●九条平和主義≠ヘ政治的な未熟児
憲法九条は、不自然にして、不可解な条文である。
国家基本法に、陸海空軍を保有せず、交戦権を放棄するなどと書き込む必要がどこにあっただろう。
国土防衛や国軍保有は自然権で、交戦権は国家主権である。
いずれも、法に先行するので、立法化する必要はなく、どこの国の憲法でもふれられていない。
ところが、戦後憲法では、これが否定形で、明文化されている。
九条で、軍備と交戦権を放棄した上で、米軍が駐留すれば、日本がアメリカの属国となったことが、内外に明らかになる。
占領基本法といえども、憲法で、そこまで日本を打ちのめさなければならなかった理由は何だったのか。
天皇をまもるためである。
マッカーサーは、天皇を裁けば、日本国民が蜂起して、反米闘争が半永久的につづき、天皇を免責すれば、日本統治がうまくゆくことを知っていた。
なんとしても、天皇を残さねばならない。
それには、連合国強硬派を納得させうる強力な交換条件が必要だった。
マッカーサーは、天皇を免責する交換条件として、あえて、憲法に、日本が再び連合国側の敵になることはありえない戦争の放棄条項≠もりこみ、天皇の廃位と処罰をもとめる英豪、ワシントンの一部勢力を沈黙させた。
憲法九条は、天皇をまもる担保だったのである。
交戦権の放棄は、国家主権を放棄で、敗戦国といえども、到底、うけいれられるものではなかった。
天皇の免責とひきかえに、憲法に9条を盛り込むよう迫ったマッカーサーと幣原首相の会談は、3時間にもおよんだ。
幣原は、天皇をまもるために、結局、九条をのんだ。
それが、憲法九条の呪われた運命で、戦後日本は国家主権の放棄≠ニいうハンディキャップを背負って、迷走することになる。
ところが、改憲論においてすら、現行憲法の最大の欠陥である国家主権の放棄にふれていない。
一方、左翼・反日・護憲派は、九条を武器に、日本という国家そのものを追い込んでゆく。
憲法九条は、事実上、廃棄されている。
国内法規では、国際紛争に対処できないからだ。
戦争しませんといったところで、軍事攻撃をうければ、国民の生命をまもるため、応戦しなければならない。
交戦権が憲法違反なら、国民が殺されるのを黙ってみていろという話になる。
国が攻撃される危機にそなえて、防衛力を充実させても、憲法(九条)違反となる。
そんなばかな理屈は通用しないので、憲法九条に代わって、日米安保条約が機能している。
日本人ほど、効率よく安全と平和を享受している国民はいない。
NATOと並ぶ軍事同盟で、国連憲章と連動する日米安保条約にまもられているからである。
だからといって、現状を是とするわけにはいかない。
憲法九条によって、国防というモラルが崩壊して、日本は、敵ミサイルではなく、政治力のはなはだしい低下によって、空中分解してしまいかねないのだ。
政治力は、国防観念が土台になっているので、「武器を捨てると平和になる」などといっていると、そのうち、国家経営が不能になる。
日本が、安全で平和なのは、憲法九条があるからだという者がいる。
日米安保をNATOに近づける安保法制を戦争法案だと罵り、武器を捨てると平和になるという九条に、国土防衛の基礎をおくのである。
こうなると九条バカ≠ニいうほかない。
バカの構造は、二段構えで、まず憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」で、頭が花畑になって、九条2項の「陸海空軍を保持せずと交戦権の放棄」によって、ほぼ、痴呆状態になる。
政治の幼児化′サ象は、政治世界でも顕著で、政治の低級化からうまれた民主党ばかりか、自民党などの保守系でも、「九条は人類の崇高な理想」などといっている者がいる。
戦争放棄が理想なのは、小学生も知っているが、人類史上、絶えたことがない戦争を防止するのが政治で、戦争の是非を問うて、悦に入るだけなら、政治家をやめて、教祖にでもなったほうがいい。
現在、人類が到達した平和の方程式(国家間の秩序モデル)は、バランス・オブ・パワー と相互確証破壊、民主化の三つである。
国家間の軍事的勢力が均衡している場合、侵略と反撃がツゥペイとなるほか、侵略した側が国際世論の反撃をうけるので、結局、採算がマイナスとなる。
これが、バランス・オブ・パワーで、フィリピンがアメリカをクラーク(米空軍)基地とスービック(米海軍)基地から追い出した結果、中国が出張ってきて、南シナ海が危機的状況になった。
議会が米比基地条約を批准しなかったフィリピンはともかく、迷惑をこうむったのが、ベトナムなどの周辺国で、日本と似たような憲法をもつフィリピンの平和主義が、アセアン諸国をまきこんで、南シナ海戦争の火種をつくったのである。
二つ目の「相互確証破壊」は、核攻撃と核報復がツゥペイとなるため、核攻撃が無効化されるというものだが、相互確証破壊が成立しているのは、米ロ間だけで、米中、日中間には成立していない。
日本が核と長距離ミサイルを保有せず、アメリカが中国から核攻撃をうけても、日本に報復の義務や能力がない片務性(日米安保条約)のためで、核の傘は、あってなきがごとしなのである。
三つ目の民主化は、民主政権は、戦争を選択しないという原則にもとづくもので、戦争をやりそうな国や地域は、中国や北朝鮮、イスラム国、かつてのリビア、イスラエルのようなイデオロギーや宗教にもとづく独裁国家だけである。
すべての国家が民主化されて、それなりに自衛力をもち、核の確証破壊を包含した集団的自衛権が地球規模で完成したとき、戦争は根絶されるであろうが、それが、何十年後、何百年後になるのか、実現可能なのかすらわからない。
武器を捨てれば平和になると拳をふりあげ、侵略戦争して悪うございましたとぺこぺこ謝って回っている日本が、はたして、平和主義といえるだろうか。
日本は、軍拡中の中国に長年、巨額のODA支援をおこない、北朝鮮の核とミサイル開発は、パチンコ送金と1兆3600億円の公的資金を投入した朝銀からの献金が資金源だったといわれる。
日本は、韓国に竹島を奪われ、不当な李承晩ラインによって、拉致4000人、殺傷44人という大被害をうけながら一言も文句をいわず、いわれるまま巨額の経済援助をおこない、挙げ句に、日韓併合や従軍慰安婦問題で、永遠に謝罪しろと命じられて、訪韓した宮沢首相は、一日18回も謝ったという。
そして、いま、中国や北朝鮮の核ミサイルは、日本にむけられ、韓国の仮想敵は、北朝鮮ではなく、日本である。
フィリッピンの平和主義は、南シナ海を中国に明け渡しただけだが、日本の平和主義は、日本本土を危うくしているのである。
その危機を回避するには、日米安保の強化および日本とアセアンとの集団的自衛権を強化するほかないが、多くの日本人は、安保法制反対、憲法九条をまもれと叫んでいる。
この政治の未熟性、幼児性は、憲法九条が原因で、日教組から武器を捨てると平和になるとインプリンティングされた子は、老人になっても、村山富市や野中広務、古賀誠のように、謝ってさえいれば平和をまもれると思い込む。
憲法九条は、何の役にも立っていないが、日本人を愚かにする役には立っているのである。
次回は、憲法を必要としない日英の立憲君主制について、考えてみよう。