フィッシュマンズの佐藤伸治との日々。
サトちゃんが死んじゃった・・・。
それは、僕、茂木欣一が、まだフィッシュマンズの活動をしていた頃。
1999年3月15日の夜、雨が、降っていた。
自宅で妻がつくるカツ丼を食べようとしていたら、電話がなった。
事務所のマネージャーからだった。
フィッシュマンズのボーカル、佐藤伸治の訃報。
急いで事務所に駆けつける。
カツ丼は覚えているのに、事務所に向かったそのときからほぼ1か月半、記憶がない。
「サトちゃんが、死んじゃった?それって、どういうこと?」
初めて会ったときから、僕は決めていた。
おじいさんになるまで、この佐藤伸治という男についていこう。
一緒にバンドをやろう。
彼の歌声、作詞作曲、アレンジのセンス、ほとばしる才能、全てに僕は魅了され打ちのめされた。
たとえ僕がフィッシュマンズのメンバーではなくても、僕はフィッシュマンズの音楽が大好きになったと思う。
世界でイチバン聴きたい音楽をやるバンドのメンバーになれた。
だから僕は最高に幸せものだった。
でも、その音楽を創りだすサトちゃんが、この世からいなくなった。
「どうすればいいんだ?」
深い闇の中、やっぱり僕を救ってくれたのは、サトちゃんの歌声だった。
サトちゃんは、そこにいる!
僕、東京スカパラダイスオーケストラの茂木欣一が、初めて佐藤伸治に会ったのは、大学1年生の時。
入った音楽サークル『ソングライツ』の新入生歓迎ライブがあった。
ある男性がふらっと飛び入りで1曲歌った。
その歌声を聴いたとき、心底、驚いた。
うまいなんてもんじゃない。
その圧倒的な存在感。カリスマ性。
怖い、あぶない、このひと、すごすぎる。
それが佐藤伸治だった。
高校時代、僕はドラムをたたき、歌い、それなりにイケテると思っていた。
そんな自信が一瞬で吹き飛んだ。
自分で歌うなんてことはもうどうでもいい。
このひとと組みたい、このひとと組んだらえらいことになる。
そう確信した。
佐藤伸治に自分の存在を知ってほしくて、ドラムを叩くチャンスが来たときは、とんでもなく派手なパフォーマンスをやった。
やがて、呼ばれた。
「欣ちゃん、ちょっと」
僕は思った。
このひとの傍からゼッタイ離れない。
そうして僕らは、フィッシュマンズを結成した。
それから10年あまり、僕は魅了され続けた。
サトちゃんの歌う歌は、今まで聴いたどんな日本語のラブソングより、美しい。
今でも、覚えている。
初めて『いかれたbaby』のデモテープを聴かせてくれた日のことを。
真っ直ぐだけど、押しつけがましくない。
誰の心にもすっと入っていける、メロディと、言葉、そして、声。
フィッシュマンズは、当時びっくりするくらい、売れなかった。
それでも、僕らは、佐藤伸治の狭いアパートに集まって、レコードを聴きながら、とりとめもなく、話した。
贅沢な時間。
僕らは何物でもないけれど、満ち足りていた。
忘れられない思い出がある。
免許をとりたてのサトちゃんが、僕の車で運転を練習した。
近所のファミレスの駐車場。
僕の車はマニュアルで、彼は何度もエンストして、ついにはエンジンがかからなくなった。
大笑いした。
なぜかあのとき、楽しくて仕方なかった。
音楽を離れ、子供みたいに笑うサトちゃんの横顔を見て、幸せな気持ちになった。
あれは、レコーディングスタジオでのことだったと思う。
ふと、サトちゃんが言った。
「欣ちゃんはさ、集中力、あるよねえ」
その言葉がうれしくて、今でも時々思い出す。
佐藤伸治は亡くなってしまったけれど、彼はいなくなっていない。
僕は、彼がつくった歌を歌い続けるし、僕がスカパラで音楽をやっている姿を袖でニヤニヤ見ているんじゃないかと思う。
サトちゃんは、そこにいる。
佐藤伸治の音楽は、今も、そこにある。
佐藤伸治さんへ
さとちゃん、会えなくなって、随分時が流れたけれども、あれからの15年、とっても多くの人達が、あなたの歌を必要とし、口ずさんでいます。
あなたの紡いだ言葉、メロディは時代を越えて、生き続ける。
それはさとちゃん、あなたがただただ、ひたむきに、大切に、音楽に取り組んできた、その成果です。
あなたが教えてくれたそんな態度、僕は、これからも大切にして、生きていきます。
いつもありがとう。