「嫌われ松子」に見る、日本社会
前回述べた「日本的」なライフコースの例として、フィクションの中のヒロインをとりあげてみたい。山田宗樹氏の小説『嫌われ松子の一生』は人気作で、映画化(2006年、中谷美紀主演)され、さらにドラマ化(2006年、内山理名主演)もされた。才媛であったヒロイン松子の漂泊と死の物語である。
国立大卒の美人教師の松子は、些細な失敗から職場を追われ、転落の人生が始まる。巡り会った男性に繰り返し裏切られた彼女は風俗嬢にまで身を落とし、ついに罪人として服役もする。
晩年も幸福とは程遠く、河川敷の掘っ立て小屋に住んでいた彼女は、見知らぬ少年達に偶発的に殺害されてしまう。恵まれた環境にあった松子が運命に翻弄されたのは不運というだけではなく、周囲の期待に従順で受身の人生に甘んじてしまい、自ら新たな道を切り開こうとしなかったことが原因であった。
松子と対照的なヒロインが、アメリカの女流作家スー・グラフトンによる『アリバイのA』などの主人公、女探偵キンジー・ミルホーンである。孤児であったキンジーは、固定した住まいがなく、トレーラーハウスの中で育った。唯一の身寄りの伯母も十代で亡くなった。
日本の社会であれば、このようなキンジ―の来歴では否定的にとらえられることが多いだろうし、そのために本人も委縮してしまい、十分な能力が発揮できなくなるか、ドロップアウトしやすいと思う。
しかしキンジーは、投げやりになることはなかった。保険会社の調査員から独立したキンジーは、経済的には豊かとは言えない。それでも彼女は何事にもくじけないし、いつでも前向きだった。貯金はわずか、頼れる男もよそ行きのスーツも無いけれど、彼女は捨て鉢になることもなく好物のチーズバーガーを頬張り、中古の車でカリフォルニアの町を疾駆する。
松子にはなくキンジーが持っているもの、それは自分の人生を自ら決めようとする態度だ。預金通帳の残高がわずかしかなく、依頼人から手ひどく裏切られても、健康で体調がよく、家路までのガソリンがあれば、キンジーは幸福を感じる。一方で、能力があるにもかかわらず、松子は型にはまった生き方から外れると、どうしていいのか途方に暮れる。しまいには、自暴自棄となって道を誤るのと対照的である。
とはいっても、はみ出しものを嫌う日本では、キンジーのような生き方はたいていの場合は、受け入れられない。そうした日本の「空気」が多くの「嫌われ松子」を今でも生み出しているし、自らにない突出した能力を持つ個人を受け入れずに、バッシングを繰り返す素地となっているのである。
「日本人特有の病」があってしかるべし
これまでの連載で、日本社会の先進性と特殊性について述べてきたが、今回は単なる印象論に終わらずに、いくつか実証的なデータをあげてみたい。
医学は自然科学の一分野とみなされている。精神医学についても、同様である。これがどういうことを意味しているかというと、「人」という生物には、特殊性はないと仮定されているということだ。
つまり、日本人もアメリカ人もロシア人も、人種によって薬物の代謝速度などが異なることはあったとしても、人体は同じ化学物質で構成されているし、人種は違っても同じメカニズムで病気が発症するということである。
だから、医学的には、「日本人」だけに発症する病気というものは存在していない。精神科の分野でいえば、日本人特有の「うつ病」もないし、日本人特有の「引きこもり」もないことになる。
日本における自殺率が、今よりも高率であった当時のことである(もっとも、現在でも低下したとはいえ、決して低率ではない)。うつ病と自殺の専門家だと称する精神科医が、ジャーナリストとやり取りをしていた記録を読んだことがあるのだが、内容には納得のいかない点が多かった。
その当時、日本における自殺が世界の中で突出していることをふまえて、ジャーナリストは、「日本における自殺に、何か特徴的なものがありますか?」と質問をした。これに対して精神科医は、「自殺は自殺であって、どの国でも同じように起こるもので、日本人に特有なものなどない」と答えていた。
この「専門家」の答えは誤りであるだけでなく、偏見に基づいている。自殺のように、社会的な要因が大きい現象は、当然のことながら、純粋な科学的ファクターだけでは説明できるものではない。精神医学的な事象は、社会的な要因に重大な影響を受けることを考慮しなければ、正しい答えには行きつかないのである。
一言付け加えておくと、日本社会で自殺が高率であったのは、マクロ経済の凋落という外的な要因に加えて、中高年の男性における雇用の不安定さが加速されたことが関連しており、他国にはみられない状況が存在していたことが大きな要因であった(本来のテーマからはずれるので、この問題には、これ以上深入りはしません)。
リアルな現実における社会病理現象を見てみると、日本は「特別」な国であることは明らかである。良い点でも悪い点も、特別なことが存在している。おそらくこのことは、前述したように、日本がアノミー化した無機質の国であることと関連している。
学校の問題でいえば、いじめや不登校が蔓延しているのは、他国でも皆無ではないが、日本独特の現象である。思春期から中高年におよぶ引きこもりも重大である。自殺の問題はいまだに見逃せないし、過労死や過労自殺は、他の先進国にはほとんど存在していない現象である(良い点に関しては、文化的な内容になるが、それについては別に述べたい)。
世界で見ると、日本の子供は、孤独感が強く、自信がない
そうはいっても、こうした点については、簡単に納得はいかない人も多いかもしれないので、ここでは、実際のデータを引用しながら、いくつかの側面における「スペシャル」な日本についてみてみよう。
第一にあげられることは、際立った「孤独さ」である。
国連児童基金(ユニセフ)は、2008年に先進国に住む子どもたちの「幸福度」に関する調査報告を発表した。この調査は2007年に経済協力開発機構(OECD)に加盟している先進国の十代の子どもを対象としたものである。
調査内容は、「物質的な幸福度」「健康と安全」「教育の豊かさ」「家族と友人関係」「行動」「主観的な幸福度」の六つの大項目に分かれており、それぞれのいくつかの下位項目について質問をした。
すべての項目の平均点を指標とすると、もっとも幸福度が高い国はオランダであり、これに続くのはスウェーデン、デンマーク、フィンランド、スペインとなっている。日本はデータ不足のため、全体のランキングは示されていないが、かなり下位に位置することは確かである。総合的な「幸福度」は北欧諸国のランキングが高く、アメリカ、イギリスが低かった。
注目すべきなのは、次の点である。子どもの「主観的な幸福度」に関する項目の中で、「孤独を感じる」と答えた日本の15歳の子供の割合は29.8%と、対象国の中で第一位で、ずば抜けて高かった。日本に続くのはアイスランド(10.3%)とポーランド(8.4%)だった。もっとも低いのはオランダの2.0%だった。
このように、日本の子どもにおける「孤独さ」は、先進国の中で際立って高い。この点は、これまでに述べてきた社会的な「まなざしの欠如」と関連している現象であろう。つまり、子どもたちを見守り、同時に縛ることにもなる、目に見えない社会的なルールや、インフォーマルなコミュニティが、希薄となっていること示している。
その一方で、子供たちを縛る「規則」は数多い。けれどもそれらは管理的なきまりであり、あるいは学校社会のルールやネット上での約束事であり、子供たちの本質的な内面と結びつくようなものではない。
ここでは詳細は示さないが、小児科医の古庄らの調査においては、日本の子供は、他の先進国と比較したとき、際立って自己評価が低いことが示されている。つまり、日本の10代は、自分のスマホを持ち、新作のゲームに熱中し、ラインに精通していたとしても、その本質は孤独で自己に対する不全感が大きいのである。
数年前のことである。知人の社会学者が主宰する小規模の勉強会で、日本におけるうつ病と自殺をテーマに講演をしたことがあった。その中で、私はここに示したユニセフのデータを紹介したのだったが、ある全国紙の女性記者から、予想もしない拒否反応に合って驚いたことがあった。
このデータについて、新聞記者の彼女は、「そんなことがあるはずはない」と言うのであった。「データが間違っているに違いない、日本の子どもが、そんなに特殊なはずはない」これが彼女の言い分であった。
念のために言うと、このデータはユニセフのホームページにも掲載されている公開されたデータである。これまでにも、さまざまところで紹介されているものであり、内容的には間違いない。その女性記者が感情的に反発したのか理由はよくわからないが、その人物のジャーナリストとしての「感度」の低さに驚いたことを記憶している。彼女の頭の中では、日本の社会も教育も健全で素晴らしいものだという幻想があったのかもしれないが、そういうセンスの人がジャーナリストを名乗っているのは嘆かわしい。
データにはっきり出ている! 日本の若者は悲観的
幅広い年代のティーンエイジャーを対象にするとどうだろうか。
少し前のデータであるが、読売新聞は2003年に、中学生以上の未成年の青少年にアンケート調査を行った。対象は、全国の12歳(中学1年)から19歳までの男女5000人で、対象者は住民基本台帳から無作為に抽出されている。アンケートの回収率58.8%であった。
この調査の結果をみると、日本の十代の若者が全体として非常にペシミスティックな世界観を持っていることが伝わってくる。以下、2003年二月二十二日の記事より、結果の一部をお示しする。
「今の日本は、努力すれば、だれでも成功できる社会だと思うかどうか」――を聞いたところ、「そうは思わない」が75%で、「そう思う」(24%)を大きく上回った。「そうは思わない」は、高校生(78%)、大学・短大生(79%)で8割弱を占めるほか、中学生でも71%に上っている。
「日本の将来は明るいと思うかどうか」――でも、「暗い」が「どちらかといえば」との合計で75%を占めた。「暗い」は、成人を対象にした昨年10月の全国世論調査(62%)に比べて10ポイント以上も多い。
中学生の71%が日本の将来を「暗い」と予想しているが、同様の答えは、高校生、大学・短大生(各78%)、社会人(80%)など、上の年代ではさらに多い。
また、「日本国民であることを誇りに思う」――は、「とても」23%、「多少は」42%の合計で65%を占め、「誇りには思わない」(33%)のほぼ倍に上った。
ただ、「誇りに思う」は、成人対象の昨年10月調査(82%)と比べると17ポイントも少ない。また、中学生では、「誇りには思わない」(28%)が3割を切っているものの、高校生35%、大学・短大生42%と、上の年代ほど多い。
社会の現状に否定的、悲観的な回答が目立つ一方、家庭や個人の生活を大事にしようという若者は多い。「自分がどんな人生を送りたいと思うか」――を聞いた質問では、トップに「好きな仕事につく」69%が挙がり、これに「幸せな家庭を築く」(62%)が次いでいる。
以下、「趣味などを楽しむ」54%、「金持ちになる」32%、「人のためになることをする」30%――の順。これに対し、「有名になる」(15%)と「出世する」(14%)は2割を切っている。
さらに、最近の調査をあげてみよう。
内閣府は、平成25年度において、わが国と諸外国の若者の意識に関する調査を行った。その結果の一部であるが、「自分自身に満足している」という問にイエスと答えたのは、日本の若者の45.8%に過ぎず、欧米の若者の80%以上という回答と比較すると極端に低かった。
このように、多くの調査の結果は共通性が大きい。具体的に言えば、他の先進国と比較して、日本の若者は、「孤独で、将来への希望がなく、自己評価が低い」のである。
実は、このような点は若者だけではなく、成人に関しても同様のデータが得られている。
先進的で自由度の高いはずである日本社会において、そこに暮らす人たちはなぜこのようにペシミスティックなのであろうか。
近代化、都市化を進めてきた戦後の日本の歩みは、一方では、伝統的な社会を解体する試みでもあった。その作業は成功し、日本社会は先進国の中でもっとも現代的なものに変化することに成功したように思える。
だがこれは、当然ながら副作用を伴うものであり、社会のアノミー化をもたらした。伝統的な規範を意味する「強いまなざし」は失われ、従来からの宗教的感覚の希薄さは、規範の喪失をもたらした。
選択肢は無数に存在し、それを妨げるものはごくわずかしかないにもかかわらず、日本人は自分の人生を自分で考える訓練を受けていないため、何をしたらよいのかまるでわからないのである。ネットで暴走する不寛容な人たちは、このようなアノミー化の現れであるのかもしれない。
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