最近、政治家が聞く耳をもたなくなった、とよく聞きます。つまり昔は聞いていたようだ。聞く耳なくしては、国民の声が政治に届くはずもありません。
政治家が聞く耳をもたなくなった、と話した一人は先輩の元政治部記者でした。
◆大平、宮沢、橋龍さん
「首相でいうと、大平正芳、宮沢喜一さんはよく聞いた方だったね。橋龍(橋本龍太郎)さんなんかは何度も沖縄を訪ねて話を聞いていたし、首相じゃないが梶山静六さんもそうだった。聞かなかったのは佐藤栄作さん、かな」
名前のあがらなかった政治家にももちろん聞く耳をもつ人はいたでしょうが、どうも少なかったようです。つまり聞く耳をもつことは易しくはないのです。
もう少し詳しく、新聞などマスコミとの関係でいえば、聞く耳をもつ政治家とは、マスコミの仕事とは国民に代わって権力を監視することだと承知している政治家であり、聞く耳をもたない政治家とはそうでない人たちだということです(宇治敏彦「政(まつりごと)の言葉から読み解く戦後70年」新評論)。
権力監視とは文字通り権力が悪事を働かないよう、国民を裏切ることのないよう、国民に知らせるべき情報を隠さないよう、税金の使途が適切か否かなどをチェックすること。民主政治のまさに基盤的部分でもあります。
大平さんが聞く耳をもったのは若い時分から、おとうちゃんと呼ばれる人柄も手伝ったのでしょうが、目標を「信頼と合意」の政治としていました。宮沢さんはアメリカ通の合理主義者。
人柄もあるでしょうが、ともに権力の有り様についてはそれなりの考えがあったと思われます。
◆新聞は帰ってください
加えれば、ロッキード事件で逮捕されることになった田中角栄首相は、「マスコミもおれの悪口を書くことで生活しているのだから…」と言っていたそうですが、それはそれで庶民宰相らしい現実感覚といってもいいか。
先輩記者に聞く耳をもたなかったと名指しされた佐藤栄作氏はテレビカメラだけが回る記者会見で知られます。
官邸で行われた引退会見で「テレビカメラはどこにいる。新聞記者の諸君とは話さないことにしている。国民に直接話したいんだ。文字になるとちがうから偏向新聞は大嫌いだ。帰ってください」と興奮気味に述べた。応じて記者たちは出て行ってしまった。
先輩記者は、佐藤という政治家、いや人間の本性の爆発を見たと述懐していました。
七年八カ月の長期政権を続け、沖縄返還という大仕事をなした政治家ではありましたが、政権末期の米中国交回復、金・ドル交換停止という二つのニクソン・ショックへの対応はまずかったといわれます。マスコミはたたきました。
しかし難事にこそ、批判に耳を傾けねば知恵は出ないだろうし、国民との間に信頼がなければ難局は乗り切れない。
国会の前に人々が集まるのは、危機感を募らせるからですが、政治が国民の声に耳を傾けないことの証明でもあるでしょう。
ただの反対ではありません。憲法学者がマイクを握り老いも若きも声をあげています。そこへ行けばわかりますが、いわゆる組織の動員デモとは違う。声なき声が声をあげているのです。
ベトナム戦争当時、アメリカではホワイトハウスに数十万人という反戦デモが押し寄せ、執務室のニクソン大統領は耳をふさいだといいます。耳はふさいでも結局は米軍の撤退を決断しました。耳を傾けざるをえなかったのです。
世論調査では安保法制、原発再稼働に対し、多数が不安を訴えています。抗議は国会前だけではありません。
◆世論という声なき声
六〇年安保の時、国会に押し寄せたデモ隊に対し、岸信介首相は「認識の違いかもしれないが、私は声なき声に耳を傾けなければならない」と述べました。米ソの対立、自社対決、思想対立の時代であり、国論は割れ、デモがあり、声なき声もあったのです。
今はどうか。政府の安保法案には、デモも声なき声も反対しているのではないでしょうか。保守系議員が多いはずの地方議会でも慎重さを求める決議が次々なされています。
信頼できる政治を国民は求める。国民の声を聞くのは政治本来の仕事であるはずです。
安保法案の参院審議が始まります。声は届かねばなりません。
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