日韓会談と竹島問題
日韓会談とは、昭和26年から40年まで13年8カ月の長きにわたって行われた、日韓国交正常化交渉の一般的な呼び方である。
日韓会談での竹島問題の討議は37年から行われた。この年、最大の懸案であった請求権問題が大平正芳外相と金鍾泌中央情報部長の会談で大筋合意(「無償三億㌦・有償二億㌦」を日本が韓国に経済協力の形で支払う。この合意により40年の日韓条約中の請求権および経済協力協定では、請求権問題は「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と明記)し、日韓会談妥結への道が見え始めた年であった。この年までに竹島問題の本格論議が行われた形跡はない。そして日韓会談では、歴史的さらには国際法的な見地からの竹島問題の本質的な討議も結局行われなかった。
同年2月22日に行われた金鍾泌部長との会談で、小坂善太郎外相は「独島問題を国際司法裁判所に提訴して韓国側がこれに応訴することを望む」と述べた。よく知られるように、国際司法裁判所の裁判は原告の訴えに対して被告が同意した場合に開始されるので、日韓両国が裁判に同意しないと裁判にならない。
これに対して金部長は「別に実質的な価値のない島の問題を日本がそのように大きくする必要はない」と答えた。日本側は竹島問題の国際司法裁判所での解決を訴え、韓国が拒否するという、現在も繰り返される構図がここでも現れた。
同3月12日、小坂外相は崔徳新韓国外務部長官に対して「懸案問題が解決しても領土問題が解決しなければ国交正常化は無意味だ」と訴えて国際司法裁判所での解決を求めた。崔長官は「国交が正常化された以後にも両国がこの問題を外交経路を通じて交渉することもできるのだから、今はもっと重大な問題の討議を始めること」にしたいとかわした。
韓国側議事録では、小坂外相は3月17日にも冒頭から竹島問題を取り上げたが応答はなかった。そこで会談終了間際に韓国側の意見を述べるよう要請したが、崔長官は「時間がないのでその話はそこまでにしよう」とあしらって終わった。議事録にはこの部分に「(笑)」とある。
小坂外相が「竹島問題の解決なくして国交正常化なし」という原則に立った主張を行ったこと、嘲笑を浴びようとも問題の重要性を最後まで訴えたことは高く評価できる。
同11月12日の大平外相と金部長の会談で、金部長が竹島問題を「第三国の調停に任せるのはどうだろうか」と提案した。大平外相は「考慮する価値がある案だとしながら第三国としては米国を指摘して研究してみる」と述べた。
韓国側公開文書には「(金部長の)意図は国際司法裁判所提訴のための日本側の強力な要求をそらし、事実上独島問題を未解決状態に置く作戦上の対案として示唆したと考えられる」との韓国政府コメントがある。
さらに「真意は本問題の是非を決定して解決することに目的があったのではなく」「できるだけ現状維持を目論んで独島に対するわが国の領有権を既成事実化することにあったものと考えられる」という駐日韓国代表部の説明も残っている。
金部長の提案は韓国の竹島不法占拠を既成事実化する時間稼ぎであったにせよ、竹島に関して領土問題はないと言い続ける韓国が、この年の幾度もの日本の要請に押されて、領土問題があることを前提とした提案を行った事実は記録されるべきである。
この提案に対して翌12月、「(一)国交正常化後、例えば一年間日韓双方の合意する調停機関による調停に付し、(二)これにより問題が解決しない場合には、本問題を国際司法裁判所に付託するとする」という、日韓の主張を「足して二で割る」式の逆提案を日本は行った。韓国はこれを拒否して昭和37年の竹島問題をめぐる論議は終わった。
竹島問題は「ほかの問題に対する影響が大きいですから、べつに約束したわけではないけれど、お互いに触れないでおいたんです」と交渉当事者が回想(『牛場信彦 経済外交への証言』昭和59年)しているように、解決の難しい問題の論議は避けられ、後まわしにされたのである。