太平洋戦争の真っただ中。
尋問を受ける日本人捕虜の肉声が見つかりました。
記録されていたのは戦場での自らの行いと初めて向き合い苦悩する捕虜たちの姿でした。
(砲撃音)太平洋の激戦地で捕らえられた日本兵たち。
連合軍は極秘の尋問所に捕虜を集め日本の軍事機密や戦争犯罪について追及していました。
祖国への裏切りを迫られ葛藤する捕虜の肉声も残されていました。
生涯家族にすら語る事のなかった密室での告白。
この事は誰にも言ってないんじゃないですかね。
本当に初めてです。
そして尋問所を出たあと捕虜たちが下した決断とは…。
え〜「日本兵捕虜のジョージ・イナガキ大切な役割を果たした」と。
祖国や戦場から切り離された密室で一人戦争の意味に向き合っていた捕虜たち。
歴史の闇に埋もれてきたもう一つの戦争です。
アメリカ国立公文書館で発掘されたレコード120枚。
13時間の録音。
尋問される日本人捕虜の肉声が見つかったのは初めての事です。
一年にわたる取材の結果録音が行われた場所を特定しました。
オーストラリア・ブリスベン郊外。
軍が管理する敷地の中に施設の一部が残されていました。
1942年から45年の3年間連合軍の極秘の尋問所として使われた施設。
開戦直後破竹の勢いで勢力範囲を拡大していった日本軍。
当時アメリカ極東軍司令官としてフィリピンで指揮を執っていたマッカーサーはオーストラリアに撤退。
拠点を築いたのがブリスベンでした。
反転攻勢をうかがうマッカーサー。
1942年9月。
その下で新たな諜報組織が立ち上げられます。
日系人や日本に滞在経験のある人材を集めた秘密組織でした。
ATISは戦場で捕らえた日本兵の尋問や遺体から集めた日記の翻訳などを行っていきました。
オーストラリア軍の資料室にATISの尋問室の詳細な情報が残されていました。
戦場で捕らえた日本兵たちの中から特に重要だと思われる者を連行し密室で尋問が繰り返されていたのです。
オーストラリア軍の協力で施設の内部を詳細に再現しました。
尋問室の広さは8畳ほど。
窓は1つ。
四方は防音が施されたレンガの壁。
ここで1,105人の捕虜が尋問を受けていました。
残されていた13時間の録音。
初めに尋問を受けていたのが海軍主計大尉稲垣利一です。
ATISは英語を話す事ができた稲垣を重要な捕虜と位置づけていました。
日本の軍国主義への不信感をにじませる稲垣。
その背景には壮絶な戦場での体験がありました。
東京帝国大学で外交官を志していた稲垣。
その後学んだ海軍経理学校では中曽根康弘氏ら後に国の中枢を担う人物たちと同窓でした。
1942年8月。
稲垣は第15設営隊の主計大尉としてニューギニアのブナに上陸します。
日本軍の作戦は直線距離220キロ。
4,000メートル級の山脈を徒歩で越えポートモレスビー攻略を目指すという無謀なものでした。
まともな地図すら存在しないジャングルでの作戦はすぐに行き詰まります。
食料の供給は途絶え飢えと疲労で次々と倒れていく兵士たち。
連合軍の反攻の前に部隊は壊滅しました。
目の前で仲間が次々と死んでいく中稲垣も栄養失調とマラリアで生死の境をさまよっていました。
ジャングルに倒れて5日。
敵の兵士の接近に気付き稲垣は持っていた拳銃をこめかみにあて引き金を引きました。
しかし泥水にぬれた銃は作動せず捕らえられたのです。
ATISは日本軍の無謀な作戦を生き延びた稲垣の取り込みを画策していきます。
捕虜となって10か月。
尋問官は翻訳の仕事などで連合軍に協力するよう持ち掛けます。
連合軍への協力は戦争を早く終わらせる事につながると言う尋問官。
稲垣はその依頼を受け入れます。
しかし2日後決断に苦しむ稲垣の姿がありました。
戦争を早く終わらせれば多くの日本人の命を救う事ができる。
しかし連合軍に協力すれば裏切り者とされる。
稲垣は葛藤していました。
尋問官は日本のためにも一刻も早く決断すべきだと説得を続けました。
稲垣は一人密室で決断を迫られていました。
翌朝尋問官から答えを聞かれる前に稲垣は結論を伝えました。
およそ半年に及んだ尋問。
稲垣は連合軍への協力を決断しました。
次に録音が残されていたのが東部ニューギニアの戦いに帯同していた湯目國夫。
1944年4月捕虜となりました。
特務部にいたその経歴から軍の機密事項を追及されていました。
湯目は軍の情報を問われるままに答えていました。
その背景には日本人の特性を徹底的に調べ上げたATISの戦略がありました。
ATISの尋問官だったアリスター・ケントウェルさん。
僅かとなった当事者の一人です。
連合軍は膨大な捕虜の尋問を通じて日本人の特性や弱点を詳細に分析していました。
「日本人は捕虜になった事実を国や家族に知られる事をいやがる。
また仲間の死や日本軍から受けた扱い自国の戦況によって精神状態は異なる。
その行動は義理に影響されやすくひとたび厚遇を受けると一転して連合軍に協力するようになる」。
一方で日本兵たちは諜報戦略に対してまるで無防備でした。
捕虜になる前に自決せよと教え込まれていましたが生きて捕まったあとの対処はほとんど教育されていなかったのです。
尋問官の一人日系人のハリー・タナカさんです。
連合軍は捕虜からの情報を最大限活用していきました。
ATISのまとめによると尋問や文書の解析で日本軍の兵力や司令部の場所などを暴き各地の戦闘を有利に展開していったとしています。
1944年10月。
マッカーサー率いる連合軍がフィリピン・レイテ島に再上陸。
翌月東京への空襲が始まり日本は追い詰められていきます。
このころ捕らえられた日本兵の録音がありました。
尾方駒三郎兵長。
当時二十歳。
陸軍少年戦車兵学校を卒業したばかりの戦車の操縦手でした。
1945年1月。
尾方の所属していた戦車第7連隊はルソン島・サンマニュエルで全滅。
尾方は気を失っていたところを捕虜となりました。
尾方がこのあと尋問されていくのは日本軍が戦場で行った処刑についてでした。
連合軍はこのころから既に終戦に備え戦争犯罪に関する証拠集めを始めていたのです。
捕虜となる直前尾方はルソン島・リザールでゲリラ討伐作戦に参加していました。
当時部隊が駐屯していた小学校です。
尾方はここに捕らえられていたフィリピン人ゲリラの処刑を命じられました。
その詳細について告白を迫られていました。
尾方は「戦場での命令は絶対だ」と繰り返しました。
戦争犯罪に関する尋問。
それは軍の命令に従い続けてきた日本兵が密室で初めて一人の人間として戦争の意味と向き合う時間でした。
尾方が尋問のあと書き残した供述書が見つかりました。
「正当なる葬行を施せると確信す」。
自らの手で処刑したゲリラがしっかりと弔われていてほしいと願う気持ちがつづられていました。
帰国後戦場での行いは罪に問われなかった尾方。
68歳で亡くなっていました。
私たちは音源の存在を遺族に伝えました。
尾方駒三郎の三男巳木雄さんと四男徳明さんです。
(巳木雄)そうですねやっぱり字がうまかったから…。
本人の字ですね。
(尋問官)「説明してくれ」。
(尾方)「はあ…」。
(尋問官)「どうぞ」。
(尾方)「嫌です。
思い出すのも嫌です」。
(尋問官)「なぜ嫌?なぜ嫌ですか?」。
二十歳だった父の戦争。
2人が初めて知る葛藤でした。
(徳明)殺せという命令だと…。
戦争って枠組みに組み込まれてしまうともういやもおうもなくそういうものがやっぱりさせられるという…。
本当にそういう自分が聞いていたものと実際にはかなりもっと厳しい現実だったんだろうなという事を改めて思いました。
4人の子どもに恵まれ戦後を生き抜いた尾方駒三郎。
戦場での体験を語る事は亡くなるまでほとんどありませんでした。
捕虜たちが密室で向き合う事になった戦争。
尋問のあと自ら命を絶った捕虜もいました。
海軍横田茂樹3等水兵です。
ニューギニア・グッドイナフ島で捕虜となった横田。
告白を迫られていたのは所属した部隊による民間人の殺害についてでした。
女性と子どもを含むオーストラリア人の教会関係者7人が殺された事件です。
自らの関与を否定し続けていた横田。
「明日全てを話す」と語った日の夜収容所で自殺しました。
26歳でした。
太平洋戦争末期特攻など命を顧みない攻撃を続けていた日本。
連合軍は日本人を投降させる方法を探っていました。
その作戦に深く関わっていた捕虜がいました。
苦悩の末に連合軍への協力を決断した稲垣利一です。
尋問の最後の日の録音には続きがありました。
心理戦を担っていた諜報組織の幹部が出迎えていたのです。
「協力してよかったと思える日が来る」。
最後にそう伝えられ稲垣は尋問所を出ました。
今回オーストラリアで稲垣のその後の足取りが発見されました。
稲垣はジョージと名を変え諜報組織FELOの一員となっていたのです。
表には出る事のなかった内部文書にその存在が記されていました。
(取材者)「日本兵捕虜のジョージ・イナガキ。
つまり稲垣利一がいかに優秀な日本人で日本兵に対して投降を呼びかける大切な役割を果たした」と。
連合軍の秘密組織FELO。
日本軍の士気を低下させ戦闘能力を奪う心理戦を担っていました。
その手段として重視したのが前線で散布するビラ。
南太平洋の島々で抵抗を続ける日本兵に投降を呼びかけるのが主な目的でした。
FELOが作ったビラです。
事実に基づく内容を原則として日本軍の最新の戦況を伝え続けました。
このビラの原案を考える中心的な役割を担っていたのが稲垣でした。
今回稲垣が書いた草稿が見つかりました。
戦場で多くの仲間を失った稲垣。
FELOのビラは900人を超える日本兵の投降につながったとされています。
FELO時代の稲垣を知る人物に会う事ができました。
亡くなった夫のアルフレッド・ブルックスさんは尋問の最後の日に稲垣を迎えに来たFELOの幹部でした。
稲垣と共に果たした投降作戦の功績で戦後国の諜報機関の初代長官に就任しました。
一方稲垣は終戦から3か月後の1945年11月に帰国。
その後二度と連絡はありませんでした。
稲垣利一は11年前に87歳で亡くなっていました。
(取材者)こんにちは。
よろしくお願い致します。
おじは生きていたら来年で100歳のはずだったんです。
戦後稲垣は海外の出版物を翻訳する仕事に打ち込みました。
密室での決断を一人背負い続けた稲垣。
戦争について尋ねても詳しく語ろうとはしなかったといいます。
(音声レコードの再生)これだけ苦しい決断をしたって事はやっぱりずっと自分の胸の中にしまってたんでしょうかね。
僕たちにも一切そういう話はしなくて。
やっぱりどこか心の奥深くにとても何か深い悲しみとかやっぱりむなしさとかそういうものがあるのではないかなと思った事がありまして。
戦後もずっと持ち続けた苦しみの謎がちょっと解けたような気もしますね。
密室で自らの戦争と向き合った日本人捕虜たち。
70年前の肉声が今私たちに突きつけるメッセージです。
2015/08/02(日) 21:00〜21:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「密室の戦争〜発掘・日本人捕虜の肉声〜」[字]
70年以上埋もれていた戦争の“新たな真実”が発見された。第二次大戦中、アジアの激戦地で捕虜となった日本兵。その尋問の様子を録音した膨大な音源が見つかったのだ。
詳細情報
番組内容
取材班は発見された70年前の音源を最新のデジタル技術で修復・解析。その音源の内容は驚くべきものだった。地獄の戦場を生き抜いた日本兵捕虜の壮絶な告白、国への忠誠と葛藤、そして連合軍に筒抜けとなっていた機密事項…。音源の分析から、尋問が行われた連合軍の「秘密尋問所」の場所を特定、知られざる諜報戦の実態が浮かび上がってきた。現代によみがえる「密室の攻防」を通じて歴史の闇に埋もれてきた戦争の真実を伝える。
出演者
【語り】長谷川勝彦
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番
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