韓国による竹島の「聖地化」
昭和28~29年の竹島不法占拠の時期に、日韓両国は竹島の領有をめぐって計6通の口上書の応酬を行い、そして不法占拠を正当化する主張を韓国は作り出した。
27年1月28日に日本政府が送った李承晩ライン宣言への抗議文や、2月12日の韓国政府反論文(これらが国際法的な領土紛争の開始を意味する)では、漁業問題が主で竹島問題には文面の六分の一程度しか割かれていなかったが、この時期に論争は全面的なものになった。
28~29年に韓国は竹島を自国領とするさまざまな「根拠」を持ち出す。あいまいさの拭えない朝鮮古文献にある「三峯島」「可支島」に代わり、「于山島」を竹島と主張するようになった(ただし「于山島」を竹島と証明することも韓国はできていない)。それまでの韓国の主張では欝陵島までしか行っていなかった安龍福が、1696(元禄9)年に「独島に至って『ここも我が領土であるのを知らないのか』と」日本人を一喝したとなり(崔柄海「光復された独島の領有権を主張する」『国防』二六 国防部政訓部1953年)、韓国の根拠の一つになった。そして、明治38年(1905)年の竹島の日本領編入を侵略として激しく非難するようになったことが重要である。
昭和28~29年に日韓間で応酬された口上書のうち最後の29年10月28日の韓国の口上書で「独島は日本侵略の犠牲となった最初の韓国の領土であった」という主張が登場する。竹島は明治38年1月28日、島根県隠岐島司の所管とすることを明治政府が閣議で決定し、同2月22日(平成17年に島根県はこの日を「竹島の日」と定めた)に島根県知事がこれを告示した(「島根県告示第四〇号」)。
韓国はこの告示と、その五年後の明治43年の日韓併合とを結び付けた。この口上書は「韓国国民にとって独島は東海の果てにある一個の小島であるだけでなく、それは日本と相対する韓国主権の象徴であり、韓国主権の保全を試験する実例だ」と続く。こうして、竹島は日本海に浮かぶ岩だらけの小島ではなく、韓国そのものになっていった。竹島の「聖地化」が始まったのである。
しかし、「独島は日本侵略の犠牲となった最初の韓国の領土」という主張は事実ではない。この主張が成立するには、明治38年以前に、李氏朝鮮や大韓帝国など朝鮮半島にあった政府が竹島を領有していたことを示さねばならないが、韓国にはそのような証拠はないからである。
とりわけ、韓国政府が同年以前に竹島を「欝島郡」(欝陵島)の管轄にしたとする、1900(明治33)年10月25日の「勅令第四一号」について、勅令の「石島」が竹島だという韓国の主張を証明する文献は見つかっていない。「現在、私たちは『石島=独島』説を立証する作業の他に、1905年以前の我が国の実効支配を立証しなければならない二重の課題を抱えている」(『独島研究ジャーナル』二六号 韓国海洋水産開発院2014年)と研究者が述べざるをえない状況に韓国はある。
にもかかわらず「独島は日本侵略の犠牲となった最初の韓国の領土」という主張は、呪文のように幾度も日本に対して発せられる。平成23年8月に欝陵島(竹島ではない)視察を計画して韓国の金浦国際空港に到着した3人の日本の国会議員の入国を拒否した際も、24年8月10日の李明博大統領の竹島上陸に対して日本政府が行った竹島問題の国際司法裁判所への付託等を求める提案を拒否した際も、そして26年1月28日の学習指導要領解説(中学、高校の社会科)の一部改定への抗議の際も、そうであった。
文部科学省の「中学校学習指導要領解説社会編〔地理的分野〕改定では、日韓間に「竹島をめぐって主張に相違がある」から、竹島は「我が国の固有の領土であるが」「韓国によって不法に占拠されている」と、強くかつ明確な表現に変わった。
これに対して韓国政府は「日本帝国主義の侵奪の最初の犠牲物である独島に対して、日本政府が誤った主張を続けてこれを子孫にまで教えようとするのは、日本がまだ歴史歪曲と過去の帝国主義に対する郷愁を捨てられないことを克明に見せるもの」だと非難したのである(同年1月28日付中央日報電子版)。