池上彰の教科書に載っていない20世紀〜あの言葉が世界を変えた!?【戦争を考えるSP】 2015.07.26


今年もこの季節がやってきました。
今夜は教科書に載っていない出来事をお伝えしようと思います。
今年で戦後70年ですね。
今日はこんな巨大特製年表を用意しました。
では年表を見ていきましょう。
第二次世界大戦が終わった1945年から現在までに起こった戦争や紛争です。
それを国別に分けまして上から日本ドイツアメリカそしてそれ以外の国々で起きた戦争に分けたんですね。
赤は国と国が戦った戦争。
オレンジは内戦または国境をめぐる戦争紛争です。
日本がまさに降伏したあとからがすごいまだまだ戦争が起きているということですよね。
途切れたところはないですもんね。
いつかどこかで戦いが起きてるんですねこれ。
戦後70年っていってるんですけど戦後じゃなくてずっと戦争中というところがいっぱいあるっていうことですよね。
一方でこちらどうですか?敗戦国である日本そしてドイツといいますとこちらのようなことはないですよね。
私たち日本は今後も…。
今夜はもう一度そして今戦後70年の年表と申し上げたんですがこの年表には更に仕掛けがあるんです。
実はこのようになっております。
第二次世界大戦より前の時代がこうやって出てきましたよね。
これなぜかということなんですけど現在の戦争あるいはこれからを考えるときに戦後70年間を見るだけではなくて第一次世界大戦から第二次世界大戦が始まって終わるまでの30年間に世界で何が起きてなんでまた悲惨な戦争になってしまったのか?それを考えることが実は大事なのではないか。
今回はこういうことなんですね。
1914年から現在までです。
そしてこの100年戦争を考えるときに私が注目したのはまず登場するリーダーといいますと。
こちらです。
峰さんさぁ誰かわかりますか?はい。
ですよね。
松岡洋右もともとは外交官でした。
そして太平洋戦争の前の外務大臣を務めていました。
13歳の時にアメリカに留学していたことで英語が堪能で世界を相手にさまざまな演説を行ったんです。
なかでも有名なのが
日米開戦の8年前
日本が戦争へと突き進む分岐点となった演説はここで行われました。
日本首席全権として派遣された松岡洋右の演説です
この演説から1か月後…
世界から孤立する道を突き進みます
国際連盟今の国際連合の前身ですよね。
この国際連盟は第一次世界大戦のあとに結成されました。
常任理事国はイギリスフランスイタリアそして日本です。
後にドイツそしてソビエト…ソ連もこれに加盟するんですけど小島さんこれ見て何か感じません?そうなんですよね。
そもそも第一次世界大戦のあともう世界戦争が起きないようにしよう。
そのためには国際組織が必要だって提唱したのはアメリカのウィルソン大統領。
そうですよね。
それは学校で習いましたか?習いました。
でも言いだしたアメリカがいないんですね。
そうあの時アメリカ国内…。
でも日本が常任理事国だったのね。
やっぱり第一次世界大戦で勝ってると…。
特に第一次世界大戦中ごく短期間ですが中国の一部で日本軍ドイツ軍と戦ってましてね。
ですから勝った側になるわけだからといって利権を獲得するんですね。
今年天皇皇后両陛下が南太平洋のパラオをご訪問されましたでしょ。
このパラオ第一次世界大戦前はドイツ領だったんですね。
で日本が戦争に勝ったので国際連盟としてはここをドイツから取り上げて日本に統治を委任しますよと…これが委任統治領。
あるいは中国の山東省…。
ここでドイツが持っていた利権を日本が獲得をした。
ここがいってみれば中国大陸に出ていく足がかりを得たわけですね。
くどいようですけど常任理事国ですよね?それがあんなふうに脱退するっていうのは…。
もうこれはとんでもないことですよね。
じゃあなぜ脱退という事態になってしまったのかを…。
キーワードは…
小島さんいちばん中学校の歴史を学んだのが最近ですから。
ばっかりですね。
全部習いましたなんですけど…。
関東軍が何なのかがちょっとわからないですね。
そう思っちゃいますよね。
そうだよね字だけ見るとね。
こちらの模型で説明しましょうか。
当時中国の北東部に日本が満州と呼んだ地域があったわけですね。
その満州にいたのが関東軍なんですけど。
さぁもともとここに中国の関東州という地名があるわけですね。
でここに派遣された日本の陸軍の部隊が関東軍と呼ばれた。
そしてこの関東軍がある事件を起こすんですね。
柳条湖事件。
当時満州の開発をしていたのは南満州鉄道…満鉄。
ここで満州鉄道の爆破事件が起きた。
これ実は
南満州鉄道の線路爆破をきっかけに起こった満州事変。
その後関東軍は政府の方針を無視して軍事行動を続けました
さぁそしてその翌年ですが日本はここに満州国の建国を宣言した。
満州といいますとさぁ長野出身の峰さん。
満州と長野県というのは深いつながりがありますよね。
そうですね私の村の隣村なんかも皆さん満州行かれてるんですけど…。
満蒙開拓団っていうので。
貧しかったんで要するに新天地を求めて家族ともども満州を開拓にということで行ったんですね。
そうなんですよね。
当時というのは世界大恐慌のあおりを受けて日本も深刻な不況だったんですよね。
なんとか働き口を求めたい。
あるいは鉄鉱石や石炭などの資源を求めた。
それがここにあるではないか。
更にはこの満州の先にはソビエトがありますでしょ。
昔から日本はロシアあるいはソビエトの脅威というのを感じていたんですね。
これがジリジリと南に下がってきてこちら側を取られてしまうんではないか。
その前にここを確保しよう。
そしてその満州の重要性を特に感じていたのが先ほどの演説をした松岡洋右だった。
松岡はもともとこの南満州鉄道満鉄の副総裁を務めていたことがありました。
つまりこの辺りのことよく知ってたわけですよね。
そして1931年1月の衆議院本会議でこう語っています。
「満州は我が国民の生命線」であると。
これがあってこそ日本が支えられているんだよ。
そして満州国という国を作ってしまったんですけど
日本による満州国建国を中国国民党政府は侵略だと非難します。
そして国際連盟に提訴しました。
これを受け満州に派遣されたのはイギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団です
国際連盟加盟国の多くが…
そんななか満州国を世界に認めさせるために派遣されたのが
国際連盟臨時総会での松岡洋右の演説です
中国政府では満州の治安を維持することができない。
日本は平和維持のために行っている。
松岡は46分にわたりそう力説しました。
そして日本は満州から撤退するべきかどうかの採決が行われます。
結果は賛成42反対は日本の1票だけ。
圧倒的大差で満州国は否定されます。
松岡は再び壇上に向かいました
そう語り会議場を去りました
見たら結構やっぱり堂々としてますね。
すごいですよね。
全世界の方を相手にして。
そしてこの退場シーンというのはそして当時の新聞もこう書き立てたんですね。
東京日日新聞です。
凱旋ですよ。
凱旋なんだ。
本当に新聞をあげて松岡を持ち上げて英雄視している。
ところがその本人の松岡は帰国した直後に実は意外な言葉を残してるんです。
半年ぶりでただいま横浜港に帰ってきました。
期待に添うことができなかった。
はいそうなんですよ。
松岡の使命はそのどちらもできなかったなので日本に帰ったらさんざんな言われ方をするだろうと思ってですから横浜港に帰ってきたときにああやって国民に謝罪したんですね。
ところが日本に帰ってみたら英雄として大歓迎を受けちゃって。
本人がたいへん戸惑ったと…。
怖いですよね。
そしてこういうふうに…。
新聞の部数がどんどん増えていくんですよね。
これを経て日本はついに中国との全面戦争に突入していくんですね。
1937年7月7日。
そうしたことで日中戦争が始まります。
その日中戦争のきっかけとなったのが…。
これをきっかけに中国全土に戦争が拡大していった。
そんな日本の振る舞いに大きな不満を持っていた国がありますがさあパックンどこの国でしょうか?僕が呼ばれただけありますよね…アメリカですね。
はい。
ここで対立ムードが高まっていくわけですがそこで再び外交の表舞台に登場するのが…。
松岡洋右は1940年第二次近衛文麿内閣の外務大臣に就任。
積極的な外交を展開します
まず1940年ですがドイツそしてイタリアと三国同盟を結びます。
翌年の1941年この松岡は同盟国への挨拶という名目でヨーロッパに出発するんですね。
移動手段に選んだのがこちらシベリア鉄道…。
ここに乗って延々とこう行ってモスクワに立ち寄るんですね。
さあそしてここでスターリンと会います。
更にここからベルリンに移動いたしまして今度はヒトラーに会い更にローマに移動してムッソリーニと会うと。
すごい旅ですね。
でここで終わりではないんです。
日本に帰るというときに松岡は再びモスクワに立ち寄ったんですよ。
さあそしてスターリンと会いまして。
日ソ中立条約を結びました。
日本もソ連もお互い戦争しませんよという条約…。
そして松岡は日本に帰るんですがこのときにスターリンは私先日ロシアに取材に行ったときに図書館でロシアの歴史の本見たんですけど表紙にスターリンとその松岡さんが腕を組んでる写真があったんですよ。
それくらい親愛の情を示してくれたお互い。
でも考えてみますと飛行機で行けばいいじゃないのって思いません?実は宮崎さんと一緒に…。
本当に貴重なお話伺いました。
松岡洋右が晩年を過ごした別荘があります
森の散歩道という感じですけれども。
この向こう側には岸信介元総理の別荘もありますからね。
三国同盟日ソ中立条約を成し遂げた松岡は1941年外務大臣を退きここで病気療養しました
ごめんください。
どうもおじゃまいたします。
よろしくお願いいたします。
松岡洋右の四男宮城皇居の前ですね。
皇居の前でね…。
池上と宮崎が訪ねたのは…
ごめんください。
松岡洋右の四男
洋右が残した当時のアルバムがありました
それがアルバムですか。
三国同盟締結後ドイツとイタリアを訪れたときにハーケンクロイツ鉤十字がありますよ。
このために向こうが作ったんですね。
向こうが作ってくれたんですね。
ええそうですね。
これなんですか?みんな。
一目見ようと集まった人たちって感じですよね。
ヒトラー登場。
ヒトラーと握手を交わす松岡。
このとき外務大臣松岡は何を思っていたのでしょうか?志郎さんは子供の頃その狙いを父から聞いていました
父から聞いた話ではあれはまあそうだと思いますね。
そういうことだと思います。
そうですね。
それが本心だと思いますね。
まあ好きなんでしょうね。
アメリカについては
4か国が手を組めばアメリカも手を出しにくいのではないかと洋右は考えます。
しかし思惑どおりにはいきませんでした
この先はもうアメリカに乗り込んで自分がっていうようなそういう大きな思いを抱いてらっしゃってるなってことはないんでしょうか?そうですか。
やっぱりそこまでギリギリ考えてはいた?考えてはいたみたいですね。
結局洋右はお父さまはお子さんから見ていてどんな父親だったんでしょうか?演説の練習かなんかをしてるのをご覧になったことあります?あれだけの演説をするというのは当然どこかで練習してるんじゃないかなと思うんですけど。
たぶんジュネーブに行ってやってたんでしょうね。
このとき戦争が始まったってことについてなにか感想をおっしゃってました?私が記憶してるのは車で行って一緒に行ったんですけど。
宮城皇居の前ですね。
皇居の前でね。
そうですか。
これ誰もわかりません。
私以外誰も見てませんから。
戦争になってしまった。
戦争を止めることができなかったというお詫びだった…。
でしょうね。
アメリカとの戦争を避けたかった松岡は後にこう語っています
今さらながら痛感する
いやそうだったんですか。
松岡さん戦争したくなかったんですね。
そうなんですね。
息子さんだけがそれを目撃していたという。
今なんか鳥肌立ちましたね。
鳥肌立ちました。
当時日本はアメリカとの関係が非常に悪化していたのでいってみればいつでも戦争できるんだぞとこっちには仲間がいるんだぞという形を作っておいて戦争が起きないようにしようというこれが抑止力っていう考え方なんですけど外交ではこういう抑止力のカードの切り合いっていうのはありますよね。
その日ソ中立条約の締結からわずか2か月後ドイツがソビエトに侵攻します。
あらいっちゃったんだな。
4か国でアメリカに対抗しようという松岡の狙いは挫折をしてしまった。
1941年12月8日
ハワイ真珠湾攻撃
開戦当初は日本が優勢でした。
しかし戦況は急速に悪化。
日本は後退を余儀なくされます
そして…
明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれました。
敗戦の色が濃くなるなかで大学生が戦場に駆り出されたのです
集まった2万5,000人の学生たちに向け総理大臣東条英機が演説します
東京帝国大学の学生代表が答辞を述べます
必ず各位のご期待に背かざらんとす。
その後13万人の学生が戦場へ送り出されました
そうですよね。
今だったら選択権があるかもしれないけど行動に…。
このときは拒否権はないですよね。
まったくないんじゃないですか?拒否をしようという発想がおそらくなかったでしょうね。
決意表明をしていますよね。
改めて見ましょう。
え〜もう死ぬ覚悟をされてるわけですね。
そうです…「我々は死ぬからさああとに続く後輩たち我々の死体の上を乗り越えて戦ってくれ」と呼びかけた。
いけないこととわかってあんなにもう…。
俺たちはもう帰ってこないからお前らはもう屍越えて来いよって言うわけでしょ?これおかしいですもんね。
おかしい。
今は言えるけど…自由に。
今は言えるけど…。
その時は誰も言えなかったんですね。
そしてついに終戦の日を迎えます。
1945年8月15日。
日本は無条件降伏します。
この大戦での日本人の犠牲者はおよそ310万人にも及びました。
日本人に限って310万ですから戦場になったアジアではそれ以上に多くの方が亡くなったということ決して忘れてはいけないんだろうと…。
敗戦後松岡洋右は
しかし結核を患っていたため極東国際軍事裁判への出廷は一度のみ。
洋右はその際
そして終戦の翌年…
続いてはヨーロッパに目を移しましょうドイツです。
注目するリーダーは…
アドルフ・ヒトラー。
小島さんヒトラーはご存じですよね。
もちろんです。
どんなイメージですか?実はヒトラー。
そうですよね。
自分で何を言っても周りがこうしないと限界がありますもんね。
そうですねヒトラーが最初に行動を起こしたのはドイツのミュンヘンなんですね。
そのミュンヘンの街を取材しました。
瞬く間に独裁者へと上り詰めた
彼は類まれなる弁舌で大衆を虜にしました
身ぶり手ぶりをまじえ熱狂的に訴えます
ドイツ南部…
池上彰は独裁者ヒトラーをどう読み解くのでしょうか
世界中から観光客が集まってきていてオモチャ箱みたいなちょっとかわいらしい街ですね。
はいここはミュンヘンですね。
ビールが好きなドイツ人の中でも最もビール消費量が多いのがバイエルン州。
そこの州都それがミュンヘンなんですね。
その場所を確認しておきましょうか。
ミュンヘンは…。
ここになるわけですね。
でこっちの隣…こちらがオーストリアなんですけど。
アドルフ・ヒトラーは実はオーストリア出身で最初にドイツのミュンヘンにやってきたんですね。
1913年5月のことでした。
いわれるようになったんですね。
ミュンヘンのシンボル…
ナチス全盛の時代にはここにも鉤十字が掲げられていました。
ドイツ人はヒトラーをどう思っているのでしょうか?
ヒトラーについてどう思いますか?何かあの…。
ちょうどヒトラーが生きていた時代のことを知る女性でしたけれども…。
その名前を出しただけで表情というか顔つきがガラッと変わりましたね。
ヒトラーについてどういうふうに思いますか?
若い世代にも聞いてみました
ヒトラーが25歳の時運命の出来事が起こります
第一次世界大戦が勃発したときここオデオン広場で参戦の布告が行われました。
こちらそれに興奮する群衆の写真なんですが。
この中に若き日のヒトラーの姿があったんです。
ヒトラーはオーストリア国籍なんですがこのあと志願兵としてドイツ軍に従軍するんです。
第一次世界大戦でヒトラーは前線で戦うも…
ドイツは領土も奪われ巨額の賠償金を請求されました。
国内は極度のインフレに襲われ失業者で溢れました。
国が崩壊していく現実を目の当たりにしたヒトラーは誓ったのです
池上さんこの辺りかなり賑わってますね。
もう観光客の観光名所でしょ?ここ実はヒトラーがビアホールでしばしば演説をした…。
ここが実はナチスがここで?はい。
ここで生まれたわけですね。
そうやって
このビアホールでナチスは結成されたのです
ねえほんとに…。
一瞬雰囲気に圧倒されます
ヒトラーが演説をしたビアホールで…
ヒトラーはちょうどどの辺りでしょうか?演説したのは。
この演台の…。
ここでみんなに向かってやったりあるいは場合によってはここで…。
まさにここで演説をしたりと…。
いわれてますね。
ヒトラーはここでこう主張するのです。
我々が再び立ち直りたいのであれば…
指導者が全責任を負う独裁制の必要性を説いたのです。
更に
…だと叫びユダヤ人と戦えと訴えました
たぶん今だとネットだったりSNSを使ったりしていろんな自分の主張を広げていくでしょ?はい。
当時はだからこういうところで演説をして大勢の人が集まるところで演説をしてそこでしだいしだいに支持者を広げていったってことですよね。
1920年この場所で
通称ナチスが結成されます。
当初党員はわずか7人でした
子供たちが噴水で楽しそうに遊んでいてなんとも平和な光景ですね。
そうですよね。
でも実はこの場所ヒトラーが政治の舞台に登場した場所なんですよね。
実はここでここに実はビアホールがありましてね。
ここにバイエルン州の政府の人たちが集まっていたところに突撃をして…。
で彼ら幹部をここで捕まえて。
そのあとここで行進をしてって警官隊と衝突をすると。
多数の死傷者が出た。
それによってヒトラーは一度とらえられてしまうんですけど。
そのミュンヘン一揆があったのがこの場所。
今はイベントホールになっているここはビュルガー・ブロイケラーというビアホールでした。
1923年ヒトラーはここで武力蜂起します。
いわゆる…
ビュルガー・ブロイケラーにいた政府高官を人質にし政権奪取を企てたのです。
しかし一揆は警官隊によって鎮圧されヒトラーも逮捕
ミュンヘン一揆に敗れたヒトラーが収容されていたのがこちらヒトラーがここで収容されていた期間は8か月間でした。
この8か月間に
比較的自由な獄中生活が許されていたヒトラーはここで自分の考え方や政策の基本をまとめます
ここにはアーリア人至上主義。
共産主義の打倒そしてユダヤ人排斥などが書かれています。
のちにナチスのバイブルと呼ばれます
ドイツ政府が結婚式の贈り物として推奨しました。
ドイツの家庭には必ず1冊置くことが義務のようになっていました。
ミュンヘン一揆の失敗でヒトラーは一時後退を余儀なくされます。
しかし…
これがナチスの追い風となるのです。
1932年には
国内の状況が悪化するなかヒトラーの訴える新しいドイツは多くの民衆の心をとらえていきました
ヒトラーは暴力ではなく選挙によって政権を獲得しようと決意します
ヒトラーの選挙戦術は革新的でした。
大量のビラを撒きました
街中に大きなポスターを貼りいたるところに自らの顔やナチスの鉤十字を置いたのです。
ヒトラーは巧みなプロパガンダで合法的に政権を掌握し独裁制を敷こうとしていました
1933年1月。
ついにヒトラーは
ヒトラーの首相就任演説。
いかにして大衆の心をつかんだのか池上が読み解きます
1933年
大衆の心をつかむ演説を見てみましょう
ヒトラーの首相就任演説なんですが…。
ほら左手に原稿を手に持って触ったりして神経質そうな感じがしますでしょ。
演説の前の映像って珍しいですね。
緊張してるよこれ。
すごい緊張してますね。
こうやってずっと何もしゃべらないで黙って立っているとやがて聴いてる人たちが気がついて静かになっていく。
そういう場の雰囲気を今作ってるとこなんです。
しかし原稿に手をやったりして落ち着かないですね。
いよいよ始まります。
(歓声と拍手)これがヒトラーの演説です。
あの演説を見てると演説がどれだけ重要でどれだけ民衆の意思を左右しちゃうのかっていうのがわかりました。
あそこに演説術といいますかそういうものが凝縮してるんですよね。
つまり皆さん静かにじゃなくて静かに立ってるとそのうちにみんなが雑談をやめてあれ?何だろう?ス〜っと静かになるでしょ?みんなが静かになると自主的に話を集中して聴こうという雰囲気になるんですよね。
でそのときに静かに語りかけるわけです。
静かに語りかけるとみんな静かに聴くわけですよ。
しっかり聴き入っているうちにだんだんだんだんトーンを高くして最後は絶叫してるでしょ?気づかなかった。
でもそうでしたね。
そんなヒトラーが率いるナチスのバイブルという言い方は変ですけども。
それになった本があるんですね。
それが…。
『我が闘争』です。
ヒトラーの野望が書かれていたんです。
ドイツ帝国の復活のためにはユダヤ人や共産主義という共通の敵を作る。
国民を熱狂させるためにはということがここで出ていますよね。
でも敵を作るだけでどうしてこんなに支持されてしまったんですかね?もちろんそれだけではないわけですね。
そこには実績。
政権を取ってからですけれども何をやったのかといいますと代表的なものがこれですね。
アウトバーン高速道路ですね。
アウトバーンの建設そしてフォルクスワーゲン。
ドイツのアウトバーンといいますと制限速度無制限。
ひたすら走ると。
最近は制限速度120キロとか規制するところも出てきてるんですが。
そのアウトバーンを最初に作ったのがヒトラーだったんですね。
これによってつまり道路建設に大勢の人たちが働くようになるわけです。
そこで大規模な雇用を生み出して…。
これはすごいわ。
それを…。
ヒトラーの奇跡というんですね。
さぁそしてフォルクスワーゲン。
フォルクスワーゲンというのは国民車っていう意味なんですね。
フォルクスっていうのは国民。
ワーゲンというのが自動車。
このフォルクスワーゲンの設計を依頼したのはヒトラーなんですよ。
つまり雇用を増やして道路が出来た。
そして雇用が増えたってことはみんなそこそこ給料が増えた。
さぁそれだけの道路があるならそこを車で走りたいだろう。
でも一般の庶民には手が届かなかった。
みんなが乗れる国民車を作ればみんなこれに乗ることができるだろうと言ってヒトラーがレーシングデザイナーのポルシェに大衆車の設計を依頼して作ったんですね。
そうなんですか。
そしてドイツ国民にこれまで手の届かなかった自動車に乗るという夢が叶えられた。
という戦略だったわけですね。
当時のドイツというのは大統領と首相というのがいて。
しかし大統領と首相を一つにしてしまえば自分が国家元首となり更に絶対的な力を持つことができると考えて大統領と首相を一緒にして総統という地位を作る。
ほら例のヒトラー総統というでしょ。
首相の時代に大統領と首相を一緒にする総統という地位を作って自らそれに就任する。
法律を改正してということですよね?そうですね当時のドイツには当時世界で最も民主的といわれるワイマール憲法があったんですね。
そのワイマール憲法のもとで権力をとりでそのあと今度は政府にすべての権利を与えるという全権委任法という法律を制定するんですね。
つまり憲法は変えないでおいて…。
つまりやだ〜!憲法がいちばん上にあるはずですよね。
ところが憲法の下の法律をつくることによって憲法の効力をなくすというやり方を彼はとったと…。
ミュンヘンにはかつてのナチスの建物が多く残っています
ここはかつてナチス党の本部があった建物なんですよね。
ナチスの面影というのはここからではあまり感じられないですね。
そうですよねでもあそこ見てください。
あそこに穴が3つ開いてますでしょ。
あそこにかつてナチス党の鷲の紋章が掲げられていた。
それが取り外されたわけですよね。
戦後すぐに取り外されました
そしてあちら側に見えますあれがヒトラーが首相になりやがて自らを総統と呼び始める。
その総統の官邸があったのがあちら。
そしてここは実は地下道でつながってるんですよね。
ナチスの党本部と総統官邸が地下道でつながっている。
案内してくれるのは
地下3階まで下りると…
このロッカーに機密文書を入れて保存していたといいます
ここから先がヒトラーが実際に使っていた地下通路です。
日本のテレビでは初めて入るということです。
わぁかなり空気がホコリっぽくてこもってますね。
真っ暗です。
電気つきますか?
ヒトラーの指示で造られました
何のためにこの地下通路をヒトラーは造ったんですか?
通路の先はヒトラーがかつて執務をしていたところです。
総統官邸のすぐ横に今年5月ナチスの資料館が作られました
だけどナチスに対する反対運動もずっとドイツの人たちやってたんだよというそういう展示も含めてここで展示しようということでこの資料館が出来たんですね。
過去にナチスがやってきたことと向き合うために加害者の歴史を展示しているのです
女性が…。
そう…。
女性たちがみんな射殺された…。
ヒトラーのジェスチャーが…。
さまざなヒトラーを写し出しています
大げさとも思える
学校ではこんな歌も歌われました
ミュンヘンから2時間ヒトラーによって造られたアウトバーンを行くとバイエルン州第二の都市…
ヒトラーはニュルンベルクが最もドイツらしい街として大のお気に入りでした
ナチスの党大会が何回も行われたことでも有名です。
党の勢力を拡大するための一大パフォーマンス。
街はナチス一色に染まりました
その様子はリーフェンシュタール監督の手によって映画化されました。
映画の始まりはヒトラーが飛行機に乗ってやってくるシーン
これは…
すべてはヒトラーをカリスマに仕立て上げるための演出でした
ヒトラーの側近開会を宣言します
…だと宣言します
ヒトラーはちょうどこの場所に立って演説をしたんですね。
ヒトラーはこの場所に立ち党員が整然と行進する様子を満足げに見ていたのです。
当時の若者たちへの演説です
ヒトラーは平和という言葉を何度も使いました
あっ鉤十字ですね。
ここには鉤十字が落書きされています。
そしてドイツよ目覚めろ!という落書きがされているんですね。
ヒトラー信仰は今もあるのです
ナチスの党大会は夜頻繁に行われました。
実はこれにも訳がありました
(歓声)
夜の幻想的な雰囲気が民衆を熱狂へと駆り立てたのです
ナチスの元兵士に話を聞きました
兵士として
胸には…
徹底的にナチスの教育を受け戦場にも駆り出されました
ヒトラーの存在がとても大きかったということではないですか?今だから思う当時のナチスやヒトラーについて何かありますか?どうして…。
フランツさんは戦後ミュンヘンから車でおよそ30分。
ダッハウ強制収容所にやってきました。
ここはもうほんとに緑が豊かで鳥のさえずりも聞こえてきれいな場所ですよね。
そうなんですねですが実はここヒトラーが首相に就任した直後に建てられたんですね。
その後各地にユダヤ人の強制収容所というのが建設されたんですがここがそのモデルになったといわれていますね。
でここが強制収容所の入り口ですがこれ有名なセリフですね。
この中に自由はまったくなかったわけですよね。
そうですよねこれがだから各地に作られた強制収容所入り口にこのセリフが書いてあるんですね。
ナチス親衛隊の残虐行為の訓練所ともいわれたダッハウ強制収容所
現在は資料館になっています
マルクス主義打倒つまりやっぱりいろいろ敵を作っていくわけですよね。
最初は共産主義者を敵にしそれからやがて社会民主主義者民主主義者そしてユダヤ人次々に新たな敵を作ってはその敵を少数に追い込んで潰していく。
ふと気がついたらナチス・ドイツだけ独裁ってことになったわけですよね。
すごい目にかなり力がありますけれどもなんかとても冷酷な眼光だなって。
ヒトラーの側近ゲッペルスはユダヤ人についてこう演説しています
(歓声)
ダッハウ強制収容所には多くのユダヤ人が収容されました
ここで多くの人が命を絶たれました
資料館で池上の足が止まりました
これは…。
カラーだよあぁもう…。
モニターに映し出されていたのは収容所のカラー映像です
食事がふるまわれました。
命がつながった人たち
シラミの…。
そう。
解放された人たちは少しだけ笑顔が戻ってきていました。
一方で解放を待ち望みながら叶わず命を落とした人々も多くいたのです
人間の尊厳などまったく存在しませんでした
この現実を忘れないためにモニュメントとして残されています
先日ここにそしてって国民にアピールしたそれがここなんですよね。
自分たちがしたことを決して忘れないために。
ドイツ国内で
今年の5月メルケル首相はダッハウ強制収容所解放70年の式典でこう話しています
ヒトラーに言葉で立ち向かった若者がいました
当時ナチスを批判するのは命がけでした。
そんななか言葉で立ち向かった若者がいました
あぁここ見てください。
あぁ。
ほら白バラ運動の反ナチのビラを最初に配ったところここですよね。
もうビラがそのままモニュメントに。
なってますね。
大学の入り口に彼らが書いた要するに自分の身の危険を顧みずに運動を始めたそれがここだったってことですよね。
ヒトラーを非難したビラを配ったりナチス集会への不参加などを呼びかけました
(ベル)これが実際に白バラの青年たちが配ったビラですか?そうですね。
タイプライターで打ったんですよね。
最初に「全ドイツ国民に告ぐ!」。
といった呼びかけがあって…。
最後は
ヒトラーは殺人者で嘘つきだとつづっています
そして逮捕からわずか4日。
判決が下ります
その日のうちに斬首されました
ビラは
反ナチス運動が始まったのもナチス発祥の地ミュンヘンでした
ここでも裁判という形式は踏んでいるというところがすごく残酷だなと思って今見てました。
4日ですもんね逮捕されてからね。
ミュンヘンからナチスの運動が始まったけど抵抗運動もまたミュンヘンから。
始まったんですね。
そしてですね例えば学校でさあ何かわかる人?って子供たち手を挙げるでしょ?どうやって手を挙げます?普通。
は〜い。
これはハイル・ヒトラーの形になる。
ダメなんだ。
じゃあどうするんですか?こうなんですね。
だから学校で子供たちにさあ誰か答えられる人?って言うと子供はこうやって手を挙げる。
こうやるんですか?本当ですか?それ以外に例えば…。
あと自動車の車のナンバープレート…。
最初のひと文字ないしふた文字はその州のアルファベットなんですけどそのあとはアルファベットと数字を自由に選べるんですね。
これに「HH」ハイル・ヒトラーの「HH」。
あるいは「SS」っていうのはナチスの親衛隊。
その「HH」「SS」っていうのは禁止されてるんです。
まだそんなにナーバスになってるわけですね。
こうして演説を武器に独裁者になったヒトラーなんですがその後はご存じのとおり国民を戦争へ導いていくわけですよね。
1939年ドイツはポーランドに侵攻しまして第二次世界大戦が始まります。
このヒトラーの演説の力っていうのはあったわけですよね。
今度はその実はチャールズ・チャップリンってヒトラーと同じ年に生まれてる同い年なんです。
わずか生年月日が4日しか違わない。
チャップリンが映画『独裁者』を作ったのは第二次世界大戦が始まった翌年です。
ヒトラーを痛烈に批判したラストシーン。
チャップリンの演説です
(歓声)当初は優勢だったドイツなんですがやがて連合国軍の反攻にあうわけですね。
そして
連合国軍による攻撃は激しさを増し首都ベルリンは廃墟と化しました。
その年の4月ヒトラーは総統官邸の地下壕で長年連れ添ったエバ・ブラウンとともに自ら命を絶ちます。
ヒトラーは拳銃でエバは毒を仰いだと言われています
(演説)さあこちら敗戦国の日本とドイツ。
ここから見てください。
アメリカあるいは他の国に比べてまったく戦争してないですよね。
一方アメリカはどうでしょうか。
パックン。
戦争しっぱなしですねあちこちで。
関わってない時代がないくらいですよね。
そしてこのアメリカの戦後70年。
注目するのはあのリーダーの演説です。
高らかな理想を掲げて登場しました。
アメリカの希望と言われたケネディ大統領の言葉に迫ります
ジョン・F・ケネディは史上最年少43歳の若さでアメリカ大統領に就任しました
歴史に残る名演説ではあるんですが幸せが空から降ってくるわけではない。
自分たちでつかみ取れって言った誰かの演説と…。
そうですねついさっき聞きましたね。
このケネディが大統領に就任したとき世界はどんな状況だったんでしょうか?宮崎さん。
1961年もう冷戦の時代ですね。
そうですよね。
東西冷戦時代だ。
アメリカを中心とするいわゆる自由主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営の冷たい戦争つまりアメリカとソ連は戦争しない。
だから睨み合ってるだけだよっていうので冷たい戦争って言ったんですけどその周辺では実際に殺し合いの戦争熱い戦争が実は起きていたんですよね。
まさにその一つの例がベトナム戦争。
インドシナ半島の東側にあるベトナムはフランスの植民地でした。
第二次世界大戦後フランスとの戦いに勝利したベトナムはやがて北と南に分断されます
時は東西冷戦の真っただ中
やがて南北の対立が激しくなり戦火を交えるようになったのです。
アメリカは何としても南ベトナムの共産化を防ごうとアイゼンハワー大統領のときに
そしてケネディ大統領はそれを更に増強しました
アメリカ対ソビエトの言ってみれば代理戦争になったということになるわけですね。
軍事顧問団というのは顧問と名がついてますけれども…。
この場合はつまり南ベトナム政府軍を強化するためにアメリカ軍の軍事顧問団プロがそれを言ってみれば教育しますよという建前で送り込むんですけど。
実際にはもうアメリカ軍の特殊部隊も入っててそれこそ実際に戦闘に参加するような部隊もいた。
そもそも共産化を防ぐっていうこの大きな目標を掲げてアメリカはちょっと無理があったんじゃないかなと思いますね。
ケネディ大統領は当時テレビのインタビューでこんな話をしてるんです。
インタビューをしたのは当時のアメリカを代表するでは改めてケネディ大統領の言葉を見てみましょう。
ここの部分ですね。
パックン最近アメリカがなんかこんなこと言ってますね。
ベトナムを除いてイラクに入れ替えればもうほとんどそのまま使えますよね。
この前イラク軍が自称イスラム国によって都市を取られちゃった。
でその時にイラク軍がわっと逃げたんですね。
そしたらアメリカ側が我々はいろんな武器を送ることはできるけど勝つか負けるかはイラクしだいだって言ったんです。
どうですか?そのままだ…。
そっくりそのままですよ。
あと軍事顧問団も今イラクに送り込んでますからね。
戦闘員じゃないよって言いながら送り込んでるから始まりが似てれば結果も似るかなとも思いますね。
ただしケネディ大統領ベトナム戦争ではこうやって軍の介入に関わったんですが平和を訴える歴史的な演説もあります。
西ベルリンは陸の孤島になってしまいました。
往来は禁止され家族は離ればなれに
東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は東ドイツ国境警備隊により逮捕されるか射殺されました
こうした緊張のなか…
ケネディ大統領は西ベルリンを訪問しベルリンの壁に近い広場で演説を行いました
(歓声)つまり西ベルリンは東ドイツの中に囲まれた要するに絶海の孤島のような状態だった。
そこにアメリカの大統領がやってきて自由を求めるあなた方をみんなが支援してるんだよ。
だから私も自由を求めるベルリン市民の1人だよとアメリカの大統領がわざわざここだけドイツ語で言ったんですね。
「IchbineinBerliner」。
そしてドイツの人たちはこの演説を忘れなかったんですね。
2001年9月アメリカの同時多発テロがありました。
あの時にドイツでというプラカードを掲げた人が現れたんですね。
言葉がこれだけね人に力を与えるっていう寄り添えるっていう…。
しかしこの演説の半年後事件が起こります。
大勢の目の前でケネディ大統領が凶弾に倒れました
ケネディの後を継いで大統領になったジョンソンの時代にアメリカ軍は北ベトナムへの爆撃いわゆる北爆を開始しました。
アメリカは50万人を超える兵士を投入。
しかし戦争は泥沼化しました
ベトナムでの衝撃的な光景がカメラを通じて大量に伝えられアメリカのみならず国際世論に大きな影響を与えました
ただしそれはリーダーの言葉ではなく当時その悲惨な戦争の様子が映像となってアメリカの茶の間にどんどん飛び込んできたんですよね。
でそれによって悲惨な状態というのを多くの人たちが知るようになりそれが世論を動かしそしてさあ当時といいますとこの曲お聴きください。
南ベトナム政府が崩壊。
およそ15年続いた…
戦後70年間平和と民主主義は守るべき大切なものとして戦争をしませんでした
そして日本に駐留していたアメリカ軍が朝鮮半島に派遣される。
日本が軍事的な空白になるというところで警察予備隊が作られると。
日本は憲法9条で戦力を持たないということになっていますからこれは軍隊ではないよ警察予備隊だよねという形でこれが作られた。
その後日本はもちろん戦争には参加していませんが…。
そこですねまずは1991年湾岸戦争。
この時日本は資金を提供しただけだったんですが湾岸戦争が終わった直後ですね。
ペルシャ湾に機雷がずいぶん撒かれたもので海上自衛隊が機雷の除去にあたっていると。
そして2001年からのアフガニスタン戦争の時にはテロ対策特措法というのを作りましてこちらはインド洋での燃料補給ですね。
この911のテロを起こした連中に対する戦いをしている国々を応援しますよという形でインド洋でアメリカ軍の船とかパキスタン軍の船に対する燃料補給というのをやった。
イラク戦争今度は自衛隊がイラクのサマーワに2008年ですけれども派遣されまして給水などの復興支援にあたったということですね。
日本は犠牲者は出てないですか?出てないですね。
戦後ですから日本の自衛隊は1発も撃つこともなく戦闘において1人の犠牲者を出すこともなかったしあるいはよその人を殺すこともなかった。
たいへん誇っていい歴史を持っているということですよね。
このあと…
最後にぜひ聞いていただきたい演説があります。
戦後世界において最も有名で最も偉大だとされた演説です。
1985年5月8日。
ドイツ敗戦から40年という節目に当時のドイツの大統領ワイツゼッカーが連邦議会で行った演説です。
過去に目を閉ざさずに自らの歴史から学ぶ。
日本人は自らの過去に学ぶチャンスがあります。
世界のどこかで今日も戦争は続いています。
今も100年戦争は続いている。
そんな言い方もできるのではないでしょうか。
そして日本にも再び戦争の危機が訪れるかもしれません。
その時私たちに何ができるのでしょうか。
過去から学ぶということはその時何ができるのかということを考えるきっかけになるのだと思います。
2015/07/26(日) 20:54〜22:42
テレビ大阪1
池上彰の教科書に載っていない20世紀〜あの言葉が世界を変えた!?【戦争を考えるSP】[字]

池上彰がヒトラーの足跡を追ってドイツへ!民衆を熱狂させた演説、20世紀最大の独裁者誕生の謎を読み解く▽松岡洋右▽JFケネディ歴史的演説の裏に隠された真実に迫る!

詳細情報
番組内容
2010年から制作し始めた『戦争を考えるSP』の第6弾。今回は、世界を大きく揺るがした歴史上の人物に注目。ドイツの独裁者・ヒトラー、日本の外交官・松岡洋右、アメリカ大統領のジョン・F・ケネディ。この3人の共通項は人々が熱狂した「演説」にあった。池上はヒトラーの足跡を追ってドイツへ。20世紀最大の独裁者誕生の謎を紐解く。
「へぇ〜」と思わず納得する池上解説の嵐!
番組内容2
▽池上がヒトラーの足跡を追ってドイツへ
90年前、ヒトラーは巨大ビアホールで演説を繰り返して支持者を増やした。民衆はヒトラーの何に魅了されたのか?ナチスの元兵士から当時の熱狂について話を聞く。ヒトラーが放つ言葉から20世紀最大の独裁者誕生の謎を解説する。また、日本のメディアとして初めて、ヒトラー総統官邸とナチス党本部の間をつなぐ地下通路の撮影に成功。そこには独裁国家の名残が…
番組内容3
▽外交のキーパーソン・松岡洋右に迫る
国際連盟臨時総会で大演説を行った日本の外交官・松岡洋右はどんな人物だったのか?池上と宮崎美子は「松岡別荘陶磁器館」を訪ねた。松岡洋右を側で見てきた子息・志郎氏から証言を聞くと、思いがけない言葉が…。皇居で土下座した松岡の胸の内とは?
番組内容4
▽ジョン・F・ケネディとは一体何者?
キューバ危機、ベルリンの壁、そしてベトナム戦争。戦後、世界の重要な2年間にアメリカ大統領として大きな決断を下し、世界に発信したアメリカ大統領のジョン・F・ケネディの言葉を検証するとともに、歴史的演説の裏に隠された真実を追う!
出演者
【キャスター】池上彰
【アシスタント】相内優香(テレビ東京アナウンサー)
【ゲスト】峰竜太、宮崎美子、パックン、小島瑠璃子
プレゼント告知
番組内でプレゼントのお知らせがあります。応募方法など詳しくは放送をご覧ください!
ホームページ
http://www.tv-tokyo.co.jp/ikegamiakira/

ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 海外・国際

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