70年前。
辺り一面が焼け野原だった国会議事堂。
焦土の中で始まった戦後政治には時代とともにさまざまな意見が寄せられてきました。
こうした声に政治はどう向き合ってきたのか。
物心両面における国力の充実に努力をひたむくべき時である。
日米対等の形において日本の自主性を明らかにする…。
日本はまだ永久に!永久に発展を続けなければならないのであります。
既得権にしがみつく自民党をぶっ壊したい!政権交代にお力をお与え頂きたい。
そして今政権を担う安倍総理大臣。
(拍手)政治はこの先どこに向かおうとしているのでしょうか。
「シリーズ戦後70年ニッポンの肖像」。
今月は今日と明日の2回にわたって戦後政治の歩みをたどります。
第1回の今日は終戦直後からいわゆる55年体制が固まっていった時代です。
(一同)万歳!60年前の結党以来戦後の大半で政権を担い続けてきた自民党。
自民党には吉田茂と岸信介それぞれを源流とする2つの路線がありました。
吉田やその後継者たちが優先したのは経済的な豊かさの実現です。
一方岸たちは真の自立のためには憲法改正が必要だと主張しました。
吉田と岸。
2人の間には知られざる思惑や駆け引きがありました。
政治は人々の声をどう受け止め何を形づくってきたのか。
豊かさと自立という保守の2つの潮流からひもときます。
こんばんは。
こんばんは。
今月は2回にわたって戦後の政治の模索を見つめます。
こちらは戦後に誕生した歴代の総理大臣です。
この70年で33人の総理が政権を担いました。
国民の声に向き合いながらそれぞれの時代に突きつけられた課題に取り組み時に激しい権力闘争を繰り広げてきました。
第1回の今夜は終戦から1960年代にかけての時代を中心に戦後政治がどのように形づくられてきたのか吉田茂と岸信介という戦後を代表しその後の政治の大きな潮流を生み出していく2人の政治家のせめぎ合いを見てまいります。
まずは戦後の混乱の中から憲法が制定され講和条約を結んで独立し自民党が結党されるまでの10年間です。
神奈川県大磯町にある吉田茂の邸宅跡です。
かつてこの場所を吉田の政敵といわれた人物が訪ねていました。
時の総理大臣岸信介です。
笑顔で語らう2人。
しかしこの時戦後政治の在り方を巡って熾烈なせめぎ合いを繰り広げていました。
戦後占領期間の大半で総理大臣を務めたのが吉田です。
焦土と化し餓死者が出るほどの食糧難だった日本。
ここに吉田内閣は発足しました。
吉田が最優先に考えたのは経済を立て直し復興を実現する事でした。
戦前外交官としてアメリカとの関係を重視し開戦に反対した吉田。
戦後はマッカーサーによる占領政策が続く中国力の回復に努めます。
本日日本国憲法を公布せしめた…。
まず吉田が取り組んだのは平和主義などを基本理念とする新憲法を広く国民に浸透させる事でした。
一方の岸。
吉田が政権の座にあった頃GHQによって東京の巣鴨プリズンに拘束されていました。
戦時中東條内閣の閣僚を務めた岸。
岸商工大臣。
戦時経済を指導し日米開戦の詔書にも署名しました。
GHQはその罪を問いA級戦犯容疑者として逮捕したのです。
巣鴨での拘束の日々。
岸は何を思っていたのか。
政治学者の原彬久さんは生前の岸に20回以上にわたってインタビューを行いました。
テープには岸の肉声が残されています。
収容から3年後岸は不起訴となり釈放されました。
国家の自立を目指す岸の路線はここから動き出します。
GHQによる公職追放で一旦は故郷に戻っていた岸。
この禅寺で開かれた地元の青年たちの集まりで自らの秘めた思いを語っていました。
当時青年団の幹部として会合に出席した吹田さんです。
この時岸が記した漢詩が今回見つかりました。
「鬱屈三年意始めて伸ぶ」。
巣鴨での3年を経て岸は再び政治の舞台に立つ決意を新たにしていました。
これに対して吉田は1951年歴史の晴れ舞台に立ちます。
サンフランシスコで講和条約を結び日本の独立を回復。
GHQによる占領に終止符を打ったのです。
平和条約を欣然受諾致します。
(拍手)講和条約と同じ日。
吉田は独立後もアメリカ軍の駐留を認める日米安全保障条約を結びます。
吉田はアメリカの軍事力に依存する事で軽武装のまま経済復興に集中できると考えたのです。
しかしこの時が吉田政権の絶頂期でした。
独立回復の前後から公職追放が解除された戦前の指導者たちが次々と政界に復帰します。
その中に岸の姿もありました。
吉田が率いる自由党に所属した岸。
次第に吉田への対決姿勢を鮮明にしていきます。
占領下でつくられた憲法は改正しなければならないと主張したのです。
自由党の岸信介氏が中心となり保守勢力の結集を誓いました。
岸がまず取り組んだのは自らの考えを実現するための基盤づくりでした。
当時の政治状況です。
社会党が議席を伸ばす一方保守勢力は3党に分かれていました。
岸は憲法改正のために保守勢力の合同が不可欠だと考えたのです。
この動きについて吉田は自らを倒す事だけが目的だと批判します。
主導権を争う吉田と岸。
この時世論は岸に追い風でした。
分裂した政党が政争を繰り返す中保守合同を望む割合が多くを占めていたのです。
岸は保守合同の意義を各地で訴えました。
当時吉田派の一年生議員だった後の総理大臣宮澤喜一。
吉田の進めてきた路線が自立を目指す勢いにのみ込まれていくのを目の当たりにしていました。
吉田は延べ7年にわたった政権の座を追われました。
その翌年の1955年岸らの主導した保守合同が実現。
自主憲法の制定を党の理念に掲げる自由民主党が誕生したのです。
(一同)万歳!万歳!万歳!戦後の10年間を見てきましたけれどもまさに2つの路線がしのぎを削る中での自民党の誕生でした。
スタジオにはジャーナリストの田原総一朗さんと東京大学名誉教授の御厨貴さんにお越し頂きました。
よろしくお願い致します。
(2人)よろしくお願い致します。
豊かさを目指す吉田と自立を目指す岸。
この路線のせめぎ合い田原さんどのようにご覧になられていました?とにかく日本は貧乏で何にもないんだから経済…経済を豊かにする。
これに全力を挙げると。
まあその自立とか何とか言うのはいるけどそんなものは全くリアリティーがないんだと。
これが吉田路線だったんです。
なるべく安全保障とかそういうものは安く上げると。
アメリカに頼って。
「金のかかるのはアメリカ持ちだ」って。
話してましたね。
(田原)言ってますね。
一方の岸はどういうふうに?岸さんは本音ではあの戦争は間違ってないと思ってるんですよ。
もう巣鴨で自分たちの事は全部総括をしたと。
だからこれからは政治運動やるんだと。
こうなるんですね。
この2人の違いを御厨さんはどういうふうにご覧になってますか?吉田という人はとにかくもともとが外交官の時代からですね戦前のもう間違いなく親英米派なんですね。
戦中はですからむしろ親英米であるという事で大変迫害される訳です。
そうですね。
一方の…。
一方の岸さんはまさにとんとん拍子でそれこそその統制経済というのをやるという事でまあ彼は満州にも行きましたし戻ってからも統制もやりました。
だからまさにその当時の政治の主流であってそれが戦後は今言った吉田さんと岸さんが立場逆転。
で岸さんの方はとにかく巣鴨プリズンに入ってる訳ですから。
先ほどのVTRにもありましたけどもいわゆるまあパージされた人たちが一斉に戻ってくる訳ですね。
パージの解除。
…と彼らはやはり岸さんとある程度同じように戦前の社会を目指す。
つまり戦後は行き過ぎたよねっていう感覚で当然吉田親米路線に対しては本能的に嫌なんですね。
なるほど。
2人の違いに日本国憲法の捉え方もあるかと思うんですけれどその点はどうでしょうか?当然だから憲法改正ですよ。
自主憲法をつくると。
あれはGHQが押しつけた憲法だと。
だから少なくとも日本人の手で新しい憲法をつくるべきだというのが岸さんですね。
吉田の場合はもうとにかく軍は…。
とにかくもともと嫌ですからね彼はああいう軍備が。
要するにアメリカにそこみんなお任せしましょうと。
これも思いっきりはいいんですよ。
やっぱりね吉田がよく言ってた負けっぷりをよくするという点から言うとこれは完全に負けっぷりをよくしてねアメリカに全部「どうぞ」っていう感じだったのね。
一方岸の方はとんでもないと。
これからいよいよ政界に俺がもういっぺん出ていく時にはこれを変えなきゃいけないっていう形。
それは信念に近かったと思いますねこれも。
自民党結党を進めた岸その2年後に岸内閣を発足させます。
自立路線を推し進めようと課題に取り組みますがやがて壁にぶつかっていきます。
政界復帰から4年で総理大臣に就任した岸。
最優先に取り組んだのは日米安全保障条約の改定でした。
それまでの安保条約はアメリカに日本の防衛義務がないなど岸にとっては不平等条約そのものでした。
アメリカ訪問の岸総理大臣はワシントンに到着しました。
岸はアメリカ側と交渉を重ね条約を改定する事について原則的な合意を取り付けます。
順風満帆に見えた岸。
しかし思わぬところから綻びが出始めます。
訪米翌年の1958年に提出された警察官職務執行法の改正案。
安保反対運動の取締りも見据え警察官の権限を強化するものでした。
当時復興は進んだものの人々にはまだ戦争の生々しい記憶が残っていました。
雑誌には「デートも邪魔する警職法!」などと特集が組まれ戦前の治安国家を復活させるものだとの反発が広がります。
警官職務法の改定案を巡って紛糾を続けた国会は…。
こうした世論を受け自民党内からも反対論が続出。
法案は廃案に追い込まれます。
反発の声は安保反対運動に波及し岸内閣の支持率は20%台に下落。
更に岸の政権基盤を大きく揺るがす事態が起こります。
派閥の領袖として閣僚を務めていた三木武夫や池田勇人らが辞任したのです。
池田の動きの背後にあったのは吉田の存在でした。
池田を自らの後継者として育ててきた吉田。
当時池田に宛てた手紙でも岸の安保改定を厳しく批判しています。
ところが閣僚辞任から半年池田は再び入閣。
一転して岸への協力姿勢を打ち出します。
そこには安保改定の後に自らの路線に引き戻そうとする吉田のもくろみがあったといいます。
池田と共に閣僚を辞任した三木武夫はこう証言しています。
1960年5月。
吉田の邸宅で撮影された映像です。
吉田の協力を取り付けた岸。
この10日余り後に安保改定に向けた動きを加速させます。
岸政権は安保改定の国会承認を得るため会期を延長し衆議院での単独採決に踏み切ります。
ところがこの採決がくすぶっていた安保反対運動に火をつけます。
反対運動の中心だった労働団体総評の幹部はこう述べています。
この日を境に国会を取り巻くデモの規模は一気に拡大します。
反対運動は全国各地に広がり1週間後に参加者は54万人に膨れ上がりました。
安保改定阻止国民会議の事務局次長を務めていた伊藤茂さんです。
採決の強行で運動の質が様変わりしたといいます。
これに対して岸は反対の声はあくまで一部だと強気の姿勢を示しました。
しかしデモに参加していた女子学生が死亡した事で反対運動は更に激化します。
午前0時新しい安全保障条約は自然承認されました。
岸は安保改定にこぎ着けたものの政権を維持する事はできませんでした。
岸が退陣表明をしたこの日一通の手紙が届きます。
その手紙が岸の地元に残っていました。
送り主は吉田でした。
こちらが元吉田茂首相から岸首相に送られた手紙になります。
そこには後継の総理大臣について念押しする吉田の言葉がつづられていました。
当時池田のほかに岸の弟である佐藤栄作の名前が後継候補として浮上していました。
こうした中吉田と岸は箱根で秘密裏に会談を行います。
会談の仲介者の秘書として同行していた清原淳平さんです。
人里離れたホテルの貴賓室。
まず仲介者が岸の後継に佐藤栄作を推しました。
すると吉田はこう切り返したといいます。
押し黙るように岸は同意したといいます。
自民党の総裁選挙で岸は池田を支持。
池田先生万歳!
(一同)万歳!後継の総理大臣に選ばれたのは吉田路線を継承する池田でした。
安保条約改定に取り組んだ岸。
政権は路線の異なる池田に引き継がれる事になりました。
田原さんはデモに参加して…。
(田原)毎日。
毎日!?はい。
「安保反対!岸は辞めろ」と。
でね実はこの大事な問題だけど僕はデモに参加して「安保反対!岸は辞めろ」と言いながら吉田安保と岸安保の違いなんか読んだ事もない。
知らなかった。
…で僕だけじゃないほとんどの人間は知らなかった。
だからこの安保改定は要するにアメリカの戦争に日本が巻き込まれる。
日本を巻き込むための安保改定だと思い込んでると。
だから反対と。
実はそうじゃない。
吉田安保っていうのはねひどいんでこれ奴隷安保っていうんですが。
とにかくアメリカが好きなとこ思いのままどこにでも勝手に基地がつくれる。
つまり占領体制の延長ですね。
岸が事前の相談…つまりアメリカが基地をつくるためには事前に日本と相談しなきゃいけない。
しかも日本を守る義務がある。
…で安保は10年だと。
つまり明らかに改善したんですよね。
よくしたと。
いいですか?岸さんは本当にやりたいのは憲法改正だった。
それで彼はこの安保改正は国民に対するサービスで安保改正で国民の支持が上がりそこで選挙をやって…。
憲法改正。
憲法改正。
それでだからねあんなに大騒ぎになるとは岸自身が全く想像もしてなかった。
だからやっぱりね多くの国民の中にあったのはアンチ岸であってその反岸というのはもっとすると反戦前なんですよ。
これ一貫してそうですけども岸さんっていうのはやはりいくら国民国民とあそこで演説してますけど国民の何たるかとそしてその国民の何たるかの間をつないでいるメディアこのメディアに対してねこれ全く一顧だにしないところがすごくメディアにもあの強硬路線をそのまま出す訳ですよ。
岸は先ほどのビデオの中で大衆に追随して引き回されるんじゃなくて大衆のニ三歩前を行くのが政治家だと言ってましたよね?ただそれは岸流の言い方であって要するに自分たちの考えている考え方についてくるような要するに国民でなければいけない訳です。
岸の民主主義は基本的にはですね彼についてくる民主主義なのね。
そうだよね。
安保改定がこういう事になった事の意味というのはその後のやっぱり政治に大きな影響を…?
(田原)大きい。
だっていまだに憲法改正が行われてないんだから。
だから圧倒的にその2つがそれぞれせめぎ合っていたのが結局憲法改正路線というのはここで事実上は否定されてしまったと。
ですから1960年というのはこの2つの潮流のまさに分水嶺だったんですね。
さて岸の退陣後吉田の流れをくむ豊かさ路線が推し進められ日本は高度経済成長の時代に入っていきます。
経済成長を最優先に掲げた池田勇人。
子どもと対談したラジオ番組でその思いを語っていました。
池田のあとに総理大臣となったのは佐藤栄作でした。
岸の弟の佐藤は戦後最長の7年8か月にわたって政権を担い沖縄返還などを実現。
一方で憲法改正には消極的でした。
こうした中アメリカの雑誌に憲法改正に取り組まない自民党を批判した論文が発表されます。
執筆したのは岸でした。
この時期岸はある思いを抱くようになっていました。
かつて地元の寺で岸の決意に触れた吹田さん。
当時後援会の幹部として岸の思いを聞いていました。
1968年にはGNPが世界第2位になった日本。
国の調査では9割の国民が中流意識を持つようになっていました。
佐藤政権後の総理大臣たちも憲法改正を提起する事はありませんでした。
こうした中憲法改正を訴え続けてきた中曽根康弘が有力な総理大臣候補として台頭します。
80歳を越えても憲法改正の運動を続けていた岸。
中曽根に期待を寄せます。
これに対し中曽根は手紙でこう答えています。
しかし中曽根は総理大臣に就任してから僅か10日余りで憲法改正を封印します。
その理由について後にこう語っています。
経済成長の中豊かさ路線が自立路線を覆い尽くした印象がありますね。
田原さんは当時どういった豊かさの実感をお持ちでしたか?実は私はね結婚したのが1960年なんです。
60年にご結婚。
まさに池田内閣が発足した時なんですよ。
それで結婚した時は4畳半のアパートを借りてトイレもそれから風呂もなかった。
まず最初に買ったのが共働きですから小さな電気冷蔵庫。
腐りますからね買っても…。
それからしばらくたって女房が電気掃除機を買って…でしばらくたって電気洗濯機。
これがね我が家の三種の神器。
つまりね高度成長というか豊かになっていくのがね実際実感できたんだよね。
今田原さんがおっしゃったようにしかもそれが目に見えるように自分のうちの中で充実していく訳ですからこれでいや…自主憲法を制定するというような話は多分全く国民の話題にはこれは乗りません。
しかも本当にその…また戦前の話しますが戦前というのは本当に日本はもう戦時中なんか特に食えなかった訳ですね。
それがようやく食える日本になった訳ですね。
もうこれを大事にしようという保守的な感情もある訳ですね。
いわゆる自立を求めていく岸のような路線っていうのはこの時はどういうふうになっていくんですかね?もう完全に水面下だと思いますね。
水面下?水面下です。
だから逆に言うとこのVTRの中にもありましたけども岸さんがもう一度総理になりたい。
これが大きいんですよ。
だから総理大臣に本当に戻れるかどうかは別としてそのぐらいの気持ちで彼はず〜っと孤軍奮闘していく訳ですね。
岸が期待をかけたのは中曽根さんだったんですが田原さん中曽根さんにもインタビューを…?はい。
何度もやっております。
「あんたは風見鶏と言われてるぞ」と言ったのかな。
…で中曽根さん「だからいいじゃないか」と。
風も見ないでねこう行ったら危なくてしょうがない。
あっち見こっち見あっち見こっち見と。
それから「あんたは日和見だね」って言ったら日和見だからいいんだと。
日和見しないで船出たらね台風にやられてしまうと。
自分は風見鶏で日和見でだからこそ安全なんだと開き直ったんですね。
だから岸さんに憲法改正しろと言われてもやっぱり風見鶏だからしない。
しないんですね。
ハハハ。
今日は2つの流れを見てきた訳ですけれど日本政治にどういう影響をこれは与えていく事になるかまた私たちはこの戦後のここまでの歴史で何をくみ取れると思いますか?いや戦後ね全くゼロ状態になった日本が世界のやっぱり経済大国になれたっていうのはこれは吉田路線じゃないですか。
豊かさを目指す路線。
逆に言うとね戦争を知ってる世代は戦争は嫌だと。
とにかく戦争は嫌だと。
だからね憲法改正反対なんですね。
ところが逆に戦争を知らない世代がどんどん出てきたと。
若い世代に逆にね憲法改正日本の自立なんて事を言いだす人間がだいぶ出てきていますね。
間違いなく豊かさ路線というのが最終的にこの国を全部覆った訳ですけどもその中でやっぱりしかし岸さんがず〜っと考えていた事その憲法改正とそれからやっぱり占領時代っていうのを見直さなくちゃいけないっていう脈々とした一つの地下水脈っていうのは伝わっていく訳でこれは完全に絶たれた訳ではない。
そこがやっぱり一つのポイントであって豊か路線があってそこに自主憲法をつくろうってもう一つの路線がそこに隠れてあってですね。
共にどっちが顕在化してるかは別ですよ。
だけどそれが進んでいったという事は間違いない。
何か政治の根本を考えさせられるような気になりました。
さて明日はこのあとの時代豊かさ路線を主導した田中角栄とそれ以降の時代を見てまいります。
明日もどうぞよろしくお願い致します。
2015/07/22(水) 00:10〜01:00
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 −政治の模索−「第1回」[字][再]
“豊かさ”と“自立”のどちらを優先するのか。戦後の保守政治は、吉田茂と岸信介を中心とする二大潮流がせめぎ合ってきた。終戦直後からの政治のあゆみをみつめる。
詳細情報
番組内容
国土が焦土と化し、人々の生活が困窮する中でスタートした戦後政治。1955年に結党された自民党は、“豊かさ”の実現を優先するのか、それとも国家としての“自立”を優先するのか、吉田茂・岸信介という二人の首相に代表される二大潮流がせめぎ合いを続けてきた。番組では、新たに発掘した史料や関係者へのインタビューなどを通して、終戦直後から1960年代にかけての時代を中心に、政治のあゆみを見つめ直す。
出演者
【ゲスト】田原総一朗,東京大学名誉教授…御厨貴,【キャスター】三宅民夫,首藤奈知子,【語り】守本奈実
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 政治・国会
ニュース/報道 – 報道特番
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