ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の町スレブレニツァ。
トラックから降ろされるのはこの町で20年前に起きた虐殺の犠牲者のひつぎです。
僅か10日の間にイスラム系住民およそ8,000人が殺されました。
今も犠牲者の遺体が新たに発見されています。
今月11日に開かれた追悼式典。
虐殺の後ろ盾となったとされる隣国セルビアの首相が初めて参列。
しかしイスラム系の住民から石を投げつけられ会場を後にする事態となりました。
虐殺から20年がたち改めて家族の死を突きつけられる遺族たち。
(泣き叫ぶ声)今なお家族の行方が分からない人もいます。
町の女性たちは20年間夫や息子を捜し続けてきました。
息子の骨を見つけ埋葬しなければなりません。
そうしないと虐殺はなかったと否定されてしまうでしょう。
虐殺が起きた町で息子を捜し続ける母親を追いました。
旧ユーゴスラビアボスニア・ヘルツェゴビナ。
スレブレニツァはおよそ1万人が暮らす小さな町です。
町の中心部に並んで建つのはキリスト教の教会とイスラム教のモスク。
異なる民族が共に暮らしてきた町の象徴です。
アッラー。
かつて人口の7割を占めていたのがイスラム系住民。
一方人口の3割近くはキリスト教徒のセルビア系住民でした。
長年仲よく暮らしていたという2つの民族。
しかし20年ほど前町の姿は一変しました。
(銃声)1992年に始まったボスニアの内戦。
共に暮らしてきた民族同士が4年近くにわたり激しい戦いを繰り広げました。
冷戦終結後多民族国家旧ユーゴスラビアが崩壊。
次々と国が分離独立していきました。
ボスニアでも独立を目指すイスラム系やクロアチア系の住民とそれに反対するセルビア系の住民との対立が激化。
国土は二分されました。
イスラム系住民が支配していたスレブレニツァはセルビア系勢力に包囲されます。
孤立した住民を守るため国連はスレブレニツァに平和維持軍を投入。
周辺地域からもイスラム系住民が次々と集まりその数は5万人を超えました。
(砲撃音)しかしセルビア系勢力は強引にスレブレニツァに侵攻。
(銃声)兵力で劣る国連平和維持軍は抵抗する事なく町を明け渡しました。
セルビア系勢力は女性や子どもたちを支配地域から追い出しました。
一方男性は未成年も含めて徹底的に虐殺しました。
(銃声)内戦終結後ほかの地域に避難していたイスラム系住民の一部がスレブレニツァに戻ってきました。
多くが夫や息子を虐殺で失った女性たちです。
14年前かつて家族と暮らしていた自宅に戻ってきました。
ハイラさんは虐殺によって夫と息子を奪われました。
夫の遺体は10年前町の郊外で発見されました。
しかし25歳だった息子ニハドさんの行方はいまだに分かっていません。
ニハドさんは内戦中住民の被害を伝える記者として活動していました。
息子は武器を持っていませんでした。
持っていたのは紙と鉛筆だけです。
戦闘や作戦に加わった訳でもないのになぜ死ななければならなかったのでしょうか。
内戦で生まれた住民同士の対立感情は今も続いています。
イスラム系住民の集まる店とセルビア系住民の店。
喫茶店も民族ごとに分かれるようになりました。
ハイラさんの日々の暮らしも穏やかではありません。
撮影中のハイラさんを通りがかりのセルビア系住民がからかいました。
かつてハイラさんの職場にいたセルビア系の元同僚です。
しかし声をかける事はありません。
もちろん昔は仲がよかったです。
セルビア系住民にイースターやクリスマスの時にはよく家に招かれましたよ。
しかし時代が変わりました。
二度と昔のような友人にはなれないと思います。
それでもこの町に戻ったのは虐殺をした者たちの思いどおりにはさせないというハイラさんの意地でした。
彼らに抵抗したい気持ちが心の中にあるのかもしれません。
「ほらご覧。
あなたたちは全員を殺せていない。
この私がまだ生きているよ」と。
家も修理して住み続け抵抗しているんです。
ハイラさんは今も息子の行方を捜し続けています。
20年前のあの日息子のニハドさんはここでハイラさんと別れて森に逃げました。
「セルビア系の勢力が男たちを殺している」と聞いたからです。
関係者の証言によるとニハドさんはスレブレニツァから20キロ余りの森の中でセルビア系勢力の襲撃に遭いました。
今その現場で行方不明者の捜索が行われています。
内戦中セルビア系勢力は遺体を別の場所に埋め直し虐殺の証拠を隠してきました。
更にあちこちに地雷が埋められているため遺骨を見つける事は容易ではありません。
(地雷探知機の音)ここは地雷を撤去するには大変な場所です。
平たんではないので機械が使えず全て手作業で取り除きます。
1センチずつしか前に進めない困難な作業です。
虐殺された犠牲者のために設けられた共同墓地です。
6,000人を超える人たちの遺骨が埋葬されています。
ハイラさんの夫ユヌズさんもここに眠ります。
夫の隣は息子を埋葬するために空けてあります。
早く息子の骨を見つけ埋葬しなければなりません。
そうしないと虐殺はなかったと否定されてしまうでしょう。
あなたの息子は存在しなかったと言われたくないのです。
ハイラさんは行方不明者の捜索の方針を決める委員会のメンバーです。
息子のニハドさんを含め一人でも多くの遺骨が見つかるよう捜索を強化してほしいと訴えてきました。
しかしセルビア系の委員から激しい反発を受けます。
セルビア系の委員が事あるごとに反対するため捜索はなかなか強化されません。
確かに全ての遺体を見つけてほしいですが公平にすべきです。
セルビア系住民の遺体よりもイスラム系住民の遺体を優先する事のないようにしてほしいだけです。
セルビア系住民の多くはスレブレニツァの虐殺ばかりが注目される事に不満を抱いています。
セルビア系住民が開いた追悼式典です。
スレブレニツァの周辺では内戦中セルビア系住民3,000人以上が命を落としました。
参列した指導者はイスラム系住民の被害だけが虐殺と強調される事に疑問を投げかけました。
教育現場でもスレブレニツァの虐殺について伝える事に消極的です。
セルビア系の生徒が使う歴史教科書ではボスニア内戦についての記述は僅か1ページ。
虐殺には一切触れていません。
あの内戦については歴史的な評価が定まっていません。
現時点ではこのやり方が適切です。
6月上旬。
ハイラさんの息子の遺骨の捜索で進展がありました。
地雷の撤去作業が終わり殺害されたと見られる現場に入れるようになったというのです。
翌日。
現場の山の麓に捜索隊のメンバーが集まりました。
体力に不安があるハイラさんは車の中で待つ事にしました。
山の奥にある捜索現場。
急な斜面が続きます。
安全上の理由でこれ以上同行する事は許されませんでした。
3時間後。
捜索隊が山の麓に戻ってきました。
現場で見つかった顎の骨はDNA鑑定に送られました。
鑑定を待つ遺骨は膨大にあるため結果が出るまでには数か月かかります。
虐殺から20年を迎えたスレブレニツァ。
共同墓地で追悼式典が開かれました。
身元が分かった犠牲者が今年は新たに136人埋葬されます。
(泣き叫ぶ声)追悼式典が行われている共同墓地から少し離れた場所にハイラさんの姿がありました。
埋葬できて満足している遺族もいるでしょうが私は違います。
あそこに行くのはつらいです。
捜索現場で見つかった骨のDNA鑑定はまだ結果が出ていません。
今年も息子の遺骨を埋葬する事はできませんでした。
2日後。
ハイラさんは追悼式典に訪れた人たちを虐殺の現場に案内していました。
この建物ではおよそ500人の男性が連れてこられ次々と銃殺されたといいます。
突然セルビア系の住民が声を上げました。
ここで虐殺が行われた証拠はないというのです。
家族を奪われた女性たちの苦しみは今も続いています。
(ハイラ)内戦によって私の人生は大きく変わってしまいました。
想像してみて下さい。
幸せな家族を失う事がどれほどつらい事なのか。
私はどんな親にももう同じ経験をしてほしくありません。
虐殺の町スレブレニツァ。
いまだ1,000人以上の行方が分からないままです。
(マイケル)
これは極東の国日本を訪れた2015/07/30(木) 00:10〜00:40
NHK総合1・神戸
NEXT 未来のために「虐殺の町で生きる〜スレブレニツァ 母たちの20年〜」[字]
1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の町・スレブレニツァで起きた大虐殺。あれから20年、犠牲者の遺族たちはどのような思いで過ごしてきたのか。
詳細情報
番組内容
今年7月、世界をしんかんさせた大虐殺から20年目を迎えた。旧ユーゴスラビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の町・スレブレニツァ。セルビア系武装勢力がおよそ8千人のイスラム系住民を殺害したのだ。第2次世界大戦後のヨーロッパで最悪とされる大虐殺である。毎年開かれる追悼式典では今も新たに見つかった犠牲者の棺が埋葬される。遺族たちはこの20年、どのような思いで過ごしてきたのか。20年目の式典までの日々を追う
出演者
【語り】中川緑
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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