韓国:激動の半世紀振り返る 桑原史成さんが日韓で写真展

2015年08月01日

日韓国交回復に反対するデモに参加し、憲兵隊に制圧、連行される大学生=ソウルで1965年春、桑原史成さん撮影
日韓国交回復に反対するデモに参加し、憲兵隊に制圧、連行される大学生=ソウルで1965年春、桑原史成さん撮影

 韓国を半世紀以上にわたり撮り続けてきた報道写真家、桑原史成(くわばら・しせい)さん(78)=東京都江東区=が、日韓国交正常化50周年の今年、写真展「激動韓国 50年」を日韓両国で開く。まずソウル市中区の朝鮮日報2階ギャラリーで約170点を8月5日から展示し、日本でも年内に開催。今年は韓国が日本の植民地支配から解放されて70年でもある。桑原さんは「節目の年に、この50年間を振り返る機会を提供したい」と話す。 

 桑原さんは水俣病の実態を被害者の視点から告発する作品群で知られ、2014年の土門拳賞を受賞している。並行して朝鮮半島情勢も追いかけてきた。訪韓歴はすでに約100回、滞在日数は約1000日を数える。今夏は、304人の死者・行方不明者を出したセウォル号の沈没現場などを訪ねた。51年間に撮りためた写真は約12万コマに上る。

日韓両国で写真展を開く報道写真家の桑原史成さん=東京都千代田区で2015年7月15日午後9時0分、平野美紀撮影
日韓両国で写真展を開く報道写真家の桑原史成さん=東京都千代田区で2015年7月15日午後9時0分、平野美紀撮影

 韓国に興味を抱いたきっかけは、東京農業大で共に学んだ韓国人の友人だった。彼は桑原さんより4歳上で、朝鮮戦争の混乱が続く1952年、親類を頼って密航してきたと語った。学生時代、桑原さんのアパートで同居した。軍事政権下の現状を熱く話り、酔って民謡「アリラン」を一緒に口ずさんだという。

 大学時代から写真家を志していた桑原さんは、自分だけのテーマを探し求める中で、この「近くて遠い国」を取材したいと思い続けた。だが、当時は韓国へ行くこと自体が難しく、ひとまず「夢」として温存する間に水俣と出会った。

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 初めて韓国を訪ねたのは日韓国交正常化の前年、64年7月。「経済が疲弊しきっていた。65年には、日本との国交回復を屈辱外交として、大学生たちが激しい反日デモを繰り返していた。そのエネルギーたるや、すさまじかった」と振り返る。

 65年8月の暑い日だった。小銃を肩に担いだ陸軍憲兵隊が、デモ隊制圧のため大学のキャンパスに突入した。逃げ惑う学生たち。桑原さんら報道陣もひとかたまりとなって移動しながら、連行される学生や市民にレンズを向けた。すると急に、憲兵隊の一人が突進してきた。とっさに、撮影を手伝ってくれていた韓国人が憲兵と桑原さんの間に割って入り、桑原さんを逃がしてくれたという。「その時、行き過ぎた撮影だったと気づいた」

 2カ月後、韓国軍はベトナム戦争へ兵士を送り出す。韓国軍にとって初の海外派兵だった。ベトナム戦争への批判が世界に広がっており、取材活動は困難も多かった。

 ある日、軍用列車に乗った兵士の表情や、見送る家族の様子をバリケードの外から撮影しているところを連行され、フィルムを没収されそうになった。桑原さんは撮影済みフィルムを未撮影フィルムに入れ替え、難を逃れた。「(未撮影の)フィルムをわざと引き出して感光させた」と、懐かしそうに振り返る。

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 取材対象は国交正常化を巡る反日デモ、民主化運動、在韓米軍基地、大統領選など多岐にわたるが、桑原さんは終始、韓国の政治と軍事に注目してきた。「強権政治の中で萎縮する韓国の人々にひかれた。そこに身を置くことにもしびれた」

 68年には、日本で被爆しソウルに住む被爆者10人に、つてを頼って取材した。体中にやけどの痕が残る被爆者たち。その一人から「広島を知っていますか?」と日本語で聞かれ、出身地(島根県津和野町)に近いことなどを伝えたが、「広島はずいぶん復興したと思います」と言うのが精いっぱいだった。

 写真展ではこのほか、米軍の駐留地区に集まる女性たちや、朝鮮動乱で家を追われ、建設中の高架道路の下に住み着いた人たちなど、時代にほんろうされながらも懸命に生き抜く人の息づかいが聞こえてきそうな作品を選んだ。

 「韓国の50年は、汗と涙と血で葛藤してきた壮絶な半世紀だった。50年間、少しも変わらないことは、国土分断で北と南が対峙(たいじ)しなければならないこと。東西冷戦は終結したが、朝鮮半島では化石のように冷戦が引き継がれている」と桑原さんは言う。

 ソウルでの写真展は11日まで。日本展は桑原さんの出身地である津和野町の「桑原史成写真美術館」で開く。【平野美紀/デジタル報道センター】

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