九州電力は10日にも川内(せんだい)原発(鹿児島県)を再稼働する。国内の原発はすべて止まっており、運転は約2年ぶりとなる。

 しかし、再稼働にからむ動きを振り返ると、責任の所在のあいまいさが浮き彫りになる。東京電力福島第一原発で起きた事故の教訓も置き去りにして、新たな安全神話さえ生まれようとしている。

 安倍政権は、川内原発を皮切りに、なし崩しに原発を主軸に戻そうとしている。こうした動きは到底、容認できない。

■誰が責任を持つのか

 原子力規制委員会の田中俊一委員長は「新しい規制基準に適合しても事故は起きうる」「再稼働の是非について規制委は判断しない」と繰り返している。

 技術的観点から点検し、原発の事故リスクを一定以下にするのが規制委の任務で、原発の推進や縮小に言及することはしないという立場だ。

 一方、安倍首相は「規制委が安全といった原発は、着実に再稼働する」と、再稼働の判断を事実上、規制委の基準適合審査に丸投げしている。しかも、基準適合を「安全」にすり替えて、規制委が安全を保証したかのように印象づける。これでは安全神話である。

 立地自治体の立場は、電力会社への「同意」である。

 国民の過半は再稼働に反対している。それなのに、誰が決めているのか分からないまま、原発はやはり必要だと再稼働が決まってしまう。この進め方では、信頼しようがない。

 なぜ、この再稼働が必要なのか、原発が抱えるリスクとともに国民に語り、議論したうえで、首相が最終判断を示す。例えば、そんな手続きがほしい。

 あれほどの事故にもかかわらず、粛々と再稼働に進むのは民主主義社会にはそぐわない。

■規制委にも問題あり

 事故の教訓を形にしたものの一つが、規制委である。独立性を高め、新しい規制基準をつくって既存原発のリスクを改めて審査している。

 だが、その規制委にも問題はある。川内原発で焦点になった巨大噴火への姿勢が一例だ。

 火山噴火予知連絡会会長の藤井敏嗣・東京大名誉教授は、カルデラと呼ばれる陥没地形ができるほどの巨大噴火について、「九電や規制委の態度は科学的とはいえない」と批判する。

 「九電は噴火データを都合よく取捨選択し、平均9万年に1回などと主張する。規制委も追認した。だが、巨大噴火の確率や間隔を予測するモデルはまだない」と藤井さん。

 「予測に限界があることなどを説明したうえで、それでも原発を動かすかを問うべきだ」

 福島第一原発では、当時の規制当局が、建設時の想定を超える津波が起きる可能性とその場合に炉心が損傷する恐れから、想定の見直しを指示していた。だが、東電は対策を講じず、当局も事実上、東電の判断を受け入れた経緯があった。

 国会の事故調査委員会(事故調)は▽見直し指示が非公開だった▽津波の高さを評価する手法は電力業界が関与した不透明な手続きで作られた▽東電は確率論を都合よく解釈し、津波の発生頻度を不当に低く見積もった、などの問題点を指摘した。

 一言で言えば、原子力ムラの理屈と閉鎖性の問題である。

 規制委は原子力ムラの文化と決別しているのか。そんな疑問が残る。

■顧みられない提言

 政府や国会、民間、東電などが事故を調査し、様々な角度から事故前や事故時の問題点を指摘した。そのうち、国会の事故調は「国会による監視」を報告書の提言の第一に挙げた。

 主眼は規制行政出直しの監視である。加えて政府、自治体、電力会社の役割が不明確だったり、緊急事態への対応力不足、指揮命令系統の混乱があったりした危機管理体制を見直す。電力会社に対する政府と国会による監視も強化する。そのために国会が実施計画を作り、進み具合を政府に報告させ、国民に公表する、という構想だった。

 だが、国会事故調の実質的な活動は7カ月で終わった。提言から3年。事務局の一員だった石橋哲さんは「国会による実施計画はまったく具体化していない」と嘆く。国政選挙で、議員が大幅に入れ替わった事情もある。しかし、行政府をチェックするのは本来、国会の役割のはずだ。報告書が指摘した課題には政府がその後、取り組んだとするものもあるが、チェックする仕組みは欠いたままだ。

 国会事故調はまた、事故を「人災」と断じた。その背景として「自らの行動を正当化し、責任回避を最優先に記録を残さない不透明な組織、制度、それを許容する法的な枠組み」「無知と慢心、世界の潮流を無視し、国民の安全ではなく組織の利益を最優先する組織依存の思い込み」の存在を指摘した。

 こうした指摘が有効である限り、再稼働はあまりに危うい。