東照宮
日本で「東照宮」といえば久能山・日光であり
仙波、蓬莱山、滝山などが著名である
わたしが以前行ったのは【三州大浜 東照宮】
愛知県碧南市にあるれっきとした東照宮である
規模の大小など論じる意味などない
神さまを祀るとは「心」の問題だと思っている
この東照宮はお寺の中にある神社である・・・
寺の名前は 「東照山 称名寺」という
徳川(松平家)ゆかりの寺院らしい・・・
元は天台宗の寺だったが、時宗に改宗したといい
徳川家康の幼名「竹千代」の命名ゆかりの寺
なのだそうだ
神々の ながきうき世を 守かな
めくりはひろき 園の千代竹
家康の曽祖父・松平信忠が1543年に
称名寺での「連歌会」で詠んだ句に由来するらしい
【狛犬】
【手水舎】
お約束の「三つ葉青い紋」
境内社 【渡宋天満宮】
【神牛像】
【称名寺 参道から本堂を臨む】
【称名寺 本堂】
仕事で訪れた神社・仏閣
訪れた家の近くの社寺の写真を
時折アップしてみたいと考えています。
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また やってしまった・・
昨年の3月に「魔女の一撃」の洗礼を受け
大きな問題も無く過ごしてきたが・・・
昨日、久々に洗礼を受けてしまった
座っていて、ふつうに立ち上がっただけで
激痛が走り、座ることも歩くこともできず
大変な目に遭っってしまった(笑)
ここの所仕事が詰まっていて、気付かないうちに
体に疲労が蓄積されていたようだ
ここに来て「ぎっくり腰」は辛い・・・
今にして思えば、その兆候はすでに数日前から
あったのだが、痛いのは幾らでも我慢できる性質なので
特に気を付けることも無く、「いつものこと」程度で
片づけてしまっていた
とは言っても「仕事」はパスできないし、取り敢えず
フェルビナク5%を何枚も貼り、何とか2日間の業務を
こなした
整体もこの半年「サボって」行っていない
そろそろ「体の手入れ」をしなくてはダメか・・
10年前と比べると、体重が8Kg増え、体脂肪率が
10%上昇してしまった
現在ダイエットに取り組んでいるが、その影響では
ないと思う
まだ初めて一週間、少しづつではあるが効果が出てきた
私はほかの方と違って、無理な試みはせず目標に
到達することだけ意識している
体脂肪率 25,3% → 24,8%
BMI値 22,0 → 21,5
体重 -1,1Kg
一週間の成果としては上々かな?
体重が落ちないのは、無理な食事による
「過激なダイエット」に、はまり込まないように
心がけているからか?
低GI値によるダイエットを焦らず無理せず
齢相応に心がけるつもりである
一応、目標は体重マイナス 5Kg
体脂肪率 18%
昔のような体に戻る事などは無理な話
なのは承知、高望みせず、のんびりと・・・

大きな問題も無く過ごしてきたが・・・
昨日、久々に洗礼を受けてしまった
座っていて、ふつうに立ち上がっただけで
激痛が走り、座ることも歩くこともできず
大変な目に遭っってしまった(笑)
ここの所仕事が詰まっていて、気付かないうちに
体に疲労が蓄積されていたようだ
ここに来て「ぎっくり腰」は辛い・・・
今にして思えば、その兆候はすでに数日前から
あったのだが、痛いのは幾らでも我慢できる性質なので
特に気を付けることも無く、「いつものこと」程度で
片づけてしまっていた
とは言っても「仕事」はパスできないし、取り敢えず
フェルビナク5%を何枚も貼り、何とか2日間の業務を
こなした
整体もこの半年「サボって」行っていない
そろそろ「体の手入れ」をしなくてはダメか・・
10年前と比べると、体重が8Kg増え、体脂肪率が
10%上昇してしまった
現在ダイエットに取り組んでいるが、その影響では
ないと思う
まだ初めて一週間、少しづつではあるが効果が出てきた
私はほかの方と違って、無理な試みはせず目標に
到達することだけ意識している
体脂肪率 25,3% → 24,8%
BMI値 22,0 → 21,5
体重 -1,1Kg
一週間の成果としては上々かな?
体重が落ちないのは、無理な食事による
「過激なダイエット」に、はまり込まないように
心がけているからか?
低GI値によるダイエットを焦らず無理せず
齢相応に心がけるつもりである
一応、目標は体重マイナス 5Kg
体脂肪率 18%
昔のような体に戻る事などは無理な話
なのは承知、高望みせず、のんびりと・・・
日本書紀の真実と古代豪族 (三)
蘇我石川宿禰~蘇我満智~蘇我韓子~蘇我高麗
~蘇我稲目~蘇我馬子~蘇我蝦夷~蘇我入鹿
馬子の兄弟は「蘇我摩理勢」
蝦夷の兄弟は「蘇我倉麻呂」
倉麻呂の子は・・・
果安・日向・連子・赤兄・蘇我倉石川麻呂
どうにも馬子三代の名前が気に入らない
悪意をもって後世の誰かが「名付けた」としか
思えないのである
馬子の名前の通説に、午年生まれであることに
因む可能性もあるとされるが、逆にどうして馬子だけが
生まれ干支に因んだのか?
その答えすら誰も言及しない(笑)
通説にある天智天皇(中大兄皇子)と蘇我本宗家の
確執の裏には、ある人物が潜んでいると私は考えている
第36代 孝徳天皇 である
即位前は【軽皇子】といい、乙巳の変の影の張本人と
いう人もいるくらい胡散臭い人物だ
飛鳥寺に群臣を集め「忠誠」を誓わせたという
なぜ「飛鳥寺」だったのか?
飛鳥寺の前身は【法興寺】であり
知る人ぞ知る 【蘇我氏の氏寺】である
うがった見方をすれば、天皇(孝徳)に忠誠を
誓わなければ、蘇我一族(本宗家)と同じ目に合わせる
そういう脅しの意味もあったのだろうか・・・
この天皇には蘇我の血筋は見えてこない
蘇我氏の流れでない者がどうして飛鳥寺だったのか
そういう視点から見れば、蘇我本宗家の末路を引き合いに
群臣を掌握・牽制する意図だったのかもしれない
この孝徳天皇は難波に遷都したが、のちに
中大兄皇子等によって難波宮に置き去りにされ
失意のうちに没することになる
ところが・・・この天皇【祟った】ような形跡がない
菅原道真ですら、冤罪で大宰府に左遷された恨みで
祟って出た・・・
天皇が周りに裏切られ、失意のうちに亡くなったとすれば
彼らに祟ってもよさそうなのだが、祟った気配が無い
それは「自業自得」「当然の結果」だったからではないだろうか
蘇我本宗家滅亡の陰の黒幕が「軽皇子(孝徳天皇)」だった
ならば、一人で罪を償わされたと思えなくもない
そういう目に遭うには、相応の罪があった
いわれ無き処遇ではなく、相応のなされ方を
受けたと思えてしまう・・・
実行犯は中大兄皇子等であったろうが、絵図を書いたのは
軽皇子ではなかったかと私は考えている・・・
孝徳天皇はそれまで続いてきた「豪族による政治」から
役人による政治(律令)に移行しようとした
蘇我の力が弱まったとはいえ、群臣たちの力は
侮れないものであり、反対勢力(旧豪族とその縁者)
の粛清が不可避となってゆく
それが「古人大兄皇子」の「反乱計画」を理由とした
殺害事件であり、持統天皇の祖父・蘇我倉石川麻呂の
冤罪でっち上げによる粛清である
蘇我倉石川麻呂は首を切られ、塩漬けにした首を
娘である「越智娘」に見せ、それをみた彼女は発狂して
その後亡くなったという
その張本人は中大兄皇子(天智天皇)である
通説では「越智娘」は中大兄皇子の后であり
持統天皇の母親である
ここまでの仕打ちをする意図が理解できないでいる
長屋の爺である
私はこの母子にも大きな関心を持っていて
とんでもない持論を持っているが、この先機会が
あれば書いてみたいと思っています。

~蘇我稲目~蘇我馬子~蘇我蝦夷~蘇我入鹿
馬子の兄弟は「蘇我摩理勢」
蝦夷の兄弟は「蘇我倉麻呂」
倉麻呂の子は・・・
果安・日向・連子・赤兄・蘇我倉石川麻呂
どうにも馬子三代の名前が気に入らない
悪意をもって後世の誰かが「名付けた」としか
思えないのである
馬子の名前の通説に、午年生まれであることに
因む可能性もあるとされるが、逆にどうして馬子だけが
生まれ干支に因んだのか?
その答えすら誰も言及しない(笑)
通説にある天智天皇(中大兄皇子)と蘇我本宗家の
確執の裏には、ある人物が潜んでいると私は考えている
第36代 孝徳天皇 である
即位前は【軽皇子】といい、乙巳の変の影の張本人と
いう人もいるくらい胡散臭い人物だ
飛鳥寺に群臣を集め「忠誠」を誓わせたという
なぜ「飛鳥寺」だったのか?
飛鳥寺の前身は【法興寺】であり
知る人ぞ知る 【蘇我氏の氏寺】である
うがった見方をすれば、天皇(孝徳)に忠誠を
誓わなければ、蘇我一族(本宗家)と同じ目に合わせる
そういう脅しの意味もあったのだろうか・・・
この天皇には蘇我の血筋は見えてこない
蘇我氏の流れでない者がどうして飛鳥寺だったのか
そういう視点から見れば、蘇我本宗家の末路を引き合いに
群臣を掌握・牽制する意図だったのかもしれない
この孝徳天皇は難波に遷都したが、のちに
中大兄皇子等によって難波宮に置き去りにされ
失意のうちに没することになる
ところが・・・この天皇【祟った】ような形跡がない
菅原道真ですら、冤罪で大宰府に左遷された恨みで
祟って出た・・・
天皇が周りに裏切られ、失意のうちに亡くなったとすれば
彼らに祟ってもよさそうなのだが、祟った気配が無い
それは「自業自得」「当然の結果」だったからではないだろうか
蘇我本宗家滅亡の陰の黒幕が「軽皇子(孝徳天皇)」だった
ならば、一人で罪を償わされたと思えなくもない
そういう目に遭うには、相応の罪があった
いわれ無き処遇ではなく、相応のなされ方を
受けたと思えてしまう・・・
実行犯は中大兄皇子等であったろうが、絵図を書いたのは
軽皇子ではなかったかと私は考えている・・・
孝徳天皇はそれまで続いてきた「豪族による政治」から
役人による政治(律令)に移行しようとした
蘇我の力が弱まったとはいえ、群臣たちの力は
侮れないものであり、反対勢力(旧豪族とその縁者)
の粛清が不可避となってゆく
それが「古人大兄皇子」の「反乱計画」を理由とした
殺害事件であり、持統天皇の祖父・蘇我倉石川麻呂の
冤罪でっち上げによる粛清である
蘇我倉石川麻呂は首を切られ、塩漬けにした首を
娘である「越智娘」に見せ、それをみた彼女は発狂して
その後亡くなったという
その張本人は中大兄皇子(天智天皇)である
通説では「越智娘」は中大兄皇子の后であり
持統天皇の母親である
ここまでの仕打ちをする意図が理解できないでいる
長屋の爺である
私はこの母子にも大きな関心を持っていて
とんでもない持論を持っているが、この先機会が
あれば書いてみたいと思っています。
日本書紀の真実と古代豪族 (二)
仲の良い夫婦
妻はどこへ行くにも夫に従った
妻はよく夫の補佐をして、政務に明るかった
これは今上天皇ご夫妻の話ではない
天武天皇と持統天皇の通説である
妻である皇后の父親は「天智天皇」
夫は天武天皇、天武天皇の皇子は何人も
居たはずだが、どういうわけか即位しないで
政務を執ったという(称制)
その後、第41代 持統天皇となる
私は【称制(しょうせい)】というのは、別の意味を
持った名称だと考えている
称制とは即位の儀式を行わないで実際に政務を
執ったのではなく、即位の儀式を何らかの都合で
「執り行えなかった」結果の、詭弁だと思っている
何故なら、称制を行ったのは、長い歴史の中でも
天智と持統の親子だけという現実による・・・
称制と言う制度は中国から伝わっていたのだろう
しかし、日本の歴史上「称制」を行ったのはこの他に例が無い
どうしてこの親子だけ「称制」などという、面倒なことを
選択したのか、即位して当然と言うならば、きちんと
即位の礼を執り行えばよいではないか
非常事態でもない状況で、即位しなかったとは考えられない
即位しなかったのではなく、即位できなかった
そう考えれば、すべての事柄が氷解する
天智天皇も持統天皇も、周囲は即位することを
素直に認めなかった
即位するためには時間と策略が必要だった
障害になっている物を、一つ一つ取り除く
時間稼ぎが必要だったと私は思っている
私は持統天皇の伊勢行幸の旅は、障害を
取り除くための旅だったのではないかと思っている
天武天皇と持統天皇は本当に「おしどり夫婦」か?
そのヒントは「万葉集」にある
天武天皇は女性との歌のやり取りをしているが
持統天皇とは一切していない(記載されていない)
のである
あの額田王とのやり取りが記載されているのに
相思相愛、おしどり夫婦とまで言う「日本書紀」の
記述に不可解さを感じてしまう
天武天皇、持統天皇の二人の歌は残されているのに
お互いの歌のやり取りが無い事は尋常とは思えない
春過ぎて 夏来(きた)るらし 白たへの
衣干したり 天の香久山 (持統天皇)
識者は季節感漂うこの歌を称賛する
百人一首にも登場するこの歌・・・
見方を変えると、とんでもない歌ともいえる
天の香久山といえば、天皇家にとっては
冒しがたい【霊山】である
そのような山に「洗濯物(衣)」を干すという事は
到底考えられない
言葉を替えれば、宮中三殿の前に「ふんどし」を
干すことにも近いと私は思っている(笑)
この中の「衣」とは、【天女の羽衣】を指していると
推理する識者もいる
羽衣は霊具としても重要なもので、これを着ると
「人」ではなくなる (竹取物語)
大嘗祭のクライマックスで、天の羽衣を着る事
で天皇は神聖な存在になるともいう
天の羽衣伝説の天女とは、「豊宇賀能売命」
伊勢神宮・下宮の祭神とされる【豊受大神】の
ことである
この歌となぜ伊勢・下宮の祭神が「豊受大神」だった
のかは、不思議とつながってくるのである
(これについては、またの機会に触れたいので
詳細はその時に・・)
ヤマト王家の霊山である「香久山」に、霊具である
「羽衣」が干してある、あれを自分のものにしてしまおう
そう考えたのかどうか・・・・・
称制などという不都合をごまかした裏側には
すんなりと手に入らない「皇位」を、如何にして
手中にするかという「女帝・持統天皇」の心境
を読んだ「暗号」という推理は無謀とは思わない
蘇我を考えるうえで、天智天皇とその近親を
抜きにしては語れない
一つ一つの断片は、見えない糸で結ばれている
なぜ ** だったのか?
それにはきっと「深いわけ」が存在する
長屋の爺は確信のようなものを感じている。
次回も「蘇我と天智朝」の周辺を考えたい。

妻はどこへ行くにも夫に従った
妻はよく夫の補佐をして、政務に明るかった
これは今上天皇ご夫妻の話ではない
天武天皇と持統天皇の通説である
妻である皇后の父親は「天智天皇」
夫は天武天皇、天武天皇の皇子は何人も
居たはずだが、どういうわけか即位しないで
政務を執ったという(称制)
その後、第41代 持統天皇となる
私は【称制(しょうせい)】というのは、別の意味を
持った名称だと考えている
称制とは即位の儀式を行わないで実際に政務を
執ったのではなく、即位の儀式を何らかの都合で
「執り行えなかった」結果の、詭弁だと思っている
何故なら、称制を行ったのは、長い歴史の中でも
天智と持統の親子だけという現実による・・・
称制と言う制度は中国から伝わっていたのだろう
しかし、日本の歴史上「称制」を行ったのはこの他に例が無い
どうしてこの親子だけ「称制」などという、面倒なことを
選択したのか、即位して当然と言うならば、きちんと
即位の礼を執り行えばよいではないか
非常事態でもない状況で、即位しなかったとは考えられない
即位しなかったのではなく、即位できなかった
そう考えれば、すべての事柄が氷解する
天智天皇も持統天皇も、周囲は即位することを
素直に認めなかった
即位するためには時間と策略が必要だった
障害になっている物を、一つ一つ取り除く
時間稼ぎが必要だったと私は思っている
私は持統天皇の伊勢行幸の旅は、障害を
取り除くための旅だったのではないかと思っている
天武天皇と持統天皇は本当に「おしどり夫婦」か?
そのヒントは「万葉集」にある
天武天皇は女性との歌のやり取りをしているが
持統天皇とは一切していない(記載されていない)
のである
あの額田王とのやり取りが記載されているのに
相思相愛、おしどり夫婦とまで言う「日本書紀」の
記述に不可解さを感じてしまう
天武天皇、持統天皇の二人の歌は残されているのに
お互いの歌のやり取りが無い事は尋常とは思えない
春過ぎて 夏来(きた)るらし 白たへの
衣干したり 天の香久山 (持統天皇)
識者は季節感漂うこの歌を称賛する
百人一首にも登場するこの歌・・・
見方を変えると、とんでもない歌ともいえる
天の香久山といえば、天皇家にとっては
冒しがたい【霊山】である
そのような山に「洗濯物(衣)」を干すという事は
到底考えられない
言葉を替えれば、宮中三殿の前に「ふんどし」を
干すことにも近いと私は思っている(笑)
この中の「衣」とは、【天女の羽衣】を指していると
推理する識者もいる
羽衣は霊具としても重要なもので、これを着ると
「人」ではなくなる (竹取物語)
大嘗祭のクライマックスで、天の羽衣を着る事
で天皇は神聖な存在になるともいう
天の羽衣伝説の天女とは、「豊宇賀能売命」
伊勢神宮・下宮の祭神とされる【豊受大神】の
ことである
この歌となぜ伊勢・下宮の祭神が「豊受大神」だった
のかは、不思議とつながってくるのである
(これについては、またの機会に触れたいので
詳細はその時に・・)
ヤマト王家の霊山である「香久山」に、霊具である
「羽衣」が干してある、あれを自分のものにしてしまおう
そう考えたのかどうか・・・・・
称制などという不都合をごまかした裏側には
すんなりと手に入らない「皇位」を、如何にして
手中にするかという「女帝・持統天皇」の心境
を読んだ「暗号」という推理は無謀とは思わない
蘇我を考えるうえで、天智天皇とその近親を
抜きにしては語れない
一つ一つの断片は、見えない糸で結ばれている
なぜ ** だったのか?
それにはきっと「深いわけ」が存在する
長屋の爺は確信のようなものを感じている。
次回も「蘇我と天智朝」の周辺を考えたい。
日本書紀の真実と古代豪族 (一)
日本の古代史の史料として「日本書紀」がある
言葉として、簡単な中身の日本書紀は知っていても
本当の日本書紀を知る日本人は割と少ない・・・
研究者や知識人がテレビなどで薀蓄(うんちく)を
語り、自論を展開する基準が「日本書紀に書いてある」
ということから始まっている
その日本書紀の何とも不可解なことを
日本人は気づいていない・・・
知っていても、知らなくても日本人として生きていける
そういう類の話なのかどうかはご自身で・・・
日本書紀は天武天皇が編纂を命じたという
これは日本の常識である
日本書紀は天武天皇が皇位を奪ったことを正当化
するために書かれた
これも通説として常識になっている
天武天皇のために書かれた歴史書「日本書紀」
(これを疑う事はタブーとされ、それが歴史の世界でもある)
これがとんでもない間違いかもしれない可能性を
考えてほしいと思い長屋の爺の自論を述べてみたい
天武天皇が命じて、天武天皇のために書かれた
とするならば、どうして天武天皇の生年が不詳なのか?
天武天皇を称える為に書かれた日本書紀であるなら
どうして天武天皇の幼少期~青年期が不詳なのか?
これが天武天皇とその系統のために編まれたという
思い違いの根拠になりはしないだろうか・・・
何らかの不都合があったからこそ、生まれた年も
幼少期の様子も、青年期の行動も秘匿しなければ
ならなかった理由ではないかと考えている
では最初に日本書紀の不可思議なことから
書いてみたい
日本書紀の成立
この日本書紀の成立の経緯は時代を経てから
編纂された【続日本紀】の記述による
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂
に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
この「日本紀」が現在の「日本書紀」といわれるものと思われる
舎人親王が天皇から命を受けて・・・その天皇には言及していない
日本書紀の記述
日本書紀にはある特徴があって、後世になって書き直した
あるいは差し替えたと思えるものがある
そのキーワードは【歴(れき)】
儀鳳歴(ぎほうれき) と 元嘉歴(げんかれき)
(儀鳳歴とは麟徳歴(りんとくれき)と呼ぶのが正しく
儀鳳年間(唐の時代)に日本に伝わったことから
儀鳳歴と日本では呼んでいる)
この儀鳳歴というのは西暦676年~679年ころに
日本に伝わった歴である
日本では天武5年前後になる
元嘉歴は445年~510年ころまで【宋】で使用された歴
これが重要なことを教えてくれる・・・
日本書紀の神武天皇(巻3)から安康天皇(巻13)までを
儀鳳歴 で書いてあり
安康3年より持統天皇4年までを 元嘉歴 で書いてある
そして持統天皇5年以降は儀鳳歴で書かれている
神代の時代を新しい歴で書き、途中の時代からほんの少し前
までを古い歴で書いて、最後の部分を新しい歴で書いて
終わっている
明らかに古い時代の天皇史を差し替えたか、
書き加えたか、そういう事ではないか
専門家の中には「分業」で複数の手によって
編纂されたから、歴が統一されなかった・・・
などと言う方もいるが、天皇史であり、国史である
そんないい加減な話は納得できかねる
史料としても「国史」としても、信頼のおけないものが
日本書紀であり、それに書いてあるから事実・史実
という有識者の論説には納得できないのである
全てを疑う事からしか古代史は見えてこない
とはいっても、99%の推測と1%だけ通説を信じ
自論とするしか道は無いのである
と言う事になると、いったい誰が何の目的で
日本書紀の編纂を命じたのか・・・
その答えは、天武天皇の半生が描かれていない事実が
ヒントになるかもしれない
成立年や歴を総合的に考えても、天智天皇である
可能性はほとんどない
天武天皇でなければ、いったい誰なのか・・
そこで最有力なのが【持統天皇】ではないか
と私は思っている
日本書紀が「仲の良い夫婦」を描いているなら
本当はその反対だったことも考えられる
(これについて次回以降に考えたい)
蘇我氏と天皇
蘇我氏と一括りにはできないが、日本書紀は
蘇我氏を徹底的に「悪者」に仕立てている
蘇我本宗家の「蝦夷」「入鹿」「馬子」という名も
好字・言霊から考えても、大豪族の本家が付ける名
ではないだろう
明らかに日本書紀の編纂を支持した者の思惑が
働いたという事ではないか
これも「獣」の名前を付けることは有ったと有識者は
言うのだが、それは低い階層の話であり、権勢を
ほしいままにしたという蘇我本宗家の当主には
あり得ないことだと思っている
それほどまでに「蘇我憎し」と感じる天皇とは
いったい誰だろう?
私は天智天皇の血統しかいないと考えている
そこの処を次回から考えていきたい。
言葉として、簡単な中身の日本書紀は知っていても
本当の日本書紀を知る日本人は割と少ない・・・
研究者や知識人がテレビなどで薀蓄(うんちく)を
語り、自論を展開する基準が「日本書紀に書いてある」
ということから始まっている
その日本書紀の何とも不可解なことを
日本人は気づいていない・・・
知っていても、知らなくても日本人として生きていける
そういう類の話なのかどうかはご自身で・・・
日本書紀は天武天皇が編纂を命じたという
これは日本の常識である
日本書紀は天武天皇が皇位を奪ったことを正当化
するために書かれた
これも通説として常識になっている
天武天皇のために書かれた歴史書「日本書紀」
(これを疑う事はタブーとされ、それが歴史の世界でもある)
これがとんでもない間違いかもしれない可能性を
考えてほしいと思い長屋の爺の自論を述べてみたい
天武天皇が命じて、天武天皇のために書かれた
とするならば、どうして天武天皇の生年が不詳なのか?
天武天皇を称える為に書かれた日本書紀であるなら
どうして天武天皇の幼少期~青年期が不詳なのか?
これが天武天皇とその系統のために編まれたという
思い違いの根拠になりはしないだろうか・・・
何らかの不都合があったからこそ、生まれた年も
幼少期の様子も、青年期の行動も秘匿しなければ
ならなかった理由ではないかと考えている
では最初に日本書紀の不可思議なことから
書いてみたい
日本書紀の成立
この日本書紀の成立の経緯は時代を経てから
編纂された【続日本紀】の記述による
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂
に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
この「日本紀」が現在の「日本書紀」といわれるものと思われる
舎人親王が天皇から命を受けて・・・その天皇には言及していない
日本書紀の記述
日本書紀にはある特徴があって、後世になって書き直した
あるいは差し替えたと思えるものがある
そのキーワードは【歴(れき)】
儀鳳歴(ぎほうれき) と 元嘉歴(げんかれき)
(儀鳳歴とは麟徳歴(りんとくれき)と呼ぶのが正しく
儀鳳年間(唐の時代)に日本に伝わったことから
儀鳳歴と日本では呼んでいる)
この儀鳳歴というのは西暦676年~679年ころに
日本に伝わった歴である
日本では天武5年前後になる
元嘉歴は445年~510年ころまで【宋】で使用された歴
これが重要なことを教えてくれる・・・
日本書紀の神武天皇(巻3)から安康天皇(巻13)までを
儀鳳歴 で書いてあり
安康3年より持統天皇4年までを 元嘉歴 で書いてある
そして持統天皇5年以降は儀鳳歴で書かれている
神代の時代を新しい歴で書き、途中の時代からほんの少し前
までを古い歴で書いて、最後の部分を新しい歴で書いて
終わっている
明らかに古い時代の天皇史を差し替えたか、
書き加えたか、そういう事ではないか
専門家の中には「分業」で複数の手によって
編纂されたから、歴が統一されなかった・・・
などと言う方もいるが、天皇史であり、国史である
そんないい加減な話は納得できかねる
史料としても「国史」としても、信頼のおけないものが
日本書紀であり、それに書いてあるから事実・史実
という有識者の論説には納得できないのである
全てを疑う事からしか古代史は見えてこない
とはいっても、99%の推測と1%だけ通説を信じ
自論とするしか道は無いのである
と言う事になると、いったい誰が何の目的で
日本書紀の編纂を命じたのか・・・
その答えは、天武天皇の半生が描かれていない事実が
ヒントになるかもしれない
成立年や歴を総合的に考えても、天智天皇である
可能性はほとんどない
天武天皇でなければ、いったい誰なのか・・
そこで最有力なのが【持統天皇】ではないか
と私は思っている
日本書紀が「仲の良い夫婦」を描いているなら
本当はその反対だったことも考えられる
(これについて次回以降に考えたい)
蘇我氏と天皇
蘇我氏と一括りにはできないが、日本書紀は
蘇我氏を徹底的に「悪者」に仕立てている
蘇我本宗家の「蝦夷」「入鹿」「馬子」という名も
好字・言霊から考えても、大豪族の本家が付ける名
ではないだろう
明らかに日本書紀の編纂を支持した者の思惑が
働いたという事ではないか
これも「獣」の名前を付けることは有ったと有識者は
言うのだが、それは低い階層の話であり、権勢を
ほしいままにしたという蘇我本宗家の当主には
あり得ないことだと思っている
それほどまでに「蘇我憎し」と感じる天皇とは
いったい誰だろう?
私は天智天皇の血統しかいないと考えている
そこの処を次回から考えていきたい。