昭和28年夏の竹島
2枚の写真がある。昭和28年に島根県と海上保安庁が共同で竹島調査を行い、6月27日に、島根県職員、海上保安官、島根県警察官総勢30人が竹島に上陸して、不法入国していた6人の韓国人を事情聴取しているものである。
県職員は報告書で次のように記す。彼らは欝陵島の漁民で6月9日に来島して海草を採取していたが、時化で母船が来ないため食料が無くなって困っていた。一昨日隠岐高校水産練習船鵬丸の乗員から米を与えられて救われた。自分たちを鬱陵島に送ってほしいと希望を述べた。彼らに対しては母船が到着次第速やかに退去するよう勧告した(『獨島問題概論』には、この時海上保安庁巡視船は米国旗で偽装し、昭和23年の米軍機竹島爆撃事件で亡くなった韓国人の慰霊碑を壊したという、信じがたい記述がある)。
この事件に対応して、7月8日に韓国国会は「大韓民国の領土である独島に日本官憲が不法侵入した事実に対し政府が日本政府に厳重抗議」を求める建議文を採択した。そこでは主権侵害を防止するため「積極的な措置」をとることが記され、韓国はそのとおり実行した。冒頭に書いたように、7月12日に海上保安庁巡視船「へくら」が竹島から数十発の銃撃を受け、一発が船体に命中する事件が起きるのである。
日本では、7月8日の衆院予算委員会で岡崎勝男外相は、韓国人は竹島にはすでにいないとして「韓国側も特に事を荒立てるという気持はないよう」なので「軍艦を派遣するとか何とかいうことは、さしあたり考えられない」と述べた。
8月4日の衆院水産委員会では、5月28日に竹島に30人もの韓国人がいると島根県の報告がありながら1カ月放置した責任、発砲事件や韓国が竹島に要塞を築くという情報への対応を問う質問があった。
岡崎外相は、最近の報告では竹島には異常はないとして「要塞云々のことは何かうわさで、間違いであろう」「国際紛争解決に武力を行使しないということは憲法の示すところ」
なので竹島問題の解決は「平和的手段によるべきもの」と答弁した。
8月10日の同委員会では、竹島問題に日米安全保障条約が適用されるかという質問に対し、現在は「向こうの方は来ていないというような実情」なので「今ただちに竹島問題について駐留軍の行動を促すというような措置は、差し控えるべき」だという政府答弁があった。日本政府は紛争回避を優先し、竹島不法占拠を強行する韓国の意図を見誤った。
6月30日に柳泰夏駐日韓国代表部参事官が外務省を訪問して「報道によれば竹島で韓国船が日本側に拿捕され、韓国漁民が拉致されたというが、これは本当」かと質問した。七月七日の韓国国会では、この報道は誤報であって「独島を日本人が占拠している事実はない」という駐日代表部の報告が読み上げられた。
竹島に上陸した韓国人に対する措置が逮捕ではなく退去勧告にとどまったこと、公務員常駐など竹島の管理強化をしなかったこと、これらの日本の対応は韓国を増長させた。
写真でわかるように、昭和28年6月27日の竹島は日本が管理していた。「日本船舶の不法領海侵入と彼らの脅迫的な態度と言動で純真な韓国人漁労者たちは、不安と恐怖で漁労を中断する」(『獨島問題概論』)状況が同日直後の竹島にはあった。なぜこの状態を日本が維持できなかったかを考えねばならない。
たしかに、貧弱な装備で韓国と対峙せざるを得なかった当時の海上保安庁の苦境は察する必要があろう。
28年7月12日に巡視船「へくら」に乗り込んで来た韓国警備官は「へくらが自分等の船より大きいのと、武装しているのではないかと内心おそれているようであったが、へくらに機関銃一つ、小銃一つないのを見てとると急に態度が大きくなった」(『キング』28年11月号)、「警備船程度の装備しかない海上保安庁では実力をもって韓国官憲に対し対抗することは難しく、外務省としては警備隊の実力を行使することなく平和的に解決したい方針である」(28年7月14日付毎日新聞東京本社夕刊)とある。
翌年海上自衛隊になる警備隊の竹島防衛への出動という選択肢は日本政府にはなかった。この年の夏、警備隊が行ったのは、韓国による竹島不法占拠阻止ではなかった。6月28日から7月10日まで実施された、関門トンネルも水没して通行不能になるほどの西日本各地の水害に対応して行った海上自衛隊史上初の災害派遣であった。
竹島問題は、米国の庇護の下で対外摩擦を避けてきた戦後日本の象徴であるかのように私には思われる。昭和27年に日本は本当に独立したのか、それが今問われている。
ふじい・けんじ 昭和30年島根県生まれ。54年広島大文学部卒。55年から兵庫県の公立高校で地歴公民科(社会科)を教えつつ近現代の日本と朝鮮半島の関係史に関心を持ち続ける。島根県など山陰沖で激化した韓国漁船操業問題をきっかけに兵庫教育大大学院で本格的な研究に取り組む。平成13年修士課程修了。修士論文は「日韓漁業問題の研究―李承晩ラインとは何だったのか」。日本統治時代の朝鮮で水産業に従事し、戦後引き揚げた人たちを追った「朝鮮引揚者と韓国―朝水会の活動を中心に」(崔吉城・原田環編「植民地の朝鮮と台湾―歴史・文化人類学的研究」第一書房)など地道な聞き取り調査をも重視した実証的な研究を続け、21年に島根県竹島問題研究会委員に起用される。24年から島根県竹島問題研究顧問。近く「戦後日韓海洋紛争史」(ミネルヴァ書房)を刊行予定。