文字通りの「トカゲのしっぽ切り」ではないか。

 いや、「後進に道を譲る勇退で、定例の人事」と説明しているのだから、トカゲのしっぽ切りにもなっていないか。

 白紙に戻った新国立競技場の建設問題で、文部科学省の担当局長が定年まで1年半余を残して辞職する。責任を問う声が出ていただけに、詰め腹を切らされたとみるのが自然だろう。

 しかし、担当局長が辞めれば済む話ではない。

 安倍首相は、自ら本部長を務める東京五輪・パラリンピック推進本部の会合で、「内閣全体として責任を持って競技場の建設を進めていく」と強調した。文科省任せの態度をやっと改めたが、総工費や工期が迷走した失敗を繰り返さないためには、これまでの政策決定と事業実施過程の検証が欠かせない。

 とりわけ官僚を指揮し、最終責任を負うはずの「政治」が厳しく問われるのは当然だろう。

 まず、下村博文文科相だ。

 その責任を問う声は、野党に加え与党からも上がっている。ところが下村氏は、五輪に向けて「責任を果たすことが最も重要」と語り、官邸も擁護する。

 9月の自民党総裁選後に内閣改造が見込まれるから、下村氏をはずすとしても他の人事と一緒にした方が無難だ――。政権がそんな考えだとしたら、国民の反発はさらに増幅するだけだろう。

 次に、森喜朗・元首相。

 東京五輪の組織委会長であり、その前年にラグビーW杯を開く日本ラグビー協会の重鎮でもある。その森氏が、両大会の主会場に予定されてきた新競技場の問題に影響力を持つことは関係者の誰もが認める。

 しかし本人は「私がやっているように思われ、迷惑だ」「もともとあのスタジアム(のデザイン)は嫌だった」と、まるでひとごとのようだ。

 そして、安倍首相である。

 今月に計画を撤回したのはいいが、その1週間前に国会で、計画見直しは「間に合わない」と答弁していた事実は消えない。「1カ月ほど前から検討してきた」とも釈明したが、誰に何を検討させ、どんな回答を得て決めたのか不明なままだ。

 過ちの責任と原因追及をうやむやにし、情報を明かさない姿勢が続く限り、再び失敗する恐れはぬぐえない。

 「政と官」の役割分担と責任を踏まえつつ、とるべき責任をとる。これが本来の政治のあるべき姿だ。文科省が設ける第三者委員会の検証でこと足れり、とはいかない。