水城の名前の由来
日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。
水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。
水城築造までの経緯
水城は663年白村江(はくすきのえ)の戦いの翌年に造られました。白村江とは朝鮮半島の地名です。
7世紀初めから半ばにかけて、朝鮮半島では高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3つの国がありました。また、中国を統一した唐(とう)は朝鮮半島にまで支配の手を延ばそうとしていました。朝鮮半島を中心とする東アジアは一触即発(いっしょくそくはつ)の状態にあり、海を隔てた倭(わ:日本)=大和朝廷(やまとちょうてい)もこの緊張関係と無関係ではありませんでした。
660年、唐は新羅と手を結び、百済に攻め入りました。同年7月、百済王は捕らえられ百済は滅び、百済の遺臣(いしん)は倭に百済の滅亡を伝えるとともに、救援軍(きゅうえんぐん)の派遣を要請してきました。
百済への派兵は2回行なわれました。1次軍は661年に海を渡りましたが、大きな戦果は得られませんでした。2次軍は663年の2万7千人から成る大部隊で、兵士の動員は西日本だけでなく、東日本にも及び、国家的な戦時体制が敷かれました。
百済救援軍(2次軍)は8月、錦江(きんこう)河口の白村江で、唐・新羅の連合軍と衝突します。戦闘は4度にわたり繰り返され、この戦いで倭の水軍は大敗北をしてしまいました。これが白村江の戦いです。倭の軍は百済の亡命貴族(ぼうめいきぞく)を伴い退却しました。
白村江の戦いで敗退した後、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失い、また、唐または新羅が倭に攻めてくるかもしれないという危ない状況に陥りました。そこで、大和朝廷は百済から逃れてきた亡命者の技術をかり、様々な防衛体制を整えることに乗り出します。
水城がそのひとつとなります。
上の地図を見ると分かりますが、水城が築かれたのは平野の最も狭くなる場所です。交通の要衝にあたるこの部分に堤防を築くことで、効率よく敵の侵入を防ぐことができたと考えられます。(大正15年製地図に色をつけています。)
西門・東門
水城には2ヶ所の門がありました。県道112号線の水城3丁目交差点が東門、大野城市下大利4丁目に西門がありました。東門では門の礎石(そせき:基礎となる石)や木樋(もくひ)が見つかっています。
西門は発掘調査が行なわれ立派な門であったことが分かりました。そして鴻臚館(こうろかん)へまっすぐ続く官道の跡も見つかっています。官道は西門へと緩やかな上り坂になり、両脇には側溝がありました。
水城の構造
水城を地盤工学の視点からみると、当時のハイテク技術を駆使して造られています。 堤防は幅80メートルの広い壇の上に築かれていました。博多側には幅10メートルほどの細長い“テラス”があります。このテラスは濠を渡ってきた後の休憩所となるなど、敵兵にとって好都合な場所になりそうですが、堤防の土が流れ落ちないための押さえの盛土だったのではないかと考えられています。また、堤防の基底部(きていぶ)の真下には樹木の枝葉が敷きつめられていたことも分かっています。これは「敷粗朶(しきそだ)」工法と呼ばれるもので、もともとゆるい地盤を強化するために施されたものです。この敷粗朶の上下では土質が全く異なることもわかっています。
発掘調査で見つかった粗朶は真空状態にあったために緑色を呈し、1350年前に埋められたものと思えないほど生き生きとしていたといいます。しかし、空気に触れた瞬間茶色に変色してしまいました。この粗朶を調査したところ、樹木の特定と刈り取られた時期まで判明しました。樹木は13種類(ヤブニッケイやクスノキ、コナラなど)が特定され、いずれも5月中旬の若葉が多くみつかりました。この調査で救援の2次軍が撤退した9月から半年後の晩春から夏ごろにかけて伐採され、その後一気に堤防の築造にかかったことが実証されました。
堤防は「版築(はんちく)」工法で造られています。版築については「おおのじょうしの伝説 父子嶋(ててこじま)」をご覧下さい。
木樋(もくひ)
木樋とは太宰府側にある水路から地下を通して博多側の濠に水を流すための導水管です。この導水管は厚さが20センチもあるヒノキの大きな板を組み合わせて造りました。幅1.2メートル、高さ80センチもある水路で、太宰府市や春日市の大土居小水城跡で見つかっています。この木樋はおそらく何本もあると考えられます。
濠はいくつかの区画に分かれていて、それぞれの土手には柵があったと思われます。そうしなければ、敵が土手づたいに簡単に水城の本堤に近づくことができます。また、本堤の平坦部にも柵か何かがあり、敵の侵入を阻んでいたと思われます。
当時は矢じりが鉄製の胴衣を装着した敵を殺傷できる距離は40メートルと考えられ、60メートルの濠は充分な距離だったと思われます。
小水城
水城と同じ目的と構造で造られたものが、大野城市上大利(現在は旭ヶ丘)、春日市大土居(おおどい)・天神山(てんじんやま)、佐賀県基山町(JR基山駅のそば)に関屋土塁、とうれぎ土塁など知られていますが、規模が小さいのでこれらは特に「小水城(しょうみずき)」と呼ばれています。
上大利小水城の現在の規模は高さ約2メートル、最大幅15メートル、長さ約80メートルですが、造られた当時はまだ大きかったでしょう。また、今は埋まっていますが、前面(下大利側)には濠があったと思われます。これも立派な防衛施設です。
大野城跡と水城跡
大野城や水城を築き、大宰府防衛に努めた当時の人々の敵に対する不安や恐怖を感じるとともに、大規模な施設の築造を行なった労働力などにも驚かされます。
※水城跡について詳しく知りたい人は、「歴史資料展示室」にある解説シートを見てください。
解説シートナンバー
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題名
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考古No.18 | 水城跡 |
考古No.19 | 小水城跡 |
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ふるさと文化財課 啓発・整備、発掘調査担当
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