昭和53年の竹島


 昭和40年の日韓条約でいったん「寝た子」となった竹島問題は53年に目を覚ます。同年5月9日、韓国政府は領海12海里を適用して竹島近海の日本漁船を排除し、陳情を受けた日本政府は韓国政府に竹島周辺での日本漁船の安全操業を要請せざるを得なくなったのである。

 当時、国連海洋法条約を採択することになる第三次国連海洋法会議が開催中で、世界は領海12海里・排他的経済水域(沿岸国が資源を独占して管理でき、他国は沿岸国の許可なしに資源を利用できない水域)200海里の時代に向いつつあった。

 領海を12海里に拡大することについては、日韓両国とも昭和52年に「領海法」で立法化していた。同2月5日の国会で福田赳夫首相は、竹島は「わが国の固有の領土でありますので、その固有の領土であるという前提に立って12海里ということが設定される」と述べ、韓国はこれに反発していた。竹島をめぐって日韓間に緊張が高まる中で、ついに竹島近海にいた島根・鳥取両県の約100隻の日本漁船が、韓国の艦艇に追われて退去させられたのである。

 島根県と鳥取県、両県の関係団体、そして両県の国会議員は共同して国に竹島近海での安全操業実現を陳情した。両県が竹島問題で共闘するのはこの時がはじめてであった。しかし、韓国は日本漁船の操業を認めず、竹島近海の漁場は日本人漁業者の手から失われていったのであった。

 このような事態になることを危惧して、島根県は前年に「島根県竹島問題解決促進協議会」(促進協)を設立していた。韓国が竹島を基点として200海里漁業水域(沿岸国が漁業資源の保存・管理のために領海の外側に設置する水域。現在の排他的経済水域の先駆けとなった。漁業専管水域ともいう)を設定した場合日本の漁業者は壊滅的な打撃を受けるとして、根底にある竹島問題の解決を国に働きかける組織であった。

 とりわけ、戦前から竹島で漁労を行い、戦後も竹島の漁業権を更新してきた隠岐の漁業者の熱意は強かった。島根県隠岐島漁業協同組合連合会による次の昭和52年4月8日付「竹島の領土権確保に関する陳情書」は読む者の胸を打つ。

 「そもそも一国の領土は尺寸の地といえども故なくして譲るべからざるは古今の鉄則であり、故なくしてこれを実力をもって占拠する韓国に対しては須からく自衛権の発動によって原状回復を図るべきであり、若し我が国に於て、これを国際間の紛争にして憲法九条により実力に依って解決すべき筋合のものにあらずとするならば、よろしく韓国をして国際司法裁判所に提訴して帰属の判断を求めることに合意せしむべく万一韓国にして、この提訴に応ぜざるにおいては、よろしく韓国に対する経済援助を打切る等適切な措置を講ぜられたく強く要望する」

 この熱意を受けて対韓交渉を行ったのが当時の園田直外相であった。

 園田外相は「竹島問題で、今秋の日韓定期閣僚会議の延期や経済協力の打ち切りを含めた強い姿勢をみせ」(53年6月9日付山陰中央新報)、「定期閣僚会議の正式議題に竹島問題を取り上げるべきだと表明」(同19日付朝日新聞大阪本社版)。そして同9月の日韓定期閣僚会議では朴正熙大統領と直接折衝して、日本漁船の安全操業確保の約束をいったんは取り付けた。交渉を進展させるために「(竹島は)価値のない島だから爆破したらどうか」などという発言が日韓双方から飛び出した日韓会談の時期とは異なり、価値を増した竹島をめぐる漁業問題は日本政府を動かしたのである。
島後の西郷港に立つ竹島の標語看板=島根県隠岐の島町
 昭和53年の事件は日韓両国の竹島問題をめぐる議論に影響を与えた。韓国では、竹島問題に関する研究論文や記事が急激に増えていく。米国の外交文書開示によってこの年、サンフランシスコ平和条約草案が作成される過程で竹島を日本領から除こうとする韓国の要求を米国が拒否したことが明らかになったことへの危機感もあったのかもしれない。

 一方、日本では、この事件の影響を直接受けて神奈川大助教授だった梶村秀樹氏が「竹島=独島問題と日本国家」(『朝鮮研究』一八二 53年)を書いた。朝鮮半島にあった政府が竹島を領有していたことを何ら証明していないにもかかわらず、明治三十八年の日本政府による竹島編入は日韓併合に至る日本の朝鮮半島侵略の一環と決め付ける梶村氏の理解しがたい主張は、今日の竹島問題をめぐる論争にも影響を与えている。