内藤誠、『番格ロック』を語る vol.3
第2部
2-1
プログラムピクチャーについて
──プログラムピクチャーが量産されていた時代には、2本立て興行の添え物の低予算映画の方に新人があてがわれるため、そこから意欲的な作品が登場するというような現象が多くあったようですね。内藤監督もそのような状況から出発されたわけですが、当時の低予算映画はどのように製作されていましたか。
内藤:低予算っていうことでは、『番挌ロック』(1973)はそうではないけれど、僕のようにひとりでホン書いてひとりで撮ってるっていう監督は、流石の東映だって、あんまりいなかったはずですよ。だから『ネオンくらげ』(1973)だって『十代 恵子の場合』(1979)だって予算安ければ、まぁ好きなことやっていいよって言ってくれたからやったんだよね。
『ネオンくらげ』だって社長が、わけがわからないところがあるけど、予算も安いし、新人使うっていうし、どうせ添え物だからやりなさいっていう感じです。最初は音楽も担当してもらった三上寛のLPレコードから自分でストーリー作ってね。社長もなんだか分からんけども、ひとりでホン書いて撮るんで、安いんだから、オーケーしたって(笑)。それで試写を観て、「おお、これは続編だ!」って言えるとこがウチの社長のスゴイと言えばスゴイところというか。えっ、続編!?っていう感じがね。だけど、そう思うんなら、最初から、もうちょっと予算つけて、ライターも雇うから、ちゃんとやれって言えばいいのにね(笑)。続編なんかは、もう僕1本撮ったんだからって感じになっちゃって、やらないんですけども。同期の山口和彦が撮ったんだけどね。
僕が東映で撮った最後のプログラムピクチャー、『十代 恵子の場合』なんかもっと予算なくてね。東京都の麻薬追放のための「十代 恵子の場合」っていうパンフレットを岡田茂社長が読んだんだ。で、これを低予算で作れって。だからライターも雇えないからね(笑)。そのときは、みんな一生懸命やってくれるんだけど、疲れたって感じでしたね。だって風間杜夫だって殿山泰司さんだってみんな、テレビで付き合ってた人にちょっと出てくれってやってるわけだからね。それから自分が新人として抜擢した森下愛子を、今度は主演でやってくれとかね。そういう感じでやってると、末期は本当に疲れてきてね。やっぱり低予算映画もいくとこまでいったんだろうな。
──70年代後半のプログラムピクチャーの末期はやっぱりそういう感じあったんですね。
内藤:あったあった。まだ荒戸源次郎さんと自主映画やってるほうが楽だったな(笑)。だから『俗物図鑑』(1982)なんかを自主製作で予算500万円で作ってるとき、そんなに金がないとも思わなかった。出たいって言ってくれる人を集めてね。16ミリだけどキャメラマンは一流の阪本善尚だからね。楽ですよ。角川の大作が主流になってからB級は、本当に金がなくなった。添え物が『不良番長』の頃と比べると、予算なくなっちゃたんだ。B級映画っていうのが、本当にしけちゃったからね。
──60年代後半になりますと、例えばアメリカでもヘイズコードが解除され性や暴力の映画への登場の仕方が変化しますが、日本においても競合するかたちでどんどん映画は性と暴力を視覚・聴覚的な商品価値のあるものとして重視する方向へ進んでいったように思われます。特に東映の映画は今鑑賞しても実に過激だと思います。監督自身もその流れの中でデビューされたわけですが、その全体の流れをどう思われていましたか。
内藤:結局70年代の映画っていうのはね……映画というものは、セックスとバイオレンスが抜きがたい要素で、それをおさえつけちゃったら、貧弱なものになっちゃうと僕は思います。それはもう三島由紀夫が言っているとおりでね。それを無視したら成立しないですよ。特に僕らの時代の東映はそうですね。
そういう表現方法なんかとらなかったっていう時もあるけど(笑)。荒戸源次郎さんとこだとか、筒井康隆さんのお金で撮るときには、東映と同じ表現方法なんかとる必要ないしね。それはそれで、いいと思うんですよ。東映でも児童映画じゃ、そんなことしないんだから。それで同じ人が撮ったのかって批判されても仕方がない。児童映画もよく撮りましたからね。みんな生活抱えてるからっていうこともあるんだけど、嫌々撮ったものなんかないんだからね。基本的にはやる気になってやってる(笑)。映画の世界では、今の人もおんなじだと思うけど、膨大な仕事量をこなさないと、生き抜けないからね。よく働きましたよ。
──たとえば、当時、1969年に石井輝男さんが『徳川いれずみ師 責め地獄』をお撮りになられていた時に、東映京都撮影所で助監督から批判声明が出ましたね。「いわゆる"異常性愛路線"と呼ばれる一連の作品は、異常性、残虐性、性倒錯、醜悪性のみを強調拡大し、最早映画としての本質を失い、俗悪な見世物と化し、東映資本の厚顔無恥な金儲け主義の道具となり下がっている」というようなフレーズが挟まれている声明です(『石井輝男映画魂』[福間健二・石井輝男著、ワイズ出版刊]の200頁より声明が全文掲載されており、そこから孫引き)。そうした動きを内藤監督はどのように思われましたか。
内藤:もうそれはね、自由だと思ってね。僕が石井さんの助監督をよくやったとか、そういうのではなくてね。作家がやりたいんだから。そりゃあ実態はね、前貼りを貼ったりとか、具体的な作業をする人たちは、それなりの大変さがあったと思うけど。
僕だって、ラピュタ阿佐ヶ谷でやればR指定になるものを撮ってるしね。『ネオンくらげ』だとか。だけどそれは一生懸命それを撮ってたし。もっと石井さんがハードにやろうがどうしようが、それは立場はおんなじだからね。作家の自由だって今でも思っている。石井さんの京都時代の作品は、まぁ掛札(昌裕)さんがずっとホンやってたと思うけど、あの人に僕もホンを書いてもらったりしたくらいですからね。
京都の演出部の反対声明には僕は同調しませんね。小松範任なんかがそれについてはきちんと書いてるけれども。東京の監督は全員がなんの問題もなかったんじゃないですかね。
──では、この『番格ロック』という映画の企画というのはどういうところから始まったものだったのでしょうか。
内藤:僕がこの一作前に『ネオンくらげ』というのをやってたときの、寺西国光さんっていう、東映での僕の同期生がプロデューサーなんですけどね。一緒に演出部に入ったんだけど、プロデューサーにまわって、そっちで偉くなっちゃった人なんですけども。山内えみこを『ネオンくらげ』で初主演させたんだから、もう1本やろうということで始まってね。で、大和屋竺さんとか、ああいう人とも仲良くしているし、キャロルっていうバンドも川崎にいるし、これで企画を通しちゃうからって、そういうことなんだよね。
あの頃になってくると俳優も、梅宮辰夫だとか山城新伍なんかがみんな『仁義なき戦い』にとられちゃって、値段も上がってるしね。だから女の子じゃないと、いきなり主演ってならない時代になっちゃたんだ。まぁ、低予算映画の行き着くところは女性が主演の映画っていうふうになるんじゃないですかね。
──やっぱり鈴木則文さんらの撮られた先行する『女番長』映画などご覧になって参考にはされたんですか?
内藤:女番長的な映画を撮ってるくせに、意識して見てないんだよね。鈴木則文さんとかいっぱいいろんな人がやってるじゃないですか。だけど、「女番長映画」を撮るっていう意識が僕の中にないからね。まず、大和屋さんもホン書くときに、女番長モノを書いてくれと言われても、研究してなかったと思うんだ。だから、似ても似つかない流れになってきちゃうんだよ。
だいたいやくざ映画撮ってる会社にいるくせに、あんまりやくざ映画を観に行かない(笑)。だからぼくが撮った添え物が浮いてるとかいうことは、あったかもしれない。例えば僕の監督した『夜のならず者』(1972)が藤純子の引退記念映画『関東緋桜一家』(1972)の添え物になって、俊藤(浩滋)さんに「おい、お前のはマキノさんの仁侠映画の添え物になるんだから、気合入れてやってくれよ」と言われると、真面目な監督なら本編の笠原和夫さんの脚本を読むんだよね。僕はもう全然読まないで、そちらは豪華キャストでやるんだから俺は俺の好きな小さいことやってりゃいい!っていう感じだから。そういうことも気にしない時代で。まずね、相手を食ってやろうとか、みんな言うじゃないですか。そういう意識すら欠けてるとこが、あったんじゃないかなぁ。だから仁侠映画っていうのはほとんど観ずに、アメリカ映画のギャング映画とか、ロジャー・コーマンの映画があったら、そっちを見ちゃってね。少ない時間で観たいものを観ちゃおうっていうところがあったから。だからねぇ、確かに、浮いてたかもしれない(笑)
──内藤監督の作品は上映時間は、ほかの当時のプログラムピクチャーと並べてみても短いですね。ほとんど90分すらないですよね。
内藤:うん、短いっていうかね、普通1時間40分くらいになるだろうなぁって言ってても、僕が撮ってると1時間20分くらいになっちゃうんだよね。で、会社からは、「80分超えてればいいよ」って言われることがよくあって。『番格ロック』なんて、今観ていると切りたくてしょうがないもんね。なんていうことしてるんだ、そんな余計なことっていう。
──『番格ロック』は上映時間83分じゃないですか。それでも切りたい、と(笑)。『ネオンくらげ』も67分とか……(笑)
内藤:うん、それくらいだね。『時の娘』みたいに自分でホンに付き合ってても、長くならないですねぇ。『ネオンくらげ』も自分ひとりで書いたけど、会社から「1時間にはしろ」って言われてね。脚本を書いている時には、もうこれだけ話があれば、あとの話はいいやって思っちゃうんですね。自分でホン書いてると、なにやったって長くならないですね。こんなのは余計なことだと思ってるうちに。だから、本当は詩みたいな映画作ってるのが一番向いているんですね。アンゲロプロスの『旅芸人の記録』(1975)なんかは、あそこまでいくと、うわーすごいと思えるんですよ。でもねぇ、最近の日本映画で2時間くらいある……まぁ名前出さないけど、大体こんなの1時間半じゃないかと観てて思っちゃうんですね。だからね、繰り返し同じこと言ってるのが嫌なんでしょうね。体質的にね。
──『青春賛歌 暴力学園大革命』(1975)での長谷直美さんの葬儀シーンなどは例外として、内藤監督の上映時間が短くなる理由として情緒的・感情吐露的なシーンがすくない、という点があるのではないでしょうか。
内藤:『不良番長』なんかでも嫌で嫌でしょうがないのが、人が死ぬシーンね! 東映の映画ではよくやるじゃないですか。脚本にも書いてあるし。あれなんか本当に、もう死んじゃったんだろう?って。次のシーンでわかるだろう?っていうふうに全部今でもカットしたいと思うんだけど。会社の体質でね。冠婚葬祭にはうるさいから。もうヤケクソで目つぶって。嫌で嫌でしょうがないから、自分でホン書く時はそういうシーンはないように努力するっていうかね。そういうところが絶対にあるんですね。人がやっているぶんにはいいんだけど、自分でやるのはかなわんなぁっていう気がしますね。だからもし京都行って仁侠映画作らされていたら、本当に困っちゃったろうなぁっていうね。
──『番格ロック』では、上記のような理由から、カットされたシーンなどあるんですか。
内藤:あれは大和屋さんが脚本でかんでいるから、そういうベタつきは皆無。ドライな人ですからね。
ただねぇ、児童映画を撮りに行くと、そういうもんだと自分で覚悟を決めて撮りに行くからね。ぼくが学研映画で撮った『わたんべ』(1979)とか。これは心臓手術する少年の話で読売の賞を取ったのを映画化したんだけど、ホンは他の人が書いてくれるし。それをテクニックだけで撮ってゆくから。案外、文部大臣賞から教育映画関係から賞を全部もらっちゃうんですよ。本当はそういうことが僕の中で必要だったんだろうね。先輩がやってるようなきちっとした起承転結のホンで、情緒性も社会性もあったり、いろんなことがあって、テクニックだけできちっと勝負して、ストーリーを紡ぎなさいっていう。
本当は、ああいうプログラムピクチャーを東映でずっと撮ってられて、B級撮り続けてるヤツが年齢的にA級撮ってもいいということがあったらね、そういう堂々たる大作をあてがわれて、きちっと撮るっていうことを、まあ、したんだろうね……でも、映画の黄金期から遅れてるから困っちゃうということなんだけど(笑)。そのかわりいろんな本も出版したりして人生を楽しんだから、いいんじゃないかっていう(笑)……ことですよね。
2-2
『番格ロック』の俳優たち
──監督の作品で初出演される俳優さんが多いですね。『番格ロック』での山内えみこさんや柴田鋭子さん、『地獄の天使 紅い爆音』(1977)の森下愛子さんなど。それっきりで他の作品にも出られていない役者さんもいらっしゃいますね。『地獄の天使 紅い爆音』に主演の入鹿裕子さんや『時の娘』に主演の橋水光さんなど。
内藤:うん。僕らになるとね、いきなり俳優を探してこないと、もう予算が入らなくなっちゃたんだよね。で、オール新人を起用したりなんかして。それはそれで面白いと思っちゃうほうだし。だから、その行き着くところはもう、『俗物図鑑』なんかでもそうだけど、いきなり素人を出すっていう。いずれにせよ予算がないから、それを逆手に取るよりしようがなくて。
──主演の山内えみこさんは、もともと週刊誌の表紙に載っているのを発見されたそうですね。このフィルムでは寡黙で、眼の表情が印象的です。
内藤:そうそう。「週刊大衆」か「アサヒ芸能」だったかの表紙をやっていたんだよね。僕と同期で東映の宣伝部にいた今井正監督の息子さんが勧めててくれたんだ。この子、いいんじゃないかって。一橋スクール・オブ・ビジネスに通って英語を習っていて、通訳の免許も持っていたんですよね。ポルノやバイオレンスをやらないと、東映の営業路線にのらないってことも分かってたから、もう徹底しちゃった方がいいということだったんだけどね。だから、ロマンポルノなんかを今井さんと観てきてもらって、あれぐらいはやる、って言ったんだけどね。で、芝居の勉強なんかはせずに、いきなりでやってもらってね。根性はしっかりした子だった。『番挌ロック』の脚本は喋らなくていいように書いてくれてるんだよね。『ネオンくらげ』なんか自分のホンだからよく喋らせちゃった。後で伊藤俊也の『犬神の悪霊』(1977)なんかに出てるけど、いつのまにかいなくなっちゃった。もっといいことがあったんだろうね(笑)。東映のプロデューサーからの話だとハワイで元気にやってるらしいんだ。幸せに暮らしているっていうことで。ハワイにでも遊びに行ったら、何処にいるかをリサーチして……も、ハワイって一番行かないとこだからなぁ、僕が(笑)。
──演技経験が少ないのをカバーするために意図的にアップを多くされているように思います。演技のできない役者はアップで撮る、とは昔からよく言われますが。
内藤:ああ、それはね、マカロニウエスタンと同じですよ。マカロニウエスタンはスター出さないで、クローズアップでもっちゃう。もうそれは映画の基本でね。クローズアップだったら、みんないい顔してますよ。芝居は全身映して、フルサイズでひいてたら、うまいか下手かすぐバレるけど、クローズアップで撮ってる分には、顔の表情見てればいい。フルだと、全身を使っていい顔をして、いい演技を見せて、大変ですよ。
──対するアラブの鷹役の柴田鋭子さんもあまり他の作品に出てない女優さんですね。
内藤:出ていないんだよね。僕の作品には2本出ているんだけど。もう1本は『若い貴族たち 13階段のマキ』(1975)に裁ちバサミを持った少年院の親ボス役で出ていて。柴田鋭子は青年座の女優さんだったんだけどね。当時の青年座は西田敏行とかが出た面白い劇団だったからね。芝居を観てキリっとしてるなあと思って。芝居している人を使うのは好きだったね、『地獄の天使 紅い爆音』の入鹿裕子も渡辺えり子の劇団にいた人だからね。柴田鋭子のキリっとした顔から虚脱してからの顔への変わり目は、やはり演技がキチンとしてるんですね。崩壊してからの、虚無的なっていうか、今で言うとソープランドってあるけど、そこに売り飛ばされてからの表情が今見てもうまいなあって思うね。ボーっとした顔がね。気に入ったから、『13階段のマキ』も文句なしに志穂美悦子の敵役で再度お願いしてるんですね。テレビでも1回くらい出てもらったかもしれないなぁ。なんであんなに早く、何処かに行っちゃったのかなぁって。さっぱりわからない。結婚でもして、幸せに暮らしてるのかなあ。
──おふたりの衣装も特別に作られたのでしょうか。山内えみこさんは白で肉体の豊満さを膨張色で強調し、柴田鋭子さんは黒できりりと引き締めていて、対照的になっていますね。
内藤:衣装は、そうです。それはもう、わかりやすいから。あれ難しいのは、黒いほうが締まるんだよね。だから主役の方を白にしちゃうんだけど、本当はそこを、いつも迷うんだ。『13階段のマキ』のときは、志穂美悦子を黒のほうにして、悪いやつは白にしてもいいとか思ったりすしたんだけど。山内えみこはまぁ、ああいうボディだからね。それで柴田鋭子が黒いほうがいいなぁって、これは感覚だからね。あとで、反省したってもう遅いんだから。
──山内さんと柴田さんの女性同士の敵意と友情という主題は、難しくはありませんでしたか。脚本をもらったときはどう思われましたか?
内藤:脚本の時からいつも付き合ってたからね。ああいうことがないと、あの映画成立しないから。レズビアンっていうのは描く気がなかなかしないじゃないですか。精神的なレズビアンっていうのもレズビアンなんだけどね。だから、見れば「これはレズビアンです」っていうことになるんだけど、女性同士の敵意と愛情っていう……まあ、これは女性同士の恋愛映画になっているわけだからね。主役の青年とのラブはまあ、東映の場合、セクシーに撮らなくちゃいけないんだけど、どっちが気合が入るかっていったら、ストーリー的にも男の子と女の子の話ってのは、まあ、どうでもいいんだよね。だけど、柴田鋭子をキャスティングして、山内えみことああいう形でお互いに揉みあって、片っ方が崩壊すれば、片っ方も自滅していくしかない。まあ、あれはパターンといえばパターンで、ああするよりしかたがないんじゃないですかね。
でも今の女の子たちも街で女の子同士歩いてるけど、ああいうことは好きなんじゃないですか。みんな、あんな考えで生きてるんじゃないですか。ウチの妻も女子校育ちだからね、ああいうハナシは笑いながら聞いてるほうだから(笑)。みんなあんなもんだよ、女の子は。
もし今撮って、東映で公開するってことがなかったら、この映画の男女のラブシーンなんて、もっとあっさり、抱き合ったらもう終わりっていう感じになったかもしれない。一番切りたいなぁと思うのは、そういうとこだね。でも70年代で、そういうセクシー路線が厳然としてあり、みんな一生懸命にやってるわけだから。私が勇気がないというよりもね、それがないと、企画が通らず、生き延びれないというね(笑)。
それからぼくが疎開したときの経験でね、戦時中に内地に残っている男たちっていうのは、子供心にもどうしようもないなっていう人たちが多くてね。だから逆に女性の強さっていうのをすごく感じたんだよ。だから僕の映画で女性差別しているものはないと思います。
──出演されてるスケバン役の人たちはどのような方々をキャスティングされたのですか。
内藤:日大芸術学部とか女子美術大学の生徒とか。アラブの鷹のグループ、「池袋騎兵隊」はちょっと知的なんですね。大体、夜の高校を集合場所にしているくらいだから、学生崩れっていうのか、学生グループっていう設定で。あの中の不良少女たちが、「私は女子美です」とか「私は日芸です」と言ってたという記憶があるんだけどね。なるべく大学生を、というか、まあ、学生イコール、インテリってことはないけれども(笑)。まあ、そこそこ大学生的な人がいいと。絵を描いたりするような奴が不良だっていう風な。
片方の赤羽百人会は、地元でとにかくグレてるっていうくらいの設定をですね、大和屋さんがヒューバート・セルビー Jr.の『ブルックリン最終出口』みたいなことを考えていると言うから。まあ、そうかって(笑)。赤羽のほうで突っ張りお圭を演っているボルネオ・マヤさんていうのは、荒戸源次郎さんとこの劇団の天象儀館の人だからね。ジュリー役の宗像笙さんもそうだね。
──後に鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』(1980)などの映画プロデューサーとして名を馳せる荒戸源次郎氏が1972年に旗揚げしたという劇団・天象儀館は、当時、一体どんな舞台公演をしていたのでしょうか。
内藤:舞台の手前に大きい金魚鉢があって、そこから舞台を覗くような芝居をやっていたんですよ。大和屋さんも出演したりして。あの頃、「月刊ペン」で僕の映画について書いてくれたりしたんだよね。それで、お金のあてがあるから映画を撮らないかという話を持ち掛けられて、それが後の『時の娘』につながっていくんです。
──このフィルムではほんのワンシーンにしか出ないような脇役の顔ぶれが豪華ですね。石井輝男映画における由利徹や上田吉二郎のような、いやでも印象に残るアクの強い怪演はありませんが、すごい役者さんたちがさらりとたくさん出ていますね。ざっと挙げてみても、刑事役でのちにピラニア軍団の室田日出男、女囚役で日活ロマンポルノに出演していた絵沢萌子、保護司役で若松孝二映画などで強烈な役柄を演じた山谷初男、女子高の警備員役で大島渚映画の常連だった小松方正。チンピラ役で同じ大和屋脚本『セックスハンター 濡れた標的』(1972)に主演した沢田情児(ジョージ・ハリスン)。寺山修司の劇団「天井桟敷」の下馬二五八、などなど。
内藤:そうですね。ああいうところは金がなくて監督やってても、五社でやっている良さだよね。僕が助監督をやって育っているからね。コネクションが出来ちゃうから。だから、しょうがねぇなぁっていう感じもあるし。楽しいなとも思ってくれるし……この映画で山内みえこの母親役をやっている初井言栄さんなんかは、僕の映画で、『ポルノの帝王』シリーズでもいつもお母さん役だから。初井さんの芝居は青年座だとか全部見ましたよ(笑)。普段会うときは、あの人はベレー帽なんか被っててね。僕の映画は、大体いつもお母さん役で、テレビ撮りに行ってもお母さん役だった。『夜明けの刑事』(TBS系列放映TVドラマ、1974-77)で、佐藤蛾二郎と三上寛の不良兄弟のお母さんは、やはり初井言栄さんです。初井さんとか殿山泰司さんなんかが出てくると、知らない会社で撮っていても落ち着くから。
2-3
キャロルと八木正生
──ロックバンドのキャロルが歌うこの映画の主題歌「番格ロックのテーマ」は、このフィルムで重要な役割を果たしているように思います。特にジョニー大倉氏の甘い歌声に痺れます。この歌はどのような経緯で作られたのでしょうか。
内藤:この映画の冒頭が都電で池袋に向かうシーンだけれども、スケバンたちが夕陽を浴びながら都電荒川線で殴りこみに向かうところに流れる曲がほしいって言って、それを受けて矢沢永吉が作ってくれたんだよね。未だに彼が書いた譜面を持ってますよ。曲を聴いて、ああ、いい曲だなあと思って、映画の中では極力フルサイズで流してます。僕は映画に歌謡曲なんかを使うときは、いつもフルで流すようにしたんだ。『十三階段のマキ』の時も志穂美悦っちゃん(悦子)の歌はうまいかどうかわからないけど、フルサイズで流し、安井かずみ作詞の「ニーナ」もフルで使った(笑)。
──ライブハウスのシーンは、セットでしょうか。どのように撮影されましたか。
内藤:セットですね。演奏はプレイバックで、先に曲を録音してやっています。この映画用にちゃんと録音をしてね。ライブハウスのセットでその曲に合わせて歌ってもらう、という。で、オートバイで走っているショットをカットバックしたいと言ったら、はじめはメンバーが難色を示したんだけど、矢沢永吉が「映画のためになるんだから、やりましょう」って言って、撮ることができたんだよ。矢沢永吉はすごいなあと思ってね。あれはメンバーが免許を持ってなかったからだけど、東映の撮影所の中ならいいだろうっていうことで、走ってもらってるという(笑)。
──一方で劇伴音楽はキャロルのロックンロールから一転、元々ジャズピアニストであった八木正生さんが作曲なさっていますね。八木さんは、内藤監督の師事された石井輝男監督の劇伴も多く担当されていた作曲家ですね。
内藤:僕らは好きでしたから。八木正生さんと、それから山下洋輔さんもね。映画音楽だったら、八木さんとか中村誠一とかね。ああいう系統のほうが僕らの作るような映画には、いいんですよね。石井輝男監督は、八木さんに任せていましたよ。僕らの方が八木さんに「こういう風にはならないか」って言ってしまう。
八木さんは映画音楽でジャズを使ったハシリの方だからね。CDを聴いても分かるように、「枯葉」なら「枯葉」をきちんと弾いたりするところがありましたから。アドリブでフリーに演奏してもコードは外さないというね。だから映画音楽には向いてたんじゃないですかね。山下洋輔さんのようジャズまでいくと、東映なんかの映画音楽としては特殊になりすぎちゃって、使いにくいんですね。まあ、筒井康隆さん原作の映画だったら、山下さんに頼んだりはしますけどね。それに八木さんは、武満徹と組んで吉田喜重の『日本脱出』(1964)の音楽なんかもやったりして、アヴァンギャルドな音も出せるんだ。
『番格ロック』で矢沢永吉の向こうを張って音楽を担当する時なんかは、八木さんも矢沢っていうのをスゴイと思っているんだろうな、いつもと違う不協和音的なのを使ってみたり、エフェクターを多用したりね。『不良番長』のときとはちょっと違う音楽を作ってくれた。だから、ああなるほど、八木さんも勝負するなって(笑)。
八木さんは新宿文化っていうATGの映画館で時々演奏していたんですよ。僕が助監督の頃なんかはそれが一番印象的ですね。60年代とか70年代はけっこう新宿は面白いことがあったんです。なによりもジャズクラブのピットインで隣に殿山泰司が来て一緒に聴いていたりとかね。今度の映画、チョイ役でまた出てよって、そこで交渉しちゃう(笑)。『時の娘』とかは、まったくそういう流れなんだけど。あの人は新宿の街ぶらぶらしてると、なんかみんなに頼まれて変な映画に出ることになって(笑)。
──この映画のサウンドトラックの演奏はどのような方がなさっているのですか。
内藤:演奏は八木さんの息のかかったモダンジャズのひとがやってくれているんですよ。
僕がチーフ助監督だった降旗康男さんのデビュー作、『非行少女ヨーコ』(1966)の時も音楽が八木さんでね。日野皓正とか渡辺貞夫とか、八木さんもピアノ弾いてるんだけど、タイトルバックにみんな出てるんだ。でも、シルエットなんだよね。あれなんでシルエットにしちゃったのかなあ。もったいない。あれも全部、八木さんのコネクションで出てくれてね。
石井輝男監督もそうだけど、我々は八木正生とか三保敬太郎とか河辺公一とか、ああいうジャズ系の少人数編成でないと嫌だっていうね。もう家城組とか今井組やっているわけじゃないから、フルオーケストラ使えないんですよ。もっと今みたいに、音楽的に退廃が進んでいれば、クラシックの室内楽的なものや、ミュージック・コンクリートなど現代音楽的なものを使ってもカッコイイと思うんだけど、あの頃は、そんなことをやっていると、何をしけたことをやっているんだって言われちゃう。ジャズの方がどうしても景気がいいからね。エンディングさえ外さなければいいんだから。
2-4
『番格ロック』の空間
──このフィルムは、赤羽と池袋が舞台の中心となりますが、ロケーションがとても魅力的ですね。鈴木則文監督らが東映京都撮影所で撮られた『女番長』シリーズでの関西の街並みとはまた別の雰囲気があります。ご著書の『昭和の映画少年』(秀英書房、1981年刊)では、「大掛がかりなセットや、長期にわたる地方ロケーションの費用がないため」に、「わたしたちは都市の片隅の牢獄から一歩も出られないで町内旅行に徹しているのである」とお書きになり、それを「町内旅行者の映画」と呼ばれていますね。そして、池袋の街路の撮影で人々が振り向いてキャメラを見てしまっていたりするのをそのまま活用して、娯楽映画的虚構と記録映画的質感が並存する独特な画面を作り出しているように思います。また、このフィルムの冒頭に登場する都電荒川線は、監督の作品によく登場しますね。
内藤:都電で早稲田に通っていたしね。やっぱりあのへんで育っているからなあ。引っ越しとかあんまりないであの辺に住んでいるから。自分の地元だからね、でも、今と街は全然ちがうね。都電の脇を人が歩いていたり、ああいう時代だったんだねえ。赤羽なんかも全然変わっちゃったもんね。街中のロケはもう、東映だからね。まあ、ナントカ会とかナントカ組とかにだけは、話がついてるんですね。要するに、コワいひとたちが出てきたら、おさめてっていう。ここで撮りますと断ってね。自主映画でやる時には、ああいうのは盗み撮りにするよりしようがないんだけど、堂々とやってるのは、やっぱり会社が会社なんだな。なんといっても東映ですから(笑)。だから製作部で密かに話がついているんですね。街の人たちは勝手に振り向いたりして。もう予算と時間的にもNG出してる場合じゃないから、OKにしてます。街の人たちが見てても、かえっていいっていうとこあるじゃない?
──『番格ロック』の冒頭で、赤羽の街を大勢のスケバンたちが行進する歩調をじいっと望遠レンズで撮っていますが、あれももう盗み撮りというか……
内藤:もう、まったくそうですね。キャメラは1カットずつ覗くのが性に合っているね。『青春賛歌 暴力学園大革命』とか『男組』(1975)とか撮って、ラピュタ阿佐ヶ谷で今でも時々やってくれるじゃない。その辺の作品は、ほとんど全部キャメラを覗いた記憶があるから、映像的には後悔しないね。ストーリーはね、なんて話なんだろうって(笑)。画柄だけは自分で覗いているからなっていう、ある種のあきらめというか、納得というかね。そういうのはあるんですよね。覗くのは好きだった。だから、『地獄の天使 紅い爆音』なんか、全部キャメラ斜めに歪めちゃおうとかね。そういうことは割とやったんです。歪めだしたら、全部責任もって覗かざるをえないじゃないですか(笑)。助監督としてついていた石井輝男組は予告編を撮るとき、キャメラを覗かないと、手を抜いたって怒られるんだ。石井さんが新東宝の撮影部出身だからね。
──夏の光線がすごくいいなぁという風に思います。なにか、今撮られつつある、その時のかけがえのない一回性みたいなものを、その光が感じさせるというか。でも9月25日に公開されたそうですが、夏の撮影だとすると期間をおかずに封切られたのではないでしょうか。
内藤:そう、B級映画は夏撮るのが一番いいですよね。暑かったですよ。撮ったのは8月くらいじゃないかなぁ。もうね、『十代 恵子の場合』を冬に撮ったら、まったくもう寒々しい感じで映っちゃうしね。もろにB級映画は時代と季節を反映する。だから桜が咲いてるときにクランクインしたら、もう桜だらけになっちゃうしね(笑)。
──また、撮影期間はどれくらいだったのでしょうか。
内藤:(日録を見て)8月13日にクランクインして、9月14日にクランクアップしています。東映の組合員主体で撮影していますから、その間にきちんと休日はとりました。
──それから、スケバンの一群の中で「対マン待子」役の山口あけみさんというなかなかドスの効いた顔立ちの女優さんが、不意にキッと通行人に睨みをきかしたりしていて、独特の凄みを感じますが、あれはアドリブなんでしょうか。
内藤:うん、もう彼女たちのセンス。だから、本当にそういうスケバンたちではないにしても、まあ、当時は連合赤軍的な時代だからね。女の子たちも、なんかハンパじゃない。今の女の子たちの怖さとちょっと違うんじゃないかな。彼女もね、学生だったと思うなあ。
──あっ、そうなんですか。いや、凄いなぁと思ったんですけど。それから、コインロッカーで着替えるとこはセットですか。あの赤羽の駅前の屋外のロッカーで……。
内藤:あれは本当。
──ああ、あれは本当のところでやってるんですか!裸になって。
内藤:うん、あんなのはセット組めないからね。もうさぁ、外でセーラー服を脱いじゃったなんていうのは当たり前で、当時はあんまり文句は言われないからね。一般の人が何だこれはと思うだけで。B級映画って、そういうとこが大胆ですよ。そういうとこはもうアナーキー。
──あそこに映っているオーディエンスは、エキストラも混じっているんでしょうか。
内藤:少し混ぜてはいるけれどもね、でも、まあ、映っちゃったら、しょうがないっていう。あの頃は今みたいに、個人的な名誉を傷つけたとかなんとか、あんまり映画に対して、そんな話なかったしね。オールナイト映画の時代じゃないですか。オールナイトの客が、俺が映ってるって怒ったためしはない(笑)。僕はオールナイト映画に来る観客、所謂ホワイトカラーではない人たち。若者や労働者や学生。そういう目線へ向けて娯楽映画を撮って、喜んでもらいたいと思っていたんだ。そういう意味では、最近の映画は田舎者を馬鹿にしすぎてる。東京なんて田舎者の集まりなのにね。
──それから、<場所>ということでいえば、先述の「町内旅行者の映画」というエッセーで監督は、このフィルムのことを、国文学者・松田修の「隠れ空間」という、「幼いものの聖なるテリトリー」を指す語を援用しながら「この小品は池袋や赤羽のそれぞれの隠れ空間に巣食う少女たちが、おたがいに差別しあってケンカするという、よくある話」と形容されていますが……
内藤:先日、ラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショウで上映した時に、朝鮮問題を研究しているっていう……在日問題って言っていたかな、東大の大学院生という人が後を追ってきて、「あれは何処でロケしたんですか?」って言うから、「当時あった赤羽の朝鮮部落できちんとロケしました」と僕は言って。「そういうとこの子たちだっていうことが映画で分からなくてもいいから、確かにそこを狙ってロケーションしています」って言ったら、「やっぱりそうですか」って言って。あの家に帰ってくるときに、初井言栄さんが日傘さして山内えみことふたりで歩いてくるところ……
──あの、冒頭に出てくるバラックの辺りですか。出所した山内えみこさんとその母親の初井言栄さんが「十条台」と看板のある停留所でバスを降りて、バラックというか掘っ立て小屋が立ち並ぶ舗装されていない道を歩いて行くという印象的な俯瞰のロングショットがありますね。そこで子どもたちがブランコを揺らして遊んでいる姿も捉えられています。
内藤:うん、みる人がみたら分かっちゃうんだよね。昔の赤羽の一画だっていうのが。だから、今でも面影があるかどうか最近訪ねてないから知らないけど、あの時はもう意図的に山内えみこの周辺はそういうところで集中的に撮っていて。まあ、大和屋竺と山本英明が「赤羽だ。赤羽だ」っていうから、「そんならもうそこだ!」って。在日問題を研究してる人はそういう観点で見ちゃっているらしいですね。だから、「意図は?」って言われると、「意図的にやっています」って言うしかしょうがない。だけど、まあ、それは分かる人が分かればいい、それが映画だっていう。まあ助監督には言ってありましたけどね。ここで撮るんだって。だから、ふたりが歩いてくるとこを八木正生さんも、きちんと不思議な音楽をつけて。母親役の初井言栄さんなんかは、もうそういう感じで演じてくれているんだけどね。
──それから、当時の東映映画のヒーロー・ヒロインは、過剰に暴力を奮いセックスをしまくる市民社会からのはみだし者たちで、彼ら・彼女らはその行為の過剰さ故に、警察署に連行されたり、監獄に放り込まれます。あるいは過剰さを表象するために警察署・監獄という空間が要請されるというべきなのでしょうか。 この映画でいえば、番格やスケバンが主人公で、女子特別少年院や取調べ室などが登場します。かつて日活撮影所には作りおきのオープンセットで日活銀座というのが存在していたそうですが、そのように、監獄は作りおきで東映の撮影所にあったりしたのでしょうか。
内藤:いや、特に作りおきではなかったですね。一回一回作ってました。でも、僕がチーフ助監督だった石井(輝男)さんの『網走番外地』の第1作(1965)を撮るときは、ロケハンに網走刑務所へいって、メジャーをもって実際の監獄の尺を測って、それでセットを作ったりしたんだ。だから、尺だけは実寸と一緒だという、そういうセットなんですね。
セットでいえば、この映画のアパートのセットだとか、ああいうのは東映の美術さんたちは実にうまいんだよ。『地獄の天使 紅い爆音』の横須賀のドブ板通りのセットなんかも猥雑でよかったし。
2-5 「番格ロック」の脚本
──「番格ロック」の脚本を担当された大和屋竺さんははじめての東映映画への参与ですね。どういうきっかけでお知り合いになられたのでしょうか。
内藤:一番最初に話したのは「映画批評」って雑誌があって、前田陽一と沢田幸弘と大和屋熱竺と僕と……当時の新人ばっかり集めて松田政男が座談会やったんですよ。それが、大和屋さんと口きくようになった最初だと思うんです。ただ彼の奥さんが、東映のスクリプターやってたから、どっかでめぐり会ってるかもしれない。
この東映映画の脚本ははじめてだけど、僕の監督した児童映画に出演してくれてたりね。お父さん役とか学校の先生役とかでね。そういうことをしてよく遊んでましたから。それから荒戸さんのとこに天象儀館っていう劇団があって、そこで一緒に観客だったり。大和屋さんは出演もするんだけどね。そういうので付き合ってましたから、まあ、そういう点では、なるべくして脚本へ参加してもらったということです。のちにテレビドラマを一緒に書いたりもしましたけどね。大和屋さんが遊んでるなぁと思ったら……どうしても僕のほうが娯楽的だから、テレビドラマの発注も多いじゃないですか(笑)。「TBSの東芝日曜劇場手伝ってくれ」とかね。いくつも共同脚本があるんですよ。連続ドラマやったりね。
それから、『発見への旅だち』(1974)って言ったかな。うん、あれは僕が撮るはずだったんだ。だけど大和屋さんが撮ったらいいって僕が言って。彼は東映教育映画に出演もよくしていたし。ということで彼が撮ったんですね。
──内藤誠監督は、『発見への旅だち』のプロデューサー、布村建さんとは東映に1958年に同期入社されていますね。
内藤:うん、布村は、僕の同期でね。東映教育映画部でボスの彼がオッケーだったから。大和屋は一生懸命やっていましたよ。あそこの流れで多分、柳町光男君なんかが助監督についていて、後に彼が自主製作で『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』(1976)を撮るっていう、流れになったと思いますね。
──大和屋さんの映画はそれ以前にご覧になってましたか?
内藤:観てました。この間、一角座で大和屋さんが監督をした『毛の生えた拳銃』(1968)を観ましたけれども、今観てもやっぱりすごいですよね。なんか大和屋さん、ああいう怖さあるよね。東映映画にはない怖さがね。
──それから、内藤監督のお撮りになった『葛飾御殿山通信』(1973)という東京12チャンネル放映のドキュメンタリーにも大和屋さんが出演されているとフィルモグラフィーにありますね。
内藤:ああ、あれもね、大和屋さんが出てくれたんだな。あれは都映協が金を出したもの。大和屋さんは北海道の炭鉱地帯からきて、あのへんの高校から早稲田に来たんですよ。だから「葛飾御殿山っていうところの考古学的発掘作業の撮影は家の近所だから出る」って(笑)。なんでも出てくれるんだ。
とにかく、環状七号が伸びるんで、小田原の青砥藤綱って、あなたたち知っているかな? お金が河に落ちたら松明でそれ以上の金をかけて拾い出した青砥藤綱という、有名な侍がいるんだけど、その人がいた小さなお城が発掘されることになったんですよ。それで、発掘の考古学映画をね、僕が撮ることになったんです。それでドキュメンタリーにするんだけどね、大和屋さんに、ちょっと見物に来てる人になってくれと(笑)。そうすると、一家をあげてくるんだよ。自分の縄張りだったというんで。
──この『番格ロック』脚本はヒューバート・セルビー Jr.の小説『ブルックリン最終出口』を下敷きにされたようですが。
内藤:うん。ああいう仕事しようって言うから、まあ、それに異議はないっていうことでね。あれをやるなら、赤羽かなぁとか、池袋の西口あたりからとか。これもねぇ、大和屋は真面目に言うんで(笑)。酒飲むとさらにヒートアップしてくるから。あの人、東映教育映画で『中学時代』(1976)っていうのを僕が撮ったときもねぇ、やっぱり出演してくれてね、そのあと、お酒飲むのが好きなんですよ。だから終わっても帰ってくれない(笑)。「映画なんて酒飲むためにやってるんじゃないんですか」なんて言ってたんだから(笑)。
──そういうことを、なんとも真面目腐った調子で喋るんですか。
内藤:真面目に喋る。だからね……いや、いいことだったかどうか知らないけど……夕方、ちょっと震えがくるようなときもあったんだよね。だからまぁ、飲みながら喋ったほうが大和屋さん、いいホン書けるなぁって思って、みんなで飲ましちゃったんじゃないかなぁ。だから、あそこで説教するやつが何人かいた方がいいんだけど、みんな飲むと愉快だから大和屋さんと会えたら飲んじゃうんだよ。ホントによく飲んだと思いますよ。素面のときだって、独特のユーモアがあったんだけど、飲んだら、なお面白いから。結局みんな酒飲んじゃったんじゃないかな。本人もね、「そろそろ行きますか」っていう人だったからね(笑)。僕なんか飲むと書けなくなっちゃって、遊んじゃうほうなんだけどね。大和屋さんは飲んでも書けたんじゃないかなあ。
──普段どういうことを話す方なんですか?
内藤:普段はね、こんなに何事も真面目な人はいないっていう。だから真面目すぎるとね、かえっておかしくなっちゃう(笑)。だって、例えば、この映画の「アラブの鷹」って名前だけどね、冗談だろうと最初は思ってるんだけど、あの人がね、自分はイスラム教徒だって言うわけですよ。
──あの柴田鋭子さん演ずるあのキャラクターが?
内藤:いや、ちがうちがう。自分が。
──大和屋さんが!
内藤:なんかモハメッド……なんとかってイスラム教徒の名前も持っているっていうんですよ。そういう話を色々と、真面目な顔して言うわけ。だから真面目に言っているんだ。ふざけて言っているわけじゃない。モハメッドなんとかアツシとか、色々言うわけですよ。で、それについて話をしているうちに柴田鋭子のやる役は、「アラブの鷹」でって!(笑)。
なんだか知らないけど、そこに引き込まれていくからね。もう今でも映画観てね、「なんでアラブの鷹?」ってみんなに聞かれて(笑)。そりゃ大和屋さんにもう一回よく聞いてもらわないと……(笑)。その時は、話をしているうちにね、それでなかったら、それ以上すすまないだろうって(笑)。そういう人なんだよ、あの人は。それで、「アラブの鷹」っていう名前にふさわしいコスチュームと、そういう顔つきだなぁっていう人を選んで、そこにちょっと濃い目のメイクだな、っていうふうになるわけですよ。「大和屋さん、色々こう難しいご時世だけど、問題ないですね?」「軽そうにこんなことしていいの?」って訊いてみても、「いや、アラブの鷹はそういうことをやるんです」って(笑)。まぁだからね、すごい名前の役が出てくるなあって……思うだけですね(笑)。だから、そういう人なんだよね。なんだか不思議な(笑)。
──もうひとりの脚本家、山本英明さんは夭折されてしまい、あまり人物像を掴むことのできる文献を読んだことがないのですが、どういう方だったのでしょうか。
内藤:彼は僕の同期で、『昭和残侠伝』とか『不良番長』のライターですから。あの人もね、なんというか古い江戸っ子のタイプで。真面目すぎるくらい真面目でね。これまた、酒を飲ましたほうが気が晴れるっていうか、喋ってくれるっていう。だから『番格ロック』のときは酒ばっかり注いでた記憶があるね、ふたりに(笑)。西荻にあった木村館っていう旅館がシナリオ執筆の時の常宿だったんだけどね。由緒ある旅館だったんですよ。岸田今日子さんは女学生時代、岸田國士が原稿を書いていたんで、あそこへよく行ったそうです。もう古い建物で。ミシミシいうけど、なんか落ち着いているんですよね。古風な庭があって。
──(笑)……ふたりでどういう分担で脚本って書かれたんですか?
内藤:山本(英明)君は齢も同じくらいだから、お互いに仲良くやっていましたよ、だけど、『不良番長』やっているのと、仕上がりのタッチが違っているからね。ああ大和屋が頑張ったんだなぁって思いました。タイトルでは下にクレジットされているけどね。そういう点では大和屋が、あの独特の説得力っていうか(笑)、頭の良さを出したんだろうし。東映できちんと撮れたのは山本君がいてくれたからだろうなぁと。
大和屋さんのホンだけだと東映で脚本として採用されない確率があるんじゃないかなあ。映画化出来るストーリーテリングとか。大和屋さんには、田中陽造さんよりもそういう点では危険なとこがあるんですね、だけど、それを救ったのは山本君だと思います。少なくとも田中さんは、『地獄の天使 紅い爆音』で脚本やってもらったけど、いい意味で職人的なこともきちっとやり遂げるじゃないですか。例えば日活なら日活の中で、ここまでやるんだっていう。そういう技巧というか、技術を持ってるじゃないですか。これなら流れないっていう。でも大和屋さんは動き出すと、どういうふうになるのか、わからない(笑)。そういう恐ろしさがある。だから『ドグラ・マグラ』(1988)みたいなホンも平気で書く。こんなの映画化出来ないよ、とは言わないところがあるから。
僕なんか、田中陽造さんだと確実に、ああ映画化できるっていうふうに思っちゃうんだね。だからメインにしていたって平気ですよ。でも大和屋さんをメインにしたら、いい意味で、ちょっと危ない(笑)。そのくらいの差はあるんじゃないですか。田中さんだったら、懸賞に応募しても当選できるっていうかね。審査員の名前見て、これ、こういう書き方すれば当選だって見透かして。大和屋さんも技巧的な技術はあるけど、そんなこと忘れて動き出したりするからね。まぁいいんじゃないですかね、それぞれのよさで。
あの頃はホンに口出しすぎるから、脚本のタイトルに僕の名前をのっけてることもあったんだよね。でも『番格ロック』だけはそんな調子ですからね。
──予告篇にも「番格シリーズ第一弾」とスーパーが出ますし、大和屋竺のシナリオ集にも続編の粗筋が掲載されていますが、結局撮影されなかったのは残念です。
内藤:この映画の時も、もう東映スケバン映画の最後の方だったと思いますよ。だから時代が変わってきちゃったんだろうねえ。
2-6 『番格ロック』への反響
──この『番格ロック』の公開時にはどんな反響があったのでしょうか。
内藤:ただ、残念ながら、キネ旬的なメディアがキャロルなんかを知らなかったんだよね。今だってあるでしょ? 一般の若いやつは普通に知っているけど、キネ旬的なメディアが知らないっていう、そういう不思議なことってあるじゃないですか。ノースター映画だからね。ドキュメンタリーとはまさか間違われなかっただろうけど、まったく大人の批評は出なかったなぁ。紹介もないかもしれない。紹介くらいあったかなあ? でも、批評は出なかったんですよ。竹中労さんだけだな。こんな傑作を公開時に外国旅行していて観られなくて悪かったっていう手紙をくれて。……あとはね、まず映画雑誌の批評はゼロで、大学生とか高校生とか学生のミニコミ誌のほうで発見してくれたっていうね。それから雑誌に読者の投書欄が設けられてたのが、よかったな。読者のほうから発見してもらったりして。
──なるほど。映画批評のウェブマガジンに執筆する者としては耳の痛いお話です。批評家ではなくて、若い観客たちから発見された映画だったんですね。
内藤:上板東映で石井聰亙が日大芸術学部の卒業制作で撮った『狂い咲きサンダーロード』(1980)が封切られたんだよね。そのとき一緒に上映する作品に、『番格ロック』を選んでくれたんだよ。それから、今監督になっている祭主(恭嗣)君っていうのが大泉高校の高校映研やってたんだけども、彼が『ネオンくらげ』とか『番格ロック』の2本を観て、まぁ感動したっていうことでね。相原裕美くんっていう女性プロデューサーがいるんだけど、みんな同じ高校の生徒で、僕のうちに雑誌のインタヴューがしたいって訪ねてきてね。そのまま彼らは映画界に進んじゃうんだけどね。当時は、みんな髪をのばして、タバコは吸うし、ウィスキーは飲むし、スカートは長いし。いやあの頃の高校生すごかった。今の高校生よりはじけてたのかな。今の若い子の怖さとは違うものがあったよね。あとは、島田元たちが早稲田のシネ研だったのかな、学園祭に呼んでくれたりしてて。だからキネ旬ではまったく批評は出なかったけども、そういう読者とか、そういう無名の子たちが、いいって言ってくれたから、まあ、いいかって思って。
──さて、旧作をじっくりと振り返えって参りましたが、次回作など構想があればお伺いできませんか?
内藤:次回作を撮ろうと思ってるからこういうとこ(日本大学芸術学部)で絶えずカメラにさわったりしてるんだけど。まぁ、基本的には、僕らの同世代のプロデューサーが定年退職していくからね。まぁ、なかなかっていう。だから、絶えずベストセラーを書こう、とか思って本を出すんだけど、これもなかなかね(笑)。いや、1000万円くらい売れる本って書くのは大変だね(笑)。
A級映画撮ってた人みたいにコンスタントにやってれば、みんなもうちょっと気軽にやれたのかもしれないけど、僕らは1本終わると、次また自分でホン書いて自分で撮るっていう、家内制手工業のようなことやってたから。次々にってわけにいかないじゃない? で、もっと追いつめられたら、連続ドラマを大和屋竺なんかと書いたりしてたんだけど、なかなかねぇ、映画の黄金時代の人たちみたいにコンスタントに撮ることが出来なかったねぇ。僕なんかの場合は、翻訳で飯食わなきゃならないとか。子供の本書いたりで、生きてきたわけだから。
でも映画は常にオプティミズムがないと撮れません。今は1000万円と映画館を用意してくれる人が現れてシナリオを作っています。これも70年代の映画の再上映のおかげなので、若いかたに心から感謝しています。こういうインタヴューでわが恥をさらすのも、感謝の念から出たことです。今後ともよろしくお願いします。
(了)
arabno_takaアットマークyahoo.co.jp
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抽選で一名様に内藤誠監督直筆サイン入り、「俗物図鑑の本」(絶版)を差し上げます。
上記品物は元々古書である為、完全な美品ではないことをご了承ください。 2009年10月末日締め切りです。