1985年8月12日夜。
(ニュース速報の音)終戦の日を前にした特集番組が突然ニュースに切り替わりました。
「途中ですがここでニュースをお伝え致します。
乗客らおよそ500人が乗りました東京発大阪行きの日本航空機がレーダーから姿を消しまして安否が気遣われております」。
羽田発大阪行きの日本航空123便が墜落したのです。
しかし墜落地点は一向に見つかりませんでした。
捜索隊は現場にたどりつけず関係機関の混乱は一晩中続きました。
520人が犠牲になった事故。
生存者4人が発見されたのは一夜明けた午前11時前でした。
墜落から発見までに要したのは…もっと早くたどりつけなかったのか批判が相次ぎました。
しかしこの16時間についての検証は十分に行われてきませんでした。
「詳細な記録は残っていない」とされてきたのです。
もっと多くの命を救う事はできなかったのか。
今回私たちは捜索に関わった100人以上に取材を重ね16時間の空白を解き明かそうとしました。
そして残っていないとされた数々の内部資料を入手。
その詳細が初めて浮かび上がってきました。
墜落するジャンボ機を目撃しその9分後に正確な位置情報を警察に寄せていた女性。
情報は埋もれたまま生かされる事はありませんでした。
航空自衛隊は墜落直後に燃え上がるジャンボ機を直接確認していました。
しかしその現場からの情報も墜落地点の特定に生かされていなかった事が分かりました。
なぜ16時間もの時間が費やされたのか。
多くの遺族は今もわだかまりを抱き続けています。
国内史上最悪の航空機事故から30年。
私たちは失われた命と向き合う事ができているのか。
知られざる空白の16時間です。
巨大事故の記憶を今に伝える遺品が日本航空のビルの一室に眠っています。
これまで関係者以外入った事のないこの部屋の撮影が今回特別に許されました。
30年たった今も持ち主が分からないおよそ2,500点の遺品が保管されています。
電卓は当時ビジネスマンの必需品でした。
東京ディズニーランドは開園から2年。
事故は一人一人の日常を突然奪い去りました。
腕時計は墜落時刻の午後6時56分のまま止まっていました。
あの日の夕方偶然撮影されていた離陸直後の123便です。
異変が起きたのはこの12分後の事でした。
ほぼ満席のジャンボ機は客室後部機内の圧力を一定に保つための圧力隔壁が突然大きく壊れました。
メーカーによる修理ミスが主な原因とされました。
機内の空気が一気に吹き出した事で垂直尾翼の半分以上が失われ操縦が極めて困難な状況に陥りました。
32分後制御不能のまま長野県との県境に近い群馬県の御巣鷹の尾根に墜落。
助かったのは僅か4人でした。
520人はほぼ即死だったとされました。
しかし生存者がほかにもいた可能性を示す証言がNHK前橋放送局に保管されていました。
事故で娘を亡くした吉田公子さんです。
亡くなった娘の由美子さんは当時24歳。
将来を期待された女優でした。
吉田さんは娘の部屋を30年間そのままにしてきました。
由美子さんの死を受け入れられずにきたからです。
吉田さんは81歳になった今も年に3度御巣鷹の尾根に登り続けています。
娘はこの場所でずっと助けを待っていたのではないか。
そう思い続けてきました。
国の事故調査委員会の報告書です。
事故原因の検証に多くのページが割かれています。
一方で墜落から生存者発見までの16時間については「最善を尽くして行われた」と結論づけられ詳しい検証は行われませんでした。
調査に納得できないという遺族の声を受け国は4年前報告書の解説を追加で公表しました。
しかし捜索・救難については「詳細な記録は残っていない」とされたのです。
16時間に一体何が起きていたのか。
今回私たちが独自の取材や情報公開請求で入手した内部資料です。
警察の無線交信自衛隊の行動記録など300点に上ります。
そのうちの一つ長野県警の内部資料です。
墜落現場に近い臼田警察署の当日の対応が分刻みで記録されていました。
墜落から9分後最初の110番通報が入っていました。
現場の近くに住んでいた女性が墜落地点は群馬との県境という情報を寄せていたのです。
私たちは墜落現場から山を隔てた集落に住む女性を捜し当て訪ねました。
ごめんなさいこんにちは。
どうもこんにちは。
最初に通報した中嶋初女さんです。
中嶋さんが描いた絵です。
墜落直前のジャンボ機は農作業をしていた中嶋さんの真上に迫ってきました。
飛行機が山陰に消えた数秒後山のりょう線に黒い煙と大きな赤い炎が上がりました。
後に判明する墜落現場は県境から群馬側に700メートル。
中嶋さんの目撃情報は正確なものでした。
その後も長野県警には正確な目撃情報が寄せられていました。
しかしこれらの情報は埋もれたまま生かされる事はありませんでした。
一方空から現場の特定を急いでいたのが航空自衛隊でした。
墜落から58分後の7時54分一機のヘリコプターが離陸しました。
機長を務めていた林璋さんです。
捜索・救難を専門とする部隊の飛行班長でした。
ああどうも。
林です。
よろしくお願いします。
15年前に自衛隊を退官した林さん。
自身の経験が役に立てばと今回初めて証言しました。
林さんは事故当日の飛行記録を今も大切に保管していました。
これですね。
現場に到着した林さん。
目の前に広がっていたのは見た事もない光景でした。
この時撮影された写真が残されていました。
ヘリコプターの振動でぶれた写真。
暗闇の中燃え上がる炎が捉えられています。
この写真を撮影した米川末雄さんです。
米川さんは遭難者を救助する救難員でした。
あの夜ヘリコプターから墜落現場に降りようと試みていた事を今回初めて明かしました。
しかし現場は二次被害を起こしかねない状況でした。
機長の林さんは結局上空からの救助を諦めざるをえなかったと言います。
上空からの救助を断念した航空自衛隊。
次に試みていたのは地上から部隊を送り込むために墜落地点を地図上で正確に特定する事でした。
GPSで位置を確認できる現在と異なり当時はTACANと呼ばれる装置が使われていました。
基地から航空機までの距離と方位を計測し位置を割り出しますが誤差も生じます。
林さんがTACANで確認した位置情報です。
横田基地から299度35.5マイル。
墜落現場からおよそ4キロの位置でした。
このころ現場近くを飛行していたアメリカ軍の輸送機などもTACANで位置を確認しその情報も報告されていました。
通常の現場特定で行われるようにこの3つの位置の中心を取ると御巣鷹の尾根を指していました。
しかし墜落地点についての情報が錯そうする中でこのTACANの情報も生かされなかったのです。
墜落から3時間半後の午後10時33分。
日本航空が公式に発表したのは全く異なる場所でした。
「航空自衛隊の偵察機によりますと22時3分現在事故機は長野県南佐久郡北相木村御座山。
『お』はですね御中の御。
『ぐら』は座るという字です。
座る。
座席の座です。
御座山北斜面にて炎上中」。
御座山は墜落現場から北西に8.5キロ離れています。
なぜこの山が墜落現場として発表されたのかその経緯が今回の取材で初めて明らかになりました。
長野県警臼田警察署の内部資料です。
午後9時5分。
隣接する埼玉県警から墜落地点は御座山という情報がもたらされていました。
初めての具体的な地名でした。
その30分後の午後9時35分自衛隊に御座山という情報が警察から伝えられていました。
警察の御座山という誤った情報が自衛隊そして日本航空や報道機関へと広がっていった事が分かりました。
なぜ自衛隊はヘリコプターが測定したTACANの位置情報ではなく誤った情報を信じてしまったのか。
いらっしゃい。
どうもこんにちは。
本日はよろしくお願いします。
墜落地点の特定を任されていた司令部の元幹部大中康生さんが取材に応じました。
司令部ではヘリコプターからの情報を分析すると同時に警察とも連絡を取り合い墜落地点の特定を急いでいました。
その時はもう…司令部は誤差が生じる事もあるTACANの位置情報の信頼性をはかりかねていました。
そうした中で寄せられた御座山という具体的な情報に引きずられてしまったといいます。
「報道陣の車でごった返しております」。
これ以降捜索の中心は御座山になっていきました。
午後11時半に陸上自衛隊が1,000人の隊員を派遣するなど御座山の麓に捜索隊が一斉に向かいました。
「長野県南佐久郡北相木村役場では…」。
捜索隊の前線となった長野県北相木村役場です。
長野県警から派遣されていた隆さんです。
さんは御座山の捜索を指示しましたが異常は確認できませんでした。
しかし現場の状況を報告しても本部は耳を貸さなくなっていたといいます。
御座山の捜索は日付が変わっても続けられていました。
遠く離れた墜落現場では生存者が身動きできない状態で救助を待っていました。
このころ乗客の家族は用意されたバスで現場に向かおうとしていました。
行き先は捜索隊が集まっていた長野県でした。
栗原哲さんと次男の毅さんもバスに乗って現場に向かっていました。
123便に長男の家族3人が搭乗していたのです。
大学講師の長男。
妻と娘を連れて実家から大阪に帰る途中事故に巻き込まれました。
長野に向かうバスの中車内に流れるニュースの情報を必死に書き留めていました。
(毅)父が書き出した記録ですね。
家族の無事を祈り続けていた毅さん。
後に車内で聞いた生存者発見の知らせを今も忘れる事ができないといいます。
(取材者)この時の事は覚えていらっしゃいます?ちょっとごめんなさい…。
駄目だな…。
自衛隊と警察による墜落地点の特定が難航する中在日アメリカ軍も捜索を試みようとしていました。
アメリカ軍は墜落直後から捜索・救難を支援しようと部隊を待機させていました。
しかし救助活動は最後まで実行されませんでした。
当時の防衛庁の内部資料です。
既にヘリコプターを現場に向かわせていた自衛隊。
アメリカ軍の支援の申し出に対し「スタンバイして下さい」と伝え捜索・救難を要請する事はありませんでした。
日付が変わった0時36分。
新たな任務を与えられた航空自衛隊の2機目のヘリコプターが飛び立ちました。
機長だった金子正博さんです。
事故から30年目のこの夏御巣鷹の尾根を訪れました。
当時の状況について今回初めて証言しました。
任務は警察と連携し墜落地点を特定する事でした。
地上では既に捜索隊が待機していました。
現場上空の金子さんと地上のパトカーとが互いの光を手がかりに距離方位を確認。
正確な墜落地点を割り出そうとしたのです。
しかし警察と自衛隊の情報が食い違いこの試みを成功させる事はできませんでした。
なぜ情報は食い違ったのか。
自衛隊と警察それぞれの無線記録を入手しました。
パトカーから本部への報告は正確なものでした。
「群馬県三国峠側で自衛隊機を確認」。
実際の墜落地点の方角にヘリコプターを確認していました。
ここがぶどう峠ですね。
県境のぶどう峠からこの情報を伝えた長野県警の大澤忠興さんです。
一方ヘリコプターから司令部への報告は正確ではありませんでした。
パトカーの位置を030度3マイル。
つまり北北東5.5キロの地点と報告していました。
この地点を地図に落としてみます。
ぶどう峠とは全く違う場所にパトカーがある事になります。
機長だった金子さんは無線記録を読み今回その事実に気付きました。
金子さんはこの時周辺に10か所ほどの明かりが見えると報告していました。
ぶどう峠につながる山道には緊急車両など車のライトが列をなしていたのです。
どんどん…。
ヘリコプターからの報告を受けて司令部では墜落地点を特定する作業が行われました。
030度3マイル。
この矢印をパトカーがあるぶどう峠を基点に逆向きにしてみます。
すると墜落地点は再び御座山付近を指していました。
「午前3時過ぎの情報ではぶどう峠の警察官が現場の位置は南南東の三国山の方向だと言っているのに対しまして警察庁を通じて長野県警に入った防衛庁の連絡の方は自衛隊のヘリコプターはぶどう峠の南南西の北相木村の御座山方向だと言っておりまして方向が食い違っております」。
地上の捜索隊は再び御座山付近に向かい結局混乱は一晩中続きました。
あの夜自分たちに何ができたのか。
証言した一人一人が今も考え続けていました。
いや〜はっきり言って…それはなぜか…
(無線)「了解。
至急至急臼田から連絡本部」。
(無線)「はい了解。
救出者の氏名送る。
ヨシザキヒロコ。
成人年齢不詳。
それから子どもと思われる」。
(無線)「バールは大きいバールかそれとも小さいのでよろしいか。
どうぞ」。
(無線)「できるだけ大きい方がよろしいと思われる。
どうぞ」。
(無線)「了解。
臼田了解」。
30年前のあの日524人を乗せた日本航空123便が墜落した御巣鷹の尾根です。
今ここは事故の重さを見つめ直す場所となっています。
日本航空は毎年ここで社員研修を行っています。
ご遺族の皆さんの世代がかわってきていて大変小さなお孫さんとか…。
社会は520人が犠牲になった事故とどう向き合ってきたのか。
航空自衛隊は事故直後問題点を自ら洗い出していた事が今回の取材で分かりました。
墜落からの16時間の対応について現場部隊の幹部が検討会議を開いていたのです。
「TACANの位置情報がかなり正確である事は実は後で知った」。
「位置の特定がさまざまな情報に惑わされた。
今後改善すべき点がある」。
反省点が率直に述べられていました。
更に現地の警察も「反省事項」という文書をまとめていました。
「墜落場所について群馬とはっきりしていたが情報の分析が不足した」と総括していました。
しかしそれぞれが洗い出していた課題は国の報告書で公にされていません。
この30年社会で共有される事はなかったのです。
事故は検証し尽くされないまま風化していくのではないか。
遺族の多くはこれまでにない危機感を抱いています。
あの夜現場に向かうバスの中で長男家族の無事を祈り続けていた…亡くなった家族のために事故の真相や失ったものの大きさを書き残したいと哲さんは思い続けています。
しかし90歳を越えた今難しくなってきました。
情けない。
ごめんなさい。
今次男の毅さんは父親の思いを継ぎ事故後の家族の記録をまとめ始めています。
(毅)「真相を知りたい」。
この辺にスミレが咲くんですよ春。
「もっと救助が早ければ」と思い続けてきた吉田公子さんです。
吉田さんは事故当日の朝この坂道で娘の由美子さんを見送りました。
30年吉田さんはこの道を毎日のように散歩してきました。
吉田さんはこの夏由美子さんの遺品の整理を始めていました。
いつまで自分一人で守っていけるのか不安になったからだと言います。
あの夜娘は助けを求めていたのではないか。
わだかまりを抱えたまま30年の月日が流れました。
520人の掛けがえのない日常が突然奪われたあの夜。
羽田空港に程近いビルの一室に持ち主の分からない遺品が眠っています。
あの巨大な事故と社会は本当に向き合ってきたのか。
16時間の空白は私たちが積み残したままの重い問いを投げかけています。
「飛行機は長野県御座山北斜面にて炎上中」。
「機体が燃えているかどうかは直接は確認できず」。
「まだ現場を特定できないという情報が入ってるんですが」。
「ぶどう峠の警察官が三国山の方向だと言っているのに対しまして自衛隊のヘリコプターは御座山方向だと言っておりまして方向が食い違っております」。
「文字どおり手探りの捜索でとうとう墜落地点を地上から発見する事ができませんでした」。
いたずら好きなハムスターのまめくん。
2015/08/01(土) 21:00〜21:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル▽日航ジャンボ機事故 空白の16時間〜墜落の夜30年目の真実〜[字]
日航ジャンボ機墜落事故から30年。墜落から生存者発見までの16時間の間に何があったのか。これまでに明らかにされていなかった事実が独自の取材が浮かび上がってきた。
詳細情報
番組内容
日航ジャンボ機事故から30年。墜落から生存者発見までの16時間の間に何があったのか。これまでほとんど検証されてこなかった捜索・救難をめぐる「真実」が、独自の取材で浮かびあがってきた。未公開の内部資料、そして、関係機関の当事者たちの初証言から明らかになるのは、救えた命は本当はあったのではないかという重い問いである。「空白の16時間」が投げかける、日本社会が積み残したままの課題を見つめていく。
出演者
【語り】広瀬修子
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ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ニュース/報道 – 報道特番
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