諸君…狂いたまえ!幕末の思想家吉田松陰。
彼が主宰した松下村塾にはその後の日本を切り開く人材が集まっていた。
その中でも松陰が自らの後継者として期待をかけ天下の英才とまで褒めたたえた男がいた。
国を守るためにまずなさねばならぬ事は異人を倒す事だ!長州藩士久坂玄瑞である。
この男なんと25歳という若さで幕末の日本を動かした。
久坂玄瑞の名前知らない方多いかもしれませんけど…久坂玄瑞という人は何かこう…諸外国を武力で打ち払おうという攘夷運動。
久坂はその若きリーダーとして志士たちを牽引する。
その久坂たちが引き起こしたのが京の町の2/3を焼き尽くし幕末動乱の火蓋を切った禁門の変。
御所に向けて発砲するというこの大事件の裏には久坂の大きな決断があった。
禁門の変の直前朝廷や幕府は行き過ぎた攘夷を問題とし久坂たち長州藩を都から追放。
追い込まれた久坂たちは帝に直訴するしかないと考え武力による圧力をかけた。
それに対し御所を守る幕府軍は最後の通告を行った。
この時久坂は2つの選択を迫られた。
今ある兵力をもって御所に進軍。
突破して帝に嘆願する。
しかし守りを固める幕府軍の兵力は久坂たち長州軍の10倍。
全員討ち死にする可能性が高い。
もう一つの選択は慎重策。
実はこの時7,000を超える援軍が長州から京都に向かっていた。
合流すれば情勢が一気に好転するかもしれない。
しかし幕府の命は即時撤退。
残された時間は僅か。
間に合う保証はない。
果たして久坂がとった行動とは?今回も多彩なゲストがその脳裏に迫る!何かこうキャプテンの悲劇って感じがしますね。
ネットもなかった時代にね横のつながりとか…。
今こそ生まれる人だったのかなって気がちょっとしてるんですね。
歴史の流れを出すバルブの口を誰かが流れに吹き飛ばされても開けに行かなきゃいけない時に久坂という青年が一人で開けに行ったかもしれない。
幕末の英雄久坂玄瑞。
日本史上の大事件の裏に秘められた青年志士の選択に迫る。
歴史のターニングポイントで英雄たちに迫られた選択。
その時彼らは何を考え何に悩んで一つの選択をしたんでしょうか。
さあ今回のテーマは「幕末」です。
1864年に京都で起きた禁門の変です。
長州藩が御所に向けて進軍。
京都が火の海となり幕末の流れを大きく変えるきっかけとなった戦乱に今回はスポットを当てます。
そして主人公は長州藩の英雄…松下村塾きっての秀才はどのように幕末の動乱を駆け抜けそしてこの禁門の変で散ったのかそこに秘められた悲劇と選択に迫ってまいります。
まあこの久坂玄瑞という人ひと言で言えば僕は…江戸時代を壊した!?そうです。
江戸時代を壊したんです。
あのね藩の権力が発動した戦争つまり徳川と藩が戦ったのは豊臣が最後ですね。
豊臣が滅びてから初めて藩の単位の本当にフル装備の武士の集団と幕府を戦わせて江戸250年の平和を消滅させたっていうのかね実は。
ですから玄瑞が分からなければ江戸時代の終わりは分かんないと言ってもいいぐらいなんでもう今日しっかり最新の研究からこの久坂玄瑞について見ていきたいと。
さあという事で今回もさまざまな専門分野の皆さんにお集まり頂きました。
まずは歴史作家の加来耕三さんです。
加来さんこの久坂玄瑞とそして禁門の変というのはどういう…?よく言うんですけれども過渡期というのはですね日本の場合どうも3段階を経るような気がするんですね。
3段階ですか?うん。
戦国時代でしたらまず織田信長が出ましたね。
天下布武を唱えて途中までいきました。
秀吉が実質的には天下統一をする訳ですけれども戦国時代の問題は抱えたままでしたね。
それを家康が出てきて最終的に天下太平にしましたね。
あ〜3段階ですね。
例えば長州に置き換えますと一番最初のグループにいたのが吉田松陰だと思うんですね。
これは大体思想家であるとともにまあ先導者ですから第2のグループが久坂玄瑞であり高杉晋作であり一番まあ激動でありなおかつ難しいところですよね。
そこを担当したのが久坂であり…まあ教育学者から見ると大事なものっていうのは知情意体というのが僕はあると思うんですね。
まず知性。
まあ知識とか頭の働きですね。
それで情というのは人と感情が通わせ合うそういうような情感の豊かさそして意思の強さそしてそれプラス体ですね。
体から満ちあふれるエネルギー。
これが久坂玄瑞にはあったんじゃないのかなと思うんですね。
まあ非常に…また組織のために生きるというよりも本当に個人として生きて駆け抜けたっていう印象でもし今そういう存在がいたらそれこそビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブズみたいな何かIT企業家みたくなってこう頭角を現したんじゃないかなというようなそんな印象を受けたんですけどもなぜ…まあ幕末とはいえ江戸時代にそんな個人として個性として輝く事ができたのかっていうそこに非常に興味が湧きました。
いや幕末になると武士に著しく能力が求められるようになる訳です。
平和な真ん中ら辺の江戸時代というのはあんまり求められない。
家柄がよけりゃあいい。
ところが幕末だったら本当に能力が求められるんでスーパーマンが現れる訳ですよね。
一人で何でもできてしまう。
できてしまう人が思いっきりやろうと思う事を思い詰めてまあこれだけのスーパーマンですから日本を動かしてしまう訳ですね。
さあではまず久坂玄瑞とはどんな人物だったんでしょうか。
生涯の師である吉田松陰との出会いそして松下村塾の若きリーダーとして活躍している姿ご覧頂きます。
長州藩の城下町萩。
天保11年久坂玄瑞は藩に仕える医師の三男として生まれた。
15歳の時両親や兄弟を相次いで亡くし家督を継いで医者の道に進んだ。
そのころ日本は西洋列強から開国を迫られていた。
200年以上続いたいわゆる鎖国体制は終焉を迎えていた。
「このままでは列強に屈して植民地になってしまうのではないか」。
各地で議論が巻き起こった。
久坂も弱腰ともとれる幕府の姿勢に怒りを覚えある思いを募らせていった。
17歳の時久坂はある男のうわさを耳にした。
吉田松陰である。
黒船に乗り込み密航を企てた兵学者として知られていた松陰。
その思想は「日本を守るためには西洋の文明を学ぶべし」という革新的なものだった。
国の未来を見据える松陰に共感した久坂は一通の手紙をしたためた。
それは幕府がアメリカの恫喝に屈して開国した事を厳しく非難「外国の使節を斬るべし」と意気揚々と述べたものだった。
しかし久坂の主張を松陰は真っ向から批判した。
志は同じだと思っていた久坂にとって屈辱的な返信だった。
とにかく久坂に対する松陰の返信っていうのは議論がとにかく…お前は上っ面だけだと。
こんなやつは大嫌いだなんていうあんなひどい事を普通人に対してまして見も知らない人に対して言わないですからそれはやっぱり松陰の…翌年松陰は人材の育成に力を注ごうと松下村塾を主宰。
久坂も入塾し松陰の門下生となった。
塾は武士や町民などが身分の区別なく机を並べ国の未来について松陰と議論する刺激的な場だった。
しかしその恵まれた時間は1年余りしか続かなかった。
幕府が天皇の勅を得ずにアメリカやイギリスなど5か国と不平等な条約を締結した。
これに激怒した松陰は幕府の重臣の暗殺を計画。
その事が発覚し安政6年10月27日松陰は処刑されてしまったのだ。
実は死の間際獄中で松陰は門弟たちに最後の教えを残していた。
幕府や藩の役人ではなく在野に埋もれた優れた人材草莽たちこそがこれからの時代を変える。
日本を外国から守るためには身分を超えて一つにまとまる必要がある。
それが松陰の理想とする国家像だった。
松陰の教えは門下生たちに引き継がれた。
その証しが松陰の墓に刻まれている。
幕府に処刑された松陰は逆賊。
罪に問われる可能性があるにもかかわらず久坂たち門下生は墓に名前を刻んだのである。
自分たちはこうだというのを示したかったようですね。
門下生は。
久坂は自分こそが草莽として教えを実践するべきと受け取ったのだ。
松陰の死から半年久坂は行動を開始する。
藩の許可を得て江戸へ遊学。
その傍ら全国各地から集まる攘夷派の志士たちと会合を開いた。
外国と対等に渡り合うための国家像について語り合ったのだ。
やっぱりこれから日本を変えていくにはもうやっぱ長州藩だけじゃ駄目だと思ってですねやっぱり横のつながりを作っていかなきゃいけない。
藩同士がですね。
まあそれがやっぱり今までの日本にないんですよ。
久坂は次々と草莽の同志を増やしていった。
会合の時常に携えていたのは松陰の掛け軸。
国のために命をささげた志士の教えを広めていった。
このころ久坂が松陰の実家に送った手紙が残されている。
「松陰先生の遺墨。
書簡でも結構です。
関係ないものでもお送り下さい」。
「先生の遺墨はたちまち仲間に奪い去られてしまいました」。
「手紙の切れ端でも構わないほどの人気です」。
まあこの人を使えばいろんな全国の藩の同志たちを感動させる事ができるというような事に気付き感動させてネットワークを作る事ができるという…薩長同盟の立て役者である坂本龍馬。
彼もまた久坂に感化された草莽の一人だった。
生前久坂が龍馬に託した手紙が残されている。
「草莽の志士が結束して行動する以外には方法がない」。
「土佐藩も長州藩も大義のためには滅んでも苦しからぬ事と存じます」。
江戸で草莽の仲間を増やした久坂は松陰の死から2年後政治の中心地京都へと上った。
目指すは朝廷。
幕府よりも強い朝廷の権威を使って開国の方針を撤回させるという壮大な計画だった。
久坂が目をつけたのは攘夷派の公家三条実美。
幕府に対して開国の方針を撤回し攘夷の決行を促す建白書を書かせようと考えた。
この計画を可能にしたのが久坂がこれまで培ってきた他藩とのネットワーク。
長州薩摩土佐。
3藩合同の請願書を提出。
説得に成功した。
2か月後朝廷から幕府に一刻も早い攘夷の決行を促す建白書が渡された。
朝廷の権威の前にはなすすべがなかった幕府。
翌年5月10日に攘夷を決行すると宣言した。
松陰の遺志を継いだ久坂たち草莽の志士がついに国を動かした。
迎えた攘夷決行の期日。
放て〜!
(砲声)長州藩は関門海峡で外国船への砲撃を開始。
全国に先駆けて攘夷を決行した。
この時久坂玄瑞24歳。
禁門の変の1年2か月前の事である。
磯田さんまず大前提としてですねこの長州の目指した攘夷久坂の目指した攘夷というのは一体何だったんでしょうか?外国に要するに日本は荒らされてしまうという恐怖感が強い訳ですね。
今と違って外国人が本当にエーリアンぐらいに思ってますから入ってきたら大変な事になると思っている訳ですよ。
だけど幕府はそれですぐやってくれないから人気が落ちる。
ところが長州藩というのはみんなが恐ろしくて困っているところを速攻やろうと。
今すぐやろう。
これは非常に人気を集める。
この流れの中で政治をやっていこうと。
こういうふうに思う訳ですね。
う〜んなるほど。
さあという事でVTRにもご出演頂きました一坂太郎さんにスタジオにお越し頂きました。
一坂さんこの時の久坂の行動というのはどういうふうに分析されますか?当時はやっぱり…だから全て藩で物事を考えていくって藩で動いていくっていう考え方それで政治運動をやってる訳ですがそれをそうじゃないんだよと。
横でつながっていこうよというそれを現実的なものとして政治の力としていったのはやっぱり久坂玄瑞でそういうところでは久坂玄瑞という人は何かこう…だからうまいのは吉田松陰という自分の先生これをシンボルにしていくんですね。
そういう運動の。
吉田松陰というのは非常に純粋でまあ過激ではありますけどそういう善悪を超えて純粋に国の事を思って行動した。
そして処刑されていった人である事は確かなんですね。
そういう人ですからやっぱりほかの藩でも受け入れられやすいんですよ。
こんな人がいたのかと。
こんな真っ白な無私無欲でひたすら日本の事を考えて外圧に抵抗しようとした人間がいたのかというような事でもうどこの藩行っても松陰がウケるんですね。
うまいやり方ですね。
吉田松陰像って私たちがよく目にするあれを描かせたのも実は久坂だった…?そうです。
吉田松陰が安政の大獄で連座して江戸に送られてしまってもうお会いする事はできないかもしれないという時に松浦松洞という門下生に描かせたものなんですね。
ただあれあんまり似てなくてあんなにキツネ目ではなくて実際の吉田松陰は先代の圓楽師匠に似てたんですよ。
でも何か随分老けてますよね?30ぐらいで亡くなったにしては何かおじいさんっぽい肖像で…本当にはどうだったんですか?
(齋藤)もうちょっと目がぱっちりっていう事ですかね。
もうちょっとハツラツと…。
弟の写真が残ってましてねそれが松陰に最もそっくりだったっていわれててやっぱりそっくりなんですよあんなツリ目でですねこうやたら長い顔で鼻筋が通っててまああんな顔してたんじゃないかとは思いますね。
もし意識的に利用したのなら…したんだとは思いますけどもすごい見上げたもんだなと思いますね。
したたかというかこれは…松陰っていうのはやっぱり行動を求めたと思うんですよ。
「君ならどうする?」っていうのを常に松下村塾で求めた訳でそこでは時局の判断というのが大事だったと思うんですね。
その時に松陰が亡くなってしまったのであればその死を利用してそれでその時の動きを大きくしていこうというのはまさに時局の判断力が育っていたという点では松陰の弟子らしい動きかなというふうには思いますね。
まあよく心理学で同一化っていうんですけどもまあもう本当に松陰と自分が一体化しようとしたのかもしれない。
というのは生い立ちを見てみると非常に久坂は若いうちに家族を亡くしてしまって父とか兄とかもいなくなり天涯孤独っていうふうになってますね。
そこで松陰に出会ってまあ何か無意識のうちには「あっこれだ!」みたいなねこれを取り入れて自分の中の父親とか規範にしていこうみたいな気持ちあったんじゃないですかね。
だから私が松陰なんだとか松陰は私なんだっていうこれは本当に誰も意識してなかった事だと思いますけどもそういう事もあったのかもしれないですよね。
私は逆だと思いますね。
逆?死んだ松陰が久坂玄瑞を動かしたと思いますね。
松陰という人は教えるのが好きなんですよ。
自分の言いたい事を伝えてほしい訳ですよね。
それで一生懸命考えて松陰は自分の妹を奥さんにしますよね。
同居させる事によって自分の言いたい事を伝える人間が欲しい訳ですよね。
その事に常に久坂という人はやっぱり悩んでる感じがするんですね。
これでいいのかなと。
ちょっと離した方がいいんじゃないかと。
何かたまにケンカしたりとかね。
もう絶交だとかね。
松陰がいよいよ亡くなる前に江戸へ行く時に結果的に彼どうしたかというとやっぱり医学へ戻ろうとしてる訳ですよ。
ところが松陰が10日前に亡くなる前に手紙を託す訳ですよね。
「一番頼りにしてるのは久坂だ」と書いてある訳ですよね。
それを見せられるとやっぱり引っ張られますよねまた。
結局ね松陰という人は久坂玄瑞をよく分かっててこうすればこういうふうに言う事を聞くという事が分かってて久坂を引っ張ったような感じがしますね。
やっぱり長身で押し出しがよくて顔もよくて声もよくて品があって勉強もできてっていうこの類いまれなる人に好まれる才能っていうのは僕は長州藩が朝廷を動かす時のものすごい武器になったと思うんですよ。
というのが当時の言葉でいう入説という入り説と書いて入説の天才なんです。
これは何かっていうと今で官僚がやるブリーフィングですよ。
政治家にこういうのがありますからこういう政策でお願いしますよと言って政治家の頭を自分たちの政策で塗り替えていく訳ですよ。
これがお公家さんにご説明に来る訳です玄瑞が。
それで入説を始めるといつの間にか公家は玄瑞の考えに染まるんですよ。
この入税の天才である事が重要でだから長がこの類いまれなる才能のために朝廷を操縦可能になっていくという…。
だから歴史動かせたんだと思うんですよね。
さあそんな久坂たちの活躍もありまして攘夷が行われる訳なんですけれども当時の政局というのは大変混迷にありました。
ここでその状況を整理してみましょう。
まずですね当時の政局を動かしていたのは朝廷の公家たち。
そしてもう一つが幕府とありますけれどもこれは一橋会津桑名が一緒になった勢力です。
更にですね従来政治とあまり関わりのなかった外様大名たち長州藩や薩摩藩などの雄藩が台頭してきました。
中でも長州は攘夷派の公家たちとつながりを持っていて朝廷を意のままに動かすほどの力を手に入れていました。
しかし事は順調には進みません。
久坂に日本を命運を左右する究極の選択が訪れます。
久坂たち長州藩が主導権を握り日本は攘夷の方向に進み始めた。
ところがその裏で勢いづく長州藩を危険視する声が上がっていた。
その急先鋒が時の帝孝明天皇。
孝明天皇は久坂たちの急進的な攘夷は圧倒的な戦力を誇る諸外国との戦争を招きかねないと恐れていた。
天皇の憂慮を知った会津藩。
同じく長州藩の活躍を快く思っていない薩摩や攘夷に反対する公家たちと手を結び長州追い落としの策を練り始めた。
そして文久3年8月18日未明ついに行動を起こした。
会津と薩摩の連合軍が長州藩を御所から閉め出したのだ。
世に言う八月十八日の政変である。
一夜にして政治の中心から排除されてしまった無念。
久坂は妻への手紙につづっている。
「さる18日の事残念なのは悪者ども数千人が禁裏を取り巻き長州藩が守っていた門をほかの藩に預けた事」。
一刻も早く攘夷を推し進めたい久坂は帝に嘆願しようと考えた。
しかし朝廷や幕府に何度頼み込んでも帝への嘆願が受け入れられる事はなかった。
久坂は長州藩の同志高杉晋作に決意を伝えた。
「度々面目なき失策つかまつる。
長州の復権のため死力をもって尽くす心積もりだ」。
やがて久坂たち長州は思い切った策に踏み切った。
京都に兵を率い武力を背景とした政治交渉だ。
幕末史を研究する…強引とも思える行動に出た当時の久坂の心情を分析する。
国家全体がその攘夷という方向に向かっていくように必死に頑張ってきた。
しかしながらある日突然自分たちがやってる事を否定されていく。
そういう中でなんとか自分たちがやってきた事をきちんと認めてくれと認めてほしいというような思いがある訳ですよね。
久坂は兵を引き連れて京都に向かった。
御所の西に位置する嵯峨南西の山崎南の伏見といった3つの要衝に分かれて布陣。
京都に残っていた志士たちも加わり軍勢はおよそ2,000。
そこに後日藩主の世継ぎ率いる本隊が合流する予定だった。
一方京都の守りは一橋家会津藩桑名藩を中心とした連合軍およそ2,500。
勢力は拮抗していた。
一触即発の状況の中久坂は必死に御所への交渉を繰り返した。
朝廷幕府諸侯の会議は紛糾。
「長州の嘆願を認めるべき」という声も上がった。
しかし孝明天皇は厳しい態度を貫いた。
八月十八日の政変は自らの意思であった事を伝え長州を入京させないように幕府に指示した。
長州藩が布陣を敷いてから3週間。
この間に幕府側は諸藩に援軍を求めた。
その総力はなんと2万人以上。
屈強な薩摩藩の援軍も駆けつけた。
幕府は盤石な態勢を整えた。
長州軍に伝令を通じてある情報が入ってきた。
「長州軍が18日中に撤退しなければ幕府の連合軍が総力を挙げて征討する」。
長州軍は瀬戸際に立たされた。
17日幹部20人ほどが集まり京都の南男山の石清水八幡宮で最後の軍議を開いた。
この時久坂には2つの選択肢があった。
その心の内に分け入ってみよう。
(久坂)今ある兵力をもって都に進軍。
帝に直訴する。
(久坂)帝がいる御所に入るための門は全部で9つもある。
幕府側はこれらの門全てを守らねばならず一つ一つは手薄になるはずだ。
我々としては一人でも御所に入り帝に直訴できればよい。
この時久坂には強硬策を後押しする根拠がもう一つあったという。
当時薩摩藩が記録した京都の情勢である。
「この度の戦争前には長州の評判よろしく百姓町人に至るまで望みを懸ける」。
開国後経済が混乱し不安に陥っていた町衆たちは攘夷によって再び安定した生活が取り戻せると信じていた。
万が一の時には兵糧を出す約束までしていたというのだ。
(久坂)とはいえ相手の兵力はこちらの10倍。
まともにぶつかれば全員討ち死にし帝への直訴はかなわない可能性が高い。
この時藩主毛利慶親の息子定広が援軍を率いて京都に向かっていた。
毛利家の血筋が上京する事には大きな意味があった。
実は毛利家は平安時代の平城天皇の息子を源にする家柄。
天皇に対する忠義もあつかったため諸藩とは別格だったという。
孝明天皇は例えば八月十八日の政変で長州勢とかいわゆる攘夷派の人たちを追い出したあともだけれども萩の毛利の親子はとても穏やかな人で問題ないと。
毛利家のナンバーツーというか世子が上がってくる。
もともとは天皇家の血筋であるというようなところからの接近というのは十分考えられない事もない。
(久坂)定広様の到着を待つべきだ。
定広様が連れてくる兵の数は7,000から8,000。
それだけの兵が加われば戦局を巻き返す事も十分考えられる。
ただ援軍が到着するまでには少なくともあと10日ほどかかる。
幕府から伝わる攻撃までの期限は明日いっぱい。
とても間に合わない。
到着までの時間を稼ぐ事ができるだろうか。
窮地に追い込まれた長州軍。
久坂に日本の命運を左右する選択の時が迫っていた。
ついに久坂にとって人生最大の選択の時がやってまいりました。
この選択にいく前にですねそもそも長州藩はなぜ京都から追放されてしまったのかという事なんですけれども。
本来久坂は横のつながりを大事にして土佐藩あるいは薩摩藩なんかと一緒に攘夷を働きかけて動かしてた訳ですよね。
ところが長州がどんどんどんどん突出していく。
もう朝廷と強い絆を持っていくっていう事にやっぱり取り残されていくほかの藩にしてみれば「あれ?一緒にやってたんじゃないの?」っていう事になってやっぱこう長州に対する嫉妬心というのが非常に強く出てくる。
やっぱり久坂なんていうのはもうどんどんどんどんすごい力を手に入れてですね突っ走っていった時にもう周りが見えなくなってたんじゃないかなというような節がありますよね。
やっぱ久坂の最大の失敗はね孝明天皇へのラブコールが本当に裏目に出ちゃった事ですね。
要するに長州は攘夷やれって言われたらどうやってやるかっていうとこれは幕府に命令できるのは孝明天皇だけなので孝明天皇をまずデモンストレーションさせる訳ですね。
賀茂神社と石清水神社に御所の中から画期的な事ですけど連れ出して大行進をやってそれでみんなに見せつけてこれで攘夷をやるんだというふうに幕府に命令させると。
幕府は聞かないでしょ多分。
聞かなかったら外国軍と同時に幕府とも戦うっていうような事まで言いだす訳ですよ。
それが孝明天皇の耳に入ったらもう目真ん丸くする訳ですよ。
もう長州は追い出した方がいいと。
久坂たちを追い出してもらわないと自分はどっかへ拉致されてしまうと。
こういうふうに思うようになる。
この恐怖感があって失敗したんだと思うんですよね。
なるほど。
それでは最後の軍議の場での久坂の選択にまいりたいと思います。
まず香山さんどちらでしょうか?私は慎重策を選びたいと思いますね。
やっぱりここで強硬にいってしまってそれで負ける敗北なんていうふうになってしまったら本来の目的である請願とかあるいはもっと言えば攘夷っていう事自体もおぼつかなくなってしまうという久坂が今まで大事にしてきた大義っていうものを全部ぶち壊す可能性もありますしここはなんとか時間稼ぎをして慎重にいってほしいなというふうに思いますね。
私は強硬策でいきたいと思いますね。
こういうふうな事態になった責任は久坂自身にある訳であって彼はやっぱりその責任を取るべきだと思うんですね。
本来の目的である攘夷をするそのものが目的である訳だから忠義を尽くすためにここは行くというふうに考えてしかるべきではないか。
私はまあ強硬策をとりたいと思いますね。
といっても「私が」というよりは吉田松陰先生だったら多分強硬策をとっただろうという事なんですけれども。
この場合あまり慎重にするよりは単独行動で強硬策をとるというか…。
藩の中で全体で団体行動をするのではなくて例えば丸腰でふんどし一丁になって直訴状を天皇に届けると。
丸腰の自分を斬れるものなら斬ってみろと。
自分は正々堂々裸一貫でこれを届けたいんだというふうにもっていく。
そこでもし捕まって死罪になったとしてもその死が果たしてマイナスかというとそれは死が作品化される訳ですよね。
そうだね。
松下村塾って死の作品化を最もやった集団ですよね確かに。
「どう死を輝かせるか」というのがテーマですからね。
僕は2の慎重策なんですけど僕は久坂というのは政治家だと思いますからやはり政治家というのは戦争というのを行う時にやっぱり最後まであんまり諦めてほしくない。
それはやっぱりその彼が久坂玄瑞がですねずっとやってきた事というのは藩とかあるいは公家たちにいろいろと自分たちの立場を説得して分かってもらうように活動してきてですねそういう事をず〜っとチャンネルを使ってやってきた訳ですからそれを一気に断ち切って何か行動を起こすという事をちょっとしてもらいたくないんですね。
さあそれでは久坂の選択ご覧下さい。
石清水八幡宮で開かれた最後の軍議。
紛糾する幹部たちを前に久坂が選んだのは慎重策。
こちらから手を出せば朝敵になってしまいます。
一旦は幕府の命令を受け入れ定広様の到着を待つべきです。
しかし長州随一の武勇を誇る長老格の来島又兵衛が真っ向からあらがった。
若殿が到着する前に目の前の敵を排除する事が武士の務めである。
強硬策を主張した。
それに対して久坂は涙ながらに訴えた。
今攻めても援軍はなく進軍の準備も十分ではありません。
機が熟するのを待つべきです!来島は全く聞き入れなかった。
この卑怯者!医者坊主に戦の事が分かるものか!もし命が惜しくて躊躇しているのならここにとどまっておれ!烈火のごとくほえる来島に押される幹部たち。
そして最年長の真木和泉が最終判断を下した。
来島君に同意す。
久坂の主張もむなしく長州軍は強硬策をとる事となった。
午後長州軍は出陣の準備を始めた。
近年当時の事を記録した石清水八幡宮の神官の日記が発見された。
「未の刻」今の午後2時ごろ「三の鳥居辺りでホラ貝を吹き鳴らした」。
「その姿は勇ましく美しかった」。
長州軍は山頂に位置するこの境内に本陣を構えていた。
御所があちらの辺りになるかと思います。
当時はそれほど騒音もなかったでしょうからこちらの山の上で鬨の声を上げたりすれば軍勢がこれから出発するんだという事がかなり遠くの方まで確認できたのではないでしょうかね。
戦うと決まった以上たとえ敵が10倍の数であろうと必ず突破し天皇に直訴する。
久坂は覚悟を決めた。
そして7月19日未明長州軍は御所に向けて進軍を開始。
禁門の変が始まった。
ところが三方の兵の連係がとれていなかった長州軍。
伏見から北上する軍勢は予定より遅れて出発。
途中で撃破されてしまう。
西の嵯峨方面からは来島又兵衛率いる軍勢900人が進軍。
御所と公家屋敷を囲む禁門の一つ蛤御門まで攻め入った。
そこを守っていたのは長州の仇敵会津軍。
来島隊は鬼気迫る勢いで会津軍を攻めたてた。
その時会津軍に援軍が駆けつける。
西郷隆盛率いる薩摩軍だ。
来島は薩摩の銃弾に撃ち抜かれて戦死した。
隊長を失った軍勢は蛤御門の前で激戦を繰り広げるも圧倒的な兵力を前に敗走。
総崩れとなった。
残る久坂たちの軍勢は長州の敗色が濃くなった頃目的地であった堺町御門にたどりつく。
そのそばには攘夷派の公家の一人鷹司家の屋敷があった。
久坂はそこに駆けいった。
お願いします!お願い申し上げます!この争いは我々の本意ではございません。
我々は嘆願のために参りました!久坂は鷹司の裾にすがりつき天皇への直訴の計らいを求めた。
しかし巻き添えを恐れる鷹司にその声は届かなかった。
やがて幕府軍に囲まれた鷹司家の屋敷に大砲が撃ち込まれ火の手が上がった。
屋敷から上がった炎は北風にあおられて次々に燃え広がった。
激しい鉄砲の音にちなんで後にどんどん焼けと呼ばれた大火は京の町の2/3を焼き尽くしていった。
もはやこれまでと悟った久坂。
責任を負うべく自らの命を絶った。
25歳の志士は炎の中に散った。
久坂の選択は慎重策。
ただし軍議は強硬策に決定したというものでした。
香山さんはいかがですか?かわいそうだなと思いますね。
何か本当にねこれまでせっかく年齢とか身分とかあるいは藩っていうものに縛られずに縦社会から自由に個人として能力を発揮してきた久坂が最後の最後にやっぱり最終的には熱い人に押されてしまってそれでのまなきゃいけなくなって最期散っていくという何かすごくこうちょっといろんな会社とか組織の事とか思ってしまうようなね何かやるせない感じがしながらちょっと見てましたけども。
何かこうキャプテンの悲劇って感じがしますね。
チームにはキャプテンというのが大体いますよね。
みんなのチームの人望を集めてそして行く。
でもそれは合議によって決まったらキャプテンってのはそれに従うっていう事もあるんですね。
久坂はどちらかというとそういう民主的なキャプテンだったような感じがするんですよ。
だから自分としては慎重策でいきたいけどみんながそう言うならじゃあやろうと。
僕は「慎重が」と言いましたけども当時の久坂が何で…そんなに慎重論をそこまで通したかったのかなというのがちょっと何か見えないところがあって本当に来島にそう言われてコロッと彼も折れてしまったのかな?この人ねそんな事言われてめげるような人ではないような気もするんですけどね。
ちょっとねこの辺がまだ僕は分かんないところです久坂の。
香山さんはこの時久坂はどういう葛藤を持ってたと思いますか?もしかするとそれこそこれまで父もなく育ってずっときた中で年上の人が熱くなるとかっていうところをもしかしたらあんまり見てこなかったのかもしれないですよね。
そういうものにぐっと迫られてしまった時に何かこうこれまで見た事もなかったような熱いものを感じてしまって思わぬ方に自分が転んでしまうとかそっちにつながってんのかななんていうふうにもちょっと思いましたね。
なるほどね。
そこにつながってくるっていうのは…。
来島又兵衛っていうのはまさにあの時のあの当時の長州の最大公約数なんですよ。
燃えてるんですよね攘夷に。
それも感情的な攘夷論なんです。
武器をどうして性能をどうして近代化をどうしてとか関係なしにとにかく夷狄を払うというその感情的な攘夷論の中心的な人物ですよね。
こういう局面を作ったのはまあ非常に言いにくいですが久坂なんですよね。
この年の5月に実は楠公祭っていうのを山口でやってるんですね。
何ですか?楠木正成の祭り。
(一坂)あれは「太平記」であの時代言われていたのが要するに負けると分かってたって足利尊氏の軍勢と後醍醐天皇の遺志を報じて戦って負けて亡くなったんだと。
そういう人たちに自分たちを長州は重ねてもう酔っちゃってるんですよ。
できるかどうかじゃないんです。
やろうとする行為そのものが重要である。
それが通る。
これは珍しいです。
藩の在り方としては。
ただこれは非常に…長期的な歴史の流れで見ると大きい事があって長州から過激で非現実な夢見がちな人たちが一掃される訳ですねこの戦いで。
夢みる夢子ちゃんのいない長州藩というありえない事態が起きる訳ですよ。
長州藩といえば人気はあるけど夢みる夢子ちゃんがたくさんいるという藩であったのにこれが消えたっていうのがやっぱり次の展開を早く回していくきっかけになったと。
なるほど〜。
さてこの禁門の変によって幕末の歴史は大きく動き始める事になります。
その後の歴史をご覧下さい。
禁門の変の失敗は長州藩を存亡の危機へと陥れた。
久坂が率先して行った攘夷の報復として欧米の艦隊が下関を攻撃。
長州藩は大敗を喫し異国の力を思い知る事となった。
翌月には朝敵となった長州藩を打ち倒すよう朝廷から幕府に征討命令が発令。
進軍してきた幕府軍に対し長州軍は全面降伏せざるをえなかった。
ここに久坂が進めてきた攘夷運動は終止符を打つ。
しかし松陰から久坂へと受け継がれた草莽崛起の志は消えてはいなかった。
久坂と並び松下村塾の双璧と称された高杉晋作。
足軽商人農民などを募った奇兵隊を創設し草莽崛起を実践した。
高杉たちは自分たちを打ち負かした外国から銃や軍艦を買い込み藩内の富国強兵を進めた。
そしてかつて久坂から草莽崛起の志を学んだ坂本龍馬が仲立ちとなり薩摩と手を結ぶ。
かつての敵同士ではあったが新しい日本をつくるには古い幕藩体制を壊さなければならないと意見が一致したのだ。
その後薩摩の後ろ楯を得た長州軍は最新鋭の武器で幕府軍を次々に撃破。
禁門の変の敗戦から結果的に長州藩は再起する事ができました。
改めてこの禁門の変というのは歴史的に見てどういうものだったんでしょう?重要な事は何かっていいますと日本の国っていうのがそれまでないんですよね。
江戸に住んでる人は江戸人ですし薩摩にいる人は薩摩人ですし長州は長州人ですよね。
藩がイコール国でしたからそれがこれから先明治維新になって…国全体をつなぐ一つのイデオロギーとして攘夷というのがここではっきりしてくる訳ですよね。
それのそのそもそものスタート点はどこかというとこの禁門の変だと思いますね。
硬い官僚機構とか権威づけ君主とかいうようなものの権威づけとかがなきところで何か政治運動が行われるという事のひょっとしたら元祖を江戸時代の終わり終焉をぶちかました人なのかもしれない。
逆に今こそ生まれる人だったのかなって気がちょっとしてるんですよね。
というのは世界で見てもアラブの春といわれてたようなジャスミン革命とかあと非正規雇用の若者たちがオキュパイニューヨークとかああいう活動をしましたよね。
あんなのも別に何か大きな団体とか組織があった訳じゃなくネットが今あるのでクラウドファンディングなんか使ってその時だけお金集めてその時だけそれに賛同する人が集まって…で終わったらもう解散っていうようなね。
それは一定の成果上げたりしてるので…。
ネットワークを大事にする…。
クラウドファンディング久坂だったんだ。
そうだよね〜確かに。
一応消えちゃうこの問題一旦消えちゃうんだけれども何かその要素みたいなものはほかのところへ流れ込んでいってまた別な動きが出てくるという…。
もしこの21世紀に彼がいたとしたら彼は龍馬に言いますよね藩は潰れてもいいんだと。
大義さえあれば苦しからずだと言ってますよね。
もし求めるイデオロギーが世界平和という事であるならば世界平和のためにもう国はいいじゃないかというような事を言うような人物になったかもしれませんね。
ならば我々はちょっとその辺は学ぶべきだと思いますね。
あまり日本人という事にこだわらないでもっと視野を広げる必要ってあるかもしれませんね。
それに連なるものとしてやっぱり外交が日本人は下手だっていわれます。
何で下手なのかっていうとやっぱりチャンネルを大事にしない。
持とうとしない。
久坂のやろうとした事っていうのはチャンネルをつくる外交ですね。
だから何かね日本人の外交下手を何かこう久坂という人をいい意味でも悪い意味でも参考にして変えていく事ができないかなと。
外交のやり方をですね。
そういう気がしますけどね。
なるほどね〜。
私も大学生教えてるのでね生き方を学ぶっていう時に大学生に伝えるんだったらという観点で言うと…ミッションパッションハイテンション?面白いな。
使命感っていうのが人を元気にすると思うんですよ。
それがミッション。
あとパッションですね長州藩全体が持ってたような情熱それを凝縮したのが久坂。
まあ時代全体もハイテンションですけれどもその中でもかなりハイテンションだったと思うんですね久坂というのは。
モチベーションも高いですしね。
そうなんですよね。
まあ割とおとなしめの学生さん真面目ないい学生さんが増えてるんですけどこのミッションパッションハイテンションが入ると急にエネルギーの蓋が開くようなところが今の若い人でもあるんですよ。
だから僕はそこをかきたてるような授業を心掛けているのでそういうエネルギー自体を学びたいというかね。
確かにエネルギー本当にある人だったんでしょうね。
25年のたったの生涯ですよね。
歴史の表舞台にいたのは恐らく6年ぐらい。
それで長州の萩のお医者さんの子どもで誰も彼にそういう事やれと頼まなかったのに江戸時代を終焉させちゃった訳ですよね。
だから久坂のようにこうある程度人間の圧っていうんですかね物事に対する時の圧や情熱を…先ほども出てましたけど持ってれば誰でも歴史はひょっとしたら動かす事ができるのかもしれないというふうに思いましたね。
僕今ね歴女で一番歴史が好きな女性で人気があるのは土方歳三さんだったりするんだけど本物の人物を目の前で歩かせてその姿を見たら間違いなくみんな久坂玄瑞…人気一番になると思うんですよ。
まあそういう人物を今日は見たという事です。
確かに。
(都美姫)奥は私が守る。
(銀姫)女の戦は美しゅうなければ。
2015/07/23(木) 02:15〜03:15
NHK総合1・神戸
英雄たちの選択「久坂玄瑞と禁門の変〜江戸時代を終わらせた青年志士〜」[字]
京の都の3分の2を焼き尽くし、幕末動乱の火ぶたを切った「禁門の変」。大事件を引き起こした久坂玄瑞の苦渋の選択に迫る。“天下の英才”は、なぜ御所に刃を向けたのか?
詳細情報
番組内容
京の都の3分の2を焼き尽くし、幕末動乱の火蓋を切った「禁門の変」。大事件を引き起こした久坂玄瑞の苦渋の選択に迫る。吉田松陰が「天下の英才」とまで賞した久坂は、長州藩のリーダーとして諸外国を武力で打ち払おうという攘夷(じょうい)運動に奔走。天皇への直訴を計画するが幕府軍に阻まれる。幕府側の勢力は長州軍の10倍以上。強行突破か、援軍を待つべきか?歴史家、精神科医、各界の専門家が、久坂の心境を読み解く。
出演者
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【ゲスト】一坂太郎,加来耕三,香山リカ,齋藤孝,【出演】古城春樹,【語り】松重豊
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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