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【社説】

津波被災庁舎 見るのはつらいけれど

 むき出しの鉄骨は、遺族には、命を奪われた家族を思い出す忌まわしい場所に違いない。同時に、何よりも雄弁に津波の猛威を知らしめる無言の語り部でもある。悲しみを越えて教訓を伝えたい。

 宮城県南三陸町が、東日本大震災で被災した町防災対策庁舎を二〇三一年まで県有化するという宮城県の提案を受け入れると表明した。一度は決めた即時解体を見送り、今後十六年かけて保存か解体かの結論を出すこととした。

 鉄骨三階建てだった庁舎は屋上まで津波に襲われ、防災無線で避難を呼び掛けていた町職員遠藤未希さん=当時(24)=ら四十三人が犠牲になった。鉄の骨組みだけが残った建物は、後に、津波被害のすさまじさの象徴として知れ渡ることになった。

 地元の人たちにとって、その廃虚は何よりも、家族や仲間の命を奪われた悲しさ、悔しさを思い出す忌まわしい場所である。残骸を維持、管理するにも、それなりの費用が必要にもなる。こうした遺族の気持ちも酌んで、町は一三年九月、解体の方針を固め、十一月には慰霊祭も営んだ。

 その一方、県が同年十二月に設置した有識者会議は約一年の検討の末、この庁舎を「震災遺構としての価値が特段に高い」とする提言をまとめた。

 解体か、保存か。震災から二十年後となる三一年まで実質的に解体を凍結する県有化である。その間に、遺族感情と震災遺構が調和していくことを期待したい。

 広島市の旧産業奨励館の残骸、すなわち原爆ドームも、悲惨な記憶を呼び起こすとして一時は取り壊しが取り沙汰された。街の復興が進む中、原爆の恐ろしさを伝えるために市議会などが保存に動きだしたのは一九六六年。つまり、被爆から二十年余。

 悲劇の跡を見続けなくてはならないつらさは察するに余りある。でも、だからこそ、そのつらさを後世に伝える使命も、今の私たちにはあるのだと考えたい。

 津波の猛威の無言の語り部は原爆ドームと同様、必ずや強いメッセージを発し続けるだろう。

 

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