大阪日雇い労働者の町「釜ヶ崎」。
道ばたに病気で倒れた人がいました。
この町ではその日の食べ物や薬が買えない人が多くいます。
今日本では生活保護を受ける人の数は216万人。
戦後最多を記録しています。
50年以上日雇い労働を続けている…日本の高度経済成長を支えた労働者の一人です。
これまで瀬戸大橋の建設黒四ダムのメンテナンス原発の作業員もやりました。
どうぞ。
汚いとこですけど。
藤森さんは3畳半に1人暮らし。
66歳の今も働き続けています。
クレーン免許言うやつですね。
移動式クレーン免許。
レッカー。
51年ですからねこれが。
51年。
まあそりゃ若い時ですから。
これがパワーショベルのねもう古いんですよ。
これは60…五十何年に取ったやつですからね。
もうボロボロですけどね。
少しでも高い日当を得ようと多くの資格を取ってきましたが安定した老後は得られませんでした。
もう他に行くとこがなかったからね結局ここで落ち着いてしもうたって事ですわな50年ほど。
抜け出せないっちゅうところありますね。
もうここがもう終生の…人生の終わりですわ。
戦後豊かさを求めてきた日本で取り残された人々。
私たちは貧困とどう向き合ってきたのでしょうか。
戦後日本国憲法により「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されました。
その理念を実現するため「生活保護法」が作られます。
しかし生活保護基準は低すぎると一人の結核患者が国を相手に裁判を起こします。
その支援運動は全国に広がりました。
高度経済成長で多くが豊かになる中日雇い労働者など貧困にあえぐ人が現れました。
1970年代一人の経済学者が新たな貧困層を見いだし「ワーキングプア」と名付けます。
今「非正規労働者」は全労働者の37%。
戦後70年。
豊かさを求めた果てに明らかになった格差と貧困。
当事者の証言で迫ります。
1945年昭和20年敗戦。
町には家を焼かれ仕事を失った人があふれていました。
「東京・上野駅地下道に集まってきた家のない人々の問題はついに元旦から9日朝までに15名の死亡者を出すに至りました。
この右側の人はもう動けぬ病人で左は死体です。
更にもう一人の気の毒な死亡者」。
日本は餓死者が出るほどの「貧困」に直面していました。
警察にいっても問題にしないのであります。
「コンクリートの上にじかにむしろや畳を敷いてそして御飯の代わりに雑草を食べています」。
こうした窮状を目の当たりし新しい憲法の中にある条文を入れようと強く主張した人物がいました。
森戸は戦後社会党から立候補し衆議院議員となっていました。
新しい憲法を議論するため衆議院に設置された委員会の中で森戸が発言した記録が残っています。
「日本の国民は国民として生活に対する最小限度の権利を有する事がはっきり出るという事が今日憲法を作る場合には特に必要ではないかと私は思います」。
最低限度の生活を保障する「生存権」です。
「5月3日の宮城前広場。
新しい憲法がいよいよこの日から実施される記念の式典が…」。
森戸の提唱した「生存権」が憲法に記されました。
一方連合国軍総司令部GHQも日本政府に対し生活困窮者を国の責任で救済するよう指令を出していました。
指令を踏まえて制定された生活保護法です。
この法律には戦前の救護法の精神を引き継いだ「欠格条項」がありました。
「勤労の意思のない者素行不良な者」を保護しないと記されていました。
当時厚生省で生活困窮者の保護に当たっていた…誰をどのように保護するのかは役所や民生委員などの経験と勘で決められていたと言います。
怠け者であるとか働かない者とかいうような人には保護は適用しないとはっきり書いてあるんです。
それは「欠格条項」と言ってましたけどね。
ある意味では国のお情けで救済するんだよという観念がありましたよね。
この状況を変えようとした人がいます。
井手さんの上司で保護課の課長だった小山進次郎です。
(井手)これですね。
課長さんですこれが。
シャッポかぶって。
帽子かぶった人です。
小山はまず支給する金額を食費など必要品目を積み上げて計算する客観的なものに改めます。
更に生活保護法を憲法25条にふさわしいものに改正する事を提起しました。
小山とGHQとの折衝を経て欠格条項は削除され1950年新しい生活保護法が制定されました。
「この法律は日本国憲法第25条に規定する理念に基づき国が生活に困窮するすべての国民にたいしその最低限度の生活を保障するとともにその自立を助長することを目的とする」。
生活保護法がスタートした翌年受給者は205万人に上りました。
やっぱりびっくり仰天したという事でしょうね。
「無差別平等だよ君」って。
要するに……というような条項があってそれはまさに日本にとっては新しい考え方。
それを踏まえて新しい生活保護法は組み立てられたという事になるわけですね。
国が定めた基準については国が保証をしますと。
是非そこまではいらっしゃいと。
…という事は決められたわけですからこれは大きな進歩だと思いますよね当時としましては。
「大阪方面では迫撃砲弾発煙弾などの大量生産が行われ異様な活況を呈しています」。
1950年朝鮮戦争による「特需」をきっかけに日本の経済復興が本格化していきます。
「こちらは特需景気のある会社ボーナス日の表情です」。
1956年一人あたりの実質国民所得が戦前のピークを上回ります。
1956年度版の「経済白書」には「もはや『戦後』ではない」と記されました。
経済復興が進んだ1950年代生活保護の受給者数は減少します。
1951年の205万人が1960年には163万人と40万人以上減少しました。
しかし「経済白書」の5か月後に出された「厚生白書」には貧困の問題が提起されました。
厚生省は独自に貧困世帯の調査を行っていました。
生活保護を受給している世帯よりも低い水準で暮らしている「低消費水準世帯」の推計です。
それによると1955年には999万人1960年には667万人が貧困状態にありました。
低消費水準世帯の人数は同じ年の生活保護受給者数の4倍から5倍に上っています。
「厚生白書」には「復興の背後に取り残された人々」と記されています。
一方生活保護を受給していた人たちも貧困に苦しんでいました。
1957年重い結核を患って入院していた朝日茂さんが国を相手取って裁判を起こします。
後に「朝日訴訟」と呼ばれ生存権への関心を高めた裁判です。
「朝日さんが国を相手取って訴えを起こした理由はこうです。
『私は生活保護患者ですから1か月600円の日用品費をもらっていますがこれは文字どおりちり紙などの身の回り品を買うだけでおかずや栄養品を買うだけの費用はどうしても出てきません』」。
朝日さんは国立岡山療養所に生活保護を受けながら入院していました。
生活保護基準があまりに低額で「健康で文化的な生活水準」を維持できないと国を訴えたのです。
生活保護法が出来た翌年の1951年から6年間で一人あたりの国民所得はおよそ2倍に増えました。
しかし生活保護の基準額の増加は1.5倍にとどまっていました。
裁判を引き受けたのは当時25歳の若き弁護士…この裁判は憲法第25条「生存権」を争うものだと考えます。
新井さんは「人間裁判」と名付けました。
人間らしい生活を全ての国民に例外なしに戦後の日本は保証していくというのが憲法25条ですから。
人間らしい生活というのがどういう内容の生活なのか。
何が満たされれば人間らしい人間の尊厳がまっとうされた生活と言えるのか。
あらゆる人に人間らしい生活というのは一体何かという事を問いかける裁判というのを言葉として煮詰めて言ったのが「人間裁判」って言葉なんだと思うんだよね。
1960年東京地方裁判所は朝日さんの訴えを認め「生活保護の基準は低すぎ違法である」と判決を下します。
憲法25条で言う健康で文化的な生活の保障というのは単なる絵に描いた餅ではないと中身のある事だと。
国が責任を持ってその全ての貧しい国民には健康で文化的な最低限度の生活を保障するという責任がある。
生活保護水準を決定する唯一最大の基準は憲法25条であって決してその時々の政府の用意している予算あるいは財政規模ではございませんという事を書いているんです。
この判決は多くの人に勇気を与えました。
当時結核を患っていた朝日健二さんもその一人です。
家や畑を売っても薬代が足りず生活保護を受けながら暮らしていました。
健二さんは後に朝日茂さんの養子となり裁判を引き継いだ人物です。
まあそれはもう私自身が飲まず食わずのような生活したしね療養所でも人並みの生活ができないで出た。
それに対してピシッとした判決だったでしょ。
それはやっぱりつらかったけどもそれは本来の形じゃないんだという事があの判決で出たからね。
それはもう飛び上がるほどうれしかったですよ。
これに対し国は東京高等裁判所に控訴します。
生活保護基準は一般の生活水準に比べて低くはないという主張でした。
(一同)オー!オー!国を相手に闘い続ける朝日さんを応援しようと全国的な運動が広がります。
生活保護受給者だけでなく労働者が朝日訴訟の運動に参加し始めました。
(公文)私はこれです。
当時日本最大の労働組合組織「総評」で社会保障の担当だった…総評は全国の労働組合を動員し朝日さんを応援します。
労働者は「全国一律の最低賃金の制定」を求めていました。
最低限度の生活を可能とする賃金を求める運動は朝日さんの生存権の闘いと同じだと考えたのです。
今とは違ってやっぱり全体としてね労働者の賃金は低いしそして生活は苦しかった。
その苦しい人たちが企業大きな企業も含めて圧倒的多数だったという事がまず一つ言えますよね。
従って生活保護基準でね食っていけないと。
それは憲法違反ではないかというねそういう朝日茂さんの訴えに共感する労働者っていうのが非常にたくさんいたという事ですね。
従ってこの車の両輪っていうのはこの2つが相呼応して両方とも最賃を作らせそして生活保護基準を引き上げるという事でね初めて車は走るんだと。
一緒に生活を改善していこうじゃないかっていうそういう気持ちが相当多くの労働者の中にあったという事ですね。
1963年東京高等裁判所は生活保護の基準について「すこぶる低額ではあるが違法と断定する事は早計である」とし一審判決を破棄します。
朝日さんはすぐに最高裁に上告しました。
私たちが人間らしい療養生活がしたいと。
犬のように死にたくないという願いはやはり労働者の人が人間らしい生活がしたいという賃金の引き上げを要求する事。
一般の社会の人々が十分な生活ができる国民年金を要求する願いと一緒だろうと思うんです。
しかし朝日さんの容体は急速に悪化していきました。
これ。
訴訟を継続するため支援者の中から養子になる人を募った時手を挙げたのが健二さんでした。
健二さんは病床の朝日さんから愛用の万年筆をもらいます。
私にこれを手に持たせてね…こう言ったの。
それだけしか言わなかった。
無口だから人前でしゃべる事なかったの。
それぐらいしかしゃべれない。
朝日茂さんは1964年判決を見ぬまま51歳で亡くなりました。
1967年提訴から10年後最高裁判所の判決が下ります。
朝日さんの死亡によって訴訟は終了しているとし原告敗訴が確定しました。
最高裁判所は判決文にこう記しました。
うんと煮詰めて言うと行政府の一部門である厚生大臣。
その時々の厚生大臣の判断裁量彼らの胸三寸に1億国民の生存権が預けられると。
意地悪く言えば高裁以降のおかげで憲法25条は絵に描いた餅におとしめられたと言ってもいいんですけれどね。
実際つまり保証されるべきものが保証されない。
あれは本当の餅じゃないと。
絵に空腹を満たすためにいじましく絵に描いた餅だっていう。
そういう意味では負の部分というか影の部分というか。
朝日訴訟の10年の闘いは影の部分を残してる。
生活保護の基準額は1960年代経済成長が進み国家予算が増える中で大幅に増額されます。
1961年には前年比18%の増加。
その後10年間で3.7倍に増えました。
1954年に厚生省に入った…当時保護課で生活保護の基準額を決める担当でした。
我々も福祉国家をつくるために一生懸命動いてんだから当然我々も大蔵省と折衝しながら保護基準を上げてくれというそういうかえって我々が考えていた福祉国家論に火つけてくれたようなもんだよ朝日訴訟が。
そういう裁判所の考え方が。
しかも国会でも議論してくれるからそりゃいいやと。
我々もやる気になってるし野党もガンガンガンガン言ってくるからそうすると財政当局だって日本の経済がこんなに良くなってきてるんだから上げざるをえないじゃない。
そうするとあのころの基準はば〜っと上がっていくわけだ。
それはやっぱり我々の思っていたいち早くヨーロッパ並みの福祉国家のレベルまで上げたいとね。
1960年代日本は高度経済成長の時代を迎えます。
池田内閣は「所得倍増計画」を打ち出し経済成長を政治の中心に掲げました。
10年で国民総生産GNPを13兆円から26兆円に倍増させるという目標は6年で達成します。
一人あたりの国民所得は1960年が14万円。
その後増え続け73年には83万円とおよそ6倍になりました。
企業の社員となり安定した給与を得て生活をするサラリーマン家庭が増えてゆきます。
こうした経済成長が始まる頃産業構造の転換が国策として行われました。
1950年代半ば国は石炭から石油に転換する政策を始めます。
1955年からの15年間で全国で700を超える炭鉱が閉山し23万人の炭鉱労働者が失業しました。
「石炭はエネルギー源のチャンピオンの座を完全に譲り渡しました。
エネルギー革命は今音を立てて進められています」。
国はこうしたエネルギー革命で生まれた失業者を新しい産業に送り込む政策を打ち出してゆきます。
産業構造の変革に応じて労働力を配置し直す雇用の流動化です。
労働力の流動化を促す政策は1950年代の半ばから始まっていました。
農村から都市へ中学を卒業した若者たちが集団就職し「金の卵」ともてはやされました。
労働力の流動化は格差を是正するための政策でした。
国民誰もが豊かさを求めた時代だったのです。
しかし産業構造の転換の中で炭鉱地帯では生活保護の受給者が急増しました。
戦後日本の石炭生産量の6割を産出した福岡県筑豊地方です。
炭鉱はですねこれまっすぐ行った所にあったんです。
あの山があるでしょあの辺が。
あの辺もずっと炭鉱。
当時生活保護を受給していた…幼い子供3人を抱えた飯塚さんは炭鉱の閉山でその日食べる物すら買えなくなりました。
夫の両親夫そして自身も同じ炭鉱で働いており一度に職を失ったのです。
もうそれはほんともうみんな飢死するのと一緒ですよね。
なかったらね。
食べるもんが食べれんから。
病院行くにも行けんから。
みんな「どうしたらいいやろうか」と言ってそういう悩みは多かったですよね。
筑豊では収入が途絶え生活できなくなった人々が福祉事務所にあふれました。
筑豊の中でも多くの炭鉱があった田川郡で生活保護を受給している人の割合です。
1955年以降急増し61年に10%64年には20%を超え全国一となります。
国はこうした失業者に新たな就職先を見つけようと「広域職業紹介」の制度を作ります。
職業安定所が県外への就職を斡旋していきます。
田川職安では炭坑離職者の県外への就職数が1960年からの7年間で4,580人。
京浜工業地帯や阪神工業地帯自動車産業が勃興していた愛知県などへの就職でした。
田川郡添田町に職安の紹介で筑豊を離れたかつての労働者が暮らしています。
(取材者)こんにちは。
ああこんにちは。
県外集団就職の第一陣でした。
どうせ行くなら東京に行きたいというのが出てきましたなその時には。
まだ若い20代ですから。
不安とかそういうのを考える余裕なかったですねもう。
とにかくこれで仕事が見つかったら何とかなるかなと思ってね。
食べられるという自分が。
食べていけるっていう…働けば。
どこ行っても働けば食べていけるっちゅう観念持ってましたね何か。
やっぱ生っ粋の労働者だから。
NHKの番組「日本の素顔」では1960年炭鉱離職者の東京での暮らしを取材しています。
「新しい生活を求めてまだ見ぬ土地へ。
その仕事の多くは土工や鉄工所です」。
「東京のある鋳物工場。
14人の離職者たちがここに住み込んでいます。
この人たちはいわば背水の陣といった気持ちです。
慣れない仕事。
職場では炭鉱から来たというので何かにつけてみんなの目が向けられます。
それだけ気張らなければと玉の汗を流す人たち。
それに仕送りやこれからの生活設計など何かにつけて緊張の連続です」。
これだったかね。
皆川さんの東京の新しい職場は筑豊で夢みたものとは全く違いました。
給料は1人で食べていくのにやっとでふるさとの両親に仕送りはできませんでした。
東京です。
これは東京でねこれ確か竹中工務店。
ソニービルなんですよね。
ソニービルを9つ建てるというのを竹中工務店が請けとったから。
その仕事をやってましたね下請けのでね。
行ったら人数の多いのにびっくりしちゃったですよ。
毎日100人ぐらいそこへ集まってきてやってたでしょ。
寝るのがず〜っと並んで寝るから何十人か分からなかったけどね。
柱が立ってるだけでふすまも何もないですね。
ず〜っとこう並んで寝てた。
あれにはびっくりしました。
雑魚寝っていうのはやっぱり一応雑魚寝でしょうねあれ。
こう並んで眠って。
そうねえ…3人ぐらいこんなふうに並ぶとするでしょそしたら縦に3人ぐらい並んで寝てましたっけね。
でも臭いがものすごかったです臭いが。
皆川さんは小学校を卒業後炭鉱で14年間働きました。
しかしそこで培った技術は東京では役に立たず一から仕事を覚えました。
肩に担ぐ。
鉄骨のおっというぐらい重たいのを肩に担いでこうして行くんですよ。
それでその渡っていくのがこんな板ぎれ一枚ですよ。
分厚い板がさしかけてあるだけ。
(取材者)そんな事を急にやらされるんですか?うん。
そして「心配せんでもええとめてあるから」って言うからどっかにくくってとめてあるのかもしれない。
その程度。
とにかく他の人がやってるから先輩たちが。
だからそんなに心配は…。
こういうのが土方なんだなと思って。
それこそ観念してやるというのはあるですね。
本当に貧乏というのは自分も体験してね貧乏って本当の意味で貧乏っていうのはそういうふうに結局そこで生きていくためにだけ働く。
動物の生き方と一緒なんですよ。
この時代の貧困を調査し続けた人物がいます。
江口は貧困研究の金字塔とも言われる「現代の『低所得層』」を著しました。
当時江口と共に調査をした研究者が50年前の研究資料を大切に保管していました。
江口が注目したのは都市に大量に流れ込んできた労働者の多くが最終的に日雇い労働者になっている事でした。
江口と川上さんは日雇い労働者の町東京・山谷を1967年から7年以上にわたり調査します。
(川上)全部で1,000ケース近く。
山谷日雇い労働者調査面接記録票です。
1,153人分の面接記録です。
江口は酒を片手に時には労働者と共にたき火にあたり顔を黒くすすで汚しながら一人一人聞き取り調査をしました。
調査票には出身地年齢家族の有無病歴や職歴が書かれています。
以前は炭鉱で働いていたという人も多くいました。
ここに2ケースございますけれども2人とも中学卒業してスムーズに就職できております。
ほとんどの人が日雇い労働者になっている人は最初の仕事は中卒で就職してます。
そこで何年間か勤めていて一見条件が良いように思われる日雇い就労の方へ転職しているんですね。
日雇い労働者は一度定職に就いたのち山谷に来ていました。
就職先での事故や病気そして賃金への不満などが転職の主な理由でした。
日雇いを中心とした労働者の出身地を1955年から17年にわたり調べたデータです。
東京の日雇い労働者の出身地の多くが北海道や東北新潟です。
西日本特に九州や山陰四国出身の日雇い労働者が集まってくるのが大阪でした。
線路に囲まれた800m四方の地区は「釜ヶ崎」と呼ばれています。
東京・山谷と並ぶ日雇い労働者の町です。
ここでは今も日雇いの仕事の手配が毎朝行われ労働者は「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊施設に泊まるというその日暮らしの生活を送っています。
1960年代からここで日雇いをして50年になるという人たちも多くいます。
中島光男さんは長崎の中学を卒業後大阪のガラス工場に就職したかつての金の卵です。
しかし工場は倒産。
その後勤めた鉄工所でケガをし日雇い労働者になりました。
(取材者)これ何のけがやったんですか?
(中島)これはね鉄工所に勤めとる頃。
鉄工所に勤めてる頃にコンベヤーが回っとったんや。
手袋はめとったからそれがパーンと食い込んだんや。
コンベヤーに右の手が。
「これやったらもううちで働く気せんやろあんたケガして」つって。
「うんそうや。
うちで働く気がせんやろ」言うて。
(取材者)退職を勧められたっていう事?そうそう。
もう俺も自分から降りたよ俺も。
もう辞めると。
もうせんよこんな危ない仕事。
しかし中島さんがたどりついた日雇いの労働環境は更に過酷なものでした。
NHKがその実態を1960年に取材した「臨時労働者」です。
「建設工事中頭を強打して運ばれてきた下請けの労働者。
この人はこの撮影の2日後に息を引き取りました。
身分保障もなく健康管理もない職場でこの人は死んでいきました。
東北地方から出てきた人だという事です。
労働災害の発生率は工員に比べて臨時は2倍に上りますが仕事に慣れない事と危険な仕事が多いからだという事です」。
日雇い労働者の相談を受けてきた人がいます。
大阪・釜ヶ崎の労働福祉センターで働いていた…日雇い労働者を対象にした失業保険はありますが支給基準は厳しく労災や健康保険の加入も雇い主が怠る例が多くありました。
事故の相談は1965年3,000件を超えました。
普通自分の病気で休んだって基本給が削られるっていう事はないじゃないですか。
当時はねそれが当たり前だったですよ日本の。
常識だったですよ。
そういう事に比べればここで日雇いで働いてる方は全くそういう事はないわけでしょ。
だからケガしたら即もうほんとにすぐ隣が地獄という事になるわけですよ生活の面から見たら。
一日稼いでそれで生活を支えてるわけですから。
日雇いは健康であっても毎日仕事があるとはかぎりません。
景気の動向に左右されます。
そんな日雇いの仕事を紹介する「手配師」を1960年代からしてきた男性です。
ここは便利がいいのは忙しい時は使えます。
暇なったら切れる。
それが自由が利くからね。
せやから忙しい足らん言うたらここに連れに来たら数だけそろうたらええわね。
自分とこの従業員やったら切る事できしませんやろ。
置いとかなあかんのや。
毎日使わなあかんし。
その分ここは使わんでええから。
暇やいうたらプツッと明日から来んでよろしいやん。
そうでっしゃろ。
その部分の違いがあるわね。
そりゃもうここ無かったから困るわな皆どこも。
日雇い労働者たちは下請け構造の末端にいました。
総評の職員だった…総評では当時下請け構造を問題視していました。
工場や建設現場では企業の下で下請けの仕事をする会社があります。
2次下請けや3次下請けには日雇い労働者が数多くいました。
まさにこれ収奪構造ですよね。
結局大企業の一握りの大きな部分がばく大な利益を上げる。
上げるためにはどうやってコストを削減するかっていう事で第1次第2次第3次の下請け孫請けをねたたいてたたいてたたきまくるという事でまあ成り立ってるわけですよね。
NHKの番組では日雇いを含む「臨時労働者」を企業側がどう考えているのか日経連にインタビューしています。
「日経連の前田専務はどうでしょうか」。
経済学者江口英一は日雇いのような不安定な状況にある労働者が都市に「プールされている」と記しています。
「死亡という結末となってあらわれる。
しかしそこには外側からの新しい流入=『つぎこまれ』が不断に行われその水位はいつも高く保たれていくのである」。
貧困は作られるというふうに思っていたわけです。
だから落ちるんではなくて「貧困の形成」という表現を使った。
この社会の中で貧困は作られていく。
でその今の日本で具体的にどのように作られたのだろうかという課題なんですよね。
厚生省が独自に調査してきた「低消費水準世帯」の人数です。
1961年まで減少しその後500万人前後を推移。
65年には478万人になりました。
1965年を最後に厚生省はこの貧困調査を打ち切りました。
厚生省はなぜ調査を打ち切ったのでしょうか。
我々が昔考えたような古い時代の昭和20年代の失業者っちゅう考え方がもう失業者なんかいないんですよ。
いくらでも仕事あるわけであって。
働こうと思えばどこにでも仕事があるし給料は高いしいくらでも生活できるわけだよ。
貧乏人ってどこを探せばいいんだというような時代が一瞬出てきたんだよ。
だから調査をする必要ないじゃん。
Goodmorning!1970年代「一億総中流」という言葉がブームになります。
国の世論調査で自分が中流の生活だと答えた人がおよそ9割に上りました。
この時代大企業では終身雇用制度が確立されていきます。
正社員は給与だけでなく社宅や住宅手当家族手当など福利厚生の恩恵を受けていました。
貧困はもはや過去の問題であるという世相の中で経済学者江口英一は1971年の東京・中野区を調査しました。
コンピューターです。
(取材者)コンピューター?はいコンピューターです。
大型コンピューターです。
当時中野区は全国に先駆けてコンピューター化を進めており32万人の住民票と課税台帳で世帯収入の水準を計算する事が可能でした。
これは全世帯なんですよ。
中野区全世帯についてのデータを作る事ができたという事がものすごく珍しいといいますか貴重なデータという事になりますね。
中野区は山手線のすぐ外側にある区です。
住宅街の中に中小の工場が多くありました。
地方から都会に来て間もない人が好んで住んだ町です。
調査結果は驚くべきものでした。
生活保護基準の水準未満の所得しかなかった世帯が全世帯の26.2%。
3/3以上の世帯が貧困だというのです。
本当は26.2%の人が所得だけから考えると保護を受けてしかるべき。
(取材者)生活保護を?生活保護を受けてしかるべき人の割合だという事なんですよね。
でも実際にはこれの多分1割も満たないくらいじゃないでしょうかね実際に保護を受けていた人というのは。
まず保護基準以下の人が26%いるという事で貧困者の数が非常に多いという事を示した事になるんですよね。
それで「本当にそんなに多くいるのか」というふうにも言われましたけれどもこれは私としてはかなり厳密に課税台帳と家族構成を合わせて計算したものでありますのでね私としては26%というのは確かな数字というふうに思ってます。
「巨大都市東京の中心部での保護基準またはそれ以下という『低所得=低消費』世帯の量は高度経済成長期を経てむしろ厖大な量に達している。
我々が引き出した『低所得=低消費』水準世帯は現代の『生活に困窮する労働者』WorkingPoorであると言う事ができる」。
近年多くの人に知られるようになった「ワーキングプア」。
江口の論文で日本で初めて使われました。
日本では働いていれば食っていけるもんだという考え結構強いですよね。
だけれど必ずしもそうではなくて…それを集団として捉える言葉として「ワーキングプア」というふうな表現を使っているという事ですね。
江口は働いているのに貧困から抜け出せない人たちの存在を明らかにしました。
貧困の概念を変えた江口の研究。
しかし社会の注目を集める事はありませんでした。
消費は低迷し戦後初のマイナス成長となりました。
高度経済成長の終焉でした。
1979年日本の福祉行政が大きな転機を迎えます。
公正で品格のある日本型福祉社会の建設に力を致す決意であります。
日本人の持つ「自立自助と相互扶助の精神」をうたう福祉観が提唱されました。
1970年に厚生省に入り2年間生活保護を担当後に弁護士となった尾藤廣喜さんです。
尾藤さんは「日本型福祉」に疑問を感じたと言います。
日本型日本型って言いますけど率直に言えば後進国型なんですよね。
福祉が進んでない国の形。
だから一番特徴的に言えば扶養の強制ですよね。
家族というものを大事にしてそれで国に頼るんじゃなくて家庭でお互いに面倒見ましょうというの福祉の原点だと言うわけでしょ。
で自立というものを強調する。
だから今の考え方の根本が日本型福祉社会という中で出てきたわけでその時はおいおいと思いましたけどね。
とんでもない話だと。
社会保障の在り方と全然違うじゃないかと。
1981年国の財政赤字への対策のため第2次臨時行政調査会が設置されます。
その答申は社会保障費の抑制を打ち出しました。
1981年厚生省社会局保護課長の名で全国の福祉事務所に宛て「生活保護の適正実施の推進について」と題する通知が出されます。
生活保護を受ける資格がない者が不正に受給しているとして申請者の預貯金や勤労収入年金仕送りなどを徹底して調査する事が求められました。
当時厚生省の保護課にいた片石修三さんはこの通知は生活保護の信用を守るために出されたのだと言います。
当時暴力団関係者がですね組織的に生活保護を受けているそういう事例がですね複数回新聞で報道されまして私たちも驚いたんですけども。
これはまずいなと。
このままだと一般国民は生活保護っていうのは何なんだという事で随分いいかげんだなという事で生活保護制度の信頼っていいますかねそういうのがなくなっちゃうんじゃないかと。
そういうような事で生活保護の資産収入をですね適正に把握して不正に保護を受けるという事がないよう暴力団員ももちろんですけどもそれ以外においてもね適正に保護を実施して生活保護の制度の信用を落とすような事にならないようにね頑張って下さいとお願いしますという通知を出したとこういう事です。
当時大阪市の福祉事務所でケースワーカーをしていた…この通知に従う中で窓口に立つケースワーカーと保護を申請に来た人の間に溝が生まれたと言います。
それはやはりそもそも信頼関係が成り立たない。
相手は不正をしているんではないか果たすべき義務を果たしてないんではないかというような疑いの目で保護利用者の方と接していくわけですから心の通い合いっていうのはないんですよね。
やっぱり保護を受けてる方にとってはどんな事を言われるか分からないどんな事を調査されるか分からないそれがケースワーカーだというふうに変わってしまってこちらとしても協力が得られないもんですからやはり命令的にああしなさいこうしなさいなぜできないんですかと。
できなければ生活保護を切りますよというような権力的な関係に変わっていくというふうになるんです。
厚生省は生活保護の適正実施のための実例集を全国の福祉事務所に配りました。
当時の現場では却下すごろくというような形で呼ばれた箇所があるんです。
それがちょうどこのページになりますけどもね。
却下すごろくと。
基本的には帰って頂くという事になりますけども生活保護の却下ができると。
例えば病気で働けないと申請者が訴えてもケースワーカーが主治医の意見も考慮し働く能力があると判断した場合は口頭による就労の指導更に文書での指示が行われます。
応じない場合は「保護の停止又は廃止」と記されています。
生活保護を申請しても開始をしないというマニュアルなんですよ。
生活保護というのは困っておる事が確認されれば開始をしてそしてその方が自立をしていくように支援をするというのが生活保護ですからね。
生活保護のやり方とは違う全く違う異質のものがここに書かれているというふうに僕は思います。
東京・荒川区では1984年からの4年間で生活保護の受給者が半減しました。
当時荒川区で生活保護を支援する団体が集会を開いた時にある女性が生活保護申請時の体験を語った録音テープが残されています。
これは原島さんの写真と当時話をしてもらったテープですね。
当時46歳で1人暮らしだった原島信子さんは病気で仕事ができなくなり福祉事務所に相談に行きました。
「私は東日暮里に住む原島と申します。
私は10年前から入退院の繰り返しを繰り返し思うように働けなくなってしまいました。
福祉に行くのは死ぬほどつらかったのですがでもつっぱるにもお金がなくてどうする事もできず相談に行きました。
ところが『保護を受けるならアパートを代われ』と言われさんざん歩き回され動けなくなった私を台車に乗せてまでアパート探しをさせました」。
支援団体の2人が原島さんに付き添い3度福祉事務所の窓口に行き生活保護は開始されました。
申請に行った時に生い立ちから結婚歴から家族の関係だとかそういうのを全部聞かれるわけですよね。
恥をかかされたっていうか惨めな思いになっていく。
そんな自分が生活保護受けなきゃなんなくなるなんて思ってもいなかったんだけどいろいろ努力した結果生活保護しか今は乗り切れないという思いの人たちが行くわけだからそういう事を2時間も3時間も聞かれたらそれはもう恥をかくどころじゃなく惨めな人間としてほんとに惨めな思いになっていくんじゃないかな。
これは荒川区役所の組合報です。
福祉事務所のケースワーカーの悩みが書かれています。
生活保護受給者の数は1960年代後半に150万人を切って以降ほぼ横ばいを続けましたが1984年の147万人をピークに急激に減少していきました。
「戦後日本の貧困」。
1998年に書かれた論文です。
国のデータを基に貧困世帯の数を割り出しそのうち何%が実際に生活保護を受けているのかという捕捉率を導き出しています。
それによると生活保護の捕捉率は1981年に11.9%となったあと低下傾向が続き90年には4.9%まで落ち込みました。
80年代後半の生活保護受給者数の減少はこのような低い捕捉率の下で起きていたのです。
元号は「平成」であります。
よ〜お!
(手拍子)日本は2度の石油危機を世界に先駆けて克服。
「JapanasNo.1」と言われるまでに経済は回復しました。
しかし1991年バブル崩壊。
株価下落に続く不動産価格の暴落で日本経済は大きく減退企業の倒産や解雇が相次ぎました。
職を得られない日雇い労働者が町にあふれました。
公園や路上で生活をするいわゆるホームレスの人たちが全国で急増します。
大阪・釜ヶ崎でも日雇い労働者の多くが仕事を失い野宿生活となりました。
中島光男さんもその一人です。
(取材者)野宿ですか?野宿しとったですか?うん。
ここであおかんしたの。
あおかんしたいなって言ったり。
あぁおったよお前自殺する人も。
あの時代もう…。
仕事ないわどうするかのうこら。
首つりはおるわそっからそこのドヤの上から自殺はする人もおるし。
飛び降りてデーンと…。
コンクリにたたきつけた音出るよボキーンと。
もう見てきたから。
高度経済成長期に働き手だった人の多くは90年代に50歳を超え仕事を失いました。
地域の保健師だった亀岡照代さんは釜ヶ崎で1995年に亡くなった461人を調べました。
26人は自ら命を絶っていました。
(亀岡)一番多いのが50代前半で亡くなる方が多いんです。
461人の中の16.8%77人が50代前半で亡くなっておられる数が多いんですね。
やっぱり日本の中でねこういう所があるんやというのはすごくショックでしたね。
「俺なんかどうなってもええんや」とかねそういう方って結構多かったんです。
生きる望みがあまりないというか自分が人間として価値があるっていうふうになかなか思ってない方もおられて。
だから「ほっといてくれ。
もうどうなってもええんや」とか「わしはいつ死んでもええんや」とかって言う方は結構おられました。
1990年代半ばから新しい問題が現れます。
非正規雇用の増大です。
政府は規制緩和を進めていました。
労働者派遣法の改正を繰り返し2004年までに製造業を含むほぼ全ての業務で派遣が可能となりました。
非正規雇用と正規雇用の推移を示したグラフです。
派遣社員を含む非正規雇用は1994年に971万人労働者の20%でした。
その後正規雇用が減少する一方で非正規雇用は増え続け2008年には1,765万人全労働者の34%に拡大しました。
IT企業や投資ファンドなどが注目されたこの時代。
2002年から経済成長が続きました。
しかし2008年。
アメリカの投資銀行の破綻をきっかけに世界的な金融危機が起こります。
日本の株価も暴落しました。
工場は生産の縮小を余儀なくされていきます。
2008年の大みそか仕事をなくした派遣などの非正規労働者が食べ物を求めて集まりました。
「年越し派遣村」です。
多くは失業保険もなく生活保護も受けていませんでした。
この年末年始どこも寝場所がない飯を食うお金がない駆け込む先がないと…。
派遣村の村長を務めた湯浅誠さんです。
湯浅さんはこうした人たちが社会からはじかれる事なく互いに助け合う仕組みを作ろうとしていました。
私は人間の定義が変わったと言っているんですがそういう事があったんではないかと思いますね。
派遣の人たちなんかでかつてよく言われていたのは物扱いっていうね。
それは経営側からすると…雇用の調整弁として流動費扱いできるような人を増やしていく。
そうやって派遣拡大していった。
非正規も拡大していったわけですが。
そういうふうにこう何て言うかななりふり構わなくなっていく。
私が言っていたのは「すべり台社会」という事でしたけどそれは雇用条件の悪い人ほどセーフティーネットがないっていう状態を言っていて。
路上に来る人とか生活困窮してしまってる人と会って話すとほとんどセーフティーネットに引っ掛かってないんですよね。
それはどういう事かというと安定的に働いてる人しかセーフティーネットって享受できない仕組みになっていて失業保険なんか典型的なんですけど。
失業保険は失業者の2割ぐらいしか今でもカバーしていませんけども。
多くの失業者は失業保険受けられるような働き方ができてないんですよね。
なので失業した時に失業保険が効かない。
結果的に生活保護までいってしまうという事になる。
止めてくれるものがないという事ですね。
もちろんその中で家族が歯止めになってくれる人はいいんですけどもそれもない人はほんとに転落していってしまう。
年越し派遣村の翌年国は1965年を最後に途絶えていた貧困のデータを公表しました。
相対的貧困率です。
OECD経済協力開発機構と同様の計算方法で算出しました。
それによると相対的貧困率は90年代を通して伸び続けていました。
そして2012年には16.1%およそ2,053万人が貧困ライン以下の所得で暮らしているという結果が出ています。
今国会では労働者派遣法の改正が話し合われています。
政府の改正案では企業が派遣労働者を受け入れる期間の制限を事実上撤廃し正社員を希望する人にはその道が開かれるとしています。
5月に開かれた労働者派遣法改正に反対する集会です。
会場には若者や女性の姿が目立ちました。
労働者の間には派遣労働が拡大するのではないかと不安が広がっています。
明日食べる事明日生きる事をほんとに精いっぱいになってしまいます。
未来を考える事ができないという事になりますね。
今の生活を追っていくのが精いっぱいなんでその先の事を考えられないような感じになっちゃいます。
私の人生は一回きりしかありません。
その大事な人生をこういった派遣っていう不安定な身分のまんまで使われたくありません。
1950年に始まった生活保護制度。
高度経済成長の中でその受給者は減り続けました。
しかし1995年以降は毎年増え続けていきます。
2013年には216万人を記録しました。
これは戦後最大の受給者数です。
今から50年前。
朝日訴訟を引き継いだ朝日健二さんです。
憲法25条をよりどころに生活保護の在り方を問うた朝日訴訟。
当時の事を知りたいという依頼が多く来るようになりました。
朝日訴訟は憲法25条に基づいて朝日茂さんは裁判を提訴して東京地裁で勝訴したのは憲法25条がやはり国民の権利として国が行わなければいけない行政をする側の義務として定められているからという考え方でありますけれども。
訴えて頂いてありがとうございます。
頑張って下さい。
(取材者)講演をされるとどんなお気持ちになりますか?いやぁ自分の事やら今の事やらいっぺんに思い出しちゃってね。
やっぱり…悪いねこんな所で立って泣いちゃね申し訳ないと思いますね。
泣いてしまうね。
まあねあの時代の事と同じ事が今起きてるしね。
またあのころの事に逆戻りでしょ。
やっぱりもう一度やらなきゃいけない時代なのかと思うとね。
やっぱりそれぞれの時代の健康で文化的な水準というのは私は変わらなきゃいけないと思うんですよ。
朝日訴訟の時代はまだそれの上が底に近かったんですよ。
だから格差があっても小さかった。
ところが今は下はそのまんまで上がどんどんどんどん良くなってしかしこの一番下のところはほとんど上がってない当時と。
そこがやはり私は問題だと思う。
今ほんと勝負の時だと思いますよ。
朝日訴訟が起きた時と同じような状態になりつつあるから。
万歳!万歳!戦後憲法第25条で健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が国民に約束されました。
そして今日雇い労働者の町釜ヶ崎。
毎日数百人がその日の宿を求めて無料のシェルターに並びます。
戦後豊かさを求めたはずの日本。
最低限度の生活が全ての人々に保障されるために私たちは何をすればいいのでしょうか?憲法25条に言葉としては非常にね立派な事が書いてあるわけですけれどその内実といいますか知悉といいますかそれはきちんとイメージされてきていないんですよね今日に至るまで。
それをきちんとイメージをつくっていく事そしてそれを実際の制度として実現していく事が重要ではないかというふうに思います。
どうしても貧困という問題を非常に限定された人々の問題というふうに捉える視点が強いですからね。
最近特にそれが強まってきているというふうに思いますのでそうではなくて社会の全体の人々の問題その保障がある事がどれほど生きやすい社会かというような事がねイメージできるといいんではないかというふうに思いますね。
標語的に言うと仮に非正規でも夫婦共働きで年収400万円。
これで子供が産み育てられて子供が望むなら大学まで行かせられる。
そういう世の中を作っていくという事だと思うんですね。
その状態を作っていこうとするとやはり教育とか場合によっては住宅とかやっぱそういうところにもう少しお金をかけていかないといけないと。
それが人々の生活を支え人々がより成長しひいては社会の成長をもたらすんだっていう事ですね。
ただこの考え方というのはずっと言われてはいます。
言われてはいるけれども日本社会のメインストリームにはならない。
そこに何があるかって考えると不信感なんだと思うんですよ不信感。
そこに仮にこの教育について投資を受けるAさんがいる。
そのAさんに流れたお金というのはそのままその人の中で消えていっちゃうんじゃないか。
社会に対してリターンが来ないんじゃないか。
そういうような不信感がやっぱり社会の中にあってここが乗り越えられていかないと今私が言ったような事も結局は言う事はできるんだけど社会のメインストリームにはならないという状態が続くんじゃないかと恐れてますね。
簡単ではないですがだからこそその手前で人々の信頼関係を作っていく事が大事なんだというのが今私たちが今日からでも明日からでもやれる事だろうとは思います。
この夏ハリウッド映画がこぞって取り上げているテーマがある。
2015/07/25(土) 23:00〜00:30
NHKEテレ1大阪
戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択(4)[字]
戦後の日本は、格差や貧困に、どのように向き合ってきたのか。新憲法25条のもとに誕生した生活保護法から、バブル崩壊後の年越し派遣村まで。新証言で70年を見つめる。
詳細情報
番組内容
国民の生存権を保障する新憲法25条のもとスタートした戦後日本。しかし、生活保護の充実を求め1957年に起こされた「朝日訴訟」の敗訴や、高度経済成長期の1965年に打ち切られた国の貧困調査など、「一億層中流」意識が広がる中、貧困問題は見過ごされていく。そしてバブル崩壊後、非正規雇用が増加し続け、ついに2012年には6人に1人が貧困という状態に。官僚や研究者、市民の証言をもとに格差と貧困の戦後史に迫る
出演者
【語り】大沼ひろみ,濱中博久,【朗読】江原正士,糸博,樫井笙人
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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