戦争と平和——伝えたかった日本
主催:IZU PHOTO MUSEUM・一般財団法人日本カメラ財団
2015年7月18日(土)―2016年1月31日(日)
主催:IZU PHOTO MUSEUM・一般財団法人日本カメラ財団
2015年7月18日(土)―2016年1月31日(日)
戦後70年を迎える2015年、IZU PHOTO MUSEUMでは戦中・戦後の〈報道写真〉をテーマにした展覧会を開催します。ドイツの「ルポルタージュ・フォト」を移入して始まった日本の〈報道写真〉は、モダニズムの先鋭として発展し、日本文化を海外に紹介するために用いられましたが、戦争の激化にともないプロパガンダに変容し、占領期・冷戦期の情報戦にも一定の役割を果たしてきました。本展では名取洋之助・木村伊兵衛・土門拳・山端庸介・小柳次一・菊池俊吉・林重男ら日本の〈報道写真〉の担い手たちの仕事を中心に、国内外の雑誌や写真壁画、密着帖など1930年代から50年代にかけての貴重な資料約1000点をご紹介いたします。〈報道写真〉の戦前から戦後への連続性や国策との関わりをテーマに戦後70年特別企画として開催いたします。
[1]日本文化の紹介 後発の帝国主義国として国際舞台に登場した日本は、固有の文化と近代性を併せ持つ国柄というセルフイメージを対外的にアピールしようとしました。 1930年代には国際文化振興会や鉄道省国際観光局などが設立され、ドイツ帰りの名取洋之助をはじめ、木村伊兵衛や土門拳らが世界に伝えたい日本の姿を写し、写真集や雑誌、写真壁画の制作を請け負いました。 [2]プロパガンダ 満洲事変と満洲国制定、国際連盟脱退などにより国際的に孤立していった日本は、次第に国威発揚のプロパガンダに邁進し、欧米のみならず南方向けの広報なども行うようになります。〈報道写真〉の担い手たちも戦争の激化とともに国策と歩みを共にして、強く逞しい日本イメージを広める仕事を進めます。 |
左:『NIPPON』7号、日本工房、1936年 右:『TRAVEL IN JAPAN』3巻1号、国際観光局、1937年 [表紙構成:原弘、表紙写真:木村伊兵衛]日本カメラ財団蔵 左:『LIFE』1937年1月11日号 [表紙写真:名取洋之助]個人蔵 右:『FRONT』1-2号、東方社 1942年[表紙構成:原弘]日本カメラ財団蔵 |
海軍を撮影する木村伊兵衛、1941年、日本カメラ財団蔵
『FRONT』5-6号、東方社、1943年、日本カメラ財団蔵
小柳次一「斥候 岩山を行く友軍に所在を示す日の丸を付けて」1938年、平和祈念展示資料館蔵
[3]敗戦と占領期 東方社のカメラマンたちは東京大空襲や原爆投下後の広島・長崎の撮影を行いました。敗戦を迎えると国から仕事を請け負っていたカメラマンたちは仕事を失い、焼け残った機材を手に再出発の道を探ります。進駐軍向けのバイリンガル出版物や、占領下日本の民主性を謳い復興日本への観光誘致を図る写真を制作しました。 [4]冷戦期の宣伝戦 占領期を経て、東西冷戦が本格化した1956年にニューヨーク近代美術館から日本に巡回した「ザ・ファミリー・オブ・マン」展は、アメリカの対外宣伝機関USISも共催する世界巡回展でした。戦中に逞しい日本を演出した報道写真家たちはここで実行委員を務めて、唯一の被爆国としてのイメージを押し出しました。情報戦は戦後も続いており、〈報道写真〉はその中でも一定の役割を果たし続けたのです。 |
左:菊池俊吉「広島瓦斯(ガス)工場のタンクの影(ハンドル)」 1945年、個人蔵 右:山端庸介「長崎」1945年8月10日、日本写真家協会蔵 『LIVING HIROSHIMA』広島県観光協会、1949年 [表紙構成:原弘、表紙写真:菊池俊吉・林重男]個人蔵 |
〈報道写真〉の担い手たちの言葉 名取 洋之助 写真家は何時でも編輯者と読者と云ふ二重の要決を考慮せねばならないのです。 (「時評と考察 ルポルタアジユ写真のこと」『帝国工芸』1934年) 木村 伊兵衛 本当に日本を正しく理解させる為には、日本に於て或る程度不自然と思はれるやうなことを敢てすることに依つて、初めて先方に正しく理解させることが出来ると思ふ。 (谷川徹三・木村伊兵衛対談「写真と対外宣伝」『報道写真』1941年) 伊奈 信男 印刷化された写真によるイデオロギー形成の力は絶大である。 (「報道写真について」『報道写真に就いて』1934年) 林 謙一 殊に大東亜共栄圏のやうに十数種の人種、言語が交錯してゐると、文字や言葉では宣伝がなかなか困難であり、映画でさへアナウンスで困却してゐる。写真宣伝がなによりも真先きに飛出してゆかなくてはならない。 (「戦時に於ける報道写真の重要性」『アサヒカメラ』1942年) 土門 拳 僕達は云はばカメラを持つた憂国の志士として起つのである。その報道写真家としての技能を国家へ奉仕せしめんとするのである。 (土門拳「呆童漫語(三)」『フォトタイムス』1940年) 山端 庸介 写真機持つたら、フットボールを撮るのも重慶を撮るのも、そんなに気分は変らないですネ。カメラマンというものは写真機を持ったら写真のことばかりしか考えませんからネ。 (『アサヒカメラ』1942年) |
アメリカで大陸横断取材中の日本工房主・名取洋之助、1937年、日本カメラ財団蔵 情報局情報官・林謙一、1941年、日本カメラ財団蔵 日本工房スタッフカメラマン・土門拳、1938年頃、日本カメラ財団蔵 |
●関連イベント 【トークイベント】 ●「〈報道写真〉の亡霊」 7月26日(日):14:30–16:30 クレマチスの丘ホールにて 北島敬三( 写真家)× 白山眞理(日本カメラ博物館運営委員) ×土山陽子(パリ社会科学高等研究院博士課程)×松本徳彦(写真家)×小原真史(当館研究員)[五十音順] 定員150名、無料、申込先着順 当日有効の観覧券が必要です。 お電話にてお申し込みください。055-989-8780 ※このほかにも会期中トークイベントなどを開催予定。 ●学芸員によるギャラリートーク 学芸員が展覧会解説を行います。 毎月第3土曜日の14:15より約30分間 無料、申し込み不要。当日有効の入館券が必要です。美術館受付カウンターの前にお集まり下さい。 |
●関連書籍 ① 2015年7月平凡社より展覧会関連書籍『戦争と平和—〈報道写真〉が伝えたかった日本』が発売予定。 ② 白山眞理 著『〈報道写真〉と戦争:1930-1960』、吉川弘文館、2014年 |
評論家・伊奈信男(左)とプランナー・岡田桑三(右)、1930年代、日本カメラ財団蔵
G.T.サンの山端庸介(右)、19 4 1 年、日本カメラ財団蔵
東方社スタッフカメラマン・菊池俊吉、1940年代前半、個人蔵