特集「日韓国交正常化50年」の記事は、この特集の「アジアと日本」に収録しました。
政治学者の丸山真男や哲学者の鶴見俊輔氏らとともに、雑誌「思想の科学」の7人の創刊メンバーに名を連ねる思想史学者の武田清子さん(98)は、海外で開戦を体験した。多くの人が「負け戦」と感じながらも戦争に突き進んだ歴史を、いま改めて直視するよう訴える。
――第2次大戦勃発時は海外滞在中でしたね。
「神戸女学院の学生だった1939年、キリスト教関係の国際会議がオランダ・アムステルダムであり、私も日本から参加することになりました。あちこちの港に寄りながらオランダを目指すのですが、ちょうど日中戦争が始まったばかり。上海では日本軍の爆撃跡を見せられました」
「オランダでは日本がいかに世界の嫌われ者かを痛感しました。国内にいたら分からなかったことです。中国の学生運動の指導者の女性と仲良くなりたくて話しかけたら、『私と友情を持とうと思うなら、私の国から日本軍を引き上げさせるよう働きなさい』とはねつけられました。私が生涯にわたり、アジアと日本の関係を考えるきっかけになりました」
「会議後、欧州旅行をしてから米国に留学する予定で、ロンドンに滞在していたら警報が鳴り響きました。ナチスがポーランドに攻め込んだのです。私たち旅行者にもガスマスクが配られました。その後、米国に渡ってコロンビア大などで学びました」
――日米開戦をどう感じましたか。
「開戦時は24歳。かの地にいれば国力差は明白で、日本は負けるとすぐに分かりました。日本人の女子学生は男子と違って収容所に入れられるようなこともなく、周囲からは米国で勉強を続けるよう誘われましたが、母国が灰になるならそこにいなければと考え、帰国を決意しました。愛国心というより、アイデンティティーの問題でした」
「交戦国同士の外交官や学生を第三国の船で交換する制度を使い、中立国スウェーデンの船で米国をたちました。南米からアフリカ南端を回り、日本を目指す長い船旅です。鶴見俊輔さんや経済学者の都留重人さんが乗っていました。南十字星がとても美しかった」
「日本占領下のシンガポールまで来ると、米国では長髪だった青年将校が突然丸刈りになりました。英語も禁じられ、空気が一気に軍国主義的に張り詰めました。もっとも、口の悪い私たちは『ベルトは腰ひも、ハンドバッグは巾着かしら』などと話していました。将校自身も船上訓練で『ライフボート』と口を滑らせ、慌てて救命艇と言い直す始末でした」
「シンガポールでは地元の英字新聞から取材があり、『アメリカにも平和を祈る友がいる』と応じたら大々的に新聞に載ってしまい、将校たちを怒らせたことも。その新聞は戦後、夫(故・長幸男氏)が学長を務めていた東京外語大の学生が現地で見つけて、日本に送ってくれました」
――戦時下の日本の生活はどうでしたか。
「1カ月余の船旅を終えて帰国後、YWCAで働き始めました。その一環で、挺身(ていしん)隊として静岡県の工場に派遣されていた女学生を支援しようと、一緒に働くことになりました」
「風呂は泥水、食事も貧しかった。学生たちは表向き、忠臣の顔をしていましたが、自分たちが作っている飛行機の部品の粗悪さや、若者には労働を強いながらぜいたくをしている軍人をみて、この戦争は負けると皆思っていました。11月3日の明治節は晴れることが多かったのですが、44年の明治節は雨が降り、敗戦の兆しだと噂が広がりました。面従腹背の学生の“正気”に、救われた気がしたものです」
「YWCAは日本にとどまっていた中国人留学生の支援もしていて、警視庁に呼び出されたこともありました。当局の締め付けが厳しくなっていた時期で、投獄も覚悟し、身の回りの品をスーツケースに詰めてから出頭しました。中年の取調官に、私が個人でやったことで、YWCAは関係ないと一生懸命説明したら、なんと『あなたが純情な気持ちでやったことは分かった。特高があなたを陥れようとしたんだと思います』と言って帰してくれた。日本の警察にこんな人がいたとは驚きでした。戦後、この取調官をだいぶ探しましたが見つかりませんでした」
――敗戦を迎えてどう感じましたか。
「終戦を迎えた途端、昨日まで国策を叫んでいた人たちが突如、自分は本当は民主主義者だったと言い出しました。まさに急変。非常に驚くとともに、日本人にはそういう弱さがあるように思いました。また物事を多面的にみる必要性を改めて強く感じました」
「戦後、個人的に親交のあったインドのネール首相が来日した際、彼は私に『日本が焼け跡から復興したのはすばらしい。ただ、日本人は良い方にも悪い方にも規律正しく集団で進むように見える。日本人の個の主体性はどこにあるのだろう』と尋ねました。鋭い問いで、現在につながる問題提起だと思います」
――安全保障法制の見直しなど、日本は大きな転機を迎えています。
「皆が疑問を感じつつも国全体では戦争に突き進んでしまった歴史、日本とアジアが歩んできた歴史を、改めて見つめることが大切です」
「日本国憲法は米国から押しつけられたという意見もありますが、私は日本人が選び取った憲法だと思っています。こうした戦後の民主化のプロセスについて、若い人にしっかり学んでほしい。それは、民主主義に反する古い要素の復活を阻むことにもつながります」
「同時に、自分と違う文化に尊敬と愛情をもって接することが重要です。たとえ諸外国と考え方が違っても、相手を尊重し、異国の人々との交流を深めてほしい。そのことが、あのような戦争を繰り返さないために不可欠でしょう」
(聞き手は社会部、山本有洋)
武田清子、鶴見俊輔、丸山真男、都留重人、ライフボート、戦争