アダムの罪
『創世記』によれば、神はアダムの前に掟を示し、「善悪を知る木の実をとって食べてはならない」と告げたとされる(2・17)。それにもかかわらずアダムは、蛇の誘惑に乗せられたイヴとともにその木の実を食べたとされる。誰でも知っている有名な逸話である。キルケゴールも、『不安の概念』においてこの罪へと至る事情を分析しているが、この『創世記』の記述自体は前提されていて、そこに何の疑問も付されていない。
しかし前々から、どうにも腑に落ちない所があると感じてきたので、それについて記しておきたい。
一般的理解によれば、神はあらかじめアダムに何を為してはならないか、何を為してよいかはっきりと示している。それにもかかわらず、アダムはその掟に背いたので罪を犯したのだ、ということになる。しかし、それなら、どうしてこれが「善悪を知る木」と呼ばれるのであろうか?その実を食べる前に、アダムは神から善と悪とを知らされていることにならないだろうか?
何より問題だと思われるのは、「善」を、神のいいつけを忠実に守ることと、「悪」を神のいいつけに背くことと、完全に同一視されてしまうことである。このように神の言いなりになっていることが、果たして真に倫理的であるだろうか? このような絶対服従は、単に奴隷的態度にすぎず、奴隷と同様に、主人の言うことに何の考えも持たずただ唯々諾々と従うだけのお気軽な態度である。ここには、何の自由も責任もあり様がない。倫理をあたかも、先生のいいつけに忠実であることであるかのように見なしたがる優等生的な愚劣さが、かかる解釈には透けて見えるのだ。
キルケゴールは、掟を前にした罪を犯す以前のアダムの心境を、可能性に対する不安として特徴づけていた。それは、ちょうど高度恐怖症の人が抱くめまいのようなものである。しっかりした手すりによって身の安全は十分に確保されていても、その不安はなくならない。それは、我々が意志しようとすればその手すりを容易く越えることができるという「自由の可能性」が与える不安である。
そのような可能性の不安は、意識されるにつれて次第に強くなり、ついには耐え難いまでになるかもしれない。ちょうど、『悪霊』のキリーロフが、自殺することの自由の可能性を考えるうちに、耐え難いまでの不安に襲われ、ついにおのれの意志によってではなく、むしろそれから逃れるために自殺してしまうのと似ている。
このような「心理学的」分析は、なかなか穿ったものではあるが、問題の真の深みに届くものではないと思う。むしろ、キルケゴール自身忌み嫌う「反省過多の時代」にふさわしい審美的で軽薄なものであるとさえ言える。
キリーロフの自殺は、彼の自由意志によるものとは言えない。彼は自由の重みに耐えかねただけである。彼の罪は、その自由意志にではなく、そこからの逃避にこそある。
アダムの罪もキリーロフと同罪なのであろうか? そんなことは考えにくい。「反省の時代」にアダムは生きていなかったからである。
かといって、アダムに思慮が欠けていたわけでもないだろう。そのような意味で、アダムを無邪気だとか、無垢だということは当たらない。なぜなら、彼の行為は、彼の熟慮に基づいて、決断されたものでなければならないからである。さもなければ、ここに倫理的問題は存在しないはずである。
つまりどういうことか? 神は、我々に何を為すべきか、何を為さざるべきかを、隈なく示しているわけではないということである。掟が与えられたとしても、依然としてその都度その解釈をせねばなるまい。そもそも掟を与えるとは、いかなることであろうか?
ここで、お手軽な「進化論」に対する私の敵意を、もう一度表明しておきたい。
我々以外の高等動物たちも、自分の行動の否定的結果とでもいうべき事態に直面することはあるだろう。ヒキガエルのような「下等」動物においては、ハエを取ろうとして伸ばした舌がハエを取り損なっても、それが自分の行動の失敗なのか、それとも知覚の失敗なのか、区別することができないだろう。
しかしライオンが、自分の狙ったシマウマを取り逃がした場合、さすがにそれが自分の知覚が幻想であったためか(ぬいぐるみに跳びついてしまった場合)、それとも自分の行動がシマウマの敏捷さにおよばなかったためか、の区別くらいは心得ているに違いない。
つまり彼らは、行動の「成否」という観念を持っていると言ってもいいだろう。もちろん彼らは、この観念を自己帰属することはできないが、この観念をいはば生きているのでなければ、自分の失敗から学び、狩猟の技術に磨きをかけるということができないはずである。つまり彼らが、試行錯誤によって技術的に進歩するということは、行動の成否を判断し、それを次の行動へとフィードバックする回路が、事実上成立していることを意味するはずである。
以上のようなことは自明なことであるが、重要なことは、私の見解によれば、彼らは我々人間のようには、失敗を悔やむようには見えないということである。
失敗はもちろん次の試みにフィードバックされ、次の攻撃に生かされるだろうが、彼らはそれだけで、それ以上に失敗を後悔するようには見えない。彼らは常に「前向き」であり、無駄な後悔に時間を使いはしない。そんなことをしていては、むしろ生き残りのチャンスを減らすだけだろう。
ところが我々はといえば、彼らほど潔くはない。しょっちゅう後悔の臍を噛み、良心の疼きに苛まされる。それは、我々の方が彼らより「良心的」だからではない。我々における「行動の否定的結果」は、他者からずっと指弾され続けるからである。私自身が忘れようとしても、他者がそれを忘れさせない。「良心」とは、この他者の声を内面化したものにすぎない。
我々が狩りで失敗しても、それは「慎重さが欠けていた」とか「言いつけを守らなかった」といった、他者から指弾される意味を帯びる。つまり行動の「成否」より、「正否」が問題となるのである。高度な「社会性」と言ってもよい。
細かな議論は省略するが、それは結局、我々人間が言語的に意味を習得するからである。目的合理的意味よりも、掟としての意味が重要視されるのだ。
極めて重要なことは、言語化された意味世界(象徴界)が、あらかじめすべての意味を与えているわけではないということである。しかしながら我々は、主体(Subjekt 臣下)としては、あたかもすべての意味を確定的に照覧しているかの如き全知性(Omniscience)を、自然に想定してしまう。もちろん「自然に」といっても、長い思弁的知性の努力による合理化の果てに、という意味であるが。
「何故かくあって、他様ではないのか?」の理由が存在せねばならない。これは掟の意味、掟の理由への問いである。なぜこのような問いが生まれるのか?
それは、言語そのものが他者から与えられるからである。「自然」とは違って、言語は一方的に他者から与えられる。つまり言語の背後には他者が、とりわけ他者の欲望が存在している。
子供は、それに気づいている。子供は、母の眼差しの謎、つまりは欲望の謎(「彼女は何を欲しているのか?」)を通じて、言語を習得するのであり、掟を習得する。
だからこそ子供は、「彼女はそれをすることで(それを言うことで)、何を欲しているのか?」という形で、常に意味の深読みへと引きずり込まれるのである。
宗教的幻想の基本形は、親鸞―ライプニッツ型を取る(拙著『読む哲学事典』「メタ言語と主体性」参照)。すなわち、神の知性には、私の存在を含めてすべての事実とその理由が書き込まれているということ。(とはいえ、ライプニッツ型では、人間の自由、先走った、それ故誤り得る判断、罪の可能性といったものが位置付けられない。神と我々の知性には、判明性の差しか存在しないからである。ライプニッツは象徴界を想像的なものと取り違えていたのである。ここに重大な欠陥が存在する。)
とりわけ重要なのは、私には何故そのすべてが知られてはいないのか、という理由づけと、にもかかわらずそれらすべては、私から見てまったく無意味なものとは言えないという信頼である。
もし、神の知性が私の知性とかけ離れたもの共約不可能(incommensurable)なものであるとすれば、神の知性について語ることも無意味になってしまう。これは特にスピノザが強調したことだ。また、神の知性や神の意志と我々のそれとが、一義的(翻訳可能)でなければならないという要求をスコトゥスが掲げたとき念頭にあったものだろう。
かくて、神の意志、神の掟の理由づけには、我々が理解できる意味があるはずであり、したがって神と我々の間に、弁証法的対話が可能となるであろう。
掟が隅々までは知られていないということから、我々は自分自身で決断せざるを得なくなる。
もちろんこの決断は、動物の行動決定と同じようにしなやかに(ベルクソン的に言えば「純粋持続」において自然に流出するように)行われるかもしれない。我々の行動と他の動物たちのそれとを分ける基準は、その時点では存在しない。
したがって、それが社会的に肯定的に、是認または黙認的に受け入れられれば、動物的行動と区別がつかないまま受け流されるだろう。その場合それは、ことさら決断とさえ意識されず、自然に流出するものと見なされる(西田幾多郎の「純粋経験」はこのような行動をモデルにしたものである)。
しかし、他者が突然それを指弾するものとして立ち現れる。『創世記』の神は、その瞬間を表すものである。行動は、このような他者による否定的媒介を経て初めて、自由なもの、自由であったもの、すなわち決断であったものとして浮かび上がるのだ。
この点をよりはっきりと表現するために、『マタイによる福音書』25章のエピソード、主人から1タラントン、2タラントン、5タラントン預けられた僕(しもべ)のたとえ話を参照するべきだろう。それぞれの僕は、独自の判断に従って独自の行動をしている。あらかじめ何が正しいのか、何をしてはいけないのかは示されていない。主体は単に、命じられたことを為す奴隷としてではなく、自分の考えで自由に判断する主体でなければならない。
ところが、驚くべきことに、神の命令があらかじめ存在していないのに、1タラントンの僕だけが一方的に罰せられているのである! 1タラントンを与えられた僕にしてみれば、「そんなこと言われていなかったし…!」ということになろう。実はかかる受動的態度そのものが、罰せられるに値するのである。
ここから、罪の事後的性格というものが浮かび上がる。我々は、自分の決断が事後的に罰せられることによって罪とされる。これは、言語習得の場合と同じである。事例ごとに、その言語使用の適否を裁定されるからである。裁定に先立って、言語規則が与えられるわけではない。
またそのことによって、その決断的性格が明らかになる。それまでは、あまりにも「自然に流出」したものであるので、決断としてさえ気づかれないかもしれない。
しかし、他者からの指弾は、それが私の「責任」による決断であり、罪であったことを言い立てるのである。(もっともそれによって、我々の側にも弁証法的抗弁の余地が生まれる。神の裁きも裁きである以上、神に対して弁証法的抗弁が可能となるのだ。共約可能な言語を使用しているからである。)
知恵の実を食べることが禁止されていたことが知られるのは、それが罰せられることによってである。その本質は自由である。自由はさしあたり罪として現れる。なぜか?
もし肯定的な結果を得たなら、我々はそれを自然な流出として、成功を偶々のものとして、怪しまないだろう。我々は他者との弁証法的係争を通じて、すなわち否定的なものへの係留を通じてはじめて、自由の本質に目覚めるのである。
我々の知覚は、環境世界を、我々の行動を受け入れ誘うように用意(afford)しているものとして立ち現れさせる、という理論がある。ドアノブの知覚は握ることを用意していることを知らせる。ドアの知覚は立ち入ることを用意していることを告げる。
マクベスの前には、短剣がぶら下がっていた。彼には、ただそれを手に取るだけでよかった。すると剣はゆっくりとダンカン王の寝室へと忍び込んでいく。すんでのところでマクベスは正気に戻り、もと来た道を引き返そうとする。しかしその時、お付きの兵が目を覚ます。はずみでその兵を殺す。王が目を覚ます。
こうした一連の動きの中で、ダンカンは自然に倒れるのだ。王位はいともたやすマクベスのもとにく転がり込む。ここには、ほとんど決断と言えるようなものはない。むしろよく見れば、決断の不在こそが、恐るべきマクベスの凶行の本質だと言うことさえできるだろう。唯一の手抜かりは、マクダフを取り逃がしたこと。しかし気にも留めない。大勢は決したのだ。
恐ろしいのは、マクベスにこの凶行をやり遂げさせるのに、ふさわしい意味や意志や理由や主体的計画さえもなかったことである。マクベスは人の眼を気にする小心な臆病者にすぎない。夢遊病の中に動く魔女たちの糸のように、その宿命が段取りを進めていく。その上に乗せられてマクベスは運ばれるだけだ。
一連の流れに滞りがないとしても、そこからスコットランドじゅうを血の海にする殺害が広がっていく。事実の自然な推移のように見えたものが、どこかで歯車が狂い始め、さらに恐ろしい流血を呼び、結局まがまがしい巨大な悪の塊が出現する。そうなっては、マクベスに言い逃れる余地はない。神の意志や掟によってではなく、事実そのものの光によって、彼の罪は決せられたのである。それはコロスの合唱隊とか、スコットランド民衆の声として示されるかもしれない。
ともかく、あらかじめダンカン王の虐殺が、神の禁止事項の中に書き込まれていたわけではないのだ。神さえも思い及ばなかったようなことが、人間によってなされる。神が外から裁きを下す前に、事柄そのものから真実が露見し、事柄そのものから瓦解が始まる。それが悪というものだ。
矮小な主体と彼の罪の大きさの、あまりの非対称。戦争が小競り合いから始まり、コントロールできない火事のように燃え盛る、それが悪の出現である。
それは宿命とは言えないにしろ、その基礎が自由な意志(悪を目指す巨大な意志)であるとは、まったく言えない。むしろ、矮小で臆病で、無責任で空疎な所に悪はきざす。真実を恐れ、息するように嘘を重ねるところから、すべての言葉から意味が消え、空疎な戯言のように響き始める。もしマクベスが日本語をしゃべったとすれば、彼は「まさに、いわば一般におきまして、基本的にないわけでありまして…」というような空疎な言葉を連発する王であったろう。
Posted by easter1916 at 21:35│
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