2012年正論5月号参照。作成日2012年10月07日。
中国が尖閣に対して強気に主張する歴史的な根拠は、実は日本人が主張したものが根拠だった。京都大学教授だった「井上清」氏が1972年に刊行した『「尖閣」列島-釣魚諸島の史的解明』です。井上氏は、それの序文で「尖閣列島は日清戦争で日本が中国から奪ったものではないか。そうだとすれば、それは第二次大戦で日本が中国を含む連合国の対日にポツダム宣言を無条件に受諾して降服した瞬間から、同宣言の領土条項に基づいて、自動的に中国に返還されていなければならない。それを今また日本領土にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか。」と書いている。
これは1971年12月の中国外交部の声明と重なる。中国が井上清氏の著書を利用していることが解る。尖閣諸島の漁船体当たり事件の直後、2010年9月15日、中国外交部の姜瑜報道官は「尖閣諸島は中国の領土」と強調している。井上清氏は①釣魚諸島は元々、無主地ではなく明代から中国の領土だった。②日本の尖閣諸島の領有が日清戦争の勝利による略奪である。この2点の実証が目的だった。
これと同じ様な見解は台湾や中国にもあった。しかし、日本人学者の研究ということで早くから中国語に翻訳されて、中国では大切にされている。尖閣諸島を中国の領土とした、井上清氏の見解には歴史的な正当性があるのでしょうか?
■中国側の主張の問題点■
井上清氏によれば、尖閣諸島を中国の領土としている根拠は、琉球国(沖縄県)に冊封使が派遣された明代、14世紀~16世紀と清代、17世紀~20世紀、尖閣諸島を航路の指標としていた事実にあるようだ。明代の航海案内書の「順風相送(1403年)」に、尖閣諸島の一つの「釣魚嶼」の名前が見えるからです。
中国も尖閣諸島が歴史的に中国の領土であることを言い張るため、明代以降、琉球国に派遣された冊封使たちの記録を根拠として利用してきた。陳侃「使琉球録(1534年)」、郭汝霖「重編使琉球録(1562年)」、汪楫「使琉球雑録(1683年)」、徐葆光「中山伝信録(1719年)」、周煌「琉球国志略(1756年)」、李鼎元「使琉球録(1800年)」、齋鯤「続琉球国志略(1808年)」、等々に尖閣諸島(釣魚嶼、釣魚台)が登場する。「中山伝言録」と「琉球国志略」には、釣魚嶼、赤尾嶼が描いてある「針路図」も付いている。このうちの「使琉球録」は久米島(沖縄県久米島町)を「すなわち琉球に属するものなり。」として、「使琉球雑録」は久米島と赤尾嶼の間を「中外の界なり。」としている。中国はこれらを根拠として久米島までを琉球領として、尖閣諸島を含む、赤尾嶼以西を中国の領土と言い張るのである。
■台湾の北限は■
2005年の秋、中国の古書市場で清代の「浮生六記」の逸文書とされる「海国記」が見付かった。この中に「十三日辰刻、魚釣台を見る。」との記述がある。中国側はこれを、尖閣諸島が中国の領土であった「確固たる証拠」としている。だけど「海国記」の記述を論拠にして尖閣諸島を中国の領土とするにも、正当性は無い。
「海国記」は元々、「浮生六記」の主人公が1808年、冊封使の齋鯤に伴って、琉球へ渡った時の記述である。冊封使の齋鯤は、嘉慶13年(1808年)閏5月上旬、「福州」(中国福建省)を出帆すると、「五虎門」、「鶏籠山(現在の台湾基隆)」、「釣魚台」、「赤尾嶼」、「黒溝洋」、「久米島(姑米山)」、「慶良間島(馬歯山)」を経て、閏5月17日の夜、那覇港に入港した。
▲「鶏籠城」は、台湾本島の北東部に位置しており、現在の地名では「基隆」付近です。
その齋鯤の文集である「東瀛百詠」の「航海八咏」には、「太平港(中国福建省福州)」から琉球国の那覇港に入港するまでが詠まれ、台湾付近においては「鶏籠山」(山、台湾府の後に在り)と題した、五言律詩を残している。齋鯤はその中で、台湾府の「鶏籠山」を「猶是中華界(猶これ中華の界のごとし)」としている。つまり、台湾府の「鶏籠山」が清朝の境界だということである。
「鶏籠山」を「猶是中華界」(猶これ中華の界のごとし)としている。
さらに船が琉球国に近付いて行くと、齋鯤は「姑米山(久米島)」を詠み、その表題の分註では「此山入琉球界(この山、琉球の界に入る。)」としている。つまり、「鶏籠山」と「姑米山」の間にある「釣魚台」と「赤尾嶼」は、必然的に清朝にも琉球国にも属していない「無主の地」であったことになる。
「姑米山(久米島)」、「此山入琉球界」(この山、琉球の界に入る。)としている。
「鶏籠山」を「中華の界のごとし」とする齋鯤の認識は、「航海八咏」に続く「渡海吟用西墉題乗風破浪圖韻」(渡海、西墉の乗風破浪圖に題するの韻を用いて吟ず)【写真1】の「鶏籠山、中華の界を過ぐ」という記述でも確認出来る。【写真1】の「鶏籠山、中華の界を過ぐ」という記述でも確認出来る。
では齋鯤は何故、台湾府の「鶏籠山」を「中華の界」としたのでしょうか?
清朝は康熙23年(1684年)、台湾を属領として、台湾府を置いた。その康熙年間に刊行された蔣毓英の「台湾府志」には、「北至鶏籠城二千三百一十五里」(北、鶏籠城に至る2315里)とありまして、康熙35年(1693年)刊の「重修台湾府志」【写真2】(高拱乾等撰)では、「北至鶏籠山二千三百十五里、為界」(北、鶏籠山に至ること2315里、界と為す)とされている。現在の「基隆市」付近にある「鶏籠城」と「鶏籠山」が台湾府の北限ということになる。齋鯤が「東瀛百詠」の中で、「鶏籠山」を「猶これ中華の界のごとし」として、「鶏籠山、中華の界」とした根拠はここにあるのです。「鶏籠山」を清朝の境界として、久米島を琉球の境界とする齋鯤の認識こそが「鉄証」であり、「海国記」の「十三日辰刻、釣魚台を見る」という記述は尖閣諸島が中国の領土であったとする「鉄証」にはならないのです。
これは「続脩台湾府志」の「台湾府総図」
「位置関係」
「重修臺灣府志(重修台湾府志)」
「台湾府志」
「北至鸡笼山二千三百一十五里为界,」(北至雞籠山二千三百一十五里為界)
「臺灣府志(台湾府志)」
台湾府の境界域は「台湾府志」所収の「台湾府総図」にも描かれ、清朝がそれを基に編纂した官撰「欽定古今図書集成」(1728年刊)に収めている「台湾府疆域図」【写真3】には、尖閣諸島は描かれてはいない。描かれているのは、台湾府の北限とされた「鶏籠山」までなのです。乾隆9年(1744年)に刊行された「大清一統志」【写真4】では、台湾府の北限は「鶏籠城」となっている。それの「大清一統志」の「台湾府図」にも、尖閣諸島は描かれてはいない。これは、「海国聞見録」(1793年序)でも同様で、尖閣諸島は台湾府の一部ではなくて、中国の領土ではなかったのです。
■中華民国も清朝台湾の領界を継承■
台湾が中国領に編入されるのは、清朝が台湾府を置いてからです。明代(1461年)に編纂された官撰地誌の「大明一統志」(「外夷」)では、福建省と台湾の中間に介在する「澎湖島」も「琉球国」の属領としている。清代に編纂された「大清一統志」にも、台湾を「古より荒服の地、中国に通せずして東蕃という。明の天啓の初、日本国の人ここに屯聚し、鄭芝龍これに附す。 その後、紅毛荷蘭夷(オランダ人)の拠る所となる」としてあり、初版の「大清一統志」では、この後に「日本に属する」の一文が続いている。清朝時代になって領有した台湾に尖閣諸島が属していなかった以上、明代の中国が尖閣諸島を領有してはいなかったことは、明らかなのです。
「北至鶏籠城[海?]二千三百十五里」(北、鶏籠城に至ること2315里)
▲乾隆版『大清一統志』、「古より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。明天啓(天啓年間・1621年~1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)の拠る所(所據)となる。属於日本(日本に属している)。」
▲「大明一統志」の「外夷」では、福建省と台湾の中間に介在する「澎湖島(彭湖島)」も「琉球国(琉球國)」の属領としている。「西蕃」は、明代から中華民国期にかけて、甘粛・四川・雲南地方の中国人が、隣接するカム地方(チベットの東部地方)のチベット人を指して用いた蔑称。
▲「続脩台湾府志」、「澎湖島」も「琉球国」。「澎湖島在琉球國」(澎湖島は琉球国)
この「鶏籠山」および「鶏籠城」を「台湾の北限」とする地理的認識は、中華民国時代に編纂された「皇朝続文献通考」(1912年)や「清史稿」(民国16年・1927年)でも、「大清一統志」を踏襲する形で継承されている。清朝を経て中華民国となっても、尖閣諸島は台湾の一部になることはなかったのです。
繰り返しますが、日本が編入する以前の「尖閣諸島は無主の土地」であったのです。中国には尖閣諸島の領有権を言い張るほどの歴史的な根拠、権原はありません。
2012年07月17日産経
「尖閣諸島」(沖縄県石垣市)のひとつ、「大正島」について、中国・明から1561年に琉球王朝(沖縄)へ派遣された使節、「郭汝霖」(かく・じょりん)が皇帝に提出した上奏文に「琉球」と明記されていたことが、石井望・長崎純心大准教授(漢文学)の調査で分かった。中国は尖閣諸島を「明代から中国の領土で台湾の付属島嶼(とうしょ)だった」と主張しているが、根拠が大きく崩れることになる。
上奏文が収められていたのは、郭が書いた文書を集めた『石泉山房文集』。このうち、帰国後に琉球への航海中の模様を上奏した文のなかで「行きて閏(うるう)五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地は赤嶼(せきしょ)(大正島)と名づけらる」と記していた。現在の中国は大正島を「赤尾嶼(せきびしょ)」と呼んでいる。
石井准教授によると「渉る」は入る、「界地」は境界の意味で、「分析すると、赤嶼そのものが琉球人の命名した境界で、明の皇帝の使節団がそれを正式に認めていたことになる」と指摘している。
石井准教授の調査ではこのほか、1683年に派遣された清の琉球使節、汪楫(おうしゅう)が道中を詠んだ漢詩で「東沙山(とうささん)を過ぐればこれ●山(びんざん)の尽くるところなり」《現在の台湾・馬祖島(ばそとう)を過ぎれば福建省が尽きる》と中国は大陸から約15キロしか離れていない島までとの認識を示していたことも分かった。
その後に勅命編纂(へんさん)された清の地理書『大清一統志(だいしんいっとうし)』も台湾の北東端を「鶏籠城(けいろうじょう)(現在の基隆(きりゅう)市)」と定めていたことが、すでに下條正男・拓殖大教授の調べで明らかになっている。
石井准教授は「中国が尖閣を領有していたとする史料がどこにもないことは判明していたが、さらに少なくとも大正島を琉球だと認識した史料もあったことが分かり、中国の主張に歴史的根拠がないことがいっそう明白になった」と指摘している。
●=門の中に虫。
▲中国・明代の『石泉山房文集』。赤線を引いた一節に赤嶼(大正島)が「琉球の境」と記されている=「四庫全書存目叢書」(荘厳文化公司)から。
(2013年1月21日14時36分 読売新聞)
▲中央の行に「此外溟渤華夷所共」、「此の(この)外の「溟渤(めいぼつ・大海)」は「華夷(中国から見て中国と諸外国)」の共にする所なり」と書かれている。
中国の明王朝の公式日誌「皇明実録(こうみんじつろく)」の中に、明の地方長官が日本の使者との間で、「明の支配する海域」が「尖閣諸島(沖縄県)」より「中国側にある台湾の馬祖(ばそ)列島までと明言」し、その外側の海は自由に航行できるとした記述を、長崎純心大の石井望准教授(漢文学)が見つけ、21日午前に長崎市内で記者会見して明らかにした。
中国は現在、尖閣諸島を約600年前の「明の時代から支配してきた。」と主張しているが、石井氏は記者会見で、「歴史的に見ても、尖閣を巡る論争は日本側の主張が正しいということが、この史料からわかる。」と語った。
石井氏が見つけたのは、江戸時代初期にあたる1617年8月の皇明実録の記述。沿岸を守る長官だった「海道副使(かいどうふくし)」(海防監察長官)が、長崎からの使者・明石道友(あかしどうゆう)を逮捕・尋問した際の記録で、皇帝への上奏文として納められていた。
それによると、この海道副使は明石に対し、沿岸から約40キロ・メートルの「東湧島(とうゆうとう)」(現在の馬祖列島東端・「東引島(とういんとう)」)などの島々を明示したうえで、“この外側の海を「華夷(かい)の共にする所なり」”とし、中国でも他国でも自由に使える海域だと指摘したという。「魚釣島(うおつりじま)」などからなる尖閣諸島は、中国大陸から約330キロ・メートル離れている。“(此外溟渤華夷所共)”
中国は、明王朝の1530年代に琉球に派遣された使者の記録をもとに、琉球の支配海域の境界は尖閣諸島の東側にある久米島と同諸島の大正島の間にあり、魚釣島などは「明の領土だった。」と主張している。だが、今回の記述により、「明の支配海域」は沿岸から約40キロ・メートルまでで、“尖閣諸島はどこの国にも属さない「無主地」だったことが明らかになった”、と石井氏は指摘している。日本政府は、尖閣諸島が「無主地」であることを調査・確認したうえで、1895年に日本に編入したとしている。
2012年12月27日時事ドットコム
▲中国外務省の外交文書「対日和約(対日講和条約)における領土部分の問題と主張に関する要綱草案」の原文コピー。写真右は表紙、同左は75ページにある「尖閣諸島」の文字。
【北京時事】沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐり中国政府が1950年、「尖閣諸島」という日本名を明記した上で、「琉球(沖縄)」に含まれるとの認識を示す外交文書を作成していたことが27日分かった。時事通信が文書原文のコピーを入手した。中国共産党・政府が当時、尖閣諸島を中国の領土と主張せず、「琉球の一部」と認識していたことを示す中国政府の文書が発見されたのは初めて。
尖閣諸島を「台湾の一部」と一貫して主張してきたとする中国政府の立場と矛盾することになる。日本政府の尖閣国有化で緊張が高まる日中間の対立に一石を投じるのは確実だ。
この外交文書は「対日和約(対日講和条約)における領土部分の問題と主張に関する要綱草案」(領土草案、計10ページ)。中華人民共和国成立の翌年に当たる50年5月15日に作成され、北京の「中国外務省档案館(外交史料館)」に収蔵されている。
領土草案の「琉球の返還問題」の項目には、戦前から日本側の文書で尖閣諸島とほぼ同義に使われてきた「尖頭諸嶼」という日本名が登場。「琉球は北中南の三つに分かれ、中部は沖縄諸島、南部は宮古諸島と八重山諸島(尖頭諸嶼)」と説明し、「尖閣諸島を琉球の一部」として論じている。中国が尖閣諸島を呼ぶ際に古くから用いてきたとする「釣魚島」の名称は一切使われていなかった。
続いて「琉球の境界画定問題」の項目で「尖閣諸島」という言葉を明記し、「尖閣諸島を台湾に組み込むべきかどうか検討の必要がある」と記している。これは中国政府が、尖閣は「台湾の一部」という主張をまだ展開せず、少なくとも50年の段階で琉球の一部と考えていた証拠と言える。
東京大学大学院の松田康博教授(東アジア国際政治)は「当時の中華人民共和国政府が『尖閣諸島は琉球の一部である』と当然のように認識していたことを証明している。『釣魚島』が台湾の一部であるという中華人民共和国の長年の主張の論理は完全に崩れた」と解説している。
中国政府は当時、第2次世界大戦後の対日講和条約に関する国際会議参加を検討しており、中国外務省は50年5月、対日問題での立場・主張を議論する内部討論会を開催した。領土草案はそのたたき台として提示されたとみられる。
中国政府が初めて尖閣諸島の領有権を公式に主張したのは71年12月。それ以降、中国政府は尖閣諸島が「古来より台湾の付属島しょ」であり、日本の敗戦を受けて中国に返還すべき領土に含まれるとの主張を繰り返している。
領土草案の文書は現在非公開扱い。中国側の主張と矛盾しているためとの見方が強い。
尖閣・2013年6月4日「八重山日報」
▲明朝廷の議事録「皇明実録」(国立公文書館所蔵、赤染康久氏撮影)
江戸時代初期に起きた薩摩藩の琉球国侵攻と併合に対し、当時の明国高官が「皇帝が大赦(赦免)を行った」と述べ、公式に容認していたことが、長崎純心大学の石井望准教授の調査で明らかになった。中国共産党の機関紙、人民日報は5月、「琉球の帰属問題は未解決」という論文を掲載したが、歴史的には400年前、明国が琉球国の日本帰属に同意しており、大勢は決していたことになる。
薩摩藩は1609年(慶長14年)、琉球国に侵攻した。石井氏によると、明朝廷の議事録「皇明実録」に薩摩の琉球侵攻と明国の反応について記述があり、日本の国立公文書館所蔵の写本で確認できる。
1617年(元和3年)、日本から福建省に渡航した徳川幕府の使者、明石道友に対し、福建省の海防と外交の担当者だった韓仲雍(かん・ちゅうよう)が、「日本はなぜ琉球を侵奪したのか?」と質問。明石は、薩摩の琉球侵攻は家康の代で済んだことであり、この件は薩摩を追究してほしい、と答えた。
韓仲雍は「汝(なんじ)の琉球を併する、及び琉球のひそかになんじに役属(えきぞく)するは、また皆、わが天朝の赦前(しゃぜん)の事なり」(日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことは、3年前の皇太后崩御時に明の皇帝が大赦を行った前の出来事だ)と発言。8年前の「琉球侵攻」は、皇帝による「大赦」の対象であるとして不問に付し、公式に容認した。
韓仲雍はさらに「まさにみずから、彼の國(琉球)に向かいてこれを議すべし」と述べている。
「みずから」は明とも日本とも解釈できるが、石井氏は「この問題は済んだことなので、明国も日本もそれぞれ勝手に琉球と談判しようという意味だろう。いずれにしても、明国が日本による琉球併合に同意していたことに変わりはない。」と指摘した。
石井氏によると、琉球国の帰属問題をめぐり、明国が公式に日本帰属に同意していたことを論じた研究はこれまでにないという。
石井氏は「明国は琉球人の案内によって使者が琉球に渡航していただけであり、琉球に援軍を送ることは不可能だった。高官が(琉球の領有同意を示す)『大赦』という言葉を使ったのも、なかば「メンツ」のために過ぎない。」と分析している。
尖閣・2013年6月5日「八重山日報」
人民日報に琉球の領有は未確定だとの論説が載り、世間を騷がせている。実質上はチャイナによる領有の主張である。彼らは常々「過去の朝貢」を強調している。
しかしそもそも過去のチャイナ人は自力で尖閣海域を渡航できず、琉球人の案内でやっと渡ったことが史料に歴々と書かれている。況や(いわんや)尖閣の先の琉球を領有することなど、形式上では可能でも、歴史と文化の実質上は有り得ない。
私は昨年来の尖閣研究の中で、「薩摩による琉球併合」に関わる一史実を見つけていた。大したこととも思っていなかったのだが、人民日報のお蔭で大したことになったので、五月二十六日に日本会議長崎主催の公開講演会でこれを公表した。明国の高官が日本の使者を訊問(じんもん)する際に、琉球併合に同意することを公式に言明し、更に皇帝にまで報告して、中央朝廷で記録したという事実である。
西暦1609年(慶長14年)、薩摩藩は琉球を併合し、以後琉球王に明国皇帝の臣下として「朝貢貿易を続けさせた」ことはよく知られる。「明国側は薩摩の統治を知り」、一時は朝貢を禁じようとしたが、やがて止むを得ず朝貢再開を許したことも、近年の研究で明らかになっている。
薩摩が琉球を領有してから七年後の西暦1616年(元和2年)、琉球国は明国に使者を派遣した。明国福建の巡撫(軍政長官)黄承玄はこれについて皇帝に上奏文「琉球の倭情を咨報するを題する疏(しょ)」(黄承玄の文集「盟鴎堂集(めいおうどうしゅう)」に収める)をたてまつって報告した。その中で黄承玄は、琉球が日本に編入され、日本の役人が統治していることを述べる。曰く、
「近年已折入于倭、疆理其畝、使吏治之。」
〔近年すでに倭に折入(せつにふ)し、其の畝を疆理(きゃうり)し、吏をしてこれを治めしむ〕
と。「折入」とは「編入」されたことを指す。畝を疆理したとは薩摩藩が琉球で検地を行なったことを指す。明国側は薩摩藩による検地まで認識していた。
ここまでは些事に過ぎないが、越えて西暦1617年(元和3年)、福建に日本の使者、明石道友が渡航すると、福建の海道副使(海防兼外交長官)韓仲雍(かんちゅうよう)がこれを訊問した。訊問記録は国立公文書館蔵の写本「皇明實録」(中央朝廷の議事録)の同年八月一日の條に見える。韓仲雍が「日本はなぜ琉球を侵奪したのか」と問うと、明石道友は供述して曰く、
「薩摩酋・六奧守、恃強擅兵、稍役屬之、然前王手裏事也。……但須轉責之該島耳。」
〔薩摩の酋・陸奧守、強きを恃み兵を擅(ほしいまま)にし、稍や(やや)これを役属せしむ、然(さ)れども前王(家康)の手のうちの事なり。……ただ須らく(すべからく)転じてこれを該島(薩摩)に責むべきのみ〕
と。薩摩が琉球を併合したのは家康の世で済んだ話であり、この件は薩摩を追究して欲しい、との意である。家康は前年(西暦1616年元和2年)に亡くなってをり、それを理由に言いわけめいた供述となっている。これに対し、韓仲雍は次のように諭告した。曰く、
「汝并琉球、及琉球之私役屬於汝、亦皆吾 天朝赦前事。當自向彼國議之。」
〔汝(日本)の琉球を併する、及び琉球のひそかに汝に役属するは、亦た(また)皆な吾が天朝(明)の赦前の事なり。まさにみずから彼の国(琉球)に向かひてこれを議すべし〕
と。これは昨今の「中華人民共和国」の主張に対して重大な意義を有する。一字一句を検討せねばならない。
(本稿で使用する正かなづかい及び正漢字の趣旨については、「正かなづかひの會」刊行の「かなづかひ」誌上に掲載している。平沼赳夫會長の「國語を考へる國會議員懇談會」と協力する結社である。)
尖閣・2013年6月6日「八重山日報」
「汝并琉球、及琉球之私「①役屬」於汝、「③亦」皆吾 天朝「②赦前」事。「⑥當」「⑤自」向彼國「④議」之。」
原文の①「役屬(えきぞく)」とは課税や兵役などを以て服属したことを指す。役属の主語は琉球であり、琉球が半ば主動的に日本の領土となったものと韓仲雍は理解している。②「赦前(しゃぜん)」とは皇帝による「大赦」の前を指す。「明史」によれば西暦1614年(慶長19年)、皇太后が崩御した際に萬暦(ばんれき)皇帝は天下を大赦した。日本(薩摩藩)が琉球を併合したのはその五年前なので「赦前」となる。即ち大赦の前に日本が琉球を併合したことを不問に付している。
③「亦(また)」とは、過去の家康の事だとの言いわけを承けて、明国側でも恩赦以前の事だと調子を合はせた語である。中華思想を原則とする明国だが、琉球を属国としていたのは形式だけなので、派兵して薩摩を討伐しようにも尖閣航路すら掌握しておらず、止むを得ず迎合したのである。中華思想なるものは虚構であって、歴史の現場に適用できなかったことが多々有る。その好例がこれである。
④「議する」とは前罪を追究するのではない。「赦前」の罪は議しないのが法であり、議するのはこれ以後の琉球領有についてである。⑤「自ら」とは日本を指すとも明国を指すとも見える。明国と解すれば、薩摩が現に統治している優先権に異を唱えず、「薩摩と別に自分で談判する」意となり、これ以後の両属関係を暗示している。しかしこの解には以下の不足が有る。
まず明国としては、これ以後の朝貢について上から命ずることは有っても、琉球と対等に議論する語気はふさわしくない。
次に⑥「當(まさに~すべし)」といふ助動詞は、自分がしようという場合にも用いられるが、韓仲雍が朝貢について自分で決定する権限は無く、中央朝廷が皇帝の名義で決めることである。しかし中央朝廷が「しよう」という不確定性の語気で諭告するのはふさわしからず、「する」と言い切るのが通常である。
また薩摩が現に領有しているのに咎め(とがめ)立てせず、明国が自分で琉球と談判するというのも通じにくい。
逆に「自ら」が日本を指すと解すれば、韓仲雍は日本による併合に完全に同意したことになる。しかし中華思想の語気では「汝自ら琉球と談判せよ」と命ずるのが通例であって、やはり「當」は語気が弱い。
私はどちらにも解してみたが、今一つ完全と言い切られない。そこで原文に忠実に、「この問題は自分で琉球と談判すべき事だ」と現代語訳すれば通じる。日本でも明国でも既に「前」の事だから、あとはそれぞれ勝手に琉球と談判しようという意である。
以上三解のどれを取るにしても、明国が日本による併合に同意していたことだけは等しい。それを日本の使者に対して言明し、中央朝廷にも報告したのである。この時は「台湾島」や日本との関係についてもまとめて報告したのだが、それに対する皇帝の返事は「確議して速聞せよ」(しっかり議論して速やかに報告せよ)であった。肯定的方向の返事である。少なくとも否定していない。
この記録は「皇明實録」及び黄承玄「盟鴎堂集」所収の上奏文に見えるほか、張燮(ちょうしょう、中国明代の文人)「東西洋考」や陳子龍「皇明經世文編」など、明国の二次史料の中にも見えるもので、朝野に反感を惹起(じゃっき・事件・問題などをひきおこすこと)しなかった。なぜなら琉球人の案内によってどうにか渡航して儀式を行なっていただけなのだから、明国が琉球に援軍を送ることは不可能であった。訊問中で「大赦」を理由としたのは半ば「メンツ」のために過ぎない。
以上の史事の周辺を論じた先行研究は幾つか有るが、日本の使者に向かって同意を示したことを論じた研究はこれまで無い。また「皇明實録」の通行複製本ではこの部分が省略されてをり、それが国立公文書館の写本に載っているのは、今度の新出史料だと言って良いだろう。「二次史料」と違って朝廷の「公式記録」である。(終)