日本とアメリカが激しい戦いを繰り広げた太平洋戦争。
その開戦ギリギリまで日本で戦争回避のために奔走したアメリカ人がいました。
戦争が始まるおよそ10年前に来日したグルーは数多くの出会いを通して日本を深く知る事となります。
何百年も続く…そして…そんな中二・二六事件が勃発。
グルーは共に日米の平和を目指してきた親友を奪われます。
しかしグルーは希望を捨てませんでした。
昭和20年戦争が最終局面を迎えた時。
グルーは日本で得た友人との絆を信じ終戦に向けて立ち上がります。
「カギを握るのは天皇だ」。
グルーは大統領に訴えます。
終戦から70年。
日本を愛した一人のアメリカ人が見た戦争終結の物語です。
ここに日米の平和のために奔走した外交官グルーの孫が暮らしています。
リラさんは幼い頃駐日大使だった祖父・グルーに会うため日本を訪れた事があると言います。
こちらは日本にまつわる思い出の品。
(リラ)これは…高さ50cmほどの銀の花瓶です。
グルーの一族に家宝として大切に受け継がれています。
グルーが大使として日本にやって来たのは昭和7年の6月。
この時日米関係は険悪なものでした。
(砲声)きっかけは日本軍の中国東北部満州への進出です。
アメリカは日本が中国の権益を独占する事を危険と見てこれを強く非難します。
グルーに課せられた使命。
それは日本の今後の出方を見極めるとともに日米の緊張関係を和らげる事でした。
「最大の問題は日本の抑えきれない衝動がいつか世界とぶつかる事になるのではないかという事だ。
私の使命が最も波乱に満ちたものになるのは間違いない」。
日本に到着して8日後。
グルーは駐日大使の信任状を持って宮城現在の皇居に向かいます。
日本の最高権力者で陸海軍の総司令官でもある昭和天皇とは一体どのような人物なのだろうか。
グルーはこの時の印象を日記に記しています。
「陛下が気さくに質問されるので私は生い立ちから家族の事まで何から何まで話す事になった」。
天皇は意外にも気さくな人物だった。
グルーは安堵します。
早速大使として日本の人々との交流が始まります。
グルーは町で出会う日本人が想像以上に親切な事に驚かされました。
ある日皇居の周りで愛犬の散歩をしていた時。
生後半年の子犬がお堀に落ちてしまいます。
子犬のサムボーは今にも溺れそうです!大変な事になった!どうすればいいんだ!するとたちまち周りにいた人々が集まってきて…。
通りすがりの若者が堀の中に入り危険を顧みず子犬を助けてくれたのです。
おおサムボー!しかも!これくらい当たり前の事ですから。
若者は名前も言わずあっという間に立ち去ってしまいました。
この一件は新聞にも大きく取り上げられます。
謙虚で思いやりのある日本人の姿にグルーは心打たれたのです。
皇居を訪れた時驚くような事が起こります。
会食の後天皇から思いも寄らない質問が飛んできたのです。
えっ?あ…はい元気にしております。
ああそう。
それはよかった。
はっはっは。
心の声驚いた。
陛下はサムボーが堀に落ちた事を知っておられた。
子犬の事まで気にかけて下さるなんてなんてお優しい心遣いをされるのだろう。
それは親米派の政治家たちを大使館に招き今後の日米関係について意見交換をした時の事でした。
グルーは軍部の暴走に懸念を表明します。
すると一人の政治家がこう語りました。
どんな事になっても…心の声なるほど天皇か…。
グルーの進言は政府に採用されます。
しかし大きな転機が訪れます。
グルーは親しい友人だった内大臣の斎藤実と天皇の侍従長を務めていた鈴木貫太郎を大使公邸に招き映画会を開きます。
気が置けない友人同士コメディー映画を深夜まで楽しみました。
そしてその僅か数時間後。
(銃声)自宅に戻った…斎藤は全身に40発以上の銃弾を撃ち込まれ即死。
鈴木もひん死の重傷を負いました。
共に日米の平和を模索してきた友人をグルーは突然失ってしまったのです。
青年将校が政府や軍の高官らを殺害した…心の声天皇が動いた事で事件は解決した。
やはり…しかしこの二・二六事件を境に…
(砲声と銃声)翌年日本は中国と全面戦争を開始。
北京や上海を占領し更にインドシナ半島にまで軍を送ります。
急速に勢力を拡大していく日本に対し…日米関係は一気に悪化。
苦悩するグルーのもとへ知らせが届きます。
それは日本の首相近衛文麿からの呼び出しでした。
近衛はグルーに戦争回避のための切り札となる策を説明します。
それは近衛首相とローズヴェルト大統領による直接会談でした。
実はこの前日近衛は天皇からじきじきに戦争を避けるための外交交渉を行う事を求められていました。
心の声もし陛下が動かれるのなら軍を止められるはずだ。
これが戦争を避ける最後のチャンスかもしれない。
グルーは大統領に首脳会談の開催を進言する電報を送ります。
しかしグルーの提案はアメリカ本国で猛反対にあいます。
事前交渉もなしに首脳同士の会談を行うべきではないというのが最大の理由でした。
2か月後日本は真珠湾を攻撃。
アメリカに帰国する事になった…心の声この桜が大きくなって花開く時にはきっと日米の間に平和が戻っているように…。
グルーは無念の思いを胸に10年間を過ごした日本を去りました。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
駐日大使として10年近くを日本で過ごしたグルーは日本文化にも大変造詣が深かったと言われています。
中でもお気に入りだったのが…来日直後に初めて歌舞伎を鑑賞した時グルーは日本の美しい様式美に感銘を受けます。
その後グルーの歌舞伎への情熱は更に高まっていきます。
なんと大使公邸で歌舞伎を上演するほどになりました。
演目は日本で最も人気のある…それを演じるのは大使館員たち自身です。
劇場から衣装を借りセリフも日本語で演じました。
グルーはこう語っていたそうです。
そんな「日本びいき」だったグルーですがアメリカ帰国後日本の運命を左右する大仕事が待っていました。
太平洋戦争のさなかアメリカに帰国したグルーは予想以上の反日感情の高まりに驚かされます。
これは当時アメリカで戦意高揚のために作られた映画です。
中でも衝撃を受けたのが天皇に対するアメリカ国民の認識でした。
心の声アメリカの人々は…ラジオや市民向けの演説で…皆さん!天皇は最後まで軍にアメリカとの戦争をやめさせようと最善を尽くしました。
彼は戦争を望んでいなかったのです。
私はその事をよく知っています。
グルーの演説は大きな批判を浴びます。
「戦争の真っ最中に天皇を擁護するのは場違いな発言だ」。
「グルーは天皇と取り引きしているのではないか」。
国務省の指示で…それから1年半後。
グルーに再びチャンスが巡ってきます。
昭和20年4月。
これまで日本との戦争を指導してきたローズヴェルト大統領が急死。
代わって大統領になったのは外交経験のほとんどない副大統領のトルーマンでした。
日本について全く知識がなかった…グルーは…このころ日本とアメリカは沖縄で激しい攻防戦を繰り広げていました。
県民の4人に1人が命を落とすという苛烈な戦闘が行われアメリカ側の犠牲者も予想を超える勢いで増えていきます。
更にアメリカ軍は日本本土への大規模な上陸作戦の計画を着々と進めていました。
対する日本側も国民を総動員し「本土決戦」を決意します。
もしこのまま本土上陸作戦が実行されれば日米双方にばく大な犠牲者が出る事は避けられません。
心の声このままでは日本中が戦場になり多くの命が失われる。
何か私にできる事はないのか…。
ちょうどその時思わぬニュースが飛び込んできました。
日本でかつての友人鈴木貫太郎が首相に就任したのです。
条件さえ折り合えば日本を戦争終結に導けるかもしれない。
動くなら今しかない。
グルーはホワイトハウスに向かいます。
そして…日本が降伏を拒む最大の理由は降伏などしたら天皇を中心にした国のあり方が永久に破壊されてしまうと信じている事にあります。
ですから戦後の政治体制は日本人の決定に任せると保証してやれば彼らは面目が保たれたと感じるはずです。
グルーは1時間にわたって大統領を説得しました。
興味深い意見だ。
早速始めてくれ。
これはグルーのアイデアを元に作成された後のポツダム宣言の草稿です。
そこにはこう記されています。
「日本が降伏を受け入れた場合戦後日本が選ぶ事のできる政治体制の中には…」。
この宣言は7月にドイツのポツダムで行われる連合国の首脳会談で発表される事になります。
心の声なんとか間に合った…。
これで戦争は終わる。
しかしその翌日予想外の出来事が起こります。
出発直前になってトルーマン大統領はアメリカ外交のトップである国務長官を交代させ友人の上院議員ジェームズ・バーンズを新しく長官にします。
バーンズは天皇を中心にした国の在り方を日本に認める事についてかねてから反対を公言してきた人物でした。
心の声バーンズは日本で天皇がどんな意味を持つか分かっていない。
説得しなければ!グルーはまさにポツダムへ出発しようとしていたバーンズを追いかけ廊下で捕まえます。
(グルー)バーンズ長官これは日本にとって天皇がいかに重要な存在であるかをまとめたメモです。
是非御一読下さい。
しかしバーンズは資料をそのままポケットにねじ込みポツダムへ行ってしまいました。
日本の運命を決めるポツダム宣言の行方をもはやグルーは見守る事しかできませんでした。
ドイツ・ポツダムで開かれたアメリカイギリスソビエトによる首脳会談。
そこにグルーは同行する事ができませんでした。
そして「歴史秘話ヒストリア」。
グルーの手を離れたポツダム宣言はこの後思いも寄らない運命をたどる事になるのです。
アメリカのトルーマンソビエトのスターリンイギリスのチャーチルによる首脳会談が始まります。
そのころグルーは国務省でひたすら宣言の発表を待ち続けていました。
そして7月26日ポツダム宣言が世界に発表されます。
その内容を知ったグルーは愕然としました。
肝心の天皇についての条項が書きかえられていたのです。
これは発表されたポツダム宣言の原文です。
そこにはこう記されています。
「戦後…」。
もともとの草稿に書かれていた「現在の皇室のもとでの立憲君主制を含む」という記述すなわち…天皇についての表現を書きかえたのは国務長官のバーンズでした。
ポツダム会談直前に行われたアメリカの世論調査。
戦後天皇をどう扱うべきかを尋ねた問いに対し最も多かった答えは死刑。
アメリカ国民の3人に1人に上っていました。
バーンズが書きかえを決める根拠となった国務省の内部資料が残っています。
トルーマンとバーンズはポツダム宣言から天皇の地位についての明確な表現を外す事を選びました。
宣言の内容を日本が知ったのは7月27日。
鈴木首相は天皇の地位の保証について一切書かれていないこの宣言を受け入れませんでした。
それはポツダム宣言を受諾する条件として「国体の護持」つまり天皇を統治者と定めた国の在り方を保証する事を求めてきたのです。
トルーマンは直ちに日本への回答を作成するよう命じます。
それは条件つきではあるものの「天皇」という単語を使いその地位と権限を認める事を明示した表現でした。
それが最後に功を奏したのだと思います。
心の声この表現ならきっと鈴木は分かってくれる。
しかしこの段になってまたもやバーンズが思わぬ事を言いだしました。
降伏文書には「天皇自身が署名する」という一文を付け加えるのはどうだろうか?グルーは激しく抗議します。
あなたは外交儀礼というものが全く分かっていない!そんな屈辱的な事を書いたら日本は宣言を受け入れません!結局バーンズの意見はギリギリのところで取り下げられました。
3日後回答に「天皇」という文言が入っている事を確認した日本側はポツダム宣言を受諾します。
太平洋戦争は終結。
グルーの闘いも終わりました。
グルーはこんな言葉を残しています。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」。
最後は「日米の平和を願い続けたグルーと日本の絆は70年たった今も変わらず生きている」。
そんなお話でお別れです。
終戦から2週間後アメリカを中心とした連合国軍の占領が始まります。
しかしこれをグルーはきっぱりと断ります。
「私は10年もの間日本で暮らしたくさんの友人がいます。
そこに…」。
グルーは終戦後一度も日本を訪れる事なくこの世を去りました。
日米の平和を願ったグルーの残したものが東京都内の小学校に伝わっています。
校庭に生える一本の若い桜の木。
この木は「グルーの桜」と呼ばれています。
日本を去る日グルーは自分が植えた桜が花開く時には平和が戻っているよう願いをかけます。
戦後桜は大木に成長したくさんの美しい花を咲かせました。
その後この桜は枯れてしまいますが1本の枝が近くの小学校に枝分けされ植樹されていたのです。
グルーと日本を結ぶ絆は戦後70年の時を経て今も子供たちの手によって大切に受け継がれています。
2015/07/29(水) 22:00〜22:45
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「もうひとつの終戦〜日本を愛した外交官グルーの闘い〜」[解][字]
太平洋戦争の最中、日米平和のために奔走したアメリカ人がいた。戦争終結のカギは「天皇」だ!日本をこよなく愛する男は、終戦に向けて立ち上がった。知られざる終戦秘話。
詳細情報
番組内容
今から70年前、太平洋戦争で本土決戦が迫る中、戦争終結に奔走したアメリカ人がいた。元駐日大使のジョセフ・グルーだ。数多くの日本人の友人を持ち、皇室にも深い敬意を抱いていたグルーは、戦争終結のカギが「天皇」であることを大統領に訴える。しかしグルーの働きかけはギリギリのところで大きな壁にぶつかる…。激動の時代、愛する日本を壊滅から救うために立ち上がった、ひとりのアメリカ人の孤独な闘いを描く終戦秘話。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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日本語(解説)
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