2015年07月24日

 デマゴギーとプロパガンダA

 ●憲法9条の上位にある国家防衛という自然権
 前回、反日主義や反国家主義は、デマゴギーからうまれる、と指摘した。
 強制連行や大虐殺、侵略、戦争法案などの虚言をふりまわして、思考停止にもちこむのが、かれらの手法で、大衆政治の場では、意味をすりかえた刺激的なキャッチフレーズが、あるべき議論や正論を封じ込めてしまうのである。
 そうでなければ、国家の防衛機能を他の先進諸国並みにレベルアップさせる「安保法制」にたいする反対運動が、支離滅裂なヒステリー状態になるわけはなかった。
 かつて、核保有が他国からの核攻撃を抑止する「相互確証破壊」や冷戦構造、軍事力の均衡によって軍事的衝突を回避する「バランス・オブ・パワー」理論、国家主権にともなうシー・レーン防衛や交戦権などが、国際法や国際慣例にもとづいて、現実問題として、語られた。
 ところが、現在は、「戦争が大好きな安倍首相」「日本は殺人国家になった」という低次元なことばが行き交っているだけである。
 反日・左翼勢力の思うツボで、日本は、冷静に安全保障を考えることができなくなっているのである。
 この流れにのっていると、突如、中国が尖閣列島を軍事占拠し、南シナ海のシー・レーンを封鎖しても、まっとうな防衛議論を避けてきた日本は、「殺すより殺されるほうが人間的」などの寝言をほざくことしかできなくなる。

 今回、安保法制が紛糾したのは、安倍政権が、日本の学者、アカデミズムを過信したからで、衆議院の憲法審査会(6月4日)で、与党推薦をふくむ3名の憲法学者が安保関連法案を違憲と証言したことによって、安保法制派が勢いをえた。
 安保法制が、日本の主権を否定し、軍事的丸裸にしたGHQ製の憲法9条に違反するのはあたりまえの話である。
 憲法9条では、国をまもることができないので、自然権にもとづいて、正当防衛にあたる基本的防衛権≠憲法9条に加味させて、主権国家としての体裁を整えたのである。
 憲法が国をまもらない以上、自衛権の根拠を日米安保条約の前文や国連憲章51条に依拠せざるをえなかったが、交戦権を禁止する憲法を改正、廃棄することも、また、不可能なので、憲法と安保条約の並立という形がとられたのである。
 それをみとめたのが、昭和34年の砂川事件の最高裁判決で、根拠となったのは、自然権にもとづく基本的防衛権(正当防衛)≠ナある。
 自然権というのは、政治や法にもとづかない権利で、これまで、基本的人権をさす用語として使われてきた。
 だが、基本的人権があるなら、基本的国権もあるわけで、政治や法は、基本的国権の上に設けられた。
 それが、国家主権に拠って立つホッブスの社会契約説で、一方、ロックやルソーは、自然権を、神もしくは自然が個人にあたえた正義の権利とした。
 日本の左翼も現行憲法も、ルソー、ロック流で、現行憲法のどこにも、国家主権の文字がなく、憲法学者(ほぼ全員左翼)は、自然権としての国家主権をみとめようとしない。
 砂川裁判で、自然権をみとめたのは、司法では、裁判官が自由裁量権をもっているからで、あの朝日新聞でさえ、社説で「(矛盾する)日米安保条約と憲法9条をともに受け入れる日本人の幸福」と書いたものである。
「安保法制案は憲法9条の下でつくられた」という安倍首相の国会答弁も同じ論理で、憲法9条を杓子定規にとらえるなら、安保法制どころか、自衛隊も違憲で、尖閣諸島海域を警備する海上保安庁の武器携帯も憲法違反ということになる。

 もともと、日本の論壇・学界は、戦後、GHQの政策によって、マルキスト一色なって以来、伝統的に左翼がつよく、サンフランシスコ講和条約から60年安保、改憲運動まで、左翼が国家の抵抗因子になってきた。
 アメリカとの単独講和に反対して、吉田茂から「曲学阿世の徒」と非難された東大総長南原繁をはじめ、羽仁五郎、家永三郎、丸山眞男 、都留重人、清水幾太郎ら左翼は、一流の学者として、マスコミからもちやほやされたが、確信犯的な反国家主義者だった。
 ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英京大名誉教授らの「安全保障関連法案に反対する学者の会」が、「憲法9条をなし崩しにしようとしている」「安倍首相が有事と思えば戦争ができるとんでもない法案」と叫び、マルクス主義フェミニズムの上野千鶴子東京大学教授らの「学者の会」に一万人をこえる学者が安保法制反対の賛同署名している(同会HP)ことからも、学者が、国家にとっていかに有害な存在かわかろうというものである。

 かれらの思い上がった本性は、「現政権は、学問と理性、知的な思考そのものを無視している」とする声明に余すところなくあらわれている。
 かれらは、いつでも欧米に移り住める国際人で、日本の国籍や文化、歴史など眼中にない。
 机上の空論に耽って、中学生のような理想論を吐き、国土防衛に汲々としている祖国を足蹴にしたところで、生活費と研究費をふんだんにもらえさえすれば、何の不都合もない。
 反日主義が、鼻持ちならないエリート意識、思い上がった選民意識だったことは、京都大学の教授と学生による「自由と平和のための京大有志の会」の声明文でも明らかだ。
「血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい」
 あまり立派すぎて、返すことばもない。
 世界がいかに危機的な状況に直面していようと、戦争の危険が迫っていようと、勉強のできるボクちゃんは危ないことに近寄らず、特別に安全な場所で、よい子にしていますというのだが、平和ボケをとおりこして、救いがたい幼児化現象である。
 こんなバカ丸出しの声明文を世界に発信して、得意になっているのが、インテリと呼ばれる人種の本性なのである。
 安保法制を必要としているのは、日本人として日本に生まれ、日本で育ち、日本の子孫を残し、日本に骨を埋める名もなき日本人で、かれらにとって、他国の武力侵略を防衛できる安全保障は、水や空気のように不可欠なのである。
 次回は、国家の自衛権について、すこしつっこんで、考えてみよう。
posted by office YM at 15:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする