NHK広島放送局の前に建つ原爆慰霊碑。
中から取り出されたのは被爆した職員の名簿です。
全職員のうち三十数人がその年のうちに亡くなりました。
昭和20年8月6日。
NHK広島の前身広島中央放送局は爆心地から1キロの所で被爆しました。
生き残った職員が目にしたのは外に広がる壮絶な光景でした。
この惨状を一刻も早く伝えなければならない。
職員たちは奔走します。
そして24時間後市民にラジオ放送を届けました。
70年前の8月6日。
被爆した職員たちはどのような思いを抱き何を伝えようとしたのか見つめます。
世界で初めて原子爆弾による被害を受けた…原爆ドームの程近くに現在のNHK広島放送局はあります。
被爆後70年にわたって原爆関連のニュースや番組を制作。
放送し続けてきました。
伝えようとしてきたのは原爆によって失われた尊い人々の命。
そして長い間被爆者が心に閉じ込めてきたつらい記憶です。
更に最新の科学の力や資料の掘り起こしによって原爆投下がいかに人間の尊厳を奪っていったかを伝えてきました。
放送の原点となった場所が爆心地から1キロ離れた所にあります。
食料品店の壁に掲げられたプレートにはかつてこの場所に広島中央放送局があったと記されています。
広島中央放送局は昭和3年開局。
当時115名の職員がいました。
ラジオの放送局としてニュースや体操料理演芸などの番組を放送していました。
戦争が始まると放送は軍の統制下に入っていきます。
娯楽番組が減る一方空襲から市民を守るために軍による空襲警報を伝える事が大きな役割となっていました。
(ラジオ)「敵の編隊11機は14時10分潮岬に到達し北に進んでおります」。
そうした中で原爆の直撃を受けた広島中央放送局。
職員たちはどのような思いで24時間後に放送を再開させたのか。
残された資料や証言から探りました。
放送の再開に向けて奔走し証言を残した一人技術部の…8時過ぎ。
寺川職員は2階にあるラジオを送出する調整室で夜勤明けの交代を待っていました。
その時突然窓の外から敵機が襲来したという声を聞きます。
軍からの連絡はありませんでした。
電話のあとようやく軍から連絡が届きます。
空襲警報を出そうとしたその時でした。
土やほこりが舞う中で窓を開けると次第に町の様子が見えてきました。
放送局の中の機器は壊滅。
寺川職員は残された連絡線を手に取り近隣の放送局に呼びかけ続けましたがつながりません。
その時顔や手足に大やけどを負い上の階から下りてきた人がいました。
上司の…田中課長はその時いた屋上で被爆。
全身に熱線を浴びていました。
火が迫る中寺川職員に指示を出します。
大阪小倉松山松江。
寺川職員は連絡を取り続けました。
どこからも応答がない中1つだけつながった場所がありました。
5キロ北にある電波塔で臨時の放送施設がありました。
そこにいた職員からは機器が壊れていると報告を受けます。
この時広島中央放送局には目の前にまで火が迫っていました。
市内の惨状を伝えるためには原放送所に向かい放送機能を回復させるしかありませんでした。
外に出ると目の前には息絶えた人々やうめき声を上げる人々の姿がありました。
そして職員たちは足元を見た時強い衝撃を受けます。
赤ん坊が全身血だらけになりながら玄関の階段をはい上がってきたのです。
その赤ん坊を寺川職員は近くに横たわっていた女性のところに運びます。
母親であるならせめて腕の中に戻してあげたい。
その一心でした。
瀕死の職員を目の当たりにしながらも放送の再開に向け奔走した人がいます。
技術部の…森川職員は出勤し階段の踊り場にさしかかった時に被爆。
その直後2階から転げ落ちてきた人がいました。
放送部の職員でした。
「抱いている手に何かずるずるしたものを感ず。
血だ。
血だるまだ」。
実は2階にいたこの職員窓から入ってきた爆風に吹き飛ばされそのまま階段を転げ落ちてきたのです。
森川職員は抱きかかえながら階段を下りてほかの職員に託しました。
ただならぬ状況を早く伝えなければと調整室に向かったのです。
後に息子の高明さんにこの時の事を話していました。
森川職員は田中課長を背負った寺川職員と共に原放送所へ向かいます。
放送を再開させようと思ったのです。
道中には助けを求める人々の群れ。
しかし何もする事はできませんでした。
常盤橋にさしかかった時大きな困難に直面します。
火災は市内の広範囲で起こり北へ向かう道もほとんど火で覆われていたのです。
「あび叫喚の生き地獄である」。
この時田中課長は容体が悪化。
声が弱々しくなっていましたが寺川職員は背負ったまま川の中を進む事にします。
川に入ろうとする職員たちに兵隊が声をかけてきました。
職員たちは渡された丸太を浮き輪代わりにして川の中を進みました。
田中課長を背負っていた寺川職員は時には首までつかりながら1時間で200メートルずつ進みました。
このほかにも放送局で被爆した多くの職員が体に傷を負いながら原放送所に向かいました。
山崎みと子さんもその一人です。
炎を避けながら北を目指したといいます。
放送所の近くにたどりついた職員たちの姿を目撃した人がいます。
当時女学生だった水戸井秋子さんです。
職員たちが原放送所にたどりついたのはその日の午後。
使う事ができた連絡線で呼びかけます。
岡山放送局から応答がありました。
すぐに広島の状況を伝えます。
「六日午前八時十六分ごろ敵の大型機一機ないし二機広島市上空に飛来し一発ないし二発の特殊爆弾を投下した。
これがため広島市は全焼し死者およそ十七万の損害を受けた」。
しかしこの情報は軍の検閲を受け放送される事はありませんでした。
職員たちは放送機器の修理を続けます。
その後瀕死の重傷を負っていた田中課長もその中に合流。
復旧作業を見守りました。
そして原爆投下から24時間後。
職員たちはついにラジオを再開させます。
放送したのは広島県知事が発した言葉でした。
大きな被害を受けた広島の人たち。
心からの哀悼の気持ちと励ましを初めて伝える内容でした。
自らも被爆し直後の惨状を目の当たりにしてきた職員たち。
何としても伝えたいと思った結果の放送でした。
最後まで放送を諦めるなと言った田中課長は2日後息を引き取りました。
田中課長の娘幸子さんです。
家族で原放送所に駆けつけ父の最期をみとっていました。
その後生き残った職員たちは放送に携わり続けました。
寺川職員は30年後当時を振り返りこのような言葉を残しています。
(寺川)もう1分ほど警報が早かったらと思いますよね。
もう1分早かったらですねまだ何万かが生きたと思いますよ」。
そして決して忘れる事のできなかった光景があったといいます。
3〜4日して仕事の都合で来る事がありまして来たらですね…原爆投下の24時間後に放送を再開させた原放送所は今も電波を発信し続けています。
70年にわたり原爆関連の番組を放送してきたNHK広島放送局。
原爆によって失われた人々の営みそして被爆者が抱えてきた思いを伝えてきました。
あの日の職員たちが抱いた思いは今も受け継がれています。
2015/08/03(月) 15:15〜15:41
NHK総合1・神戸
ろーかる直送便 被爆70年特集「焦土の放送局〜ラジオ放送を再開せよ〜」[字]
昭和20年8月6日、原爆投下。その24時間後にラジオ放送を再開させた放送局がある。NHK広島放送局。被爆した職員は何を伝えようとしたのかメッセージを見つめ直す。
詳細情報
番組内容
昭和20年8月6日、原爆投下。爆心地から1キロの放送局にいた人々は24時間後にラジオ放送を再開させた。広島中央放送局、現在のNHK広島放送局だ。生き残った職員が目にしたのは、息絶えた人々やうめき声を上げる人々の姿。この惨状を一刻も早く伝えなければならないと職員は奔走する。残された資料や証言などを元に徹底取材。被爆した職員たちはどのような思いを抱きながら24時間後の放送を再開させたのか、迫る。
ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ニュース/報道 – ローカル・地域
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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