊2週間まで。
リンク: 奈昌書道教室
教室や,本棚の様子。メインの本棚(下の写真のうち2つめ)は,テラバヤシ・セッケイ・ジムショの寺林省二さんがDIYで製作してくださったもの。
教室には大人も子どもも通ってくださっています。
だから「大人も子どももたのしめる本」を並べようと思いました。
書道教室ですから,まず書道関連の本。
「建築・住まい」「暮らし・料理」関係は,おもに大人向け。
その中に,『地球家族』のような世界の国ぐにの暮らしを写真で紹介した本や,土門拳や木村伊兵衛の写真集やフェルメールを解説した本のような美術系のものも少し。伊藤計劃の『ハーモニー』や,最近読んで面白かったアンディ・ウィアー『火星の人』といったSFも。「昔を懐かしむ」類の本として,小泉和子『昭和のくらし博物館』や加藤嶺夫の写真集『東京 消えた街角』なども。
子ども向けは、『ぐりとぐら』『ちいさいおうち』『ちびくろさんぼ』『きかんしゃやえもん』のような,みんなが知っているものがおもに並んでいます。
私が子どものときに読んで,今みても「これはいい」と思うもの。だから,大人もたのしみやすいはず。
私は子どもの本に詳しいわけではないので,「自分の体験をベースにしたセレクト」でいこうと思いました。
子どもの本は,物語系が多いですが,加古里子(かこさとし)の『宇宙』やバージニア・リー・バートン『せいめいのれきし』のような「宇宙や世界を知る」本も。子ども向けの偉人伝も何冊か揃えました。
マンガも少し置いてます。手塚治虫『火の鳥 未来編』とか『鉄腕アトム』の朝日ソノラマ版の第3巻(地上最大のロボット,浦沢直樹の『PLUTO』の原作)とか,水木しげる『悪魔くん』とか。
あとは書道マンガの川合克敏『とめはねっ!』(全14巻)の最初の何巻か。
これらの本は私の家から持ってきたものものありますが,ブックオフやアマゾンの中古や新刊書店であらためて買ったものが大半です。つまり,文庫のためにあえてそろえた本が中心なのです。
こういう「文庫」をつくるにあたって,「文庫を本の捨て場所にしない」ということは大事です。公共施設や職場などにある小さな「文庫」のなかには「要らなくなった本をみんなで持ち寄って」というかたちでつくられたものがあります。でもそれだと,充実した本棚にはなりにくい。
今,そういち文庫には120~130冊ほどあります。
じつにささやかな蔵書です。今後も多少は増やしていきますが,スペース的にも200冊くらいがひとつの限度かと思います。
でも,それなりにセレクトしたものであれば,わずかの蔵書でもたのしい文庫がつくれるのではないかと。
書道教室の気晴らしコーナーとしては,それでいいのではないか。
そういち文庫の本を読む子どもたち。
書道のお稽古の前と後に10分~15分のあいだ,ちょっと読むくらいです。稽古が終わって,親御さんが迎えにくるまでの間とかです。わずかの時間ですが,それでも「ちょっと何かに触れる」というのはいいのだと思います。15分の読書は,子どもにとってはそれなりの内容のある時間です。
一番下の,女の子が向かっている座机は,家具職人の真吉(しんきち)さんの作です。書道でよく使う伝統的な座机に「二月堂」というのがあるのですが,それをベニア板製のモダンなかたちにしたオーダーメイド。塗装は墨汁を塗っています。
本来は書道をする机ですが,「読書用」としてもこれがお気に入り,という子がいます。写真は,硬筆(鉛筆書き)の書道のお稽古の様子ですが。
文庫をはじめたのは,今年の3月から。
貸出しもしていると述べましたが,この4か月余りで30冊弱の貸し出し実績があります。利用は子どもが中心ですが,大人の方も借りておられます。
書道教室の「おまけ」の,100何十冊の小さな文庫としては,まずまずの繁盛ぶり。
自分が選んだ本をお客さんに手にとってもらうと,ある種のコミュニケーションや交換をした気持ちになります。
本の貸し出しの実績や、妻から聞いた,みなさんが手にとって読んでいる様子などから,いろいろな発見もありました。こういう「文庫」は,私のような本好きにはじつにたのしい遊び・活動です。これを通じての「発見」など,またご報告したいと思います。
(以上)
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- 団地の建替えについての問い合わせ
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2015年06月14日 (日) | Edit |
前々回の記事 ドイツという攪乱の中心 の続編ですが,この記事だけ読んでいただいても大丈夫です。
これまでの歴史で,ヨーロッパがひとつの国家に統一されたことはありません。
ただし,古代ローマ帝国(2000年前ころ~西暦400年代)の時代は別です。
当時は,西ヨーロッパの主要部分(イタリア,フランス,スペイン,ドイツの一部,イギリスの一部など)がローマの支配下にありました。しかし,西ローマ帝国の滅亡(400年代)以降は,これだけの範囲がひとつの国に支配されたことは,ほぼないのです。
例外もあります。西暦800年ころの,カール大帝のフランク王国(フランス,イタリア北部,ドイツ西部などを支配)は,そうです。しかしその支配は長続きせず,彼の死後,王国は分裂してしまいました。
.
1800年代初頭のナポレオンや,第二次世界大戦(1939~45)のナチス・ドイツも,ヨーロッパ制覇をめざし,一時期はそれをほぼ実現しました。しかし,その支配もやはり短期間で終わっています。
ヨーロッパでは,強国どうしの力のバランスが保たれてきました。
特定の国がほかを征服しようとしても,困難な状態がずっと続いているのです。
近代のヨーロッパを代表する3つの強国(イギリス,フランス,ドイツ)の力のバランスは,まさにそうでした。1つの国がヨーロッパを制覇しようとしても,残り2つの強国が同盟して対抗すると,勝てません。
たとえば第一次世界大戦(1914~18)や第二次世界大戦(1939~45)のときのドイツは,単独でみればイギリス,フランスそれぞれの国を大きく上回る力(経済・軍事・人口)を持っていました。
しかし,イギリス・フランスの同盟に対しては,必ずしも優位とはいえませんでした。まして,イギリス・フランスの同盟にロシア(ソ連)が加われば,ドイツは明らかに不利です。さらにアメリカも敵にまわせば,まったく勝ち目はありません。そしてじっさいに,ドイツは2つの大戦でイギリス,フランス,ロシア,アメリカと戦って敗れています。
第一次世界大戦(1914~18)と第二次世界大戦の2つの大戦は,ドイツが「ヨーロッパ制覇」をめざしてひき起こしたものでした。(この点については前々回の記事ドイツという攪乱の中心参照)
なぜ当時のドイツは,「ヨーロッパ制覇」などということを考え,戦争をはじめたのでしょうか?
あたりまえですが,「勝てる」と思ったからです。
それは,自分たちの産業や軍事の力が,ヨーロッパで単独トップにあったからです。ドイツは,産業革命などの近代化においてイギリスやフランスよりは遅れてスタートを切りました。しかし,1800年代後半から急発展して,1900年代初頭には,イギリスやフランスをしのぐ工業国・軍事大国となりました。
世界全体のGDPに占める主要国のシェア(%)
1820年 1870年 1913年
アメリカ 1.8 8.9 19.1
イギリス 5.2 9.1 8.3
ドイツ ― 6.5 8.8
フランス 5.5 6.5 5.3
日 本 ― 2.3 2.6
(アンガス・マディソン『経済統計で見る世界経済2000年史』より)
上の表でみると,1913年(第一次世界大戦の直前)のドイツのGDP(国の経済規模)は,イギリス,フランスより頭ひとつ抜きん出ています。(それでも,ドイツ単独では「イギリス+フランス」に及ばないことにも注意)
このような「強大なドイツ」が「ヨーロッパ制覇」の野望を抱いて暴れ出した結果,2つの世界大戦が起こりました。
ドイツという国は,勢いづくとものすごい自己主張をはじめて,世界を混乱に巻き込んでしまう存在なのかもしれません。20世紀の歴史をみると,そんなふうにも思えます。
そして,第二次世界大戦後の欧米(大戦に勝利した米・英・仏・ソ連)の政治指導者たちは,「ドイツを押さえこむ」ことを重視しました。
この「危険な国」は終戦後まもなく東西に分割され,西ドイツはアメリカを中心とする自由主義・資本主義諸国の「西側」陣営に,東ドイツはソ連を中心とする社会主義諸国の「東側」陣営に組みこまれました。
軍備や軍事行動にはさまざまな制約が課され,二度と戦争をひきおこすことのない「平和国家」に生まれ変わりました。そのへんは,戦後の日本と似ています(日本は分割はされませんでしたが)。
戦後の西ドイツは日本の高度経済成長のような復興・発展を遂げ,経済大国として繁栄しました。
西ドイツの人口はイギリス,フランスと大きくは変わりません。そして,強力な軍備もない。世界にとって「危険」な存在にはなり得ませんでした。
1990年(東西ドイツ統一の直前)の人口
西ドイツ 6300万人(東西合わせると8000万人)
イギリス 5700万
フランス 5700万
***
第二次大戦後の世界では,アメリカとソ連が対立する「東西冷戦」がくり広げられました。
その後,1990年ころにはソ連などの社会主義国が崩壊して冷戦は終わり,東ドイツは西ドイツに併合されました。この「ドイツ再統一」によって,ドイツは大戦以前の領域を,かなり回復したことになります。
社会主義だった東ドイツの経済発展は,西ドイツにくらべると大幅に遅れていました。そのような東ドイツを吸収したため,ドイツの経済は再統一後,一時期混乱しました。
しかし,再統一から20数年を経て,ドイツは再びヨーロッパで他を圧倒する存在になっています。人口やGDPはイギリス・フランスの1.3~1.4倍。1人あたりGDP(経済の発展度や生産性を示す)も,ドイツは2国を上回ります。
ヨーロッパの大国(2012年)
人口 GDP 1人あたり
GDP
ドイツ 8300万人 3.5兆ドル 4.1万ドル
イギリス 6300 2.5 3.9
フランス 6400 2.6 4.0
しかも再統一後のドイツは,その経済力によって,周辺諸国に対し強い影響力を及ぼす国になっていきました。それらの周辺国も含め,ドイツ一国を超えた,大きな勢力圏を形成しつつあるのです。
「ドイツの強い影響が及ぶ周辺諸国」には,つぎの国ぐにがあります。
1.大ドイツ・・・特にドイツとの関係が深いオーストリア,チェコ(オーストリアはドイツ語圏)
2.旧社会主義国・・・ポーランド,スロバキア,ハンガリー
3.小粒な西欧諸国・・・オランダ,ベルギー,ルクセンブルク,スイス
これらの国ぐにを,一般的な名称はないので,ここでは「ドイツ勢力圏」と呼ぶことにします。下の地図(記事のトップにあるものと同じ)の,赤かオレンジの斜線のある国ぐにです。赤い斜線は上記「1.大ドイツ」で,オレンジは「2.旧社会主義国」「3.小粒な西欧諸国」です。
これらの「勢力圏」の国ぐには,ドイツ経済に大きく依存しています。たとえばチェコの輸出総額の3割はドイツ向けで,その額はチェコのGDPの2割に相当します。オーストリアでもドイツ向けの輸出が,輸出総額の3割を占めます。
これは,非常に高い割合です。
たとえば東南アジアの国ぐには,中国・日本・アメリカがおもな輸出先ですが,そのうちの一国がこれほどのシェアを占めることは(一部の例外を除き)ありません。タイの場合は,対中国・対日本・対アメリカとも輸出の1割程度と,だいたい同じです(2012年)。
上記の「ドイツ勢力圏」の国ぐにでは,輸出総額の2~3割がドイツ向けで,それがGDPの1~2割に相当します。
また,これらの国ぐには,ドイツの金融機関から多くの投資・融資を受けています。その重要性は,輸出の場合と同じようなものだと,とりあえずイメージしてください。(たとえば,オーストリアでは「海外からの与信に占めるドイツの金融機関の割合」は,30%になります・・・この点についての説明は省略。「ドイツ経済の頑健性とリスク」『三井住友信託銀行調査月報』2012年6月号より)
このようにドイツへの輸出が経済の中で多くを占め,ドイツから多くの投資や融資を受けている国ぐには,ドイツに対し,強い自己主張ができなくなります。あからさまな従属を強いられることはないし,相互に利益があるとはいえ,やはり対等の関係にはなり得ません。
これらの国ぐには,ドイツを盟主とする,一種の経済圏をつくっているのです。それがここでいう「ドイツ勢力圏」。
このような勢力圏は,この20年余りで徐々に形成され,ここ数年ではっきりと姿をあらわしてきました。
この「勢力圏」の東側の国ぐに(ポーランド,チェコ,スロバキア,ハンガリー)は,冷戦時代にはソ連に支配される社会主義圏に属しており,西側諸国との交流はかぎられていました。ドイツにとっては「近くて遠い国」だったのです。
しかし,ソ連が崩壊したことによって,これらの「東」の国ぐには,ドイツにとって目の前に広がる「フロンティア」となりました。
再統一後のドイツは,この「フロンティア」に経済的に進出していきました。安価で教育水準の高い労働力を求めて工場を建てたり,さまざまな投資を行ったりしました。
***
では,「ドイツ勢力圏」の規模は,どのくらいのものか。
「ドイツ勢力圏」の規模(2012年)
人口 GDP 1人あたりGDP
ドイツ 8300万 3.4兆ドル 4.1万ドル
チェコ 1100 0.2 1.8
オーストリア 850 0.4 4.7
オランダ 1700 0.8 4.6
ベルギー 1100 0.5 4.4
ルクセンブルク 50 0.05 10.5
スイス 800 0.6 7.9
ポーランド 3800 0.5 1.3
スロバキア 540 0.1 1.7
ハンガリー 1000 0.1 1.2
「ドイツ勢力圏」の総人口:1.9億人
GDP合計:6.7兆ドル
1人あたりGDP:3.5万ドル
比較データ
人口 GDP 1人あたりGDP
イギリス 6300万 2.5兆ドル 3.9万ドル
フランス 6400 2.6 4.0
アメリカ 3億2000万 16.2兆 5.1
中国 13億8000 8.4 0.6
ロシア 1億4000 2.0 1.4
日本 1億3000 6.0 4.7
(矢野恒太記念会『世界国勢図会』より)
「ドイツ勢力圏」は,人口1.9億人で,GDPは6.7兆ドル。
これは,アメリカ(3.2億人,16兆ドル)と比較すると,人口はその6割,GDPは4割になります。
GDPでみると,世界3位の日本(6.0兆ドル)と2位の中国(8.4兆ドル)のあいだに位置します。
ただ,中国は1人あたりGDPが0.6万ドルと,先進国の数分の1以下のレベル。社会の生産性や技術レベルは「まだまだ」ということです。
そこで,「ドイツ勢力圏」は,先進国レベルの生産性を持つ経済圏としては,人口でもGDPでもアメリカに次ぐ規模ともいえるのです。
また,ヨーロッパのほかの大国との比較では,「1.9億人・6.7兆ドル」は,人口でもGDPでもフランスとイギリスの合計(1.3億人・5.1兆ドル)を大きく上回ります。
このような力の不均衡は,イギリス・フランス・ドイツの3国のあいだでは,はじめての状況です。あくまで「この計算の仕方では」ということですが,ドイツの経済的パワーが,イギリスとフランスの合計をはっきりと上回るのは,これまでになかったことです。
なお,日本は「ドイツ勢力圏」に匹敵する規模ではあります。しかし,周辺諸国を自国の勢力圏に組み込んでいくような勢いは,現在はありません。たとえば日本にとって,ドイツにおけるチェコやオーストリアにあたるような「絶大な影響を及ぼす国」は,存在しません。「日本への輸出額がGDPの2割にあたる」という国はないのです。
一方「ドイツ勢力圏」は,影響の範囲を広げつつあるようです。
識者によっては,「勢力圏」の範囲を,もっと広く考えています。
オーストリアの南にあるスロベニアやクロアチアのほか,東欧のルーマニア・ブルガリア・ウクライナなども「勢力圏」に含まれる,といった見方です(エマニュエル・トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』文春新書,この本については次回に紹介。トッドはこの「勢力圏」の人口やGDPを見積もっていて,そのやり方をここでも参考にしています)。
ここでいう「ドイツ勢力圏」の範囲をどうみるかは,むずかしいところがあります。
この記事では,ドイツへの輸出依存度などの指標が一定のレベルに達し,近隣にある国をとりあえず「勢力圏」に含めました(スロベニア,クロアチアもこの基準で「勢力圏」に含まれるかもしれませんが,データがみつからなかった)。
***
このような状況について「新たな〈ドイツ帝国〉が台頭しつつある」という識者もいます(さきほど述べた,エマニエル・トッド)。
たしかに「ドイツ勢力圏」は,周辺諸国を自国のパワーに依存・従属させている点で,「帝国」のようだといえます。もちろん,その「従属」のあり方は,昔の「帝国」とはちがいます。もっとソフトで,お互いの利益や立場をある程度は尊重しあっています。だから,「帝国」というより「勢力圏」というほうがふさわしいように,私は思います。
とにかく,「ドイツ勢力圏」という,新しい重要なプレイヤーが世界の勢力図のなかに出現したのです。
それは,ただちに戦争を引き起こすような「危険」な存在ではないでしょう(この点については,次回)。
しかし,これからの世界にとって,重要な存在であることはまちがいありません。ドイツの考え方や行動しだいでは,中国以上に世界に影響をあたえることもあるのではないか。それがどんな「影響」であるかは,まだはっきりしませんが…
なにしろ2億弱の人口と,中国にも匹敵するGDPと,発達した産業が「ドイツ勢力圏=ドイツ帝国」にはあります。そして(日本とはちがって)ドイツには対外的な影響力がある。周辺諸国を経済的に組み込むだけでなく,その経済的パワーからEU全体を主導するようにもなっています。(この点も,次回)
私たちは,国際情勢というと,まずアジア・太平洋に目がいくので,ヨーロッパのことはあまり知りません。でも,少し意識してみると,ヨーロッパの勢力図は,ずいぶん様変わりしているのがわかります。その動きの中心が,ドイツだということ。
「これからのドイツが何をめざし,どんな影響を世界に及ぼしうるのか」については,このシリーズの次回に。
今回は,「ドイツ勢力圏=ドイツ帝国」の存在を確認するにとどめます。
(以上)
2015年06月05日 (金) | Edit |
日本年金機構の年金情報流出問題。
ちょうど1年ほど前にはベネッセの個人情報流出の問題が,さかんに報じられていました。
今回の記事は,「個人情報」という素材で,その当時書いたもの。
堀り起こしたいと思ったので,再放送です。
***
日本年金機構の,年金情報流出。
去年の今ごろには,ベネッセの個人情報漏えいの事件もありました。
「個人情報」というと,私はジブリの映画にもなった『ゲド戦記』(アーシュラ・K・ル=グウィン作)というファンタジー小説の世界を,なぜか思い出します。この作品はシリーズ化されており,第1作は1960年代末に書かれたもの。
『ゲド戦記』の舞台は「アースシー」という古代・中世風の架空の異世界。そこでは魔法が科学や学問のような役割をはたしている。主人公の「ゲド」は,その世界のエリートである「魔法使い」の1人。
アースシーでは,すべての人やモノに「真(まこと)の名」というものがあり,その「真の名」がわかればその人・モノに魔法をかけることが可能です。
そこで,人びとは「真の名」をごく限られた身内以外には明かさず,「通り名(通称)」で暮らしています。ほかに「真の名」を知っているのは,子どものときに「真の名」をつけてくれた魔法使いだけ。
主人公も,「ゲド」が本名ですが,ふだんは「ハイタカ」という通り名で世間をわたっているのです。
***
アースシーにおける「真の名」というのは,私たちの社会の個人情報やパスワードみたいなものです。
住所や職場を明かすのは,信頼できる相手に対してだけ。悪意のある相手にその情報を渡すと,迷惑や危害をこうむる恐れがある。
相手の得体が知れない場合は,本名を明かすこともためらわれます。じっさい,ネット上では「本名」ではなく「通り名」を使うことも多い。
高校時代(1980年ころ)にはじめて『ゲド戦記』を読んだとき,「本名をふせて暮らすなんて,奇妙な世界だ」と思いました。「真の名と,通り名の使い分け」という感覚をのみこむのに,多少の理解力が必要でした。
でも,作品が書かれた当時は「奇妙」だったことが,今の世界ではかなり「ふつう」になっているのです。今の子どもたちがこの小説を読むときは,「真の名」「通り名」というニュアンスは,すぐにピンとくるはずです。
アースシーの世界は,一見「古代・中世風」ですが,じつは現代的な個人主義の社会です。
誰もが自分の本名(個人情報の基本の部分)を,近所の人にも,ほとんどの友人や親せきにも明かさず暮らすのです。魔法という「テクノロジー」のせいです。
「自分」以外に対し「壁」をつくって,人びとが生きている。「自分」以外に安心できる場所が,めったにない社会。
『ゲド戦記』の第1巻は,ゲドによる「自分さがし」の物語です。個人主義の社会で,少年期から青年期にかけてのゲドが,「自分は何者なのか」について理解を深めていく過程。
ネタバレになるので述べませんが,その後の多くの小説や映画などで模倣される,いろんな要素がこの作品にはあります。だからこの作品は「古典」なのです。
***
「個人情報」をしっかりと守りたいなら,アースシーのやり方を徹底することです。
社会生活のなかで,本名を使うことを原則としてやめ,「通り名」を使うことにする。
通り名は,複数持つことができて,職場用,コミュニティ用など,場面に応じて使い分ける。職場が変わったり,引っ越したりしたら,通り名を変えることにする。
本名は,親子や夫婦など,ごくかぎられた「信頼できる範囲」にしか明かさない。他人に本名を明かすのは,きわめて例外的な「信頼」の証となる。
本名や住所などの基本情報を知らせる相手は,役所や金融機関や郵便局などのごくかぎられた「信頼できる専門機関」だけ。まるでアースシーにおける「魔法使い」のような立場です。この専門機関には「本名」とあわせ「通り名」も登録する。
これらの機関は「信頼に足る」ために,きわめて厳格な情報管理の義務を負う。個人情報のデータベースは,巨額の金塊や現金がおさまった大金庫か,放射性物質が保管されている場所のように扱われる。
人びとは,「本当の住所」のほかに私書箱のような「仮の住所」を持つ。
ほとんどの通信はネット上で行われるが,モノのやり取りをするときは「仮の住所」で受け取る。「仮の住所」を管理する機関に依頼すれば,「本当の住所」に転送してもらうこともできる。「仮の住所」を管理するのも,厳格な義務を負う「専門機関」である。
それでも不安な人は,たとえば「仮の住所」から直接「本当の住所」に転送するのではなく,いったん別の「仮の住所」に転送して,そこから「本当の住所」に送ることにすればいい。
一般的なサービスの利用・買い物・就職は,「通り名」で行うことができる。「通り名」による債務不履行などの問題があったとき,業者は当局に申請して,該当する人物の「本名」を確認し,請求や訴訟を行う・・・・・・
***
このくらいやれば,個人情報は守られて,安心でしょう。
もちろん「専門機関」がどれだけ信頼できるのか,という問題はあります。だから「専門機関」を徹底的に監督する制度や,義務違反や過失あった場合のきびしい罰則も必要です。
このような社会になれば,多くの企業は「個人情報を蓄積して,顧客を囲いこんで・・・」などとは考えなくなるでしょう。
「個人情報のようなめんどうな危険物は,できれば取得したくない」と考えることでしょう。
企業への申込みをする際の記入シートに「本名や本当の住所を書かないでください。もし書いても,責任は持てません」という注意書きがされるようになるのです。
以上は妄想であり,悪い「冗談」といえます。
でも,近年の「個人情報流出事件」への騒ぎかたをみていると,社会は「アースシー」的な方向を真剣に模索しかねない,などとも思います。
つまり「めったに本名を明かさず生活すること」が一般的な社会。
とにかく,今の私たちは「真の名」を知られるのがイヤなのです。
これからの世の中を考えるうえで「そういうこともあるのでは?」という問いかけをもってみると,何かがわかってくるかもしれません。
(以上)
ちょうど1年ほど前にはベネッセの個人情報流出の問題が,さかんに報じられていました。
今回の記事は,「個人情報」という素材で,その当時書いたもの。
堀り起こしたいと思ったので,再放送です。
***
日本年金機構の,年金情報流出。
去年の今ごろには,ベネッセの個人情報漏えいの事件もありました。
「個人情報」というと,私はジブリの映画にもなった『ゲド戦記』(アーシュラ・K・ル=グウィン作)というファンタジー小説の世界を,なぜか思い出します。この作品はシリーズ化されており,第1作は1960年代末に書かれたもの。
『ゲド戦記』の舞台は「アースシー」という古代・中世風の架空の異世界。そこでは魔法が科学や学問のような役割をはたしている。主人公の「ゲド」は,その世界のエリートである「魔法使い」の1人。
アースシーでは,すべての人やモノに「真(まこと)の名」というものがあり,その「真の名」がわかればその人・モノに魔法をかけることが可能です。
そこで,人びとは「真の名」をごく限られた身内以外には明かさず,「通り名(通称)」で暮らしています。ほかに「真の名」を知っているのは,子どものときに「真の名」をつけてくれた魔法使いだけ。
主人公も,「ゲド」が本名ですが,ふだんは「ハイタカ」という通り名で世間をわたっているのです。
***
アースシーにおける「真の名」というのは,私たちの社会の個人情報やパスワードみたいなものです。
住所や職場を明かすのは,信頼できる相手に対してだけ。悪意のある相手にその情報を渡すと,迷惑や危害をこうむる恐れがある。
相手の得体が知れない場合は,本名を明かすこともためらわれます。じっさい,ネット上では「本名」ではなく「通り名」を使うことも多い。
高校時代(1980年ころ)にはじめて『ゲド戦記』を読んだとき,「本名をふせて暮らすなんて,奇妙な世界だ」と思いました。「真の名と,通り名の使い分け」という感覚をのみこむのに,多少の理解力が必要でした。
でも,作品が書かれた当時は「奇妙」だったことが,今の世界ではかなり「ふつう」になっているのです。今の子どもたちがこの小説を読むときは,「真の名」「通り名」というニュアンスは,すぐにピンとくるはずです。
アースシーの世界は,一見「古代・中世風」ですが,じつは現代的な個人主義の社会です。
誰もが自分の本名(個人情報の基本の部分)を,近所の人にも,ほとんどの友人や親せきにも明かさず暮らすのです。魔法という「テクノロジー」のせいです。
「自分」以外に対し「壁」をつくって,人びとが生きている。「自分」以外に安心できる場所が,めったにない社会。
『ゲド戦記』の第1巻は,ゲドによる「自分さがし」の物語です。個人主義の社会で,少年期から青年期にかけてのゲドが,「自分は何者なのか」について理解を深めていく過程。
ネタバレになるので述べませんが,その後の多くの小説や映画などで模倣される,いろんな要素がこの作品にはあります。だからこの作品は「古典」なのです。
***
「個人情報」をしっかりと守りたいなら,アースシーのやり方を徹底することです。
社会生活のなかで,本名を使うことを原則としてやめ,「通り名」を使うことにする。
通り名は,複数持つことができて,職場用,コミュニティ用など,場面に応じて使い分ける。職場が変わったり,引っ越したりしたら,通り名を変えることにする。
本名は,親子や夫婦など,ごくかぎられた「信頼できる範囲」にしか明かさない。他人に本名を明かすのは,きわめて例外的な「信頼」の証となる。
本名や住所などの基本情報を知らせる相手は,役所や金融機関や郵便局などのごくかぎられた「信頼できる専門機関」だけ。まるでアースシーにおける「魔法使い」のような立場です。この専門機関には「本名」とあわせ「通り名」も登録する。
これらの機関は「信頼に足る」ために,きわめて厳格な情報管理の義務を負う。個人情報のデータベースは,巨額の金塊や現金がおさまった大金庫か,放射性物質が保管されている場所のように扱われる。
人びとは,「本当の住所」のほかに私書箱のような「仮の住所」を持つ。
ほとんどの通信はネット上で行われるが,モノのやり取りをするときは「仮の住所」で受け取る。「仮の住所」を管理する機関に依頼すれば,「本当の住所」に転送してもらうこともできる。「仮の住所」を管理するのも,厳格な義務を負う「専門機関」である。
それでも不安な人は,たとえば「仮の住所」から直接「本当の住所」に転送するのではなく,いったん別の「仮の住所」に転送して,そこから「本当の住所」に送ることにすればいい。
一般的なサービスの利用・買い物・就職は,「通り名」で行うことができる。「通り名」による債務不履行などの問題があったとき,業者は当局に申請して,該当する人物の「本名」を確認し,請求や訴訟を行う・・・・・・
***
このくらいやれば,個人情報は守られて,安心でしょう。
もちろん「専門機関」がどれだけ信頼できるのか,という問題はあります。だから「専門機関」を徹底的に監督する制度や,義務違反や過失あった場合のきびしい罰則も必要です。
このような社会になれば,多くの企業は「個人情報を蓄積して,顧客を囲いこんで・・・」などとは考えなくなるでしょう。
「個人情報のようなめんどうな危険物は,できれば取得したくない」と考えることでしょう。
企業への申込みをする際の記入シートに「本名や本当の住所を書かないでください。もし書いても,責任は持てません」という注意書きがされるようになるのです。
以上は妄想であり,悪い「冗談」といえます。
でも,近年の「個人情報流出事件」への騒ぎかたをみていると,社会は「アースシー」的な方向を真剣に模索しかねない,などとも思います。
つまり「めったに本名を明かさず生活すること」が一般的な社会。
とにかく,今の私たちは「真の名」を知られるのがイヤなのです。
これからの世の中を考えるうえで「そういうこともあるのでは?」という問いかけをもってみると,何かがわかってくるかもしれません。
(以上)
- 関連記事
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- 「世界大戦」の条件・ドイツという攪乱の中心
- 勉強会「これからの時代を生きるためのスキル」の講師を務めました2
- 勉強会「これからの時代を生きるためのスキル」の講師を務めました
2015年05月31日 (日) | Edit |
今年は,第二次世界大戦(1939~45)終結70年ということで,あの大戦について考えることが,あちこちで行われています。安倍政権の「戦後70年談話」なども,そのひとつ。
最近,世界大戦にかんする本をいくつか読みました。そこで知ったこと,考えたことを書きます。「日本にとって」というより,「世界にとっての,あの大戦」という視点で考えたいと思います。
1900年代前半は「世界大戦」の時代でした。
第一次世界大戦(1914~1918)と,第二次世界大戦(1939~1945)。
あのような世界を巻き込む大戦争は,どうして起きるのか?
「世界の強国のあいだの力の均衡」という視点は,とくに大事だと思います。
世界大戦の前提には,「世界の強国のあいだで,力の均衡が大きく変化する」ということがある。
つまり,
・これまでの世界で「ナンバー1」「1番手」といえる強国の圧倒的優位が崩れる一方,「2番手」の強国が勢いよく台頭してくる。
このような「ナンバー1」の国を「覇権国」ともいいます。
しかし,これだけでは大戦にはなりません。さらに,つぎのことも必要です。
・その「2番手」が,世界のなかでの自己のポジションに,強い不満を持っている。「自分たちは,本来の力にふさわしい評価や利権を得ていない」と感じている。
さらに,もうひとつあります。
・そのような「不満」が暴発するだけの強い社会的プレッシャーが生じたり,ある種の絶望感に2番手の国が陥ったりする。
以上をまとめると,
1.従来の覇権国の凋落と,2番手の台頭・追い上げ。
2.2番手の不満の高まり。
3.2番手における社会的プレッシャーや絶望感。
この3つが揃うと,「世界大戦前夜」です。
ここに,発火点となるような紛争や事件が重なると,「世界大戦」になってしまいます。
4.発火点になるような紛争・事件。
1.~4.が揃ったとき,1番手と2番手のあいだで戦争がはじまります。
2番手が,覇権国の立場をめざして1番手に戦いをはじめるのです。困難な戦いであっても,「戦えばなんとかなる」と,戦争をはじめてしまう。1番手・2番手には,それぞれの同盟国があるので,世界のおもな国ぐにが2つの陣営に分かれて戦うことになります。
世界大戦は,2番手の国による,それまでの覇権国(1番手)への「挑戦」というかたちをとる。
***
では,第一次世界大戦,第二次世界大戦において,上記でいう「1番手」「2番手」とは,具体的にどの国だったか?
これは,共通しています。2つの世界大戦の主要キャストは(国というレベルでみれば),同じです。
1番手・・・イギリスとアメリカ
2番手・・・ドイツ
【第一次世界大戦】
イギリス・アメリカ・フランス・ロシア・日本など(協商国また連合国)
VSドイツ・オーストリア・トルコなど(同盟国)
→連合国の勝利
【第二次世界大戦】
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など(連合国)
VSドイツ・日本・イタリアなど(同盟国)
→連合国の勝利
2つの世界大戦があった1900年代前半は,1800年代に圧倒的だったイギリスの優位が崩れ,アメリカ(アメリカ合衆国)が台頭した時代でした。
工業生産では,アメリカは1800年代末にはイギリスを抜いて世界一になりました。しかし,軍事力や科学技術,文化の面では,今のような強い力はありません。一方で,イギリスはあいかわらず世界に植民地を持ち,今までの蓄積にもとづくパワーが残っていました。
1900年代初頭は,覇権国が「イギリスからアメリカへ」と移っていく過渡期でした。
だから,「一番手は,イギリスとアメリカの両方」といえる状態だったのです。
そして,これら新旧の覇権国のあいだでは,深刻な対立はおきませんでした。両国は密接な関係にあり,多くの点で利害をともにしていました。また,それまでのアメリカは「孤立主義」的な外交で,ヨーロッパの情勢からは距離をおいていました。つまり「覇権」ということに,あまり興味を持っていなかったのです。
「1番手」がそのような状況のなか,1800年代末以降,あらたな「2番手」として台頭したのがドイツでした。
ドイツはイギリス,フランスよりはやや遅れて近代的な発展がはじまりました。たとえば,1870年ころに「ドイツ統一」がなされるまで,ドイツはいくつもの小王国に分かれていたのです。日本でいえば江戸時代の幕藩体制のような状態です。1870年というのは,日本の明治維新(1868年)と同じころです。
しかし,急速に発展して,第一次世界大戦の少し前には,イギリスを抜いてヨーロッパ最大の工業国になっていました(当時の世界最大の工業国は,アメリカ)。
※世界全体のGDPに占める主要国のシェア(%)
1820年 1870年 1913年
アメリカ 1.8 8.9 19.1
イギリス 5.2 9.1 8.3
ドイツ ― 6.5 8.8
フランス 5.5 6.5 5.3
日 本 ― 2.3 2.6
(アンガス・マディソン『経済統計で見る世界経済2000年史』より)
しかしドイツは(指導者も国民も),世界での自分たちの地位に不満を持っていました。
ドイツ近現代史の専門家・木村靖二によれば,こういうことです。
《(1910年ころの)ドイツは統一後三〇年にして,軍事・工業大国へとのし上が(った。そして,)既存の列強からそれにふさわしい待遇を受けることを期待し,「陽の当たる場所」を譲られることを当然だと自負していた。既存列強の対応が期待を裏切ると,ドイツはその理由を将来性に満ちた,若々しいドイツに対する老大国の「妬み」とみた・・・(第一次世界大戦の)開戦勅書にも「敵はドイツの成果を妬んでいる」という一句がある》(木村靖二ほか『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論社,37ページ)
以上,第一次世界大戦の前夜には,さきほど述べた「世界大戦にいたる条件」のうちの「1.従来の覇権国の凋落と2番手の台頭」があり,「2.2番手の不満」もあったわけです。
では,「3.2番手におけるプレッシャーや絶望感」は,どうだったのか?
これは,ややはっきりしません。
しかし,さきほど引用した木村靖二によれば,第一次世界大戦前夜において,列強の指導者たちが《将来における列強としての地位と順調な経済発展を維持するために,確実な保証を得なければならないという圧力を感じていた。・・・具体的な対立というより,閉塞感や未来への不安(があった)》(木村『二つの世界大戦』山川出版社,10ページ)ということです。そして,その背景となる国際情勢や,国内での労働運動の高まりなどについて述べています。
とくに,ドイツの指導者は「閉塞感」をつよく感じていたのでしょう。
そんな中,1914年にサラエボという都市(現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)で,オーストリア皇太子がセルビア人青年によって射殺されるという「サラエボ事件」が起きます。
セルビアは当時,オーストリアの支配下にありました。その支配への反発から「サラエボ事件」は起きたのでした。
オーストリアはセルビアに侵攻し,戦争がはじまりました。セルビアの反抗を鎮圧しようとしたのです。
当時のオーストリアは,ドイツと同盟関係にありました。
ドイツは,オーストリアを全面支持。
一方,セルビアのあるバルカン半島への進出を狙うロシアは,反オーストリア・ドイツでした。
当時のロシアはフランスと同盟を結んでおり,イギリスもその陣営に属していました。
オーストリアのセルビア侵攻で,ヨーロッパ列強のあいだの緊張関係は一挙に高まりました。
「サラエボ事件→セルビア侵攻」は,上記の「大戦が起きる条件」のなかの「4.発火点となる紛争・事件」ということになります。
しかし,セルビアでの戦争は,「地域紛争」にすぎません。
このあと,さらに大きな飛躍によって,「世界大戦」はおこりました。
それは,ドイツがベルギーを占領し,そこを拠点にフランスへ大軍で攻め入ったことです。
ドイツとフランスは,深刻な国境をめぐる対立をかかえるなど,互いに「仮想敵国」といえる関係にありました。
そこで,セルビアでの戦争以降,緊張が高まる中,ドイツの側では「フランスに攻められる前に,こちらから先制攻撃をしかけて撃破してしまえ」という考えに至ったのです。
ドイツでは,何年も前からフランス(およびロシア)との戦争の計画を練っていました。
ドイツによるベルギーやフランスへの侵攻によって,イギリスもドイツと全面的に戦うことになりました。こうして,サラエボ事件以来の地域紛争は,「大戦」に発展したのです。
それにしても,ドイツの選択は,今の私たちからみると,ずいぶん飛躍しているようにも思えます。
しかし当時は,戦争に対する心理的ハードルは,今よりもずっと低かったのです。国をあげて戦い,凄惨な破壊を生む「総力戦」のイメージがなかったからです。そのイメージは,世界大戦のあとに普及したものです。
だから,当時のドイツの指導者は,戦争を「既存の秩序を破壊し,ドイツが覇権国となるチャンス」ととらえたのです。今の自分たちの強大な軍事力をもってすれば,フランス,ロシア,そしてイギリスとの戦争に勝てるはずだ。もちろん議論はありましたが,「戦争」派がドイツでは実権を握ったのです。
しかし,ドイツの思惑どおりにはいきませんでした。戦争は泥沼化し,大戦の後半にはアメリカも連合国側で参戦。ドイツを中心とする同盟国側は敗北したのでした。
***
第二次世界大戦は,どうだったのか?
第二次世界大戦においても,戦争の中心となった「2番手」は,ドイツでした。第二次世界大戦は「第一次世界大戦のリベンジ・マッチ」といえる面があります。
第一次世界大戦に,ドイツは敗れました。その結果,経済・社会は大混乱に陥り,国民は苦しみました。
そのドイツにイギリスなどの戦勝国は,きびしい要求をつきつけました。「莫大な賠償金を支払え」「二度と戦争ができないよう,軍備を大幅に制限する」といったことです。
その後1920年代には,ドイツは一定の復興をなしとげ,安定した時期もありました。ドイツの産業は戦前の水準を取り戻し,ふたたびヨーロッパでナンバー1となりました。
しかし,1929年に起こったアメリカ発の金融恐慌(大恐慌)が,ヨーロッパに波及すると,経済はまた大混乱となったのです。
そんな中,人びとの支持を集め,1930年代前半に政権を獲得したのが,ヒトラーでした。彼は人びとに愛国心を訴え,「強大なドイツをつくるために立ちあがろう」と呼びかけたのでした。彼のメッセージは,当時のドイツ国民に響くものがあったのです。
ヒトラーがめざしたのは,「イギリスにリベンジすること」「ドイツをヨーロッパ最強の覇権国にすること」でした。
ヒトラーは大胆な経済政策に成功し,混乱をみごとに収拾しました。その実績もあって,彼は独裁権力を固め,1930年代半ば以降は,かねてからの「目標」の実現に向け動きはじめます。
まず,チェコやオーストリアといったドイツ周辺の国に侵攻。のちにはポーランドを占領し,さらにはフランスなどの西ヨーロッパ諸国にも攻め入って,ほぼ制圧してしまいました。この動きのなかで,イギリス・アメリカとの戦争もはじまり,第二次世界大戦となったのです。
このようなドイツの動きに,日本も同調しました。「遅れて発展した列強」として,日本もまたドイツと同様の不満を,国際社会に対して抱いていたのです。1941年末からは日米戦争も始まり,大戦は文字通り「世界」規模のものとなりました。
第二次世界大戦がはじまった経緯のほうが,第一次世界大戦よりやや知られているので,非常にざっくりした説明になりました。
とにかくここでも「大戦が始まる条件」の1.~4.はそろっています。「2番手」ドイツの復興,その不満や恨み,大恐慌以降の混乱,ヒトラーが近隣諸国に対し行った侵攻・・・
第二次世界大戦で,ドイツ・日本などの同盟国側は敗北し,壊滅状態となりました。
ドイツは東西に分割され,アメリカとソ連(ロシア)が対立する「冷戦時代」には,西ドイツはアメリカなどの「西側陣営」に,東ドイツはソ連などの「東側」に属しました。
しかし,1990年代初頭にソ連が崩壊し,冷戦が終結したことにより,東西ドイツは統一され,今日に至っています。
***
以上をみると,ドイツという国は「第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも中心的な存在だった」ということです。
近現代史において,ドイツは世界を攪乱(かくらん)する大きな要因だったのです。
もちろんこれは「ドイツがすべて悪い」というのではありません。ほかの列強だって,当然ながら世界大戦の勃発に影響をあたえています。「イギリスやアメリカがドイツ(や日本)を,追い詰め挑発した」という面を重視する説もあります。
しかし,ドイツが2つの大戦の勃発に関し,重要な役回りを演じたことは否定できません。
とくに,第一次世界大戦における「ドイツの責任」については,かつては専門家のあいだでもはっきりしないところがあったのです。しかし研究がすすんだ結果,現在では通説になっているようです。つまり「世界大戦が起きるうえで,ドイツの判断や行動が決定的な役割を果たした」ということです。そして,ドイツの行動の背景には「覇権への野望」があったのです。(木村『第一次世界大戦』ちくま新書,27~29ページ など)
第二次世界大戦については「ヒトラー(ナチス・ドイツ)が中心となっておこした戦争」という見方が,ずっと有力です。「ヒトラーだけが悪いのではない」という見解もありますが,ヒトラーが大戦の中心であったことじたいは,まず異論がないわけです。
***
では,今の世界はどうなのでしょうか?
つまり,1900年代前半のドイツのように「世界を攪乱する要因」となり得る存在はあるのでしょうか? 「1番手」アメリカに以前ほどの勢いがなくなってきたことは,たしかのようです。「世界大戦の前提条件」の1.は,満たしそうです。では「台頭する2番手」がいるとしたら,どこか?
多くの人は「中国やロシアなのでは」と思うかもしれません。
たしかに,今の中国は台頭する「2番手」です。国の経済規模(GDP)でみても,2010年代初頭に日本を抜いて世界2位になりました。アメリカとの比較では,中国のGDPはアメリカの半分程度にまでなっています。しかし,経済の発展度や生産性を示す「1人あたりGDP」でみると,中国はアメリカの9分の1~8分の1といったところ。
軍事力や科学技術などでも,アメリカとの差はまだまだ大きいというのが,一般的な見方でしょう(その格差が,1人あたりGDPにもあらわれている)。だから,「2番手」中国による「1番手」アメリカへの挑戦の可能性は,さしせまったものではない。もちろん,10~20年先になるとわかりませんが。
世界大戦の当時の,ドイツの1人あたりGDPは,イギリス,アメリカと比較して「対等」な,その時代における先進国レベルになっていました。今の中国は,それとは大きく異なるのです。
ロシアはというと,GDPはアメリカの8分の1(日本の半分以下)です。「世界の覇権国」には程遠いレベル。
そんな中「世界を攪乱する要因」のひとつとして,あらためてドイツが浮上してきている……そんな見方をする識者がいます(たとえば,次回の記事で紹介する,フランス人エマニュエル・トッドなど)。
1990年代初頭の東西ドイツ合併によって,ドイツは分割前の規模をほぼ回復しました。
その人口は現在8300万人。イギリス(6300万人),フランス(6400万人)よりもかなり大きいです。
さらにドイツのGDPは,今やイギリスやフランスの1.3~1.4倍で,ヨーロッパの中では抜きんでています。1人あたりGDPでも,イギリス,フランスを上回っています。
これは,世界大戦の時期のドイツが,ヨーロッパで占めていた地位に似ています。
このような国が,ある種の「覇権」を志向すれば,世界情勢に大きな影響をあたえるでしょう。
じっさい,少なくともここ数年のドイツは「ヨーロッパでの勢力拡大」と「アメリカ離れ」の動きを強めている,という見方があるのです。
このような「現在のドイツ」については,また別の機会に。
関連記事:ざっくり第一次世界大戦
二番手はどうなった?
ヒトラーについて考える
ヒトラーについて考える(年表)
格差と戦争
(以上)
最近,世界大戦にかんする本をいくつか読みました。そこで知ったこと,考えたことを書きます。「日本にとって」というより,「世界にとっての,あの大戦」という視点で考えたいと思います。
1900年代前半は「世界大戦」の時代でした。
第一次世界大戦(1914~1918)と,第二次世界大戦(1939~1945)。
あのような世界を巻き込む大戦争は,どうして起きるのか?
「世界の強国のあいだの力の均衡」という視点は,とくに大事だと思います。
世界大戦の前提には,「世界の強国のあいだで,力の均衡が大きく変化する」ということがある。
つまり,
・これまでの世界で「ナンバー1」「1番手」といえる強国の圧倒的優位が崩れる一方,「2番手」の強国が勢いよく台頭してくる。
このような「ナンバー1」の国を「覇権国」ともいいます。
しかし,これだけでは大戦にはなりません。さらに,つぎのことも必要です。
・その「2番手」が,世界のなかでの自己のポジションに,強い不満を持っている。「自分たちは,本来の力にふさわしい評価や利権を得ていない」と感じている。
さらに,もうひとつあります。
・そのような「不満」が暴発するだけの強い社会的プレッシャーが生じたり,ある種の絶望感に2番手の国が陥ったりする。
以上をまとめると,
1.従来の覇権国の凋落と,2番手の台頭・追い上げ。
2.2番手の不満の高まり。
3.2番手における社会的プレッシャーや絶望感。
この3つが揃うと,「世界大戦前夜」です。
ここに,発火点となるような紛争や事件が重なると,「世界大戦」になってしまいます。
4.発火点になるような紛争・事件。
1.~4.が揃ったとき,1番手と2番手のあいだで戦争がはじまります。
2番手が,覇権国の立場をめざして1番手に戦いをはじめるのです。困難な戦いであっても,「戦えばなんとかなる」と,戦争をはじめてしまう。1番手・2番手には,それぞれの同盟国があるので,世界のおもな国ぐにが2つの陣営に分かれて戦うことになります。
世界大戦は,2番手の国による,それまでの覇権国(1番手)への「挑戦」というかたちをとる。
***
では,第一次世界大戦,第二次世界大戦において,上記でいう「1番手」「2番手」とは,具体的にどの国だったか?
これは,共通しています。2つの世界大戦の主要キャストは(国というレベルでみれば),同じです。
1番手・・・イギリスとアメリカ
2番手・・・ドイツ
【第一次世界大戦】
イギリス・アメリカ・フランス・ロシア・日本など(協商国また連合国)
VSドイツ・オーストリア・トルコなど(同盟国)
→連合国の勝利
【第二次世界大戦】
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など(連合国)
VSドイツ・日本・イタリアなど(同盟国)
→連合国の勝利
2つの世界大戦があった1900年代前半は,1800年代に圧倒的だったイギリスの優位が崩れ,アメリカ(アメリカ合衆国)が台頭した時代でした。
工業生産では,アメリカは1800年代末にはイギリスを抜いて世界一になりました。しかし,軍事力や科学技術,文化の面では,今のような強い力はありません。一方で,イギリスはあいかわらず世界に植民地を持ち,今までの蓄積にもとづくパワーが残っていました。
1900年代初頭は,覇権国が「イギリスからアメリカへ」と移っていく過渡期でした。
だから,「一番手は,イギリスとアメリカの両方」といえる状態だったのです。
そして,これら新旧の覇権国のあいだでは,深刻な対立はおきませんでした。両国は密接な関係にあり,多くの点で利害をともにしていました。また,それまでのアメリカは「孤立主義」的な外交で,ヨーロッパの情勢からは距離をおいていました。つまり「覇権」ということに,あまり興味を持っていなかったのです。
「1番手」がそのような状況のなか,1800年代末以降,あらたな「2番手」として台頭したのがドイツでした。
ドイツはイギリス,フランスよりはやや遅れて近代的な発展がはじまりました。たとえば,1870年ころに「ドイツ統一」がなされるまで,ドイツはいくつもの小王国に分かれていたのです。日本でいえば江戸時代の幕藩体制のような状態です。1870年というのは,日本の明治維新(1868年)と同じころです。
しかし,急速に発展して,第一次世界大戦の少し前には,イギリスを抜いてヨーロッパ最大の工業国になっていました(当時の世界最大の工業国は,アメリカ)。
※世界全体のGDPに占める主要国のシェア(%)
1820年 1870年 1913年
アメリカ 1.8 8.9 19.1
イギリス 5.2 9.1 8.3
ドイツ ― 6.5 8.8
フランス 5.5 6.5 5.3
日 本 ― 2.3 2.6
(アンガス・マディソン『経済統計で見る世界経済2000年史』より)
しかしドイツは(指導者も国民も),世界での自分たちの地位に不満を持っていました。
ドイツ近現代史の専門家・木村靖二によれば,こういうことです。
《(1910年ころの)ドイツは統一後三〇年にして,軍事・工業大国へとのし上が(った。そして,)既存の列強からそれにふさわしい待遇を受けることを期待し,「陽の当たる場所」を譲られることを当然だと自負していた。既存列強の対応が期待を裏切ると,ドイツはその理由を将来性に満ちた,若々しいドイツに対する老大国の「妬み」とみた・・・(第一次世界大戦の)開戦勅書にも「敵はドイツの成果を妬んでいる」という一句がある》(木村靖二ほか『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論社,37ページ)
以上,第一次世界大戦の前夜には,さきほど述べた「世界大戦にいたる条件」のうちの「1.従来の覇権国の凋落と2番手の台頭」があり,「2.2番手の不満」もあったわけです。
では,「3.2番手におけるプレッシャーや絶望感」は,どうだったのか?
これは,ややはっきりしません。
しかし,さきほど引用した木村靖二によれば,第一次世界大戦前夜において,列強の指導者たちが《将来における列強としての地位と順調な経済発展を維持するために,確実な保証を得なければならないという圧力を感じていた。・・・具体的な対立というより,閉塞感や未来への不安(があった)》(木村『二つの世界大戦』山川出版社,10ページ)ということです。そして,その背景となる国際情勢や,国内での労働運動の高まりなどについて述べています。
とくに,ドイツの指導者は「閉塞感」をつよく感じていたのでしょう。
そんな中,1914年にサラエボという都市(現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)で,オーストリア皇太子がセルビア人青年によって射殺されるという「サラエボ事件」が起きます。
セルビアは当時,オーストリアの支配下にありました。その支配への反発から「サラエボ事件」は起きたのでした。
オーストリアはセルビアに侵攻し,戦争がはじまりました。セルビアの反抗を鎮圧しようとしたのです。
当時のオーストリアは,ドイツと同盟関係にありました。
ドイツは,オーストリアを全面支持。
一方,セルビアのあるバルカン半島への進出を狙うロシアは,反オーストリア・ドイツでした。
当時のロシアはフランスと同盟を結んでおり,イギリスもその陣営に属していました。
オーストリアのセルビア侵攻で,ヨーロッパ列強のあいだの緊張関係は一挙に高まりました。
「サラエボ事件→セルビア侵攻」は,上記の「大戦が起きる条件」のなかの「4.発火点となる紛争・事件」ということになります。
しかし,セルビアでの戦争は,「地域紛争」にすぎません。
このあと,さらに大きな飛躍によって,「世界大戦」はおこりました。
それは,ドイツがベルギーを占領し,そこを拠点にフランスへ大軍で攻め入ったことです。
ドイツとフランスは,深刻な国境をめぐる対立をかかえるなど,互いに「仮想敵国」といえる関係にありました。
そこで,セルビアでの戦争以降,緊張が高まる中,ドイツの側では「フランスに攻められる前に,こちらから先制攻撃をしかけて撃破してしまえ」という考えに至ったのです。
ドイツでは,何年も前からフランス(およびロシア)との戦争の計画を練っていました。
ドイツによるベルギーやフランスへの侵攻によって,イギリスもドイツと全面的に戦うことになりました。こうして,サラエボ事件以来の地域紛争は,「大戦」に発展したのです。
それにしても,ドイツの選択は,今の私たちからみると,ずいぶん飛躍しているようにも思えます。
しかし当時は,戦争に対する心理的ハードルは,今よりもずっと低かったのです。国をあげて戦い,凄惨な破壊を生む「総力戦」のイメージがなかったからです。そのイメージは,世界大戦のあとに普及したものです。
だから,当時のドイツの指導者は,戦争を「既存の秩序を破壊し,ドイツが覇権国となるチャンス」ととらえたのです。今の自分たちの強大な軍事力をもってすれば,フランス,ロシア,そしてイギリスとの戦争に勝てるはずだ。もちろん議論はありましたが,「戦争」派がドイツでは実権を握ったのです。
しかし,ドイツの思惑どおりにはいきませんでした。戦争は泥沼化し,大戦の後半にはアメリカも連合国側で参戦。ドイツを中心とする同盟国側は敗北したのでした。
***
第二次世界大戦は,どうだったのか?
第二次世界大戦においても,戦争の中心となった「2番手」は,ドイツでした。第二次世界大戦は「第一次世界大戦のリベンジ・マッチ」といえる面があります。
第一次世界大戦に,ドイツは敗れました。その結果,経済・社会は大混乱に陥り,国民は苦しみました。
そのドイツにイギリスなどの戦勝国は,きびしい要求をつきつけました。「莫大な賠償金を支払え」「二度と戦争ができないよう,軍備を大幅に制限する」といったことです。
その後1920年代には,ドイツは一定の復興をなしとげ,安定した時期もありました。ドイツの産業は戦前の水準を取り戻し,ふたたびヨーロッパでナンバー1となりました。
しかし,1929年に起こったアメリカ発の金融恐慌(大恐慌)が,ヨーロッパに波及すると,経済はまた大混乱となったのです。
そんな中,人びとの支持を集め,1930年代前半に政権を獲得したのが,ヒトラーでした。彼は人びとに愛国心を訴え,「強大なドイツをつくるために立ちあがろう」と呼びかけたのでした。彼のメッセージは,当時のドイツ国民に響くものがあったのです。
ヒトラーがめざしたのは,「イギリスにリベンジすること」「ドイツをヨーロッパ最強の覇権国にすること」でした。
ヒトラーは大胆な経済政策に成功し,混乱をみごとに収拾しました。その実績もあって,彼は独裁権力を固め,1930年代半ば以降は,かねてからの「目標」の実現に向け動きはじめます。
まず,チェコやオーストリアといったドイツ周辺の国に侵攻。のちにはポーランドを占領し,さらにはフランスなどの西ヨーロッパ諸国にも攻め入って,ほぼ制圧してしまいました。この動きのなかで,イギリス・アメリカとの戦争もはじまり,第二次世界大戦となったのです。
このようなドイツの動きに,日本も同調しました。「遅れて発展した列強」として,日本もまたドイツと同様の不満を,国際社会に対して抱いていたのです。1941年末からは日米戦争も始まり,大戦は文字通り「世界」規模のものとなりました。
第二次世界大戦がはじまった経緯のほうが,第一次世界大戦よりやや知られているので,非常にざっくりした説明になりました。
とにかくここでも「大戦が始まる条件」の1.~4.はそろっています。「2番手」ドイツの復興,その不満や恨み,大恐慌以降の混乱,ヒトラーが近隣諸国に対し行った侵攻・・・
第二次世界大戦で,ドイツ・日本などの同盟国側は敗北し,壊滅状態となりました。
ドイツは東西に分割され,アメリカとソ連(ロシア)が対立する「冷戦時代」には,西ドイツはアメリカなどの「西側陣営」に,東ドイツはソ連などの「東側」に属しました。
しかし,1990年代初頭にソ連が崩壊し,冷戦が終結したことにより,東西ドイツは統一され,今日に至っています。
***
以上をみると,ドイツという国は「第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも中心的な存在だった」ということです。
近現代史において,ドイツは世界を攪乱(かくらん)する大きな要因だったのです。
もちろんこれは「ドイツがすべて悪い」というのではありません。ほかの列強だって,当然ながら世界大戦の勃発に影響をあたえています。「イギリスやアメリカがドイツ(や日本)を,追い詰め挑発した」という面を重視する説もあります。
しかし,ドイツが2つの大戦の勃発に関し,重要な役回りを演じたことは否定できません。
とくに,第一次世界大戦における「ドイツの責任」については,かつては専門家のあいだでもはっきりしないところがあったのです。しかし研究がすすんだ結果,現在では通説になっているようです。つまり「世界大戦が起きるうえで,ドイツの判断や行動が決定的な役割を果たした」ということです。そして,ドイツの行動の背景には「覇権への野望」があったのです。(木村『第一次世界大戦』ちくま新書,27~29ページ など)
第二次世界大戦については「ヒトラー(ナチス・ドイツ)が中心となっておこした戦争」という見方が,ずっと有力です。「ヒトラーだけが悪いのではない」という見解もありますが,ヒトラーが大戦の中心であったことじたいは,まず異論がないわけです。
***
では,今の世界はどうなのでしょうか?
つまり,1900年代前半のドイツのように「世界を攪乱する要因」となり得る存在はあるのでしょうか? 「1番手」アメリカに以前ほどの勢いがなくなってきたことは,たしかのようです。「世界大戦の前提条件」の1.は,満たしそうです。では「台頭する2番手」がいるとしたら,どこか?
多くの人は「中国やロシアなのでは」と思うかもしれません。
たしかに,今の中国は台頭する「2番手」です。国の経済規模(GDP)でみても,2010年代初頭に日本を抜いて世界2位になりました。アメリカとの比較では,中国のGDPはアメリカの半分程度にまでなっています。しかし,経済の発展度や生産性を示す「1人あたりGDP」でみると,中国はアメリカの9分の1~8分の1といったところ。
軍事力や科学技術などでも,アメリカとの差はまだまだ大きいというのが,一般的な見方でしょう(その格差が,1人あたりGDPにもあらわれている)。だから,「2番手」中国による「1番手」アメリカへの挑戦の可能性は,さしせまったものではない。もちろん,10~20年先になるとわかりませんが。
世界大戦の当時の,ドイツの1人あたりGDPは,イギリス,アメリカと比較して「対等」な,その時代における先進国レベルになっていました。今の中国は,それとは大きく異なるのです。
ロシアはというと,GDPはアメリカの8分の1(日本の半分以下)です。「世界の覇権国」には程遠いレベル。
そんな中「世界を攪乱する要因」のひとつとして,あらためてドイツが浮上してきている……そんな見方をする識者がいます(たとえば,次回の記事で紹介する,フランス人エマニュエル・トッドなど)。
1990年代初頭の東西ドイツ合併によって,ドイツは分割前の規模をほぼ回復しました。
その人口は現在8300万人。イギリス(6300万人),フランス(6400万人)よりもかなり大きいです。
さらにドイツのGDPは,今やイギリスやフランスの1.3~1.4倍で,ヨーロッパの中では抜きんでています。1人あたりGDPでも,イギリス,フランスを上回っています。
これは,世界大戦の時期のドイツが,ヨーロッパで占めていた地位に似ています。
このような国が,ある種の「覇権」を志向すれば,世界情勢に大きな影響をあたえるでしょう。
じっさい,少なくともここ数年のドイツは「ヨーロッパでの勢力拡大」と「アメリカ離れ」の動きを強めている,という見方があるのです。
このような「現在のドイツ」については,また別の機会に。
関連記事:ざっくり第一次世界大戦
二番手はどうなった?
ヒトラーについて考える
ヒトラーについて考える(年表)
格差と戦争
(以上)
- 関連記事
2015年05月25日 (月) | Edit |
2014年4月23日の記事で,「これからの時代を生きるためのスキル」というテーマで私が講師を務めた勉強会のことについて述べました。
関連記事: 勉強会「これからの時代を生きるためのスキル」2
そのときお話しした「8つのスキル」の中に「実用的なわかりやすい文章が書ける」という項目があります。
ほかに「コンピュータといっしょに働くスキル」などの項目もあげましたが,「文章」に関することは,私自身ずっと関心を持って追求してきたことであり,特別な思いがあります。
今回は,私なりの「文章論」を,ある程度まとまったかたちで書いてみました(上記の勉強会で,参考資料としてお配りしたものです)。
***
実用的なわかりやすい文章を書くスキル
今の時代は,文章によるコミュニケーションがたいへん重要になっています。メールやSNS,プレゼン資料,さまざまな報告書,就職活動での自己PR…
「実用的なわかりやすい文章が書ける」ことは,これからの時代の重要なスキルです。仕事や人生に大きな影響をあたえる,切実な能力といってもいいでしょう。
しかし,「書くことが得意」な人は,じつは少ないです。パソコンや英語が得意な人より少ないかもしれません。多くの人が「文章を書くこと」に苦戦しています。
テーマを与えられても,書くことが出てこない。頭に浮かぶことをどう表現したらいいかわからない。書いても伝わらず「これはどういうこと?」と聞かれる…
通り一遍の文ならともかく,自分の想いや思考を踏み込んで述べたり,込み入った事実を文章で過不足なく説明したりするのは,やはり難しいことです。でも,そんな「踏み込んだ文章」を書けるなら,人と深いコミュニケーションをとるのに役立ちます。
そのスキルは世の中を渡っていく上で,大事な「道具」になるはずです。
文章力の目安となる,「1000文字」を書く力
「文章を書くスキル」で,多くの人がまず目標にすべきなのは「千~千数百文字の,一定のメッセージといくつかの情報で構成された,わかりやすい実用的な文章を書く力」を身につけることです。「千~千数百文字」は,おおまかに「1000文字」程度といってもいいでしょう。
その長さが不自由なく書けることは,文章力のだいじな目安です。「1000文字」を圧縮したり,いくつも積みかさねたりすることで,もっと短い文章も長い文章も書けるからです。
「1000文字」というのは,さまざまな文章を構成する「基本単位」なのです。「基本単位」が10個集まると,まとまったレポートになります。100個集まれば,1冊の本になります。
そして,文章が書けるようになると,話すのも上手になります。表現が豊かになり,構成力も身につくからです。
その感覚は,他人の表現を理解するときにも役立つので,聞く力,読む力も向上します。また,書くことは考えを整理し構築していく作業です。当然ながら,書くことで考える力もつきます。
上達するには,人に読んでもらってアドバイスを受ける
文章は書き続けないと,上達しません。ではどうしたら,書き続けることができるのでしょうか?
一番大切なのは,「読んでくれる人をみつけること」です。人に読んでもらうあてのない文章を書くのは,むなしいです。だから,教本を買ってきて文章を独学しようとしても,たいていは続きません。日記が三日坊主で終わるのといっしょです。
さらに,できれば書いたものに対する感想やアドバイスをもらうといいでしょう。
私(そういち)は幸運でした。若いころに,書いたものを読んで指導してくれる先生に出会えたからです。
月1回ほどのペースでレポートを書き,先生にお会いしてアドバイスを受けていました。また,一緒に勉強する友だちが1人いて,書いたものをみせあっていました。
それを3~4年続けたことで,文章力の基礎を身につけたのです。それだけに,「文章を読んでもらって指導を受けること」の大切さを実感しています。
しかし,「先生」をみつけるのは難しい。そこで…
とはいえ,多くの人にとって,身近にそのような「先生」をみつけるのは難しいです。文章について適切なアドバイスができる人は,そうはいません。いたとしても,指導をお願いできるとは限りません。
そこで私自身が,誰にでもアクセスできる「文章指導の先生」になる,ということも考えています。ブログやメールを使った「通信教育」による,文章講座ができないかと。
これは,「書く力を身につけたいけど,身近に先生がいない」という人が学ぶためのお手伝いをする,ということです。
かつて先生が私にしてくださったことを,今度は私がするのです。きちんとした指導力さえあれば,そのような存在は世の中の役に立つはずです。
「文章のセンセイ」としての私
私そういちの「文章のセンセイ」としての特長は,以下のとおりです。
1.商業出版の著作がある「プロの技量」を持つ書き手である。
著作には『四百文字の偉人伝』『自分で考えるための勉強法』(以上ディスカヴァー21刊,電子書籍,アマゾンキンドルなどで発売中),『健康と環境』(小峰書店刊,共著)がある。
2.ここ数年キャリアカウンセラーとしても活動しており,のべ数百人におよぶ相談者の方たちに文章やプレゼンの指導を行ってきた。
3.大企業,官庁から,起業,NPO,文化・研究活動まで,社会のさまざまな場面での活動経験がある。つまり,さまざまな場における「読み手」や「表現のあり方」をイメージできる。
これは,以下の経歴から言えると思っています。
私そういちは,1965年生まれ。早稲田大学法学部を卒業後,運輸関係の会社に勤務し官庁への許認可申請,グループ会社の内部監査,法務コンプライアンス,株主総会などの業務を担当(たくさんの文書にまみれた仕事でした)。
その傍ら,学校の先生や大学教員などが参加する教育研究のNPOに参加し,おもに社会科関連の講演や著作の活動を行ってきた。その後十数年勤めた同社を退職し,「独立系投信」という金融系の会社を起業するが,撤退。ここ数年はキャリアカウンセラーとして若い人の就職の相談に乗る仕事も行っている。
「よい文章」の4つのポイント
それでは,私そういちの「文章講座」がめざす「よい文章」とはどんなものなのでしょうか? それを支える技術や精神は何か? これには,4つのポイントがあります。
1.「よい文章」とは,シンプルでわかりやすく,正確な文章である。
それが「実用的」ということ。
芸術的な文章というのもありますが,多くの人がまずめざすべきなのは,実用的な文章です。
学校教育では,そのような文章の教育にあまり力を入れていません。国語や作文の授業は,あいかわらず文芸中心です。ある種の凝った美文や芸術的な表現を追求する傾向があります。
大学の授業で書くレポートも,「シンプルにわかりやすく書くこと」のトレーニングにはならないことが多いです。学術論文をお手本にしているせいでしょう。学術論文は,多くの人からみれば,たいていはガチガチした読みにくい文章です。
2.「よい文章」には,核となる,伝えたいメッセージがある。
まず,自分のアタマにある「メッセージ」を明確にしないといけません。
そのメッセージをあらわす「自分なりの表現・コトバ」がみつかったら,しめたもの。その「核」さえあれば,文章は書けます。なければ,いい文章にはならない。
3.その「メッセージ」を伝えるため,ふさわしい・程よい情報や表現を盛り込む。
抽象的すぎてはいけない。かといって,具体的に細かいことを書けばいいというものでもない。情報が少なすぎてはいけない。情報過多もいけない。「読者のアタマにどんなイメージ・像を浮かばせるか」を常に意識しないといけません。「抽象性・具体性」「情報量」のさじジ加減を考えましょう。
文章は,「言語によって,読者に自分の認識(思考や感情など)を追体験させるため」に書くのです。「認識」とは「イメージ・像」といってもいい。
書き手は「どんなイメージ・像を読者のアタマに浮かばせたいか」を考えなくてはいけません。「抽象性・具体性」はそれを考える上でのカギです。
4.「押しつけ」を感じさせないだけの論理性をもたせる。
逆にいえば,文章の「論理性」とは「読者に押しつけを感じさせない」ということです。そのためには,「論理の飛躍」をできるだけ排除しないといけません。
不注意に書いた文章には「飛躍」が多いです。それは読者には「押しつけ」と映ります。そうならないためには,ある結論にもっていくとき,つねに必要な前提や情報を盛り込んでいくことです。
「4つのポイント」はどう位置づけられるか
以上をまとめると,
1.シンプルに,わかりやすく,正確に。
2.核となるメッセージ。
3.程よい抽象性・具体性と情報量。
4.押しつけを感じさせない論理性。
重要なのは,以上4つの大まかな視点です。
具体的なコツや方法論は,上記1~4の各論になります。たとえば,「ひとつの文に多くのことを盛り込まない」「主語を述語の関係を意識する」といったことは,「1.わかりやすく,正確に」の各論です。
世の中には多くの「文章の書き方」の本があります。1~4のポイントは,そこで論じられていることをほぼカバーしているはずです。
また,「よい文章とは」というほかに,「文章の上達の方法論」という切り口もあります。たとえば,上達のためには「まず日記的に短い文章を書いてみること」や「よく推敲すること」が大切だ,といった話です。これまでに述べた「誰かに読んでもらう」というのも,そうです。
しかし,この4つのポイントは,そうした「上達論」ではなく,文章論の「本体」の話です。スポーツで例えれば,「どんなフォームが正しいか,そのフォームで大切なことは何か」についてです。これに対し「上達論」とは,「そのフォームを身につけるためにどんな練習を積むべきか」ということです。
多くの文章論に不足している「体系性」と「論理性」
文章論や文章講座の中には,上記の4つのポイントのような大きな見方と,細かい具体的なノウハウを同列に論じているものもあります。「本体」(何があるべき姿か)と「上達論」(どう練習すべきか)がごっちゃになっていたり,どちらかが欠けていたりすることもあります。あるいは,1~4のどれかに関わる,ある一面だけを強化することで文章力を上げようとするものもあります。
それでは「体系性や論理性が足りない」と言わざるを得ません。
しかし本来は,初心者がきちんと力をつけていくためには,体系的なアプローチが必要です。さまざまな側面の事柄について整理しながら,ひとつひとつ押さえていかないといけないのです。
私そういちが講座を行うときは,文章論の体系や論理をしっかりとふまえながら,マンツーマンでそれぞれの方に即した指導をしていくつもりです。
つまり,「シンプルであるか」「適切な抽象性と情報量になっているか」「メッセージが伝わるか」「飛躍や押しつけはないか」等の系統だった観点で,各人が書かれたものを詳しく検討し,問題点があれば「どう書いたらよいか」を具体的に示していく。そんな文章の添削指導を行っていきたいと思っています。それを通して,必要に応じ「ものごとをどう考えるか」「どう勉強していくか」にも触れていきます。
以上のような指導が,文章講座・文章教育には,必要だと考えるのです。
(以上)
関連記事: 勉強会「これからの時代を生きるためのスキル」2
そのときお話しした「8つのスキル」の中に「実用的なわかりやすい文章が書ける」という項目があります。
ほかに「コンピュータといっしょに働くスキル」などの項目もあげましたが,「文章」に関することは,私自身ずっと関心を持って追求してきたことであり,特別な思いがあります。
今回は,私なりの「文章論」を,ある程度まとまったかたちで書いてみました(上記の勉強会で,参考資料としてお配りしたものです)。
***
実用的なわかりやすい文章を書くスキル
今の時代は,文章によるコミュニケーションがたいへん重要になっています。メールやSNS,プレゼン資料,さまざまな報告書,就職活動での自己PR…
「実用的なわかりやすい文章が書ける」ことは,これからの時代の重要なスキルです。仕事や人生に大きな影響をあたえる,切実な能力といってもいいでしょう。
しかし,「書くことが得意」な人は,じつは少ないです。パソコンや英語が得意な人より少ないかもしれません。多くの人が「文章を書くこと」に苦戦しています。
テーマを与えられても,書くことが出てこない。頭に浮かぶことをどう表現したらいいかわからない。書いても伝わらず「これはどういうこと?」と聞かれる…
通り一遍の文ならともかく,自分の想いや思考を踏み込んで述べたり,込み入った事実を文章で過不足なく説明したりするのは,やはり難しいことです。でも,そんな「踏み込んだ文章」を書けるなら,人と深いコミュニケーションをとるのに役立ちます。
そのスキルは世の中を渡っていく上で,大事な「道具」になるはずです。
文章力の目安となる,「1000文字」を書く力
「文章を書くスキル」で,多くの人がまず目標にすべきなのは「千~千数百文字の,一定のメッセージといくつかの情報で構成された,わかりやすい実用的な文章を書く力」を身につけることです。「千~千数百文字」は,おおまかに「1000文字」程度といってもいいでしょう。
その長さが不自由なく書けることは,文章力のだいじな目安です。「1000文字」を圧縮したり,いくつも積みかさねたりすることで,もっと短い文章も長い文章も書けるからです。
「1000文字」というのは,さまざまな文章を構成する「基本単位」なのです。「基本単位」が10個集まると,まとまったレポートになります。100個集まれば,1冊の本になります。
そして,文章が書けるようになると,話すのも上手になります。表現が豊かになり,構成力も身につくからです。
その感覚は,他人の表現を理解するときにも役立つので,聞く力,読む力も向上します。また,書くことは考えを整理し構築していく作業です。当然ながら,書くことで考える力もつきます。
上達するには,人に読んでもらってアドバイスを受ける
文章は書き続けないと,上達しません。ではどうしたら,書き続けることができるのでしょうか?
一番大切なのは,「読んでくれる人をみつけること」です。人に読んでもらうあてのない文章を書くのは,むなしいです。だから,教本を買ってきて文章を独学しようとしても,たいていは続きません。日記が三日坊主で終わるのといっしょです。
さらに,できれば書いたものに対する感想やアドバイスをもらうといいでしょう。
私(そういち)は幸運でした。若いころに,書いたものを読んで指導してくれる先生に出会えたからです。
月1回ほどのペースでレポートを書き,先生にお会いしてアドバイスを受けていました。また,一緒に勉強する友だちが1人いて,書いたものをみせあっていました。
それを3~4年続けたことで,文章力の基礎を身につけたのです。それだけに,「文章を読んでもらって指導を受けること」の大切さを実感しています。
しかし,「先生」をみつけるのは難しい。そこで…
とはいえ,多くの人にとって,身近にそのような「先生」をみつけるのは難しいです。文章について適切なアドバイスができる人は,そうはいません。いたとしても,指導をお願いできるとは限りません。
そこで私自身が,誰にでもアクセスできる「文章指導の先生」になる,ということも考えています。ブログやメールを使った「通信教育」による,文章講座ができないかと。
これは,「書く力を身につけたいけど,身近に先生がいない」という人が学ぶためのお手伝いをする,ということです。
かつて先生が私にしてくださったことを,今度は私がするのです。きちんとした指導力さえあれば,そのような存在は世の中の役に立つはずです。
「文章のセンセイ」としての私
私そういちの「文章のセンセイ」としての特長は,以下のとおりです。
1.商業出版の著作がある「プロの技量」を持つ書き手である。
著作には『四百文字の偉人伝』『自分で考えるための勉強法』(以上ディスカヴァー21刊,電子書籍,アマゾンキンドルなどで発売中),『健康と環境』(小峰書店刊,共著)がある。
2.ここ数年キャリアカウンセラーとしても活動しており,のべ数百人におよぶ相談者の方たちに文章やプレゼンの指導を行ってきた。
3.大企業,官庁から,起業,NPO,文化・研究活動まで,社会のさまざまな場面での活動経験がある。つまり,さまざまな場における「読み手」や「表現のあり方」をイメージできる。
これは,以下の経歴から言えると思っています。
私そういちは,1965年生まれ。早稲田大学法学部を卒業後,運輸関係の会社に勤務し官庁への許認可申請,グループ会社の内部監査,法務コンプライアンス,株主総会などの業務を担当(たくさんの文書にまみれた仕事でした)。
その傍ら,学校の先生や大学教員などが参加する教育研究のNPOに参加し,おもに社会科関連の講演や著作の活動を行ってきた。その後十数年勤めた同社を退職し,「独立系投信」という金融系の会社を起業するが,撤退。ここ数年はキャリアカウンセラーとして若い人の就職の相談に乗る仕事も行っている。
「よい文章」の4つのポイント
それでは,私そういちの「文章講座」がめざす「よい文章」とはどんなものなのでしょうか? それを支える技術や精神は何か? これには,4つのポイントがあります。
1.「よい文章」とは,シンプルでわかりやすく,正確な文章である。
それが「実用的」ということ。
芸術的な文章というのもありますが,多くの人がまずめざすべきなのは,実用的な文章です。
学校教育では,そのような文章の教育にあまり力を入れていません。国語や作文の授業は,あいかわらず文芸中心です。ある種の凝った美文や芸術的な表現を追求する傾向があります。
大学の授業で書くレポートも,「シンプルにわかりやすく書くこと」のトレーニングにはならないことが多いです。学術論文をお手本にしているせいでしょう。学術論文は,多くの人からみれば,たいていはガチガチした読みにくい文章です。
2.「よい文章」には,核となる,伝えたいメッセージがある。
まず,自分のアタマにある「メッセージ」を明確にしないといけません。
そのメッセージをあらわす「自分なりの表現・コトバ」がみつかったら,しめたもの。その「核」さえあれば,文章は書けます。なければ,いい文章にはならない。
3.その「メッセージ」を伝えるため,ふさわしい・程よい情報や表現を盛り込む。
抽象的すぎてはいけない。かといって,具体的に細かいことを書けばいいというものでもない。情報が少なすぎてはいけない。情報過多もいけない。「読者のアタマにどんなイメージ・像を浮かばせるか」を常に意識しないといけません。「抽象性・具体性」「情報量」のさじジ加減を考えましょう。
文章は,「言語によって,読者に自分の認識(思考や感情など)を追体験させるため」に書くのです。「認識」とは「イメージ・像」といってもいい。
書き手は「どんなイメージ・像を読者のアタマに浮かばせたいか」を考えなくてはいけません。「抽象性・具体性」はそれを考える上でのカギです。
4.「押しつけ」を感じさせないだけの論理性をもたせる。
逆にいえば,文章の「論理性」とは「読者に押しつけを感じさせない」ということです。そのためには,「論理の飛躍」をできるだけ排除しないといけません。
不注意に書いた文章には「飛躍」が多いです。それは読者には「押しつけ」と映ります。そうならないためには,ある結論にもっていくとき,つねに必要な前提や情報を盛り込んでいくことです。
「4つのポイント」はどう位置づけられるか
以上をまとめると,
1.シンプルに,わかりやすく,正確に。
2.核となるメッセージ。
3.程よい抽象性・具体性と情報量。
4.押しつけを感じさせない論理性。
重要なのは,以上4つの大まかな視点です。
具体的なコツや方法論は,上記1~4の各論になります。たとえば,「ひとつの文に多くのことを盛り込まない」「主語を述語の関係を意識する」といったことは,「1.わかりやすく,正確に」の各論です。
世の中には多くの「文章の書き方」の本があります。1~4のポイントは,そこで論じられていることをほぼカバーしているはずです。
また,「よい文章とは」というほかに,「文章の上達の方法論」という切り口もあります。たとえば,上達のためには「まず日記的に短い文章を書いてみること」や「よく推敲すること」が大切だ,といった話です。これまでに述べた「誰かに読んでもらう」というのも,そうです。
しかし,この4つのポイントは,そうした「上達論」ではなく,文章論の「本体」の話です。スポーツで例えれば,「どんなフォームが正しいか,そのフォームで大切なことは何か」についてです。これに対し「上達論」とは,「そのフォームを身につけるためにどんな練習を積むべきか」ということです。
多くの文章論に不足している「体系性」と「論理性」
文章論や文章講座の中には,上記の4つのポイントのような大きな見方と,細かい具体的なノウハウを同列に論じているものもあります。「本体」(何があるべき姿か)と「上達論」(どう練習すべきか)がごっちゃになっていたり,どちらかが欠けていたりすることもあります。あるいは,1~4のどれかに関わる,ある一面だけを強化することで文章力を上げようとするものもあります。
それでは「体系性や論理性が足りない」と言わざるを得ません。
しかし本来は,初心者がきちんと力をつけていくためには,体系的なアプローチが必要です。さまざまな側面の事柄について整理しながら,ひとつひとつ押さえていかないといけないのです。
私そういちが講座を行うときは,文章論の体系や論理をしっかりとふまえながら,マンツーマンでそれぞれの方に即した指導をしていくつもりです。
つまり,「シンプルであるか」「適切な抽象性と情報量になっているか」「メッセージが伝わるか」「飛躍や押しつけはないか」等の系統だった観点で,各人が書かれたものを詳しく検討し,問題点があれば「どう書いたらよいか」を具体的に示していく。そんな文章の添削指導を行っていきたいと思っています。それを通して,必要に応じ「ものごとをどう考えるか」「どう勉強していくか」にも触れていきます。
以上のような指導が,文章講座・文章教育には,必要だと考えるのです。
(以上)
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- よい文章の4つのポイント
- 文章にとって大切な3つのポイント
- 勉強法最終回 いつか先生から離れるときがくる
- アイデアは個人→グループ→社会の順で広がる
2015年05月23日 (土) | Edit |
5月23日は博物学者リンネの誕生日です。
そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。古今東西の偉人を400文字程度で紹介するシリーズ。
リンネ
小冊子からはじまった
植物学者カール・リンネ(1707~1778スウェーデン)は,20代の終わりに,『自然の体系』という12ページの小冊子を出版しました。世界の動植物・鉱物の分類を論じたその著作は,斬新な内容ながら,テーマの大きさに対し情報量がとぼしく,「まだまだ」というものでした。
その後,リンネは研究を重ね,生物分類の権威になっていきます。それとともに『自然の体系』は改訂を重ね,ページを増やしていきました。 彼が60歳ころに出版した第12版は2400ページに,彼の死後,弟子が編纂した第13版は6300ページにもなりました。その巨大な書物には,リンネ自身や,多くの弟子たちが世界中で集めたデータが詰まっていました。
『自然の体系』は,一大プロジェクトに成長していったのです。
でもそのはじまりは,1人の若者がつくった小冊子にすぎませんでした。多くの偉大なプロジェクトは,そういうものです。
西村三郎著『リンネとその使徒たち』(人文書院,1989)による。
【カール・リンネ】
生物分類を確立した植物学者・博物学者。多種多様な生物を分類・整理する方法(二名式命名法など)を考案し,『自然の体系』(第12版は1766~68年刊)ではじめて生物界の全体像を系統的に理解する見通しをひらいた。
1707年5月23日生まれ 1778年1月10日没

***
今朝パソコンをたちあげて当ブログを開いたら,トップ記事が広告になっていました。1か月更新がないブログは,そうなってしまいます。「これはまずい」と,さっそく記事をアップしました。
このところ,更新が途絶えていました。1か月も更新していなかったのは,ブログ開設以来,はじめてです。訪問してくださる方がたには申し訳なく,お詫びいたします。
もちろん当ブログはこれからも続けていきます。せっかく何百もの記事を積み上げてきて,更新が滞っているにもかかわらず,訪れてくださる方の数も相変らず,ということにもなってきたのです。さらに記事を重ねていきたいと思います。基本的なスタンス・テーマも変えません。
リンネ大先生だって,何十年も積み上げた末に偉大な成果を残したのだから,2年3年で終わってしまってはお話しになりません。今回はちょっとお休みさせていただいた,ということです。
ブログがお休みのあいだは,オフの時間には「世界史」関係の原稿を書いていました。「発表のあてもない原稿」です。
以前に当ブログに載せた となり・となりの世界史 というシリーズを大幅に増補改訂して,1冊の本にできる原稿に仕上げようとしています。
数年前からボチボチと書いていたのですが,「このままではいつまで経っても完成しない」と思って,やや集中して進めるようにしたのです。1か月くらいやってみると,「近いうちに完成できそうだ」というメドが立ちました。といっても,まだ何か月かかかるでしょう。
行っていたのは,「すでに書いた原稿の編集・改訂」です。これまでに(文字の組み方にもよりますが)400ページ弱分の原稿は書いているのです。これを,もっと短く300ページ以内に整理して,一方で不足していることを加えていく。典拠を示す注なども整備する。
原稿ができたら,まずごく少部数の製本された冊子をつくって,お仲間や関心のある方に読んでいただく。それで検討したうえで,100部単位くらいで自費出版したいと考えています。自前の電子書籍化ということも(今はノウハウがありませんが)できれば,と思います。
我が家の本の半分くらいは,世界史関連です。私にとって読んだり書いたりのうち,最も時間を割いてきたのは,世界史に関わること。やはり歴史・世界史が好きなのです。この1か月でも,家にある本をあさりながら,いろいろ調べたり,それを文にしたりといった作業は,しんどいところもありますが,夢中になれるものでした。
「こんなことして何になる?(お金にもキャリアにもならない)」とも思います。でも,オフに好きなことをしているのだから,まあいいかと。

世界史関連で書いたメモや図の一部(こういうメモを書いて考えるのが好きです)
(以上)
そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。古今東西の偉人を400文字程度で紹介するシリーズ。
リンネ
小冊子からはじまった
植物学者カール・リンネ(1707~1778スウェーデン)は,20代の終わりに,『自然の体系』という12ページの小冊子を出版しました。世界の動植物・鉱物の分類を論じたその著作は,斬新な内容ながら,テーマの大きさに対し情報量がとぼしく,「まだまだ」というものでした。
その後,リンネは研究を重ね,生物分類の権威になっていきます。それとともに『自然の体系』は改訂を重ね,ページを増やしていきました。 彼が60歳ころに出版した第12版は2400ページに,彼の死後,弟子が編纂した第13版は6300ページにもなりました。その巨大な書物には,リンネ自身や,多くの弟子たちが世界中で集めたデータが詰まっていました。
『自然の体系』は,一大プロジェクトに成長していったのです。
でもそのはじまりは,1人の若者がつくった小冊子にすぎませんでした。多くの偉大なプロジェクトは,そういうものです。
西村三郎著『リンネとその使徒たち』(人文書院,1989)による。
【カール・リンネ】
生物分類を確立した植物学者・博物学者。多種多様な生物を分類・整理する方法(二名式命名法など)を考案し,『自然の体系』(第12版は1766~68年刊)ではじめて生物界の全体像を系統的に理解する見通しをひらいた。
1707年5月23日生まれ 1778年1月10日没
***
今朝パソコンをたちあげて当ブログを開いたら,トップ記事が広告になっていました。1か月更新がないブログは,そうなってしまいます。「これはまずい」と,さっそく記事をアップしました。
このところ,更新が途絶えていました。1か月も更新していなかったのは,ブログ開設以来,はじめてです。訪問してくださる方がたには申し訳なく,お詫びいたします。
もちろん当ブログはこれからも続けていきます。せっかく何百もの記事を積み上げてきて,更新が滞っているにもかかわらず,訪れてくださる方の数も相変らず,ということにもなってきたのです。さらに記事を重ねていきたいと思います。基本的なスタンス・テーマも変えません。
リンネ大先生だって,何十年も積み上げた末に偉大な成果を残したのだから,2年3年で終わってしまってはお話しになりません。今回はちょっとお休みさせていただいた,ということです。
ブログがお休みのあいだは,オフの時間には「世界史」関係の原稿を書いていました。「発表のあてもない原稿」です。
以前に当ブログに載せた となり・となりの世界史 というシリーズを大幅に増補改訂して,1冊の本にできる原稿に仕上げようとしています。
数年前からボチボチと書いていたのですが,「このままではいつまで経っても完成しない」と思って,やや集中して進めるようにしたのです。1か月くらいやってみると,「近いうちに完成できそうだ」というメドが立ちました。といっても,まだ何か月かかかるでしょう。
行っていたのは,「すでに書いた原稿の編集・改訂」です。これまでに(文字の組み方にもよりますが)400ページ弱分の原稿は書いているのです。これを,もっと短く300ページ以内に整理して,一方で不足していることを加えていく。典拠を示す注なども整備する。
原稿ができたら,まずごく少部数の製本された冊子をつくって,お仲間や関心のある方に読んでいただく。それで検討したうえで,100部単位くらいで自費出版したいと考えています。自前の電子書籍化ということも(今はノウハウがありませんが)できれば,と思います。
我が家の本の半分くらいは,世界史関連です。私にとって読んだり書いたりのうち,最も時間を割いてきたのは,世界史に関わること。やはり歴史・世界史が好きなのです。この1か月でも,家にある本をあさりながら,いろいろ調べたり,それを文にしたりといった作業は,しんどいところもありますが,夢中になれるものでした。
「こんなことして何になる?(お金にもキャリアにもならない)」とも思います。でも,オフに好きなことをしているのだから,まあいいかと。
世界史関連で書いたメモや図の一部(こういうメモを書いて考えるのが好きです)
(以上)
2015年04月23日 (木) | Edit |
前回の続きです。先週末,高校の先生方数名に招かれて,勉強会の講師を務めました。
テーマは「これからの時代を生きるためのスキル・知識」。
勉強会の背景や,参加者の方々の感想などについては,この記事のすぐ下の,前回の記事をご覧ください。
また,前回の記事では,この時の勉強会でお配りしたレジメの前半を掲載しています。今回はその後半です。
「本論」である,「8つのスキル・知識」についての説明です。
「これからの時代を生きるためのスキル・知識」としてつぎの8つの項目があると,前回述べました。
1.賢い機械=コンピュータといっしょに働くスキル
2.読むための英語 ネットなどで英語の記事が読める
3.実用的なわかりやすい文章が書ける
4.制約のなかでも,生活を(それなりに)美しくできる
5.お金(金融・会計)についての知識
6.ざっくりと大きな流れを捉えた世界史
7.科学の本質についてのイメージ
8.責任感のあるまじめさ・着実さ(基本的態度)
1~4は「これができる」というスキル
5~7は人生や社会について考えるための基礎知識(世界観のもとになる)
8は基本的態度
これらの項目は,
・抽象的・包括的になりすぎず,かといって細かくなりすぎず
・学校教育ではあまり力を入れていない
・しかし,適切なカリキュラムがあれば,原理的に習得可能(8.除く)
ということを意識して打ち出しています。
「抽象的・包括的になりすぎず」というのは,たとえば「生きる力」「問題解決力」「コミュニケーション力」みたいにならないように,ということ。
そして,「この8つは大事だ」ということをお伝えする以上に,「考える刺激」にしていただければと思っています。自分なりに「これからの大事なスキル」のリストをつくってみるのもいいのでは。
***
勉強会「これからの時代を生きるためのスキルと知識」レジメ・続き
スキル・知識1 賢い機械=コンピュータといっしょに働くスキル
■3つのレベル
「英語」と並んで,このスキルが「大事だ」ということ自体は,誰も異論がないだろう。問題は,その内容をどうとらえるか。「コンピュータといっしょに働くスキル」には,つぎの3つのレベルがある。
①情報の消費のための端末を使える
②情報の生産・発信のための機器・システムを使える
③上記①②のシステムを作り出す・改善する・修理する
多くのフツーの人に必要なのは,まず①で,それから②の初歩である。①は携帯やスマホやゲーム機を操作したり,パソコンでネット検索をしたりできること。②はおもにパソコンでワープロ・パワポ・DTPソフトのようなアプリケーションを使って,アウトプットができること。③は,ITの専門家・技術者の世界。
■「②情報の生産」のスキルは自然には身につかない
ときどき,これら(上記①~③)を混同している議論をみかける。例えば「今の若い人たちはゲーム機やスマホで慣れているから,ことさらにITの教育する必要はない」という意見もある。それでは②の教育はどうするのか? だからといって,コンピュータ言語などの③レベルが誰にも必要と考えるのは行きすぎ。
①は,今の時代はかなりの人が生活のなかで身につけている。しかし,自然に②を身につけているわけではない。大学生がワープロで作成した書類をみると,かなりの場合,基本操作ができていない。
「コンピュータと働くスキル」とは,「コンピュータに手伝ってもらいつつ,コンピュータにはできない何かを行って成果を出せる」ということ。そこで,「コンピュータを補う何か」ができることが重要となる。
スキル・知識2 読むための英語
■興味のある分野の英文をなんとか読める
「読む」「書く」「聞く」「話す」の全部をこなして英語でコミュニケーションするのは,たいへんハードルが高い。英語でのコミュニケーションのうち,最も初歩的で入りやすいのは「読む」こと。
そして,英語を「読む」力は,今の時代はおおいに使いでがある。インターネットで大量の英文に手軽にアクセスできるようになったから。興味のある分野の記事をたどたどしくても読めたら楽しいし,世界が広がる。
英語学習のとりあえずの目標は「興味のある分野に関する英文を,多少時間がかかっても読めるようになること」ではないか。もちろん,その先の英語力もあったほうがいいにきまっている。
■いろんなレベルなりに使える
しかし,「とりあえずこれでいい」というレベルも自覚しておきたい。大事なのは,英語というのはいろんなレベルなりに「使える」ということである。就職の相談で「TOEIC600点じゃ,資格のうちに入らないのでは?」という話を聞くが,そんなことはない。たしかに「それでは足りない」という仕事はある。しかし,「600点でも(いや500点でも)とりあえずオーケー」という,英語を使う仕事もある。
スキル・知識3 実用的なわかりやすい文章が書ける
■重要なスキルなのに,実は学校では教えてくれない
今の時代は,幅広い人たちが多くの文書を書くことを要求される。メールやSNSでのやり取り,就職活動,プレゼン,議事録,報告書,レジメ,レポート,システムに入力する記録……「実用的なわかりやすい文章が書ける」ことは,今の社会の重要なスキルになっている。しかし,実は学校教育ではあまり力を入れていない。
国語や作文の授業は,あいかわらず「文芸」中心。ある種の凝った美文や芸術的な表現を追求することがメインで,「実用的でわかりやすい文章を書く」という視点は弱い。
大学の授業で書かせるレポートも,「実用的な文章」のトレーニングにはなっていない。学術論文をお手本にしているせいではないか。学術論文というのは,多くの人からみれば,たいていはガチガチした読みにくい文章である。
■書くことが得意な人は少ない
書くことが得意な人は,じつは少ない。「パソコンが得意」「英語が得意」という人よりも少ないかもしれない。学校で「書くこと」の教育に力が入らない一因も,そこにある。「文章の書き方」を教えられる人が,教育現場にあまりいない。いたとしても,ほかのことで手一杯。
数百~2000文字くらいの,一定のメッセージといくつかの情報で構成された,わかりやすい文章。それが不自由なく書けるとしたら,これから生きていくうえで,いろいろ得すること,楽しいことがあるだろう。書く力がアップすると,「読む」「聞く」「話す」も上手になる。
スキル・知識4 制約のなかでも,生活を(それなりに)美しくできる
■『暮しの手帖』を創刊した編集長・花森安治(1911~78)の言葉
美しいものを見わける眼をもっている人は,どんなときでも,自分の暮らしを,
それなりに美しくすることが出来る,幸せな人である。
(花森安治『灯をともす言葉』河出書房新社)
これからの時代は,経済面などで多くの「制約」を抱えながら,しかし「美しい暮らしをしたい」という人が増えるのではないか。生活(衣食住)にかかわる,美しいもの,ステキなものについての情報が,世の中にはあふれている。私たちのデザインや美への感覚や欲求は,以前よりレベルアップしていくはず。
■価値観を柔軟にする
しかし,経済の停滞や格差の拡大によって,思うような所得が得られない人も増えていく。だから,所得のなかで工夫することが大事になる。
たとえば,ごく少ない・厳選されたモノだけで丁寧に暮らしていく。あるいは,以前は「つまらない」「安物」と思われていたようなものに,新たな価値や美を見出す。何がステキで良いものなのか,という価値観を柔軟にしていく。
その対極が,ブランド好きのバブリーな価値観。これを追求するなら,少数の経済的成功者になることである。それができれば「バブリー」も楽しい。
大事なのは,自分なりに「美しいものを見わける眼」である。それさえあれば,なんとかなる。しかし,学校教育は「暮らしを美しく」ということには,関心が薄い。政治家や官僚や企業の偉い人たちも,同様である(彼らの多くは仕事に忙しく,「毎日の・普通の暮らし」には無関心である)。
スキル・知識5 お金(金融・会計)についての知識
■「マネー教育」は必要だが
従来の学校教育では,金融・会計についてはほとんど教えない。そこでいわゆる「マネー教育」の試みもある。しかしそれが,専門家(例えばファイナンシャル・プランナー)養成のミニチュア版だったり,「株式投資の模擬体験」に終始するような,応用的すぎるものであってはいけない。
もっと根本的で,その重要性が広く認識されている知識があるので,それを教えるべき。例えば,「バランス・シートとは」「金融と実体経済の関係」といったことの基礎の基礎。それを学ぶことは結局,「企業とは何か」「経済とは何か」について知ることである。
■「金融」のパワーを理解する
最近話題のトマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房,邦訳2014年)は,次のことを述べている。
・資本の成長率は,経済全般の成長率を上回る。このことは世界各国の長期統計から立証できる。
・そこで,富裕層に富が集中する「格差の拡大」は資本主義の必然であり,近年の世界的傾向となっている。
現代における「資本」とは,「金融資産(株・証券)」とほぼイコール。資本主義の経済は,金融資産を持つ者に有利にできている。今の世界で長者番付(資産ランキング)の上位を占めるのは,株式をおもな資産とする富豪である。
ならば,普通の人たちもこのような「金融のパワー」を利用してよいのではないか。例えば,できる範囲で株式などの「成長が期待できる金融資産」に投資する。しかし,無知のまま投資を行うのは危険であり,勉強が必要。
スキル・知識6 ざっくりと大きな流れを捉えた世界史
■さまざまな文化を楽しむための基礎
世界史の素養があると,この世のさまざまな文化や出来事を理解し味わう上で役に立つ。芸術に触れても海外旅行に行っても,多少の歴史的知識があれば,はるかに楽しめる。国際情勢に関するニュースを理解する上でも,世界史の知識は必須である。ニュースが理解できる,ということも人生を豊かにしてくれる。
また,世界史をきちんと知ることで,社会全般についての見方も変わってくるはずだ。現代の(先進国における)政治・経済の制度が確立するまでの世界史の歩み。その困難な道のりについてイメージがあると,社会についてもっと建設的・現実的に判断できるようになるのではないか。
つまり,現代社会の根幹をなす要素を根本から否定する,非現実的な思想(例えば「反科学」「無政府主義」)には,より懐疑的になるのではないか。
■世界史教育の混乱
しかし,世界史教育は,あまりにも多くの国・地域やこまかな出来事について教えようとするあまり,混乱している。教えている先生でも消化しきれないくらいである。だから,読書家・勉強家のあいだでも,日本史に詳しい人はかなりいても,「世界史」に通じている人は少ない。
これからの世界史教育では,教える内容を大胆に整理して,「ざっくりと大きな流れを捉える」ことをもっと大切にしていくべきである。
スキル・知識7 科学の本質についてのイメージ
■専門分化が進む科学の「本質」を押さえる
科学の世界では今後,ますます専門分化や応用的な研究の蓄積が進むだろう。だから科学は,素人にはよりわかりにくい・近づき難いものになっていく。
であればこそ,「科学的とはどういうことか」といった原点や本質を押さえることが必要である。そのためには,「現代の先端的な科学」を追いかけるのではなく,古典的・初歩的な科学について,まずしっかりと押さえること。それによって,「科学は仮説・実験を通して成立する」といった,科学の本質を知ることができる。
■「真理」についてのイメージ
科学の本質がわかると,「真理とは何か」というイメージも明確になる。つまり「何が正しいか,真理であるか」は,仮説・実験によって初めて明らかになる,という感覚。これがあると,世の中に流布するさまざまなガセネタにひっかかりにくくなる。偏見や思い込みを持ちにくくなる。そのほうが,成功したり生きのびたりする可能性が高くなる。
スキル・知識8 責任感あるまじめさ・着実さ(基本的態度)
■「本当のまじめさ」が求められる
これは「組織やシステムに守られるための免罪符」としてのまじめさではない。仕事の現場で,戦力として貢献するための「まじめさ」である。
右肩あがりの,組織に余裕があった時代には,言われたことをこなし,決められたルールを守っていれば組織は評価してくれた。成果があがらなくても「決められた通りやっていたのだから…」という言い訳が通った。しかし,これからはますます組織に余裕がなくなり,本当の成果や貢献を,1人1人に求める傾向が一層強くなる。また,仕事がさらに複雑・高度になっていく。
そこで,「責任感を持って,現場の問題に真剣に対処する」「コンスタントに着実に取り組む」という「本当のまじめさ」が重要になるだろう。
■優秀な看護師のような資質
その「まじめさ」のイメージを,コーエンはこう述べている。
労働市場で真面目さがとくに重んじられる業種が二つある。医療と個人向けサービスだ。医療の現場では医師以外のスタッフが大勢働いているが,そういう人たちは,きちんと手を洗い,カルテに正確に記載し,検査の数値を正しく読み取ってくれないと困る。要するに真面目でなくてはならない。(『大格差』39ページ)
これは,いわば「優秀な看護師のようなまじめさ」である。「信頼できる人」「あてにできる人」といってもいい。このような資質は,昔から大切だとされていたが,これから一層価値を増すだろう。
では,それをどうやって子どもや若者に身につけさせるのか? 管理や締めつけを厳しくすればいい,ということではない。本当の「まじめさ」は,やる気や志に支えられている。「締めつけ」では志は育たない。それを育てるのは,簡単ではないはずだ。
(以上)
テーマは「これからの時代を生きるためのスキル・知識」。
勉強会の背景や,参加者の方々の感想などについては,この記事のすぐ下の,前回の記事をご覧ください。
また,前回の記事では,この時の勉強会でお配りしたレジメの前半を掲載しています。今回はその後半です。
「本論」である,「8つのスキル・知識」についての説明です。
「これからの時代を生きるためのスキル・知識」としてつぎの8つの項目があると,前回述べました。
1.賢い機械=コンピュータといっしょに働くスキル
2.読むための英語 ネットなどで英語の記事が読める
3.実用的なわかりやすい文章が書ける
4.制約のなかでも,生活を(それなりに)美しくできる
5.お金(金融・会計)についての知識
6.ざっくりと大きな流れを捉えた世界史
7.科学の本質についてのイメージ
8.責任感のあるまじめさ・着実さ(基本的態度)
1~4は「これができる」というスキル
5~7は人生や社会について考えるための基礎知識(世界観のもとになる)
8は基本的態度
これらの項目は,
・抽象的・包括的になりすぎず,かといって細かくなりすぎず
・学校教育ではあまり力を入れていない
・しかし,適切なカリキュラムがあれば,原理的に習得可能(8.除く)
ということを意識して打ち出しています。
「抽象的・包括的になりすぎず」というのは,たとえば「生きる力」「問題解決力」「コミュニケーション力」みたいにならないように,ということ。
そして,「この8つは大事だ」ということをお伝えする以上に,「考える刺激」にしていただければと思っています。自分なりに「これからの大事なスキル」のリストをつくってみるのもいいのでは。
***
勉強会「これからの時代を生きるためのスキルと知識」レジメ・続き
スキル・知識1 賢い機械=コンピュータといっしょに働くスキル
■3つのレベル
「英語」と並んで,このスキルが「大事だ」ということ自体は,誰も異論がないだろう。問題は,その内容をどうとらえるか。「コンピュータといっしょに働くスキル」には,つぎの3つのレベルがある。
①情報の消費のための端末を使える
②情報の生産・発信のための機器・システムを使える
③上記①②のシステムを作り出す・改善する・修理する
多くのフツーの人に必要なのは,まず①で,それから②の初歩である。①は携帯やスマホやゲーム機を操作したり,パソコンでネット検索をしたりできること。②はおもにパソコンでワープロ・パワポ・DTPソフトのようなアプリケーションを使って,アウトプットができること。③は,ITの専門家・技術者の世界。
■「②情報の生産」のスキルは自然には身につかない
ときどき,これら(上記①~③)を混同している議論をみかける。例えば「今の若い人たちはゲーム機やスマホで慣れているから,ことさらにITの教育する必要はない」という意見もある。それでは②の教育はどうするのか? だからといって,コンピュータ言語などの③レベルが誰にも必要と考えるのは行きすぎ。
①は,今の時代はかなりの人が生活のなかで身につけている。しかし,自然に②を身につけているわけではない。大学生がワープロで作成した書類をみると,かなりの場合,基本操作ができていない。
「コンピュータと働くスキル」とは,「コンピュータに手伝ってもらいつつ,コンピュータにはできない何かを行って成果を出せる」ということ。そこで,「コンピュータを補う何か」ができることが重要となる。
スキル・知識2 読むための英語
■興味のある分野の英文をなんとか読める
「読む」「書く」「聞く」「話す」の全部をこなして英語でコミュニケーションするのは,たいへんハードルが高い。英語でのコミュニケーションのうち,最も初歩的で入りやすいのは「読む」こと。
そして,英語を「読む」力は,今の時代はおおいに使いでがある。インターネットで大量の英文に手軽にアクセスできるようになったから。興味のある分野の記事をたどたどしくても読めたら楽しいし,世界が広がる。
英語学習のとりあえずの目標は「興味のある分野に関する英文を,多少時間がかかっても読めるようになること」ではないか。もちろん,その先の英語力もあったほうがいいにきまっている。
■いろんなレベルなりに使える
しかし,「とりあえずこれでいい」というレベルも自覚しておきたい。大事なのは,英語というのはいろんなレベルなりに「使える」ということである。就職の相談で「TOEIC600点じゃ,資格のうちに入らないのでは?」という話を聞くが,そんなことはない。たしかに「それでは足りない」という仕事はある。しかし,「600点でも(いや500点でも)とりあえずオーケー」という,英語を使う仕事もある。
スキル・知識3 実用的なわかりやすい文章が書ける
■重要なスキルなのに,実は学校では教えてくれない
今の時代は,幅広い人たちが多くの文書を書くことを要求される。メールやSNSでのやり取り,就職活動,プレゼン,議事録,報告書,レジメ,レポート,システムに入力する記録……「実用的なわかりやすい文章が書ける」ことは,今の社会の重要なスキルになっている。しかし,実は学校教育ではあまり力を入れていない。
国語や作文の授業は,あいかわらず「文芸」中心。ある種の凝った美文や芸術的な表現を追求することがメインで,「実用的でわかりやすい文章を書く」という視点は弱い。
大学の授業で書かせるレポートも,「実用的な文章」のトレーニングにはなっていない。学術論文をお手本にしているせいではないか。学術論文というのは,多くの人からみれば,たいていはガチガチした読みにくい文章である。
■書くことが得意な人は少ない
書くことが得意な人は,じつは少ない。「パソコンが得意」「英語が得意」という人よりも少ないかもしれない。学校で「書くこと」の教育に力が入らない一因も,そこにある。「文章の書き方」を教えられる人が,教育現場にあまりいない。いたとしても,ほかのことで手一杯。
数百~2000文字くらいの,一定のメッセージといくつかの情報で構成された,わかりやすい文章。それが不自由なく書けるとしたら,これから生きていくうえで,いろいろ得すること,楽しいことがあるだろう。書く力がアップすると,「読む」「聞く」「話す」も上手になる。
スキル・知識4 制約のなかでも,生活を(それなりに)美しくできる
■『暮しの手帖』を創刊した編集長・花森安治(1911~78)の言葉
美しいものを見わける眼をもっている人は,どんなときでも,自分の暮らしを,
それなりに美しくすることが出来る,幸せな人である。
(花森安治『灯をともす言葉』河出書房新社)
これからの時代は,経済面などで多くの「制約」を抱えながら,しかし「美しい暮らしをしたい」という人が増えるのではないか。生活(衣食住)にかかわる,美しいもの,ステキなものについての情報が,世の中にはあふれている。私たちのデザインや美への感覚や欲求は,以前よりレベルアップしていくはず。
■価値観を柔軟にする
しかし,経済の停滞や格差の拡大によって,思うような所得が得られない人も増えていく。だから,所得のなかで工夫することが大事になる。
たとえば,ごく少ない・厳選されたモノだけで丁寧に暮らしていく。あるいは,以前は「つまらない」「安物」と思われていたようなものに,新たな価値や美を見出す。何がステキで良いものなのか,という価値観を柔軟にしていく。
その対極が,ブランド好きのバブリーな価値観。これを追求するなら,少数の経済的成功者になることである。それができれば「バブリー」も楽しい。
大事なのは,自分なりに「美しいものを見わける眼」である。それさえあれば,なんとかなる。しかし,学校教育は「暮らしを美しく」ということには,関心が薄い。政治家や官僚や企業の偉い人たちも,同様である(彼らの多くは仕事に忙しく,「毎日の・普通の暮らし」には無関心である)。
スキル・知識5 お金(金融・会計)についての知識
■「マネー教育」は必要だが
従来の学校教育では,金融・会計についてはほとんど教えない。そこでいわゆる「マネー教育」の試みもある。しかしそれが,専門家(例えばファイナンシャル・プランナー)養成のミニチュア版だったり,「株式投資の模擬体験」に終始するような,応用的すぎるものであってはいけない。
もっと根本的で,その重要性が広く認識されている知識があるので,それを教えるべき。例えば,「バランス・シートとは」「金融と実体経済の関係」といったことの基礎の基礎。それを学ぶことは結局,「企業とは何か」「経済とは何か」について知ることである。
■「金融」のパワーを理解する
最近話題のトマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房,邦訳2014年)は,次のことを述べている。
・資本の成長率は,経済全般の成長率を上回る。このことは世界各国の長期統計から立証できる。
・そこで,富裕層に富が集中する「格差の拡大」は資本主義の必然であり,近年の世界的傾向となっている。
現代における「資本」とは,「金融資産(株・証券)」とほぼイコール。資本主義の経済は,金融資産を持つ者に有利にできている。今の世界で長者番付(資産ランキング)の上位を占めるのは,株式をおもな資産とする富豪である。
ならば,普通の人たちもこのような「金融のパワー」を利用してよいのではないか。例えば,できる範囲で株式などの「成長が期待できる金融資産」に投資する。しかし,無知のまま投資を行うのは危険であり,勉強が必要。
スキル・知識6 ざっくりと大きな流れを捉えた世界史
■さまざまな文化を楽しむための基礎
世界史の素養があると,この世のさまざまな文化や出来事を理解し味わう上で役に立つ。芸術に触れても海外旅行に行っても,多少の歴史的知識があれば,はるかに楽しめる。国際情勢に関するニュースを理解する上でも,世界史の知識は必須である。ニュースが理解できる,ということも人生を豊かにしてくれる。
また,世界史をきちんと知ることで,社会全般についての見方も変わってくるはずだ。現代の(先進国における)政治・経済の制度が確立するまでの世界史の歩み。その困難な道のりについてイメージがあると,社会についてもっと建設的・現実的に判断できるようになるのではないか。
つまり,現代社会の根幹をなす要素を根本から否定する,非現実的な思想(例えば「反科学」「無政府主義」)には,より懐疑的になるのではないか。
■世界史教育の混乱
しかし,世界史教育は,あまりにも多くの国・地域やこまかな出来事について教えようとするあまり,混乱している。教えている先生でも消化しきれないくらいである。だから,読書家・勉強家のあいだでも,日本史に詳しい人はかなりいても,「世界史」に通じている人は少ない。
これからの世界史教育では,教える内容を大胆に整理して,「ざっくりと大きな流れを捉える」ことをもっと大切にしていくべきである。
スキル・知識7 科学の本質についてのイメージ
■専門分化が進む科学の「本質」を押さえる
科学の世界では今後,ますます専門分化や応用的な研究の蓄積が進むだろう。だから科学は,素人にはよりわかりにくい・近づき難いものになっていく。
であればこそ,「科学的とはどういうことか」といった原点や本質を押さえることが必要である。そのためには,「現代の先端的な科学」を追いかけるのではなく,古典的・初歩的な科学について,まずしっかりと押さえること。それによって,「科学は仮説・実験を通して成立する」といった,科学の本質を知ることができる。
■「真理」についてのイメージ
科学の本質がわかると,「真理とは何か」というイメージも明確になる。つまり「何が正しいか,真理であるか」は,仮説・実験によって初めて明らかになる,という感覚。これがあると,世の中に流布するさまざまなガセネタにひっかかりにくくなる。偏見や思い込みを持ちにくくなる。そのほうが,成功したり生きのびたりする可能性が高くなる。
スキル・知識8 責任感あるまじめさ・着実さ(基本的態度)
■「本当のまじめさ」が求められる
これは「組織やシステムに守られるための免罪符」としてのまじめさではない。仕事の現場で,戦力として貢献するための「まじめさ」である。
右肩あがりの,組織に余裕があった時代には,言われたことをこなし,決められたルールを守っていれば組織は評価してくれた。成果があがらなくても「決められた通りやっていたのだから…」という言い訳が通った。しかし,これからはますます組織に余裕がなくなり,本当の成果や貢献を,1人1人に求める傾向が一層強くなる。また,仕事がさらに複雑・高度になっていく。
そこで,「責任感を持って,現場の問題に真剣に対処する」「コンスタントに着実に取り組む」という「本当のまじめさ」が重要になるだろう。
■優秀な看護師のような資質
その「まじめさ」のイメージを,コーエンはこう述べている。
労働市場で真面目さがとくに重んじられる業種が二つある。医療と個人向けサービスだ。医療の現場では医師以外のスタッフが大勢働いているが,そういう人たちは,きちんと手を洗い,カルテに正確に記載し,検査の数値を正しく読み取ってくれないと困る。要するに真面目でなくてはならない。(『大格差』39ページ)
これは,いわば「優秀な看護師のようなまじめさ」である。「信頼できる人」「あてにできる人」といってもいい。このような資質は,昔から大切だとされていたが,これから一層価値を増すだろう。
では,それをどうやって子どもや若者に身につけさせるのか? 管理や締めつけを厳しくすればいい,ということではない。本当の「まじめさ」は,やる気や志に支えられている。「締めつけ」では志は育たない。それを育てるのは,簡単ではないはずだ。
(以上)
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2015年04月20日 (月) | Edit |
18日の土曜日に,ある勉強会で講師を務めました。
このブログの読者の,学校の先生(40代男性)からお声がけをいただいたのです。
その方はある地方都市の高校に勤務していて,地元の教員労働組合の分会の方々に「これからの時代を生きるためのスキルと知識」をテーマに話をして欲しい,とのことでした。このテーマは,当ブログで(未完ですが)何度か論じてきたもの。
その先生によれば「これからの時代について考える機会が欲しい。そういう本質的なことを語りあう場がなかなかない」とのこと。そして「いろんな専門家が世の中にいるけど,近代社会の大きな流れから,それをふまえつつ団地リノベや〈ベランダでビール〉みたいなこまかいことまで論じているのが,そういちさんの特長だ」と言ってくださいました。
以前から「講師いたします」の看板をかかげていた私にとって,願ってもない機会。よろこんでお引き受けしました。
理科,社会,国語,情報,商業などさまざまな教科の先生方数名を前に,地元の商工会議所の一室で3時間ほどお話しをしてきました。年齢的には30~40代の,男女の方々の集まり。
私がお話しするだけでなく,参加者の方々にもいろいろなご発言を発言いただきました。みなさま,長時間にわたる話に真剣に耳を傾けていただき,ありがとうございました。
***
「これからの時代を生きるためのスキルと知識」という勉強会の内容ですが,こんなことです。
技術革新や経済成長の停滞といった大きな流れのなかで,「格差」の広がりや,「中流」的なホワイトカラーの職の減少といったことがおきている。そのような時代では,たとえば「コンピュータと働くスキル」「実用的な文章力」「制約のなかで生活をそれなりに美しくできる」といった能力が重要になるだろう・・・
今回お話しさせていただいて,こういうテーマは,やはり需要があると実感しました。
「これからのたいへんな時代をどう生きるか」的な話は,昔からあります。でも,いよいよ本格的に「生き延びるには,どうしたらいいか」といった観点で,しっかりと考えていくべき時代になったのではないか・・・
そんな感覚が,多くの人にあるのではないか。
私の論じ方は,今回の主催者の方がおっしゃるように,扱う範囲が広いことが特徴です。話のレベル感もいろいろ。大上段な議論もあれば,身近な小さい話もある。
これは話が散漫になる恐れもありますが,一方で「全体像」を描くうえでは役立つと思います。そして,個人にとってまずだいじなのは「全体像」ではないかと。人は生きるうえで,森羅万象のさまざまな面とかかわるのですから。
この勉強会を通して,新たに考えたことがいくつかありますが,また別の機会に。
今回の記事では,参加者の方々の感想と,勉強会でお配りしたレジメの前半をご紹介しておきます。
***
参加者の方々の感想
〇すごく作り込まれたレジメに本当に感動しました! 目の前の参加者の関心事に沿って話をしてくださったので,みなさん,自分のこととして脳ミソが働いたのではないかと思います。これはやっぱり(無料の)ブログでは得られません。私自身は 「〇○さんは自分の文章に自信を持っていい」とそういちさんに言われたことが一番の収穫でした。恥ずかしがらずに,格好つけずに,もっともっと文章を書こう!と思わせてくれました。面接などの就職指導のポイントを教えていただいたのも,いま悩んでいることだったので,本当に助かりました。
〇いま自分がやっていることに自信が持てず,毎日,自分は何をしているのか,何のためにこの仕事をしているのか,考えるだけで行動に移さない私にとって,そういちさんの講義は,自己目標設定の指標になる内容でした。行動に移せるように思えました。まずは8つのスキル・知識を私自身が身につけて・・・いや,真面目でありたいと思います。
〇自分自身のテーマの一つが「イマドキの高校生が世の中の変化につぶされずにいかにやっていく方法をみにつけさせるか」ということなので,大変参考になりました。「教え込む」というより「気づかせる」というイメージでしょうか。
〇大変興味深く聞かせていただきました。学校現場で日々悩むことが多く,なかなか本質的な話をする時間もありませんので,このような場をつくっていただいて,ありがとうございました。何を教えるべきか,どう教えるべきか,たくさんのヒントをいただいたと思います。また,今日は多くの本を紹介してくださいましたので,後日ぜひ読んでみたいと思います。
***
勉強会でお配りしたレジメ(の前半)
これからの時代を生きるためのスキルと知識
講師:そういち
近代社会のしくみ研究家,キャリアカウンセラー。ブログ『団地の書斎から』主催。
著書に『自分で考えるための勉強法』『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァ―21刊,電子書籍)
1.タイラー・コーエン『大格差 機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』
■賢い機械と働くことが得意か?
「これからの時代を充実して生きるためのスキルと知識」を考える素材として,タイラー・コーエン『大格差』(NTT出版,邦訳2014年,原題「平均は終わった」)をとりあげる。
テクノロジーの発達で,賢い機械(コンピュータ)が多くの人の職をおびやかしつつある。賢い機械にできる仕事の範囲は,これからもどんどん広がっていく。しかるべきスキルを持たない人は,就業の機会から締め出されてしまう時代がやってくるのではないか。コーエンはこう述べる。
あなたは,賢い機械と一緒に働くことが得意か,そうでないか?…あなたの技能がコンピューターを補完するものなら,あなたが職に就き,高い賃金を受け取れる確率は高い。しかし,あなたの技能がコンピューターを補完できなければ,見通しはおそらく暗い。将来は,ますます多くの働き手がこのいずれかに二分されるようになる。そう,平均は終わったのである。(同書6ページ)
これからの技術革新の方向性と,それが未来の労働市場にどう影響をあたえるのか? 未来の労働市場で求められる資質は何か?
■英語よりもお辞儀の仕方か?
この本を,先日友人に紹介した。高校の先生である彼が,つぎのように言っていたので,「これからの時代に子どもたちに何を教えたらいいか」を考えるうえで参考になると思ったのである。
私の同僚の若い英語の先生が,『英語なんてウチの生徒には役に立たない。社会で役立つ,お辞儀の仕方とか,礼儀やマナーをもっと教えないといけない』って言うんだよね。ちょっと理解できない…私は物理を教えているけど,教科をきちんと教えることは,これからの時代も意味があると思っている。(高校教師K・40代)
私(そういち)も「英語よりもお辞儀の仕方だ」という考えには賛成しない。役に立たないのは「英語」そのものではなく,今の授業の英語なのかもしれない。英語の先生なら「目の前の生徒にとって役立つ英語は何か」を考えればいい。でも,「これからの時代を生きるために,教育で何を教えるべきか」について,これまでとはちがった考えが必要だという点には,かなり同意する。
2.これからの時代を生きるためのスキル・知識 一覧
では「何が大事か」ということだが,その一覧を考えた。コーエンが『大格差』で述べていることと重なる部分もあるが,私なりの視点もある。
■これからの時代を生きるためのスキル・知識 8つ
1.賢い機械=コンピュータといっしょに働くスキル
2.読むための英語 ネットなどで英語の記事が読める
3.実用的なわかりやすい文章が書ける
4.制約のなかでも,生活を(それなりに)美しくできる
5.お金(金融・会計)についての知識
6.ざっくりと大きな流れを捉えた世界史
7.科学の本質についてのイメージ
8.責任感のあるまじめさ・着実さ(基本的態度)
1~4は「これができる」というスキル
5~7は人生や社会について考えるための基礎知識(世界観のもとになる)
8は基本的態度
※これらの項目の説明は,レジメの後半にある。次回の記事で掲載します。
以上は,「生きる力」や「問題発見力」のような,広すぎる漠然とした概念にならないように,一定の具体性を備えるよう意識した。どれも原理的には,適切なカリキュラムを組めば,学校などで教えることができる(8.はやや難しいかもしれない)。
■このうち2つでも3つでも
もし,「高いスキルをもった少数の人材」,つまり「エリート」をめざすなら,これではとうてい足りない。あるいは,それぞれの項目で本当に高いレベルを身につける必要がある。しかし,多くの人にとっては,この8項目のうち2つでも3つでもそれなりに身につければ,これからの時代を元気に生きるうえでおおいに役立つだろう。
なのに,これらの項目の多くは,学校教育ではそれほど重視されていない。少なくとも,その重要性についてあいまいな言い方しかなされていない。あるいは,それぞれの項目で「大事なことは何か」について議論が混乱していたりする。「多くの人にとって必要なレベル」と「社会の先端を担う人材に必要なレベル」を混同していたりするのである。
3.「平均は貴重なものになった」という認識
■「そこそこのホワイトカラー」が減っていく
コーエンは「平均は終わった」と言う。未来において,世の中の働き手は,賢い機械(コンピュータ・人工知能)を補えるような高度のスキルや判断力を持つ少数派と,そうでない多数派に大きく分かれていく。「そうでない」人たちが,これまでのような「中流」でいられるだけの所得を得ることは難しくなる。
近年の日本では技術革新(とくにIT関係)によって,従来の「中流」的な人たちのおもな職であった「そこそこのスキルで行う,そこそこ知的な感じのホワイトカラーの,安定した仕事」(そこそこのホワイトカラー)が減りつつある。
これには,技術革新のほかに「経済成長の停滞」もかかわっている。経済の停滞が長く続けば,企業としては「比較的簡単な判断業務を行うだけの課長職」や「単純な事務処理をコツコツ行って年収数百万円の,正社員事務職」などを養う余裕はなくなる。さまざまな技術革新とあいまって,仕事の現場では「そこそこのホワイトカラー」を減らしてやっていくことが浸透してきた。
それには「グローバル化の進展による競争の激化」も影響している。新興国の安価な製品に対抗するのに,生産性の低い高給のホワイトカラーを大勢かかえるわけにはいかない。
■「普通のOL」「公務員」になるのも,なかなか大変
有名ではない中小企業の,おそらく若い女子を想定していると思われる「一般事務職」,つまり「普通のOL」の求人があったとする。それはたいてい「1人」「2人」の募集だが,そこに数十人以上の応募があることもしばしば。
公務員をめざす若者も多い。公務員の世界には「そこそこのホワイトカラー」がまだまだ残っている。でも,これも今や難関。小さな市町村の役所に入るにしても,予備校通いをして筆記試験に合格し,相当な倍率の面接を突破しないといけない。
■これからも就職は「厳しい」
これから,一定の好景気がやってくることもあるだろう。しかし,「ホワイトカラー」にとってのよき時代が再び訪れることはない。世の中の仕事の仕方が変わっていくからである。最近になって日本経済では一定の景気回復の兆しや雇用の改善がみられるが,事務系管理職などの「そこそこのホワイトカラー」の職は増えていない。
これから当面の日本では,多少の「景気回復」があったとしても,「実感がない」と多くの人は言うはず。失業率や有効求人倍率などからみて「雇用の改善」があっても,人びとは「就職が厳しい」と言い続けるだろう。「かつての中流的な仕事や生活がなかなか得られない」ということであれば,そうなる。
4.「平均が貴重な時代」における対応の選択肢
■対応の仕方はいろいろある
ことさらに危機感をあおったり,「こんな社会はまちがっている」とさかんに憂いたりするつもりはない。対応策はいろいろある。若い人ほど,選択肢の幅は広い。ここでは「政策」ではなく,あくまで「個人としての対応」に話をしぼる。
(対応の選択肢)
1.「少数の高いスキル」を持つ人になる。
未来の労働市場が,少数の高いスキルを持つ人材とその他大勢に2極化するというなら,自分は「少数の高いスキルを持つ人」になれないだろうか? 具体的には,それぞれの分野で上位何パーセントかの人になるということ。若くて元気な人は,それを目指すことをまず考えればいい。これは「これからの労働市場」をふまえた「仕事論」において主流の考え方。
これは気が進まない,あるいは「無理」という人は,以下の道がある。
2.「賢い機械が苦手な仕事で,人を雇う意欲のある分野」で少しでも納得のいく職をみつける。
たとえばある種の接客・サービスなどは,このような分野にあたる。
3.納得のいく職がどうしてもなければ,自分で「小商い」「スモールビジネス」を立ち上げる。
自営業者になるということ。あるいは「将来,小さな起業をする」ことを意識して職を選ぶ。
4.「そこそこのホワイトカラー」として安定したいなら,今もそのような職がないわけではない。
若い人は,それをめざすことも考えられる。ただし,それなりの戦略や努力が必要。今の親世代のように,漫然とした取り組みで「そこそこのホワイトカラー」になれると思わないこと。
5.中高年の人は,今現在「まあまあ納得」の安定した仕事があるなら,大切にしよう。
6.「一生真剣にやってきたい」ということがあり,それがなかなか職業や収入に結びつかないなら,「食えないアーティスト・文化人」として生きる道もある。
今の社会はかなり豊かになったので,「食えないアーティスト」が貧乏しながら生きていく余地も,昔よりはある。でも,その道へ行くかどうか迷うようなら,やめたほうがいい。
■中流や平均を安易に求めない
すべてに通じるのは「今までの中流や平均を安易に求めても,うまくいかないし,楽しくもない」ということ。「中流」や「平均」を求めてもいいが,「それは簡単ではない」というイメージを持ち,「それだけがあるべき姿だ」と考えないこと。「平均は終わった」とまではいかなくても,「平均は貴重なものになってきた」のである。その状況に適応することを,考えてみよう。村上龍のつぎの言葉は,参考になる。
…進路を考えるときに,どの方向が有利か,というような問いは,経済力や学力に恵まれた子どもや若者だけに許された限定的なものだ。だから,どの方向が有利か,ではなく,どうすれば一人で生きのびて行けるか,という問いに向き合う必要がある。(村上龍『13歳の進路』幻冬舎,5ページ)
(以上,つづく)
このブログの読者の,学校の先生(40代男性)からお声がけをいただいたのです。
その方はある地方都市の高校に勤務していて,地元の教員労働組合の分会の方々に「これからの時代を生きるためのスキルと知識」をテーマに話をして欲しい,とのことでした。このテーマは,当ブログで(未完ですが)何度か論じてきたもの。
その先生によれば「これからの時代について考える機会が欲しい。そういう本質的なことを語りあう場がなかなかない」とのこと。そして「いろんな専門家が世の中にいるけど,近代社会の大きな流れから,それをふまえつつ団地リノベや〈ベランダでビール〉みたいなこまかいことまで論じているのが,そういちさんの特長だ」と言ってくださいました。
以前から「講師いたします」の看板をかかげていた私にとって,願ってもない機会。よろこんでお引き受けしました。
理科,社会,国語,情報,商業などさまざまな教科の先生方数名を前に,地元の商工会議所の一室で3時間ほどお話しをしてきました。年齢的には30~40代の,男女の方々の集まり。
私がお話しするだけでなく,参加者の方々にもいろいろなご発言を発言いただきました。みなさま,長時間にわたる話に真剣に耳を傾けていただき,ありがとうございました。
***
「これからの時代を生きるためのスキルと知識」という勉強会の内容ですが,こんなことです。
技術革新や経済成長の停滞といった大きな流れのなかで,「格差」の広がりや,「中流」的なホワイトカラーの職の減少といったことがおきている。そのような時代では,たとえば「コンピュータと働くスキル」「実用的な文章力」「制約のなかで生活をそれなりに美しくできる」といった能力が重要になるだろう・・・
今回お話しさせていただいて,こういうテーマは,やはり需要があると実感しました。
「これからのたいへんな時代をどう生きるか」的な話は,昔からあります。でも,いよいよ本格的に「生き延びるには,どうしたらいいか」といった観点で,しっかりと考えていくべき時代になったのではないか・・・
そんな感覚が,多くの人にあるのではないか。
私の論じ方は,今回の主催者の方がおっしゃるように,扱う範囲が広いことが特徴です。話のレベル感もいろいろ。大上段な議論もあれば,身近な小さい話もある。
これは話が散漫になる恐れもありますが,一方で「全体像」を描くうえでは役立つと思います。そして,個人にとってまずだいじなのは「全体像」ではないかと。人は生きるうえで,森羅万象のさまざまな面とかかわるのですから。
この勉強会を通して,新たに考えたことがいくつかありますが,また別の機会に。
今回の記事では,参加者の方々の感想と,勉強会でお配りしたレジメの前半をご紹介しておきます。
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参加者の方々の感想
〇すごく作り込まれたレジメに本当に感動しました! 目の前の参加者の関心事に沿って話をしてくださったので,みなさん,自分のこととして脳ミソが働いたのではないかと思います。これはやっぱり(無料の)ブログでは得られません。私自身は 「〇○さんは自分の文章に自信を持っていい」とそういちさんに言われたことが一番の収穫でした。恥ずかしがらずに,格好つけずに,もっともっと文章を書こう!と思わせてくれました。面接などの就職指導のポイントを教えていただいたのも,いま悩んでいることだったので,本当に助かりました。
〇いま自分がやっていることに自信が持てず,毎日,自分は何をしているのか,何のためにこの仕事をしているのか,考えるだけで行動に移さない私にとって,そういちさんの講義は,自己目標設定の指標になる内容でした。行動に移せるように思えました。まずは8つのスキル・知識を私自身が身につけて・・・いや,真面目でありたいと思います。
〇自分自身のテーマの一つが「イマドキの高校生が世の中の変化につぶされずにいかにやっていく方法をみにつけさせるか」ということなので,大変参考になりました。「教え込む」というより「気づかせる」というイメージでしょうか。
〇大変興味深く聞かせていただきました。学校現場で日々悩むことが多く,なかなか本質的な話をする時間もありませんので,このような場をつくっていただいて,ありがとうございました。何を教えるべきか,どう教えるべきか,たくさんのヒントをいただいたと思います。また,今日は多くの本を紹介してくださいましたので,後日ぜひ読んでみたいと思います。
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勉強会でお配りしたレジメ(の前半)
これからの時代を生きるためのスキルと知識
講師:そういち
近代社会のしくみ研究家,キャリアカウンセラー。ブログ『団地の書斎から』主催。
著書に『自分で考えるための勉強法』『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァ―21刊,電子書籍)
1.タイラー・コーエン『大格差 機械の知能は仕事と所得をどう変えるか』
■賢い機械と働くことが得意か?
「これからの時代を充実して生きるためのスキルと知識」を考える素材として,タイラー・コーエン『大格差』(NTT出版,邦訳2014年,原題「平均は終わった」)をとりあげる。
テクノロジーの発達で,賢い機械(コンピュータ)が多くの人の職をおびやかしつつある。賢い機械にできる仕事の範囲は,これからもどんどん広がっていく。しかるべきスキルを持たない人は,就業の機会から締め出されてしまう時代がやってくるのではないか。コーエンはこう述べる。
あなたは,賢い機械と一緒に働くことが得意か,そうでないか?…あなたの技能がコンピューターを補完するものなら,あなたが職に就き,高い賃金を受け取れる確率は高い。しかし,あなたの技能がコンピューターを補完できなければ,見通しはおそらく暗い。将来は,ますます多くの働き手がこのいずれかに二分されるようになる。そう,平均は終わったのである。(同書6ページ)
これからの技術革新の方向性と,それが未来の労働市場にどう影響をあたえるのか? 未来の労働市場で求められる資質は何か?
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■英語よりもお辞儀の仕方か?
この本を,先日友人に紹介した。高校の先生である彼が,つぎのように言っていたので,「これからの時代に子どもたちに何を教えたらいいか」を考えるうえで参考になると思ったのである。
私の同僚の若い英語の先生が,『英語なんてウチの生徒には役に立たない。社会で役立つ,お辞儀の仕方とか,礼儀やマナーをもっと教えないといけない』って言うんだよね。ちょっと理解できない…私は物理を教えているけど,教科をきちんと教えることは,これからの時代も意味があると思っている。(高校教師K・40代)
私(そういち)も「英語よりもお辞儀の仕方だ」という考えには賛成しない。役に立たないのは「英語」そのものではなく,今の授業の英語なのかもしれない。英語の先生なら「目の前の生徒にとって役立つ英語は何か」を考えればいい。でも,「これからの時代を生きるために,教育で何を教えるべきか」について,これまでとはちがった考えが必要だという点には,かなり同意する。
2.これからの時代を生きるためのスキル・知識 一覧
では「何が大事か」ということだが,その一覧を考えた。コーエンが『大格差』で述べていることと重なる部分もあるが,私なりの視点もある。
■これからの時代を生きるためのスキル・知識 8つ
1.賢い機械=コンピュータといっしょに働くスキル
2.読むための英語 ネットなどで英語の記事が読める
3.実用的なわかりやすい文章が書ける
4.制約のなかでも,生活を(それなりに)美しくできる
5.お金(金融・会計)についての知識
6.ざっくりと大きな流れを捉えた世界史
7.科学の本質についてのイメージ
8.責任感のあるまじめさ・着実さ(基本的態度)
1~4は「これができる」というスキル
5~7は人生や社会について考えるための基礎知識(世界観のもとになる)
8は基本的態度
※これらの項目の説明は,レジメの後半にある。次回の記事で掲載します。
以上は,「生きる力」や「問題発見力」のような,広すぎる漠然とした概念にならないように,一定の具体性を備えるよう意識した。どれも原理的には,適切なカリキュラムを組めば,学校などで教えることができる(8.はやや難しいかもしれない)。
■このうち2つでも3つでも
もし,「高いスキルをもった少数の人材」,つまり「エリート」をめざすなら,これではとうてい足りない。あるいは,それぞれの項目で本当に高いレベルを身につける必要がある。しかし,多くの人にとっては,この8項目のうち2つでも3つでもそれなりに身につければ,これからの時代を元気に生きるうえでおおいに役立つだろう。
なのに,これらの項目の多くは,学校教育ではそれほど重視されていない。少なくとも,その重要性についてあいまいな言い方しかなされていない。あるいは,それぞれの項目で「大事なことは何か」について議論が混乱していたりする。「多くの人にとって必要なレベル」と「社会の先端を担う人材に必要なレベル」を混同していたりするのである。
3.「平均は貴重なものになった」という認識
■「そこそこのホワイトカラー」が減っていく
コーエンは「平均は終わった」と言う。未来において,世の中の働き手は,賢い機械(コンピュータ・人工知能)を補えるような高度のスキルや判断力を持つ少数派と,そうでない多数派に大きく分かれていく。「そうでない」人たちが,これまでのような「中流」でいられるだけの所得を得ることは難しくなる。
近年の日本では技術革新(とくにIT関係)によって,従来の「中流」的な人たちのおもな職であった「そこそこのスキルで行う,そこそこ知的な感じのホワイトカラーの,安定した仕事」(そこそこのホワイトカラー)が減りつつある。
これには,技術革新のほかに「経済成長の停滞」もかかわっている。経済の停滞が長く続けば,企業としては「比較的簡単な判断業務を行うだけの課長職」や「単純な事務処理をコツコツ行って年収数百万円の,正社員事務職」などを養う余裕はなくなる。さまざまな技術革新とあいまって,仕事の現場では「そこそこのホワイトカラー」を減らしてやっていくことが浸透してきた。
それには「グローバル化の進展による競争の激化」も影響している。新興国の安価な製品に対抗するのに,生産性の低い高給のホワイトカラーを大勢かかえるわけにはいかない。
■「普通のOL」「公務員」になるのも,なかなか大変
有名ではない中小企業の,おそらく若い女子を想定していると思われる「一般事務職」,つまり「普通のOL」の求人があったとする。それはたいてい「1人」「2人」の募集だが,そこに数十人以上の応募があることもしばしば。
公務員をめざす若者も多い。公務員の世界には「そこそこのホワイトカラー」がまだまだ残っている。でも,これも今や難関。小さな市町村の役所に入るにしても,予備校通いをして筆記試験に合格し,相当な倍率の面接を突破しないといけない。
■これからも就職は「厳しい」
これから,一定の好景気がやってくることもあるだろう。しかし,「ホワイトカラー」にとってのよき時代が再び訪れることはない。世の中の仕事の仕方が変わっていくからである。最近になって日本経済では一定の景気回復の兆しや雇用の改善がみられるが,事務系管理職などの「そこそこのホワイトカラー」の職は増えていない。
これから当面の日本では,多少の「景気回復」があったとしても,「実感がない」と多くの人は言うはず。失業率や有効求人倍率などからみて「雇用の改善」があっても,人びとは「就職が厳しい」と言い続けるだろう。「かつての中流的な仕事や生活がなかなか得られない」ということであれば,そうなる。
4.「平均が貴重な時代」における対応の選択肢
■対応の仕方はいろいろある
ことさらに危機感をあおったり,「こんな社会はまちがっている」とさかんに憂いたりするつもりはない。対応策はいろいろある。若い人ほど,選択肢の幅は広い。ここでは「政策」ではなく,あくまで「個人としての対応」に話をしぼる。
(対応の選択肢)
1.「少数の高いスキル」を持つ人になる。
未来の労働市場が,少数の高いスキルを持つ人材とその他大勢に2極化するというなら,自分は「少数の高いスキルを持つ人」になれないだろうか? 具体的には,それぞれの分野で上位何パーセントかの人になるということ。若くて元気な人は,それを目指すことをまず考えればいい。これは「これからの労働市場」をふまえた「仕事論」において主流の考え方。
これは気が進まない,あるいは「無理」という人は,以下の道がある。
2.「賢い機械が苦手な仕事で,人を雇う意欲のある分野」で少しでも納得のいく職をみつける。
たとえばある種の接客・サービスなどは,このような分野にあたる。
3.納得のいく職がどうしてもなければ,自分で「小商い」「スモールビジネス」を立ち上げる。
自営業者になるということ。あるいは「将来,小さな起業をする」ことを意識して職を選ぶ。
4.「そこそこのホワイトカラー」として安定したいなら,今もそのような職がないわけではない。
若い人は,それをめざすことも考えられる。ただし,それなりの戦略や努力が必要。今の親世代のように,漫然とした取り組みで「そこそこのホワイトカラー」になれると思わないこと。
5.中高年の人は,今現在「まあまあ納得」の安定した仕事があるなら,大切にしよう。
6.「一生真剣にやってきたい」ということがあり,それがなかなか職業や収入に結びつかないなら,「食えないアーティスト・文化人」として生きる道もある。
今の社会はかなり豊かになったので,「食えないアーティスト」が貧乏しながら生きていく余地も,昔よりはある。でも,その道へ行くかどうか迷うようなら,やめたほうがいい。
■中流や平均を安易に求めない
すべてに通じるのは「今までの中流や平均を安易に求めても,うまくいかないし,楽しくもない」ということ。「中流」や「平均」を求めてもいいが,「それは簡単ではない」というイメージを持ち,「それだけがあるべき姿だ」と考えないこと。「平均は終わった」とまではいかなくても,「平均は貴重なものになってきた」のである。その状況に適応することを,考えてみよう。村上龍のつぎの言葉は,参考になる。
…進路を考えるときに,どの方向が有利か,というような問いは,経済力や学力に恵まれた子どもや若者だけに許された限定的なものだ。だから,どの方向が有利か,ではなく,どうすれば一人で生きのびて行けるか,という問いに向き合う必要がある。(村上龍『13歳の進路』幻冬舎,5ページ)
(以上,つづく)
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2015年04月14日 (火) | Edit |
今日4月14日は,ヘレン・ケラーの家庭教師アン・サリバンの誕生日です。
そこで彼女の「四百文字の偉人伝」を。
古今東西の偉人を,400文字程度で紹介するシリーズ。
このシリーズは,単行本になっています。
ディスカバー21という出版社から,電子書籍で出ているのです。
100人余りの偉人の話が載っている本。
偉人とは,私の定義では「それぞれの分野で著しい業績をあげ,歴史に名を残した人」のこと。「反面教師的に名を残した人」も含みます。
電子書籍「四百文字の偉人伝」では,さまざまな価値ある仕事を成し遂げた人たちの様子や精神に,手軽に触れることができます。それぞれの偉人がかかわる,さまざまな世界への,ちょっとした入門にもなるでしょう。100余りの偉人の話に触れることで,「この世にはいろんなすばらしいもの,意義ある仕事,知るに値するものがあるんだ」という,視野の広がる感覚があるはずです。
新年度がはじまったばかりの,「さあやるぞ!」という時期にぴったりかと思います。
***
サリバン
その情熱が奇跡を育てた
1歳のときの病気で視覚と聴覚を失いながら,高い教育を身につけたヘレン・ケラー(1880~1968 アメリカ)と,その家庭教師アン・サリバン(1866~1936 アメリカ)。2人については,ご存知の方も多いでしょう。
障害のため何もわからず,わがままで手のつけられなかったヘレンと格闘し,人間として生きる基礎を教えたのはサリバン先生でした。
では,6歳のヘレンにはじめて会ったとき,サリバン先生は何歳だったか知っていますか?
そのとき,彼女はまだ20歳でした。彼女は,貧しい家に生まれ,子どものときに失明寸前になって盲学校に通いました。のちに視力は回復し,学校を卒業すると,ヘレンの家庭教師として就職したのです。
サリバン先生は,これといった学歴も経験もない「ふつうの女の子」だったのです。
「先生」にあったのは,若さと情熱だけでした。でも,そのふつうの女の子の強い思いと行動が,「奇跡の人」を育てたのです。
瀬江千史著『育児の生理学』(現代社,1987)に教わった。このほか,サリバン著・槇恭子訳『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(明治図書,1973)による。
【アン・サリバン】
ヘレン・ケラーを育てた家庭教師。生涯ヘレンに付き添いながら,障害者への理解を訴える著述や講演を行った。ヘレンの自伝の翻訳には,『わたしの生涯』(岩崎武夫訳,角川文庫)などがある。
1866年4月14日生まれ 1936年10月20日没

(以上)
そこで彼女の「四百文字の偉人伝」を。
古今東西の偉人を,400文字程度で紹介するシリーズ。
このシリーズは,単行本になっています。
ディスカバー21という出版社から,電子書籍で出ているのです。
100人余りの偉人の話が載っている本。
偉人とは,私の定義では「それぞれの分野で著しい業績をあげ,歴史に名を残した人」のこと。「反面教師的に名を残した人」も含みます。
電子書籍「四百文字の偉人伝」では,さまざまな価値ある仕事を成し遂げた人たちの様子や精神に,手軽に触れることができます。それぞれの偉人がかかわる,さまざまな世界への,ちょっとした入門にもなるでしょう。100余りの偉人の話に触れることで,「この世にはいろんなすばらしいもの,意義ある仕事,知るに値するものがあるんだ」という,視野の広がる感覚があるはずです。
新年度がはじまったばかりの,「さあやるぞ!」という時期にぴったりかと思います。
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サリバン
その情熱が奇跡を育てた
1歳のときの病気で視覚と聴覚を失いながら,高い教育を身につけたヘレン・ケラー(1880~1968 アメリカ)と,その家庭教師アン・サリバン(1866~1936 アメリカ)。2人については,ご存知の方も多いでしょう。
障害のため何もわからず,わがままで手のつけられなかったヘレンと格闘し,人間として生きる基礎を教えたのはサリバン先生でした。
では,6歳のヘレンにはじめて会ったとき,サリバン先生は何歳だったか知っていますか?
そのとき,彼女はまだ20歳でした。彼女は,貧しい家に生まれ,子どものときに失明寸前になって盲学校に通いました。のちに視力は回復し,学校を卒業すると,ヘレンの家庭教師として就職したのです。
サリバン先生は,これといった学歴も経験もない「ふつうの女の子」だったのです。
「先生」にあったのは,若さと情熱だけでした。でも,そのふつうの女の子の強い思いと行動が,「奇跡の人」を育てたのです。
瀬江千史著『育児の生理学』(現代社,1987)に教わった。このほか,サリバン著・槇恭子訳『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』(明治図書,1973)による。
【アン・サリバン】
ヘレン・ケラーを育てた家庭教師。生涯ヘレンに付き添いながら,障害者への理解を訴える著述や講演を行った。ヘレンの自伝の翻訳には,『わたしの生涯』(岩崎武夫訳,角川文庫)などがある。
1866年4月14日生まれ 1936年10月20日没
(以上)
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