今年は、戦後70年、日韓の国交正常化50周年の節目に当たっている。だが日韓の間には未解決の問題が残されている。竹島問題である。竹島問題の発端は昭和1952年1月18日、韓国政府が「李承晩ライン」を公海上に設定し、その中に竹島を含めたことにある。その竹島は、明治38(1905)年1月28日、閣議決定によって日本領に編入され、終戦までは日本が実効支配をしていた。
その竹島を含め、韓国政府が「李承晩ライン」を宣言したのは、「サンフランシスコ講和条約」が発効し、日本が国際社会に復帰する3カ月ほど前である。その際、韓国政府の兪鎮午は、日本の朝鮮統治時代から著名な史家であった崔南善の元を訪れ、「歴史的に見て韓国領として主張のできる島嶼」を尋ねていた。兪鎮午は、その崔南善から独島(日本名、竹島)が韓国領であることを「確信できる程度の説明を受けた」としている。
だが崔南善が1953年8月から『ソウル新聞』に連載した「欝陵島と独島」を見る限り、竹島を韓国領とする論拠は限定的であった。それは独島を、朝鮮の文献に登場する「三峰島を指すのかもしれない」。「可支島ではないか」とする程度であった。
それが今日では、竹島問題は領土問題ではなく歴史問題とされ、日本を「侵略国家」とする論拠にされている。それも崔南善が必ずしも歴史的根拠としていなかった『三国史記』、『高麗史』、『世宗実録』「地理志」、『新増東国輿地勝覧』等に記された于山島を独島と曲解し、歴史問題にすり替えられてしまったのである。その傾向が強まったのは1954年9月、竹島を武力占拠した韓国政府に対し、日本政府が国際司法裁判所への付託を提案してからである。この時、韓国政府は声明を通じ、「竹島は日本が韓国侵略をした最初の犠牲の地」とし、日本が竹島の領有を主張することは、「再侵略を意味する」とした歴史認識を示して、国際司法裁判所への提訴を拒否したのである。
それも日韓の国交正常化交渉と並行し、公海上に引いた「李承晩ライン」を根拠に日本人漁船員を拿捕抑留し、それを外交カードとしたのである。戦後、日本には夥しい数の朝鮮半島からの密航者がいたが、拿捕抑留された日本人漁船員の解放を求める日本政府に対し、韓国政府は不法入国者等にも日本定住の「法的地位」を与えるよう求めたのである。
この日韓関係に変化が現れたのは1994年、国連の海洋法条約が発効し、国際ルールに従って対話をする機会が訪れたからである。そこで韓国政府は、竹島の不法占拠を正当化すべく、竹島に接岸施設の建設をはじめ、日本政府が抗議すると、反日感情を爆発させて牽制したのである。
だが日本政府は、韓国側の反日感情を考慮してか竹島問題を棚上げし、1998年末、新「日韓漁業協定」を締結したのである。その結果、日本海には排他的経済水域の中間線が引けずに、日韓の共同管理水域が設定され、韓国漁船による不法漁撈問題が発生したのである。そこで島根県議会は2005年3月16日、「竹島の日」条例を成立させ、竹島の領土権確立を求めたのである。
だが当初、日本政府は「竹島の日」条例には批判的で、竹島問題を歴史問題や漁業問題に局限し、韓国側の動きに同調する動きも強まった。そこで島根県では2014年2月、『竹島問題100問100答』(ワック出版)を刊行し、韓国側には竹島の領有権を主張できる歴史的権原がない事実を明らかにしたのである。これに対して、韓国側では今に至るまで反論ができていない。
ここで問題となるのは、日本の国家主権が侵され続けて半世紀、その間、日本政府は適切な対処をしていたのかということである。外務省のホームページで「竹島は日本固有の領土」とし、「韓国が不法占拠している」とするのは、「竹島の日」条例の成立が確実となってからのことで、『防衛白書』に竹島問題が記述されたのも2005年度版からである。
それに島根県竹島問題研究会が『竹島問題100問100答』の企画を進めていた頃、外務省でも島嶼研究の基本調査と称して8億円の予算を組んでいた。だがこの類似の試みに対し、韓国側が反応したのは、出版費200万円程の『竹島問題100問100答』の方であった。それも『竹島問題100問100答』を批判した慶尚北道独島史料研究会では、『竹島問題100問100答』を韓国語訳し、その後に批判を加えた『「竹島問題100問100答」に対する批判』をネット上に公開したことで、墓穴を掘ってしまったのである。これまで韓国内では韓国側に不利な竹島関連の情報は制限されていたが、島根県竹島問題研究会の見解と、それを批判する韓国側の見解を比較できる場を作ってしまったからだ。
だが事の重大さに気がついたのか、慶尚北道庁は突如、『「竹島問題100問100答」に対する批判』をネット上から削除したのである。事実上の敗北宣言である。
竹島問題は、領土問題である。それを解決していくには、歴史の事実と若干の戦略が要る。島根県にできることが、日本政府には何故できなかったのか。ここに竹島問題の本質がある。