新日韓漁業協定と竹島
昭和53年、島根県の漁業者にとって重大なもう一つの韓国との漁業紛争が起きた。前年から、米ソ両国の200海里漁業水域設定により北洋漁場(ベーリング海とカムチャッカ近海)から締め出された韓国の大型漁船が、北海道周辺で本格操業するようになり、北海道の沿岸漁業者は被害を訴えた。53年からは韓国漁船は島根県の沖合に大挙押し寄せ、漁業者は韓国船による漁具荒らしと漁場占拠に苦しむことになる。最初の被害はシイラ漬け漁だった。島根県大田市の和江漁協組合長だった月森元市氏は次のように語った。「六月、韓国船によって漁の仕掛けである筏のロープが切られる事件が起こった。以来何度か渡韓して被害の実態と再発防止を訴えたが効果はなかった。ある時は『公海上に障害物を置くな』と言われたことがある。筏に灯火をつけて位置を知らせたり、テープレコーダーに韓国語で注意を吹き込んで韓国漁船に呼びかけたが無駄だった。それが裏目に出て灯火のついている筏のロープが切られて無くなり、灯火だけが盗まれていたこともあった。石見海区では三十五統あったシイラ漁の漁船が五十九年には十四統にまで減った」
その後、リーダーとして韓国漁船対策に奔走することになる月森氏は「日本海のわが国周辺水域は韓国船のやりたい放題で、乱獲による資源の枯渇と漁場の荒廃が進む一方となった」「日本の領海十二カイリから一歩先沖に出れば公海だが、韓国船がひしめく状況ではとても公海とはいえず、『日本海はもはや韓国の海となってしまった』という悲痛な嘆きの声が、漁民の間から次々と上がった」と嘆いた(「豊饒の海 悲劇の海―韓国漁船対策22年間の闘い―」漁業協同組合JFしまね 平成21年)。このような状況は島根県だけでなく北海道や西日本の沿岸各地で見られたものであった。
海を守るため「200海里全面適用を基本とする体制を早期に確立せよ」と、排他的経済水域を設定して外国漁船を排除しようとする声が日本の漁業者の間に高まった。
昭和40年の日韓漁業協定では、日本は12海里漁業専管水域を認めて、李承晩ラインを理由とした韓国の日本漁船拿捕を終わらせた=地図B。しかし、韓国の拿捕再発を恐れてその外側の公海での漁船の取り締まりや裁判は漁船の属する国のみが行えるという「旗国主義」としたことが、皮肉にも、日本近海での韓国漁船の横暴を助長したのであった。
実は、日本は52年に200海里漁業水域を設定したが、韓国および中国には適用を除外していた。当時中韓両国の漁業は未発達で、日本周辺の両国の漁船の操業を規制すれば、それよりも圧倒的に多い両国周辺で操業する日本漁船の操業が規制されかねなかったからであった。
しかし、平成に入り「日本の排他的経済水域内の韓国漁船漁獲実績はほぼ1600隻、漁獲高約22万㌧程度、これに対し、日本漁船の韓国水域での操業実績は、約1600隻、9万㌧程度」と推定され(杉山晋輔「新日韓漁業協定締結の意義」『ジュリスト』一一五一平成11年)。漁業で日韓は攻守逆転していたのである。
平成8年に日韓両国は200海里排他的経済水域(EEZ)を設定し、新漁業協定の締結交渉を始めた。排他的経済水域の画定問題をはじめとして難問が山積し交渉は難航した。
結局、漁業問題と領土(竹島)問題を切り離すことで一致し、境界画定が困難な水域には「暫定水域」を設定して境界問題を回避することになった。新漁業協定は10年に調印されて11年に発効した=地図C。
日本沿岸については「日本の海」を取り戻すことができたものの、新日韓漁業協定に対する日本の漁業者の不満は強い。暫定水域は本来なら日韓両国の漁船が操業できる水域であるが、現実には竹島に日本漁船は近づくことはできない。
ズワイガニ漁では休漁期のほとんどない韓国漁船の漁具(底刺し網)が始終置かれ、好漁場での日本の底曳網漁船の操業が難しい。ベニズワイガニかご漁は日韓が同じ漁法のため合意形成されつつあるが、ズワイガニ漁では隠岐北方の漁場の交代利用に合意したものの、重要な「浜田三角」では協議の進展が見られない。
それどころか、日本側排他的経済水域への韓国漁船侵入阻止に日本の取締船は汲々とし 、「浜田三角」西側の日本の排他的経済水域では、韓国漁船が監視の目を盗んで違法に設置した漁具によって日本の底曳網漁船が操業できない場所もあるというのが、日本海の現実である。
17年に島根県が「竹島の日」条例を制定した背景にも漁業問題があった。
「新日韓漁 業協定において竹島の帰属が確定しないことにより、山陰沖を中心に設けざるを得なくなった広大な暫定水域は、事実上韓国漁船が独占する海域となり、本県を初め我が国の漁船はほとんど立ち入ることが不可能である状況を見るとき、その損害ははかり知れないものがあります」
島根県議会で条例提案者の議員は、このように理由を説明した。