僕らはいかに変わってきたのか
人は誰でも自由に空を飛べた。
そんな誰もが呆れるであろう突拍子もないことを、ある確信とともに本気で信じる。
そしてそれは、「かつて」の人たちにとっては、当たり前の事実であったのではないだろうかとも思う。
僕らには、意識というものがある。
その奥を探れば探るほど、新たな可能性が目の前をちらついてくる。
それに手が触れることが出来ないかもしれないが、もしかしたら、という感覚は、思わぬ高揚感を与えてくれる。
今まで生きながらに、いかに多くの道を自らに塞いできたのだろうか。
「想像」という力を信じることが出来るか?
目の前の現実に恐れおののく必要はない。
何故なら、「想像」というのも、他ならぬ現実の一つの形であるからだ。
いかに綿密に自分の内部に、世界を構築し、それを目の前に現出させるかということなのだ。
僕らが知覚する目の前の現実は、どこまで自分が感じ取るかということによって左右されるという点では大差はないだろう。
人は、何かを失敗することなどそもそも出来ないのではないか、とも最近思う。
静かに息を潜めて物事の「タイミング」が花開いていく瞬間を見つめてみればいい。
身の回りの、ほんの些細な粒までが、それぞれに「意志」を持ち、震えるような完全な「時」を捉えていることに気が付くかもしれない。
そんな物事に囲まれていて、どうして自分だけが、勝手に羽目を外すことなど出来ようか。
「無意識」や「潜在意識」という言葉ではニュアンスが違う。
多くの人が思い浮かべるような、「直観」という言葉ではない。
誰もが、「それ」を自己の内部に内在しているはずだし、それに大きく動かされながら生きている。
僕は思う。
閉ざしていた感覚を開いてあげれば、何が起きても不思議なことはない。
Still Life
Still LIfe-静物画
人は何故絵を描くのか。
それは、その一枚の絵を通してのみ触れられる世界があるからだ。
おそらく僕らは互いに、この世界のどんなイメージをも符号し合うは出来ないのであろう。
一人ひとりがそれぞれの感覚を抱いて生きることしか、どうやら僕らには出来ないらしい。
その意味で、生きるということは、そして他者とは、極めて曖昧なもので、そこに横たわる真理は何度も形を変えていく。
言葉も映像も、音も、何もかもが、それぞれの幻想でしかない。
それに僕は、はたとある瞬間に思い当たる。
薄い雲の隙間からゆっくりと太陽が姿を現し、くっきりとこの目に焼き付いた。
光が降り注いでくるのをこの目で、じっと息をつめて見つめていた。
大地に伝わるその振動が、音を立てている。
それに耳を澄ませたことがあるだろうか?
現象は言葉を寄せ付けはしない。
少なくとも僕は、それを前にひれ伏すことしか出来ない。
それを人に伝えようとするならば、神を見た、とでも言えばいいのだろうか。
目の前の物は、人それぞれの像でしかない。
あなたが見ているようには、誰もそれを見つめることはない。
しかし、様相は違えど、一つのものを、それぞれが共有し、「同じ」感情を胸に抱き、そこに意味を見いだすことは出来る。
それはとても美しいことではないだろうか。
誰かの存在があってこそ、そこから生まれてくるものがある。
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