膨大な犠牲と悲劇を生んだ東京電力の福島第一原発事故。その東電元幹部の刑事責任が裁判で問われることになった。

 検察審査会が再び「起訴すべきだ」と議決し、強制起訴される見通しだ。入院中に被災し避難中に死亡した人たちなどへの過失が問題とされている。

 国会の事故調査報告書は「事故が『人災』であることは明らか」としている。だが、これまで政府や東電の関係者で、政治的、行政的であれ、処分を受けた人はなく、だれも責任はとっていない。

 「あれだけの事故なのに正義が尽くされていない」「免罪されれば、同様のことが繰り返されるのではないか」。起訴を求める議決が重なったのは、そんな市民の釈然としない思いの反映と受け止めるべきだろう。

 強制起訴制度は09年、裁判員制度と併せて導入された。検察はそれまで、起訴するかどうかの権限を独占していたが、それを改め、一定程度、民意を反映させるしくみにした。

 検察が「過失責任は認めがたい」として避けた起訴を、あえて市民の判断で行い、個人を被告席に立たせる行為は軽いものではない。裁判では当然、元幹部の責任を証拠に照らして冷静に検討しなくてはならない。

 同時に、東電の津波対策や安全配慮がどのように行われてきたのかは避けられない問いだ。政府や国会などの事故調査報告書とは異なる視点で事故を検証する好機になるだろう。

 事故後、関係者が公の場で肉声を伝える機会は少なかったが、法廷では直接話すこともあろうし、裁判所が証拠の提出を命じることもできる。

 原発の安全対策をめぐる電力会社の判断の推移や、政府など公的機関のかかわりなど、これまでに埋もれた事実も付随して明らかになれば、今後の国民議論にも大いに役立つ。

 司法が原発について判断してきた歴史は浅くないが、原発の建設・運転をめぐる訴訟のほとんどは反対住民の敗訴で終わっていた。

 そこに、国策に基づく原発の稼働は止められない流れ、という意識が潜んでいなかったか。司法の姿勢も、原発事故後、厳しく問われている。

 前例のない被害をうんだ福島第一原発事故の刑事責任を考えるとき、具体的な予見可能性といった従来の判断基準を用いることで足りるのか。今回の裁判を契機に、司法関係者も議論を深めていくべきだろう。

 司法への国民の信頼にたえる審理を進めてほしい。