2015年08月03日
2015年08月01日
もう川上には向かわない。
嫌いなものの役割。
それは、自分の好きなものを知るためだけにある。
だから、それを知ったら、嫌いなものにはもう縁する必要はない。
何故なら、否定すると、批判すると、抵抗すると、自分が求めるものとは反対の波動が活性化してしまうからだ。
つまり、望まない引き寄せをしてしまう。
「〜は嫌いだ」、「〜はしたくない」、「〜するな」、「〜は駄目だ」、「〜してはいけない」…。
私はもう、こんな否定の言葉は使いたくない。
否定の言葉を使いそうになったら、自分の望むことを正直に言葉にしたい。
「〜が好きだ」、「〜したい」、「〜が欲しい」、「〜して欲しい」、
「必ず〜になる」、「必ず〜が手に入る」、「今そこに向かっている」、「絶対に大丈夫だ」と…。
否定と肯定の波動では、エネルギーが全く違う。
ネガティブな波動(エネルギー)は、ネガティブな物事をどんどん引き寄せる。
常に望まないものではなく、望むものだけを見つめていたい。
嫌いなものと接する時間・期間は、短ければ短いほどいい。
できれば、縁しないことが望ましい。
だが、我慢や苦労を美徳として学んできた私たちは、自虐的なのだがそんな苦痛な世界に出来るだけ自分の身を置こうとするところがある。
全くナンセンスな話だ。
仕事、恋愛、家族、人間関係など、全ての心地良くない状況・感情に耐えることが多い。
だが、状況や感情が自分の望まないものであるなら、すぐに望むものを見つめるべきだ。
望むものに変える努力をすべきだ。
状況が変わらないのなら、少なくともその状況から身を離すべきだ。
自分を大切にしなくてはいけない。
自分を大切にしないと、人生は全くうまくいかないのだ。
私たちは、決して自分を苦しませるために生まれてきたのではない。
自分の本音に素直に耳を傾けなくてはならない。
私はずっと、自分を脇に置いて人生を生きてきた。
信仰という信念や、理想主義、自虐的なマインドコントロールもあったと思う。
そのせいで、私の人生は本当に複雑なややこしいものになってしまった。
自分を犠牲にして生きる道を選んでしまった。
自分のための人生を見つめ始めて、やっと私の人生は整ってきた。
今は、ここにたどり着けて本当に良かったと思っている。
出会ってまもなくサラが、繰り返し私に、「少し羽を休めた方がいい…」と言った。
私はそれに抵抗したが、今はそうなれて良かったと思っている。
サラは、私にそのことを告げに来てくれた。
私はそう思っている。
「もう店を閉める時ですよ…」と。
確かに私は、突っ走った2年間でほとんどの経験を終え、そして既に見えていた自分の姿や自分の世界があった。
でも、私はそれに抵抗した。
私は、自分に嘘をつきながら、自分を騙しながら毎日を生きていた。
流れに逆らい必死でオールを漕いで、更に川上に登ろうとしていたんだ。
自分の価値を更に証明しようとしてね。
でも結局それは幻想だった。
私が、本当の自分に生きていなかったからだ。
自分の本音を受け入れる迄に、私はそれから4年以上かかってしまった。
そして、彼女は最後まで私に寄り添ってくれた。
見守ってくれた。
店の引き揚げも、彼女の力を借りて終えた。
本当に感謝しています。
嫌いなこと、望まないものは、ちらりとだけ経験するのが望ましい。
私たちが望むのは、決して望まないものに囲まれる人生ではないからだ。
望まない物事が分かれば、自分を救うことができる。
望むものを見つめればいいからだ。
望むものに波動を定めればいいからだ。
望むものが分からなくなったら、心地良くない「もの・こと・人」を、ちょっとだけ思い出してもいい。
私は、自分の望むもの、心地良いものの方をなかなか向けなかったせいで、本当に遠回りの人生を歩んでしまった。
今は、自分に対して本当に申し訳なかったと思っている。
だが、私にとっては残念だが、その道が必要だったのだ。
今は、本当に自分を愛してあげられている。
観念して、それを自分に受け入れたからだ。
今はもう、自分に苦痛を与えるようなことは絶対にしたくない。
ネガテイブな感情でいて、人生がうまくいくはずがないことが、よくよく分かったからだ。
自分の感じる気分・感情は、自分にとっての真実だということが、よく分かった。
だが、ここにたどり着けたのは、間違いなくサラのお陰だ。
でも彼女は、「全て、あなた(私)が自分で引き出した世界だ」と言う。
「うーん」…。 (笑)
確かにそうなのだろうけれど…。
でも、とにかく私は、サラに感謝しているのです。
引き寄せの仕組みを理解(納得)するより、サラに感謝をしている方が私には心地良いので、私はこれでいいと思っています。
引き寄せの法則は、所詮私の僕(しもべ)であって、感じる感情こそが引き寄せの主人ですからね。
心地良いこの感謝の感情にいる限り、私は更に同じ心地良い引き寄せをしているのです。
つまり、更にありがたいということだ。
だから、全てがうまく、永遠に続いているのです。
ありがとう。
2015年07月30日
思考を通じて招き入れない限り。
(これだけですか?) (笑)
我慢は、「内なる存在」(内なる自分)と調和したあり方ではない。
「内なる存在」と調和していて、ネガティブな気分になることはないからだ。
つまりそれは、自分の望むものを見つめていないということだ。
不足や欠落を見つめているということだ。
「内なる存在」との調和は、心地よい物事(望むもの)に焦点を定めない限り実現しない。
自分の感情を感じて、思考の方向を定めることだ。
ネガティブな気分でいて、自由であることはあり得ない。
ただし、本当に望むものを見つめていてネガティブな気分になるのであれば、その物事に対するネガティブな観念(思い込み)が存在しているということだ。
「絶対に手に入らない」とか。
「手に入れるのは難しい」とか。
「手にしてはいけない」とか…。
先ずは、その抱えている観念を、ポジティブなものに換える必要がある。
自分で自分を阻止しながら、前に進むことはできない。
全ての現実を創っているのは、100%自分なのだ。
自分以外に世界を止めているものなど何もない。
また、何かを正当化したくなるのは、ネガティブなモードに入っている証拠だ。
望むものに焦点を定める代わりに、望まないものを見つめながら「自分の望みは正しい」と他人を説得しようとする。
だが、そんな必要などない。
欲求を、信念を、持って当然なのだから。
自分が無価値だと考えると、ネガティブな気分になる。
それは、自分の思考が、「内なる存在」(内なる自分)と調和していないからだ。
自分の望みに抵抗する必要などない。
神(例えですよ…)は、誰も責めたりしない。(神などいない)
私は、自分の価値を証明するために生きているのではない。
私は、全ての自分の欲求に焦点を定めて、人生を自分の望むままに創造するためだけに生まれた。
他人の要求には一貫性がないから、私が他人を喜ばせようとじたばたしたところで、結局私はいつも失敗する。
私は、ただ自分の欲求だけを見つめて、自由に望む人生を完璧に創造する。
そして、人もそれぞれの人生を、自由に完璧に創造する。
誰も、誰にも、何にも邪魔される必要などない。
自分の人生が、他人の言葉や行動などに、全く影響されずにすむことが理解できるまで、他人を認める気持ちにはなれないだろう。
誰も、何も、自分を脅かすことなどできない。
全ての人は、自分の思い通りの世界を、100%自由に創造できるのだ。
ならば、世界に壁やバリケードや警察や軍隊などが必要だろうか?
警備や防衛を準備する必要などあるだろうか?
自分が思考を通じて招き入れない限り、望まないことは自分の経験には絶対に入って来れない。
自分がネガティブな思考に焦点を定めないなら、人生に脅威や危機感を感じる必要はない。
そのことが分からないうちは、絶対的な自由を手にすることはできないだろう。
不安や心配は、永遠になくならないだろう。
2015年07月29日
ブログ。
このブログも、ほぼ毎日書き続けてまる7年を迎える。
お店を開業しなかったら絶対にしなかったことだ。
「他人の日記なんて誰が読むか?」と思っていた。
でも、お店のホームページがなかったため、お客さんの勧めでとりあえず始めた。
店の住所も電話番号も、私の写真も載せていたので、逆に正直に自分の本音を表現できて良かったと思う。
人に向けた毒舌も結構あったけれど、その選択をした意味は、ただ自分が知っていればいい。
でも、私が正直に自分に生きたことで、シンクロした人は必ずその都度私から何かを受け取ったはずだ。
いいか悪いかではなく、私が生身の自分をさらけ出すことが重要だった。
ネットの世界になど全く興味のなかった私が、このブログのお陰でとりあえずは毎日ネットとつながっているのが本当に不思議だ。
私は虚栄(見栄)が嫌いだ。
だから、いいも悪いもいつも正直に自分と向き合いながら生きてきた。
確かに人生には、自分にもどうしようもないことも沢山あった。
しかし、それは仕方がない。
人生には、どうしたって変わらないことが実際にあるのだ。
でも、そこには変わらない、変わってはいけないポジティブな何らかの意味がある。
だから、生意気な見方をしてはいけない。
宇宙を信頼しなくてはいけない。
精一杯やっても駄目なときがある。
やる気にならないときもある。
何をすればいいのか分からないときもある。
何もしたくないときだってある。
でも、そんなときは、「じっとして何もするな」ということだ。
まだ動き出す状況が整っていないということだ。
動き出すのは、突き動かされたときであり、インスピレーションを受け行動がひらめいたときだ。
たとえそれに何年かかろうと、たとえ一生を費やそうと。
いずれにしても、物事を引き起こすのは、行動ではなくあり方だ。
気分が悪いときに、その気がないときに無理やり動いても、空回りし、否定的な思いや感情ばかりが自分から出て行く。
苦痛であり、全く生産的ではない。
どうしようもないときは、じっとしているしかない。
それを抵抗せず受け入れることだ。
今その状況で、恩恵を受けているとても大切な何かが絶対にあるはずだ。
そのお陰で成り立っている状況・世界が必ずある。
全てのものが、人が、バランスをとろうと常に変化し続けている。
世界は、当事者は、常に一体だ。
自分が本当の自分になることで世界も整う。
波動(引き寄せ・引き離し)の法則で、常に今の自分に合った「もの・こと・人」が整っている。
今の自分に合うものは引き寄せられ、今の自分に合わないものは引き離されている。
私が正直な自分に生きることで、私と波動の違う人は、たとえ私と離れても別れても、本当の自分に生きる決意・決断ができるだろう。
それでいいのだ。
正直な自分を見せることが、私のこのブログの役割だったと思う。
決して他人を傷つける目的でしているブログではない。
ただ、私がその都度、「本当の自分に生きる」ということを譲らないだけだ。
誰かが傷つくかどうかは、私のせいではない。
私はどんなことがあっても決して傷つかないし、サラもそうだ。
人生は傷つくためにあるのではなく、「自分が学ぶ必要があるものは学ぶ」、ただそれだけだ。
自分に必要のないものには素通りする。
それでいい。
自分には全く関係ないのだから。
「意味のないものは自分の世界には現れない」、それが私にとっての真実だ。
「全てが自分の引き出している世界だ」、それも私にとっては真実だ。
外側から学ぶことが本当に多い。
その意味では、全ての人が自分の鏡だ。
鏡に映った自分の姿の一部だ。
自分の嫌いなものを映し出してくれる人もいる。
それで、私は自分が何が好きで、何が嫌いかが分かる。
嫌いなものが分かれば、好きなものが分かる。
嫌いなものは、私が望まないものだ。
大好きなものは、私が大いに望むものだ。
私は自分の望まないものを知りながら、自分の望むものを知ってきた。
そういうプロセスが必要だったということだ。
だがこれからは、いちいち望まないものを知らなくても、正直に自分の望むものをどんどん知っていきたいと思っている。
毎日書き続けてきたこのブログは、私が自分と正直に向き合うためだけに存在しているし、ここには私の本当の姿がある。
お客さんにブログを紹介しても、「ネットの世界は信じられないからブログは読まない」、「私はここで(お店で)いつも本物のマスターに会っているからそれで充分だ」と言うお客さんもいたが、そういう人はちょっと悲しい。 (笑)
自分の好きなものしか受け入れる気のない人に、たとえ好きだと言われたところで、私はそれを受け入れることは出来ない。
それはその人の一方的な妄想に過ぎないし、その人のオナニー(例えですよ…)に過ぎないからだ。
私は、人のオナニーに付き合うために存在してるわけではない。
私は、いつもただ自分のためだけに存在している。
お店をやっていると(商売という形をとっていると、お代をいただいていると)、それが分からない人々と接することも多々あったけれど、そういう意味では今の私は本当に平和で幸せだ。
「不思議だが、何故だか今は毎日幸せだ…」とブログに書くと、私はサラに「それは自分が引き出した世界で、自分で引き出している世界でしょう?」と言われる。 (笑)
そうかあ。 やっぱりそうなんだ…。 (笑)
確かに私は、どうあれ自分の望む状況を完璧に整え、引き寄せ、実現した。
自分のことは、なかなか客観的には掌握できないのだが、今はその都度サラにコメントしてもらうことで、自分自身を客観的に肯定できている。
毎日こうしてブログを書きながら自分と向き合い、そして自分では気づかない自分自身のことを、サラが客観的に教えてくれる。
本当にありがたいことだ。
一定時間を割いて毎日こうして入力画面に向き合うことは、確かに本当にしんどいのだが、それでもこの作業のお陰で、私はその都度自分の本当の姿や本音を知ることができるので、このブログは私にとってはとても貴重な存在だと思っています。
ありがとう。
2015年07月27日
泥はかぶらない。
本心・本音を語らない人とつながることは、つまらない。
それを全く語れない人もいる。
そんな人とコミュニケーションを取ろうとすることは、とても困難であり疲れる。
喜びや悲しみなど、感情を共有することができない。
自分の感情を、自分でうまく把握できないということがあるためだろうか。
また、感情をうまく言葉で説明できないということもあるだろう。
そして、そもそも自分の感情に関心がない、感情を自由に感じていいと思っていないということもある。
感情を大切にしていない、感情を殺してしまっているということもあるかもしれない。
だがどうあれ、本心・本音を語らない人・語れない人とつながることは、情緒の未発達な子供や言葉の話せない赤ちゃんのお守りをするようものだ。
それが重荷になり、ネガティブな見方をするようになると、それはある意味泥をかぶるということになる。
フォローする、何かを守る、何かを背負う、犠牲になり、命を捧げるということだ。
だが、優しさがなければ、強さがなければ、愛がなければ決して泥はかぶれない。
それはある意味、主体的、積極的、献身的な愛だ。
そして、泥をかぶるということは、実は「繰り返し迎えに行く」ということだ。
だが、エゴの殻を抱えている人は、泥をかぶれないし、かぶらない。
つまり、迎えに行けないし、行かない。
そして、傷つくのを怖れる弱い人、臆病な人、劣等感のある人も、泥をかぶれないし、かぶらない。
また、傲慢な人、自惚れてる人、虚栄の人、ずるい人、卑怯な人等も同じだ。
そんな人たちは、悲しいけれど迎えには行けない、行かない人たちだ。
それらの人たちは、人に嫉妬し、人の足を引っ張り、人に責任をなすりつけ、人を悪者にしようとすることもある。
なぜなら、愛がないからだ。
強さが、優しさがないからだ。
愛に飢えているからだ。
自分のことで精一杯だからだ。
そんな人は、無償の愛に生きることはできない。
人を怖れ、人に怯え、人を憎み、自分を嫌い、幸せに抵抗する。
だがそれは、本当に悲しいことだ。
私とサラは、泥をかぶることは互いにもうやめた人間だ。
でもそれを、今でも決してできないわけではない。
ただ今はもうしないだけだ。
私たちは、劣等感のある、傲慢な、臆病な、ずるい、卑怯な、愛のない人間ではない。
なぜなら、それをしない(しなかった)人間ではないからだ。
だから、愛のない人間とは根本的に違う。
逆に、人並み以上に愛の深い、異常なくらい犠牲的な、変態的な人種だ。
昔は、いつだって本当に人のために死ねるくらいだった。
実際に、互いに何度も死んでいる。
同じ人間でも、皆それぞれ人生のレールは違うはずだ。
でも、私たち二人は同じレールの上で出会った。
でも、互いにそのレールはもう降りた。
二人で一緒に降りたわけではない。
たまたま同じタイミングで、なぜだか何かに互いに降ろされた。
二人別々に降りた。
たまたま二人は、同じ時期に泥をかぶる人生をやめたということだ。
互いに、もうそれをやめると決めたとき、なぜだか私たち二人は出会った。
ただ、それだけのことだ。
もう決して泥はかぶらない二人。
泥はかぶらないというのが、出会ったときの私たち二人の共通の価値観であり、スタンスだった。
今は互いに、ただ自分自身を大切に生きている。
だから私は、私たち二人は、相手に泥をかぶせるようなことも、互いに決してしないと思っている。
サラのブログ。
http://blogsara.seesaa.net/
2015年07月26日
譲れない道。
愛ある人の行動というものがある。
そして、愛のない人の行動というものがある。
常に、その人の行動は、愛があってのことなのか?と考えてみたらいい。
自分だったらどうするだろうか?そうするだろうか?と考えたら、すぐにわかるものだ。
お人好しではいけない。
劣等感や自己否定を抱えていてはいけない。
人に甘いと、自分にすきがあると、善意や優しさが粗末にされ、踏みにじられもする。
感謝のできない人なら、その人とは明確に距離を置かなくてはならない。
精神的に成熟していない、幼稚な、自分勝手な、自分本位な人は、どうあれダメだ。
人の本質を見る確かな目が必要だ。
人生で一番大切なものは何か?
それは人間性だと、私ははっきりと言い切る。
信頼できる人物かどうかということ。
何を持っていなくてもね。
何かを持っている人は、逆に、狂っている(傲慢な)ことも多いものだ。
私には、譲れない道というものが明確にある。
決して人を自分の手段にしてはいけない。
でも、自分を人の手段にさせてもいけない。
そして、人の不幸(犠牲)の上に、自分の幸せを築いてはいけない。
でも、自分の不幸(犠牲)の上に、人の幸せを築かせてもいけない。
その意識(バランス)を明確に持っていない人とは、私は絶対につながらない。
何も考えていない人とは、やっぱり無理だ。
私は、人を利用するのも嫌だし、利用されるのも嫌なのだ。
また、利用されたと言うのも、利用されたと言われるのも嫌だ。
被害者になることも、加害者になることも、私は望んではいない。
でも世の中には、そんなことを全く考えもしない、目覚めていない夢遊病者のような人たちが、まだいくらかいるだろうか?
今私の周りには、それらのものは何一つない。
今私の周りにあるものは、本当に不思議だが「愛」だけだ。
でもこれでいい。
これが当たり前だからだ。
自分が実現している世界には、私が必要としない「もの・こと・人」は決して入り込めない。
私が自分の望むものだけを見つめているからだ。
それが、波動の法則であり、引き離しの法則だ。
2015年07月25日
波動の法則。
幸せになるということ。
それは自分のために生きるということ。
自分に正直に生きるということ。
自分の本音に生きるということ。
自分の直感に生きるということ。
自分にとって必要な「もの・こと・人」というものがある。
それは、心地良いか・悪いかという感覚で分かる。
感覚を信じない人は、感情を信じない人は、直感を信じない人は、宇宙を、ハイヤーセルフを、内なる自分を知らない人だ。
それらを恐れ、疑い、抵抗する人だ。
私たちは、いつだって幸せ(愛)に導かれているのに。
今の私は、自分を心地悪くする環境・状況には、決して自分の身は置かない。
心地悪い「もの・こと・人」は身の回りに絶対に置かない。
波動が違う人とは明確に距離を置く。
一体感が感じられない。
共鳴し合わないからだ。
だがそれは、私に縁する人も、逆の立場から全く同じことが言えるだろう。
だから、私の思考(考え方)や振る舞いが心地悪い人は、私とは縁は結べない、つまり縁がないということだ。
互いにそれを明確に認め合うことが必要だ。
どちらがいいとか悪いとか、正しいとか間違っているということでは決してない。
ただ、それぞれの本質が違う、それぞれ別に生きる道があるということだ。
私には私の道があり、心地良いものと悪いものがある。
そして私は、心地悪いものとは明確に距離を置く。
特に人間性や人格、生活スタイル(生き方の姿勢)等に関わることについては、私は決して妥協しない。
だから、私と縁したい人は、どうしたって私が好む波動・周波数になるしかない。
もしその人がそれを望まず、選ばないのなら、私とつながることは永遠にないだろう。
その人にとって心地良いものが、私にとって心地悪いのなら、残念だがその人は私とは縁はない。
もし私が自分の心地悪いものとつながっても、私は自分の波動を下げるだけだからだ。
気分も体調も悪くなるし、そもそも人生が下降する。
私の一番大切にしている「自分に生きる」という世界からも遠のく。
そして、更に望まない引き寄せまでしてしまう。
多くの人は、私が理解していることを受け入れる準備ができていないかもしれないが、準備ができている人もいる。
私を理解できない人にとっては、私は全く価値がない。
だが、私を受け入れる準備ができている人にとっては、私は相当価値がある。
準備ができている人は、必ず引き寄せの法則で私に引き寄せられる。
だが、準備ができない人は、引き離しの法則で、既に私からどんどん引き離されている。
私は誰に遠慮することもなく、ただ自分の波動(周波数)を無限に上げていく。
それが、私が私になる必然的な道だからだ。
縁があるかどうか(波動が一致するかどうか)ということだけが大切だ。
2015年07月24日
思い出。
思いつくままに、少しお店の思い出を書いてみる。
まとまりは全然ない。
本当に思いつくままだ。
店を開いたことで、経験できたことが本当に沢山ある。
お客様からお金(現金)を頂戴するということもそうだ。
この経験はなかなか貴重だと思う。
自営の道の醍醐味だね。
ありがたいことです。
本当に沢山の人が店に出入りした。
一人で来る人、大人数で来る人、昼に来る人、夜に来る人。
私に会いに来る人、弾き語り(ライブ)をしに来る人、普通に喫茶店として利用しに来る人。
基本的に音楽の店としてやっていたので、音楽好きな人が集まってきたのは事実。
ライブができるという広告をしてからは、弾き語りをする音楽人間が集まった。
でも、別に音楽に興味がなくても、店が気に入り、私を気に入ってくれて通ってくれた人が多い。
ご婦人方を含め、お昼からビールやワインやウィスキーなどお酒を飲んでくれる人たちも沢山いた。
ボトルも入れてくれた。(キープしてくれた)
私もご馳走されたりしながら一緒にお酒を飲んで、リラックスしてやっていた。
2年間は店の基盤を作るのに一人で奔走した。
夜中まで、たとえお客さんが誰も来なくても、居眠りをしながらでもじっと耐えて待っていた。(笑)
一通りのチャレンジを経験し、色々なことを終えた頃、やっとサラが店に登場してくれた。
そして、彼女と色々と深い話(スピ話など)をするようになって、何かがはっきりと見えてきた。
原点に帰ろうと思えたのだと思う。
実際私は、既にライブハウスの方向には見切りをつけていた。
沢山のツアーミュージションからのライブ依頼の問い合わせも来るようにはなっていたが、私がしたいのはライブハウスではないということは既にはっきりしていた。
元々音楽をかける店のイメージはあったが、ライブハウスのイメージはなかったんだ。
全てのお客さんの心に寄り添うために始めた店だった。
店内は、洋楽・邦楽、フォーク、ロック、ジャズ、クラッシックなど、いつもできるだけお客さんの好みに合わせて選曲し音楽をかけていた。
お客さんには、素敵な音楽を聴きながら、本棚の本を手にしてもらって、それぞれにゆったりまったりしてほしい、そんな音楽喫茶&ブックカフェのイメージだったんだ。
実際、店が混んでいて私の手が回らない時には、私はみんなにかまってあげることはできないから、店内はごく普通の音楽喫茶・ブックカフェになっていた。
でも、普段は常連さんが一人二人と少しずつ来る、決していつも混み合っている店ではなかったし、店のスペースが決して広い空間ではなかったから、私がお声をかけなければお客さんが少し息苦しく、窮屈な感じに思えたんだ。
それで、手があく時には、お客さんが少ない特には、私はいつも自分からお客さんに声をかけて、色々とお話のお相手をしていた。
初めてのお客さんでも必ず私が話しかけるので、多分その会話が心地よい人だけが通ってくるという店だったと思う。
でも、みな繰り返し通ってくれた。
そして私は、リクエストに答えて、毎日のように弾き語りで歌も歌った。
お客さんたちも弾き語りのできる人は、みな私の店の小さなステージ(スペース・笑)で歌を歌った。
昼からお酒も飲めて、マスターが親切な対応で話を聞いてくれて、しまいにはマスターや色々な人の歌も聞ける。
実際、結構いけてるお店だっと思う。
老若男女一体となって、みな本当に喜び、楽しんでくれた。
マスターは、どんな話にも対応してくれる。
どんな話も聞いてくれて、優しい励ましをしてくれる。
マスターと会うと、いつも元気にしてもらえる。
マスターはとにかく誉めてくれる。
色々な状況も、困っていることも、嫌なことも、悩みも愚痴も、マスターは全部受け入れてくれる。
そして、マスターを慕って店に通ってくる常連さんが本当に多い。
そして、必ず知らない人(お客さん)は、マスターが紹介してくれて、仲を取り持ってくれる。
だから、世代を超えて、性別も職業も、学生だったり主婦だったりと様々な状況を超えて、店に来ると知り合いになれる。
そんな店だった。
私がそれを作っていたからだ。
私はそれをいつも真剣に、完璧にやっていた。
一人でしてる店だったから、5人6人と団体で来られるお客さんには、結構大変だった。
食事をされて、珈琲などそれぞれのお好みのドリンクを飲まれることがほとんどだったが、一通り落ち着くまでの時間は、私は戦争だった。
お客さんが帰られ、片付けや洗い物を終えるまでの仕事はそれなりにしんどかった。
またそういう流れの時は、次々とお客さんが入ってきて、あれよあれよという間に店が混み合ってしまう。
初めの頃は、夜は10人〜15人位の団体さんの貸切も結構やった。
それも、準備や終わってからの洗い物・後片付けや掃除等大変だった。
ライブのイベントも結構やった。
そんな風にして、一通りの経験をして、自分が何をしたいのかしたくないのかが明確になってきた。
まあ、右も左も分からない素人が始めた店だったから、仕方もないのだが。
そんな素人が店をやるなんてことは、そうそうないのだろう。(笑)
色々な思い出がある。
音楽人間とのつながりも沢山持てた。
手料理や果物・お菓子、ケーキやお酒、手作りの飾り物、雑誌・CD・文房具、洋服・お花など、いただいたものは本当に数知れない。
お代以上にお金を頂戴することもしばしばだった。
みな私にお布施をくれた。(笑)
本当に皆さんに親切にされた。
年配の皆さんにも可愛がっていただいた。
本当に素敵な、貴重な世界(人生)を経験させていただいた。
色々なことがあった。
でも、いつも全てを一人で対応・対処してきたし、全てをやり切った。
でも、結局川上へ登ろうとオールを必死に漕いでいた。
全てに100%やり切って見えてきた世界や、分かってきた自分の世界、満足した世界があったんだ。
そして、全てを終えることにした。
思い出は本当に無限だ。
サラがお店に登場してからは、彼女が全てに力を貸してくれた。
いつも私に寄り添ってくれた。
私が力尽きるまでね。
彼女がいたから店を畳むことができた。
思い出は本当に尽きない。
彼女は、私の全てを知っているし、私の店の真実を全て知っている。
本当に全ての思い出を共有してくれました。
掃除も、調理も、洗い物も、全てのお客さんの話相手もしてくれた。
買い物(仕入れ)もしてくれた。
そして、チラシを一人でもまきに行ってくれたし、私と一緒の時は駆け足をしながら死にもの狂いで必死にまいてもくれた。(笑)
今日は徒然に殴り書きをした。
もう過去のことで、全く昔のことなんだ。
でも、書かなければいけないこともあるのだろう。
まあ、供養みたいなもんですかね。
もっとしっかりとしたまとまった話ができるといいのだが、書くか書かないかは全く気分次第だし、今後のことは全く分からない。
今日はもう時間切れですね。
今日のところはこの辺で。
※追記
お店での注文された珈琲を、一杯一杯全てハンドドリップして手で淹れたこと、毎日の朝の清掃(掃除機・雑巾がけ等)をどんな時でも決して一度もさぼらなかったことは、当たり前なのだが、とりあえず店主としての私の徹底したこだわりであって、私の中ではお店(営業期間)においての満足感・充実感、そして一定の勝利の感覚となっています。
2015年07月23日
回想。(サラに感謝をこめて)
人のことは、同じ波動(周波数)にいなければ、正しくは見えない、正しくは分からない。
同じく、自分のことも、同じ波動にいる人でなければ、正しく見てもらえない、正しく分かってもらえない。
私は、自分の「良さ」を知っていた。
決して、特別優れた人間ではないけれど。
だけど、私は自分の愛すべきところ、素敵なところ、誰にも負けない私だけの良さ・魅力をきちんと知っていた。
でも、それを正しく理解してくれる人、正しく受けとめてくれる人、言葉で正しく表現し誉めてくれる人には、残念ながら人生で出会うことはなかった。
つまり、誰も私の見てほしい、私の誉めてほしい素敵なところは、見てくれなかった。
いや、多分誰も分からなかった、気付かなかったのだろうと思う。
人生を見つめる視点が、みな私とは違っていた。
人生で出会った人たちは、みな私とは波動が、周波数が違ったのだ。
だから、私はずっと「人生はつまらないものだ」、「寂しいものだ」、「孤独なものだ」と思っていた。
だが、何故だかサラには、私のことがよく見えたようだ。
お店のことも、「こんな素敵なお店はどこにもありませんよ」と繰り返しいつも誉めてくれていた。
サラは、次第に私のお店や、日夜一人で頑張っている私のことを、彼女が感じているままに語ってくれるようになった。
彼女は、私以上の見方で、私と私のお店のことを感じ、理解し、肯定してくれていた。
私は、人生で初めて自分を、自分のお店を、客観的な言葉で納得できるように人から伝えてもらった。
とても嬉しかった。
彼女の言うとおり、私は「自分の愛の全て」を表現するために店を開いていた。
私には、どうしても実現したい自分の「愛や夢やこだわり」があった。
だから、私は理解者や協力者もなく、誰の力も借りずただ一人で、その自分の思いを噛みしめながら、ただその思いを実現するために店を始めた。
私は、サラの言葉に心から満足した。
彼女が、私のことを初めて正しく理解し、初めて言葉で正確に表現してくれたからだ。
彼女には、自分の感じる直感の世界を、「言葉で正確に語れる才能」があった。(ある)
そしてそれは、私が求めていた世界だった。
私の必要としているものだった。
私は、外側からの客観的な、冷静な肯定を求めていた。
それも、私の納得いくような正確な、繊細な言葉で。
でも私は、それが手に入るとは思ってはいなかった。
そんな人がこの世にいるとは、思ってなかったからだ。
既に諦めていたとも言える。
自分の真実は知っていたのだけれど。
店を始めてから、既に2年が過ぎていた。
だけど、私はいつも孤独だった。
私は、自分にとても厳しい人間なので(いつも真剣なので)、お世辞やおべっかは必要ない。
私は、既に自分の求める「精神的なレベル」に達したからこそ、店を始めていたからだ。
もう、そこに進むしか道がなかったのだ。
自分のことは、自分が一番よく分かっている。
だから、トンチンカンなコメントも困る。
私の持っている世界を、私の何の説明もなく、一人で独自に理解する能力、そしてそれを言葉で正確に語れる能力のある人を私が求めていたということは、今だから言える。
それが既に手に入ったからだ。
私は、私と同じ感性、人生に対する真面目さ、自分のことを正確に正直に捉える真剣さ、そして、自分の愛や夢・思いを人生で実現することの困難さを心から知っている人、つまり人生の挫折をたっぷりと味わったことのある人、お子ちゃまではない真の大人(本当の人間、人生の本当の苦労のわかる人等の意味)、そんな私の精神レベル、人生でしてきたことのレベルと全く同じ人以外、私は求めてはいなかった。
生意気だけど、私の真実だから仕方がない。
だが、そんな私の全ては、私の思いは、彼女には全て伝わったらしい。
私がひと言も何かを説明しなくても。
私のしていることが、私の愛や夢や思いが、私の過去や現在や未来が。
サラには、私のお店の、私の全てが見えたのだと思う。
彼女は、当時私が書いていた毎日のブログの記事を、本当に繰り返し何度も何度も読んだと言っていた。
そして、「こんな人はどこにもいませんよ」、「こんなお店はどこにもありませんよ」と私に何度も伝えてくれた。
彼女には、本当に私の全て(過去・現在・未来)が見えたのだろうと思う。
そしてサラは、やがて私の店を手伝うことになった。
彼女が、私のしてることに連なることを希望したからだ。
私の愛と夢と人生と、サラの愛と夢と人生が重なっていた。
彼女と私は、色々な面でとても似ていた。
人生がシンクロしていたのだ。
生い立ちや人生の経過、信仰的(信条的・内面的)なことがらも含めて、人生に対する思いの全てが。
私は、サラを、「正常な人」・「正しい人」だと思った。
だが、私はずっと、人生には「正常な人がいない」と思っていた。
ていうか、私はずっと、もしかしたら「自分の感覚(感じ方)はおかしいのかもしれない」、「正常ではないのかもしれない」、「間違っているのかもしれない」、「異常なのかもしれない」と思っていた。
話(思い)の通じる人がこの世にはいなかったからだ。
だから、私はサラによって救われた。
そうでないと、私は本当に一生浮かばれなかった。
サラのお陰で、私は初めて外側から自分のことを肯定し、自分の人生を、自分の真実を統合することができた。
自分の世界を正しく理解してくれる人に出会えることは、本当に幸せだ。
自分を、自分の人生を、心から肯定することができるからだ。
正しく肯定されるということは、味方がいるということは、孤独ではないということだ。
正しく理解されないと、味方がいないと、たとえ強がりを言ったところで、結局は孤独で一人ぼっちだ。
そして、私もサラの良さ、サラの繊細さ、サラの感受性の豊かさ、サラの愛が・夢が・思いが、サラのかけがえのない魅力がよく分かる。
サラの見つめている世界は、私の見つめている世界と同じだった。
ていうか、彼女が私を信頼し、とにかく私に合わせよう、私の力になろうと決めたからなのかもしれないが。
私の力になることが、私を救うことが、「自分を救うことになる」と彼女は直感したのだろうと私は思う。
彼女にとっても、私が彼女の「分身」であり、「彼女自身」だったのだろう。
自分の「分身」(自分自身)と現実世界で出会うという不思議。
それは、一人で悟りを開くより、どんな地位や名誉を手にするより、意味があり価値がある。
「シンクロした自分の分身(自分自身)を現実に引き出す」ということの意味を、あなたは知っていますか?
その体験、その感触、その波動は、私にとっては本当に人生で初めてのことだった。
本当にありがたいことです。
この地球で、この宇宙で、孤独で迷子になっていた私が、サラによって救われた。
心からの「無条件の愛」(味方)は、本当に有り難いものです。
今も変わらずに、サラには感謝しています。
本当にありがとう。
※サラが店を手伝い始めてまもなくの正月の写真です。
他の写真も全て、以前 (もうだいぶ昔になってしまいましたね…) のものです。
2015年07月22日
魂の友だち。(ソウルメイト)
劣等感や自己嫌悪・自己否定は、誰のせいでもない。
自分以外に原因はない。
ただ自分が、自分のことを一人で勝手に嫌い、憎み、卑下し、軽蔑しているだけだ。
自分でそれを選んでいる。
いつだって、自分をコントロールする責任者は自分だからだ。
もしかしたら、自分に厳しすぎるということがあるかもしれない。
誰かに厳しくされたということがあるのかもしれない。
だが、自分を否定して、それで何になるだろう。
どんな意味があるだろう。
何か得になるだろうか。
何かを指摘され、否定されるとすぐに落ち込む人がいる。
だが、落ち込むということは、まだ未熟だということだ。
真剣ではない、必死さが足りないということだ。
なぜなら、本当に真剣だったら、必死だったら、落ち込んでいる暇などないからだ。
多分、前に進むパワーがなくて、また自信がなくて、そしてその気力がなくて落ち込むのだろう。
苦労してきていない。
ずっと自分を甘やかしてきた。
落ち込むしかない、落ち込んだら何かが変わる、意味があると思っているのかもしれない。
落ち込んで反省することが自分には必要だと。
でも、それではネガティブだし、自虐的だ。
真剣さが足りなく、ズルいとも言える。
なぜなら、厳しく言うと、そんな自分に酔いしれるナルシストだっているからだ。
私は落ち込むことなどない。
落ち込む暇があったら、どうするべきかを考えて、覚悟して、必死になって前に進むからだ。
壁を乗り越えるからだ。
そして、自分にどうしようもないことは、常に諦めるしかない。
私はいつもそう思っている。
自分にどうしようもないことは、私の責任ではない。
神(例えですよ)は、そこまで私に求めたりはしないはずだからだ。
だが、乗り越えれる壁やトラブル・課題がそこにあるとしたら、私はどうしたってそれを乗り越えなければならない。
だから、私が見つめるべきことは、その乗り越えた先だ。
だから、落ち込むというのは、臆病で課題を恐れている、怠惰で前進を怠けているとも言えるし、自分に対して卑怯であり、不誠実だとも言える。
でも、自分をいじめなくては、痛みや苦しみを感じなくては、前進できないわけではない。
ポジティブなルートやプロセス、喜びながら、そしてワクワクしながら前進することだってできるからだ。
とにかく、必死になったら、血相を変えたら、ゴタゴタ言ってる落ち込んでる暇などない。
弱い人が多い。
ズルい人が、前進しない人が。
きっと、成長することを望んでいないのだろう。
でも、どんなときでも大切なことは、自分と本当に真剣に向き合うということだ。
少しはサラを見習ってほしいと思う。(笑)
私は彼女のことを、出会った頃(もう5年半前になる)は、大変に失礼だけどよく「ゴキブリ魂」(ゴキブリ女)と呼んだ。
言葉は悪いが、勿論誉(ほ)め言葉だ。
彼女は、私に何を言われても、どんな文句を言われても、必死になって食らい付きぶら下がってきた。
持ち前の体育会系(バレー部)とガテン系(笑)の根性だ。
彼女は、本当に私のしごきに耐えた。
私は、自分に厳しいだけに、自分の近くにいる人には本当に厳しいんだ。
互いに誇りある立派な人間でありたい、そんな魂でいたいと思うからだ。
だから、私は自分に近づいてくる人には、段々本気モード、本当の私モードを表現し始める。
つまり、近づいてくるその人の本気さを試すということだ。
私は、自分と同じように誇りの持てる友がほしいし、誇りの持てる関係でいたいからだ。
でも、私は最後まで彼女を倒すことはできなかった。
彼女は不死身だった。(笑)
彼女は、私のブログを繰り返し読んで、私のクレイジーな世界(笑)に興味を持ち、どうしても私に会いたいと思ったらしい。
それで、私の店を訪ねて来た。
そして彼女は私の店を勝手に「道場」と呼んで、通い続けた。
そして、私にいじめられた。
こてんぱんに。(笑)
そりゃあそうだ。
他の常連さんも驚くくらいに、彼女は毎日のようにいつも必ず店に来るんだから。
そして私は、彼女に店を乗っ取られた。(笑)
それは冗談だけど、でも私が望んでいたのは、結果的に確かにそういう「手ごたえのある人」との出会いだった。
「 If you build it , he will come. 」
(あなたがそれを作れば、彼はそこに来る)
これは、ケヴィンコスナー主演の映画「Field of dreams」(フィールド・オフ・ドリームス=1989年米国)の中に出てくる台詞だ。
その映画にインスピレーシュンを受けて、私は店を作ったんだ。
そして、私の店に登場したのは、he(彼)ではなく、she(彼女)だったというわけだ。(笑)
彼女の打たれ強さは、本当にすごい。
納得いかなければ、とことんくらいついてくるし。
でも、所詮私には想定内の範囲であって、私がうろたえたことは一度もなかったよ。
私は、それだけのものがあったから店を始めたのだから。
だけど、私が何のために店をやっているのか分かった人は、後にも先にも彼女だけだったということさ。
私は、師匠を求めても手に入らず、そして同志を求めても手に入らず、そして彼女が来た頃にはヤケクソで弟子を求めていた。(笑)
そして、彼女はその私の道場に入門してきたというわけさ。
勿論、道場なんて彼女が一人で勝手に呼んでただけだよ。
迷惑な話さ。(笑)
でも、結局学ばせてもらったのは私の方だった。
立場ではなく、大事なのはどちらの精神が偉大かということだからだ。
私はカウンターの中でいつも彼女と真剣に向き合い、彼女は客席から私と真剣に向き合っていた。
だって、彼女は毎日のように道場に通って来るんだからね。(笑)
でも私は、彼女に向かって、「あんただけの店じゃないんだ!」、「他のお客さんに迷惑だから、もう二度と店に来るな!」と何度怒鳴って彼女を帰らせただろう。
でも彼女は、しばらくの謹慎期間をおいて、またせっせと道場に通うんだ。(笑)
ほんとに困ったもんだと頭を抱えた。(笑)
そして、いつしか私は、彼女に勝手に師匠(会長先生?)(笑)にされていた。(爆)
でも、結局私も、そんな彼女のような素敵な人との出会いを望んでいたんだ。
彼女は、私の中に隠れていたもの(宝物)を、いつも強引に私の目に見える世界に引っ張り出してくれました。
教える人も学ぶ人も、導く人も導かれる人も、実は互いに師匠であり弟子だ。
私は信仰の世界で「師弟不二」(していふに)という世界を学んだが、まさしく私はサラにその世界(関係)を経験させてもらった。
そして、その関係は今も続いている。
人を通して学ぶということは、相手がいなくてはできないことだ。
勿論、師匠は美しくなければその資格もないだろう。
だが、それに食らい付いてくる真剣な必死な弟子の姿も、本当に美しい。
その美しい弟子の姿は、私にとってもまた、私を導く師匠そのものなのだ。
私は、自らを弟子と呼んで店に通った彼女の美しい姿に導かれて、ここまで来ました。
彼女が私をここまで動かしたのです。
強引に。(笑)
でも、まさしく当事者は一体であって、師匠と弟子は絶対的に不二です。
結局彼女は店のスタッフとなり、いつしかカウンターの中でコーヒーを淹れたり、カレーを作ったり、お客さんの話やお酒の相手をしていました。
私の仕事まで実践し始めたのです。(笑)
とにかく皆には、もっともっと自分を愛し、その視点から世界を見つめてほしいと思う。
ネガティブな人の言うことなど聞かなくていい。
愛ある大らかな人とつながるべきだ。
私は、サラみたいな「人生やスピの世界や愛」を語れる友人が、もっともっと欲しいと思っている。
一緒に公園などで弁当を食べ、ジュースやビールを飲みながら、心豊かな楽しい会話ができる友人がもっともっと欲しい。
もう一人でも魂の友人(ソウルメイト)がいたら、本当にもっと楽しいだろうなと思っています。
きっと、更に幸せが大きく広がるはずです。
サラと出会ってから既に5年半が経ちましたが、私とサラのスピリチュアル・ワールドは、まだ二人だけなのです。
私とサラにつながる、尊敬できる素敵な友人を、サラと一緒に今望んでいます。
宇宙にオーダーしています。
私もサラも、スピリチュアル実践者ですからね。
必ずその世界を広げていきますよ。
ありがとう。
2015年07月21日
リアルな世界。(引き離しの法則について)
今日はちょっと内容がリアルだ。
だが、これが現実だ。
私はこの事実を、本当にしっかりと受けとめなくてはならない。
昨日は、「波動の法則」について考えていた。
つまり、「引き寄せの法則」と「引き離しの法則」についてだ。
「引き寄せの法則」は、私(私の波動)にマッチした「環境・出来事」(もの・こと・人)を、本当にリアルに引き寄せる。
そして「引き離しの法則」は、私(私の波動)にマッチしない「環境・出来事」(もの・こと・人)を、本当にリアルに完全に引き離す。
だから、自分を(自分の人生を)恐れず肯定的に見つめているなら、自分が日々向上しているなら、私は引き寄せるものを恐れ拒む必要はないし、離れていくものに執着ししがみつく必要もない。
自分の世界は、常に良く変わっているからだ。
外側は、自分の内側(波動)の変化を、本当に鏡のようにリアルに現しています。
さて、自分が本当に「心根の美しい人間だ」と言うのなら。
自分には、「輝く珠のように、一切曇りはない」と言い切れるなら。
そして、「引き離しの法則」が本当に絶対的なものなら。
私には、どうしても認めなくてはならないことがある。
それは、私から離れていった人たちは、私のように心根の美しい人ではなかった、曇りのない存在ではなかったということだ。
私が別れることを望んでいないのに、結果的に別れることになることがある。
それが、「波動の法則」(引き離しの法則)というものだ。
私は、人間関係については、自分の「真実のビジョン」(将来の構想・展望)に本当にいつも忠実だった。
決して自分に妥協することはなかった。
それを譲ることは、どうしてもできなかった。
何故ならそれは、私の「願望の中心」にあった事柄だからだ。
だから、どんな理由にせよ私から離れていった人たちは、私の望む素晴らしいビジョンとは一致していなかったということだ。
だから、私の前から姿を消した。
自分が別れることを望んでいなくても、その人たちはそれを望んだということだ。
だが、それでいい。
自分の真の願望と一致しない「もの・こと・人」は、自分の経験から消えるに任せる方がいい。
「波動の法則」が、それをリアルに引き離したということだからだ。
つまり、その人たちは、私が思っていたような人たちではなかったということだ。
私の波動とは、全く、完全に違ったということだ。
だから、結果的に別れることになった。
離れ離れになった。
私がそれを望んだのでは、決してなかったのだけれど。
だが、離れて行くものにしがみついても仕方がない。
波動の違うものは、どうあれ自分のそばに置くことはできないからだ。
そしてそれは、真実の自分を受け入れ、真実の自分を生きるということでもある。
他人の人生ではなく、自分の人生を、ただ自分のために生きるということだ。
自分自身の真の願望ではなく、人の幸せに焦点を合わせ、人を幸せにしよう喜ばせようと努力するなら、私はますます本当の自分や本当の自分の願望からずれていくだろう。
それでは、私は自分自身ではなく、他人のために生きることになる。
そして、それでは結局いつかはその人たちと、必ず別れなければならない日がやって来る。
「波動の法則」(引き寄せと引き離しの法則)は、本当にリアルだ。
想像を超える世界だ。
自分のことでありながら、自分でもどうしようもない。
何が起こったのか、何故起こったのかさえ全く分からない・理解できないことも多い。
だが、宇宙は「愛の存在」だ。
だから、考えても分からないことは仕方がない。
それでいい。
必要なら、いつかリアルに分かる時がくるだろうから。
私はいつもただ、宇宙が愛の存在であり、全てにポジティブな意味があるのだと信頼していくだけだ。
人を、あれこれ言い訳してあげないということ。
今の自分の世界の、前向きな面だけを見つめるということ。
私はいつもただ、今自分がいるところから、常に明るい前向きな人生を生きるだけだ。
※写真は、私がどうやっても引き離せないお方です。 (笑)
(職業は、自称デルモらしいです) (笑)
「波動の法則」は、本当に恐ろしいです。
でも私は、この不思議な波動の関係を、心から喜び、心から感謝しています。
2015年07月20日
行動とあり方。
何かを変えるための、手にするための「 行動 」よりも大切なことがある。
それは、変わること、手にすることを「 受け入れる 」ということだ。
自分の「 あり方 」(波動)をまず整えるということだ。
受け入れるあり方に整えなくては、新たなものを手にすることはできない。
みな、このことを知らない。
一生懸命必死に、力ずくでドアをこじ開けようとするばかりだ。
でも、それでは単純すぎて、芸がなさすぎる。
何十年そんなことをやったところで、何も変わらない。
「 受け入れる波動がなくては、手にすることはできない 」、これが真理だ。
改革の情熱を熱く語る人がいる。
国を変える、社会を変える、人を変えると、怖い顔をして必死に。
だが、そんな人に騙されてはいけない。
その人は何も変えることができないからだ。
そんな人について行ったところで、疲れ果てて失望するだけだ。
ネガティブなエネルギーでポジテュブな人生(世界)を創造することなど絶対にできない。
波動が違うからだ。
だから、〇〇反対の運動をすることが正義であり、人生だと思っている人は、つまらない人生しか送れない。
その波動が、つまらない人生を創造するのだ。
その人が見つめているのは、選んでいるのは、残念ながら自分や人の「 幸せ 」ではない。
ただ、不幸せを見つめ、不足を見つめているだけだ。
それがが好きなのだ。
癖になってしまっている。
満たされない人生が、その人にはまだ必要だということだ。
幸せを選んでいない人(人々)について行っても、波動を下げ、一緒に地獄に落ちるだけだ。
行動よりも大切なことがある。
それは、受け入れる態勢(波動)を「 今 」つくるということだ。
「 今 」幸せになる、感じる、決める、信じるということだ。
「 あり方 」 を整えるということだ。
あり方というパワーを知らなくては、ただ行動だけでは、疲れ果てるプロセス・失望するプロセスばかり経験し、望む結果を手にすることは絶対にできない。
私は、行動中心の人生は、全く選ばない。
私が求める人生は、疲れ果てる人生ではないからだ。
私は、ただ「 あり方 」(波動)で人生の全てを形づくっていく。
※写真は、直接本文とは関係ありません。
でも、彼女のあり方が私は大好きです。
彼女が長いこと本当に苦労をして手に入れた宝物ですからね。
でも本当は、その彼女の素質は元々(天然)だったのだと私は見ていますが。(笑)
彼女はただ、「 疲れる遠回り 」をしただけなのでしょうね。
私と一緒です。
でも、互いにたどり着けて本当によかったです。
彼女の幸せな笑顔を見ることは、私の何よりの幸せです。
サラのブログ
http://blogsara.seesaa.net/
(私のブログトップ画面の右側「リンク集」にいつも表示しています)
2015年07月14日
フォトアルバム。 2015年7月
2015年07月07日
2015年06月29日
2015年06月17日
2015年05月10日
The Rose.
すべての人が幸せでありますように。
【 The Rose 】 by Bette Midler (ベット・ミドラー)
http://www.youtube.com/watch?list=PL5E29B7CCA460ECEB&v=CB4EgdpYlnk