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【東京】

「ゼロの遺跡」解体始まる 中島飛行機工場跡地の変電室建物

重機によって取り壊される旧変電室の建物=武蔵野市で

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 都は二十九日午後、戦時中の軍需工場、中島飛行機武蔵製作所の跡地で、唯一残っていた建物である旧変電室(武蔵野市緑町二)を取り壊す工事を始めた。工事に先立ち同日午前、内部を公開。二階天井の一部に修復したような跡があり、保存を求めてきた市民団体は「空襲で投下された不発弾の痕跡の可能性がある。戦争を伝える貴重な建物の取り壊しは残念」とあらためて訴えた。 (竹島勇)

 黒い天井の一部に灰色で修復したような場所があり、その中に直径約四十センチほどの円形があった。

 市民団体「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」の牛田守彦副代表は、「大きさから二百五十キロ爆弾の不発弾の痕跡ではないか」と語った。牛田さんは、建物に入ったことはあったが、今回の工事で内装が剥がされ、天井そのものは初めて見たという。

 同会によると、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)などのエンジンを製造していた同製作所へは、一九四四年十一月二十四日から終戦直前までに九回の空襲があり、約五百発の爆弾が投下されたとみられる。今月二十三日には、市武蔵野ふるさと歴史館も調査を実施。担当者は天井の痕跡について「現時点でこれが何を示すのかは断定できない。今後精査したい」と話す。

 公開終了後、三八年の工場開設当時から残っていた鉄筋コンクリート二階建ての建物は、重機で取り壊されていった。

 相模原市の重原正三さん(89)は、旧変電室から数十メートルの工場に学徒動員され、旋盤工として勤務したという。「あの時代を生きてきたことを後世に伝えるために、保存運動をしてきたが残念」と肩を落とした。

 建物は、戦後の五三年に都営武蔵野アパートが建設された後はアパートの管理事務所として使われた。都はこの建物を撤去し、隣接する都立武蔵野中央公園を拡張する。

 

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