福島原発事故は、寝たきりや車いすでしか移動できない高齢者に過酷な避難を強いた。老人ホーム(高齢者福祉施設)の利用者と、家族の安否もわかないまま介護に尽くす職員たちの姿を追った『避難弱者』の著者、相川祐里奈氏にこの事故からどのような教訓を学ぶべきか聞いた。
(聞き手は田中太郎)
相川さんが『避難弱者』を書いたきっかけは、「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(国会事故調)に参加されたことだそうですね。そもそも、国会事故調に参加したのはなぜだったのでしょうか。
忘れられない悲しい表情
相川:東日本大震災が起きた当時、私は読売新聞の記者として石川県の金沢支局で警察取材、いわゆるサツ回りを担当して1年ほどたった頃でした。震災後の4月に東京で被災地への電話取材をすることになり、福島県の南相馬市に電話をかけ続けていたのですが、現場を取材したいという気持ちが強くありました。そんな時に、デスクから「福島県に行かないか」と言われ、5月から6月にかけて約2週間、現地取材をすることになったのです。
福島第一原子力発電所から20キロメートル圏の警戒区域は立ち入りが禁止されているため、その周辺の南相馬市原町区で人々がどのように暮らしているのかを取材しました。この地域は、急に避難できない高齢者や妊婦などが住んではいけない緊急時避難区域に指定されていました。3月15日に市長が避難命令を出してから多くの住人が避難し、私が行った5月になっても町は人影を失っていました。そんな中で、避難所で生活している人や市内に残って住人のケアをしている市職員にお話をうかがいました。
その頃、宮城県や岩手県では復興の兆しが見えてきていましたが、かたや原発周辺の南相馬市では放射性物質の汚染の影響で全く復興の兆しが見えない状況でした。沿岸部にはがれきが残ったままで、警戒区域内には亡くなった家族の遺体も探しに行けないという話でした。しかし、取材した方々は自分を鼓舞するような笑顔で、空元気とは言わないけれど、びっくりするくらい明るく接してくださいました。でも、ふとした時にすごく悲しい表情をされるのです。その表情が目に焼き付いてしまいました。
その人たちの絶望感とどうしようもできない状況を目にしてしまって、「このまま石川県に帰って普通の生活を続けてもいいのだろうか」という気持ちが自分の中で大きくなりました。それが福島にかかわろうと思った大きなきっかけです。
そんな時に、親友から国会事故調が人を探していることを聞き、紹介してもらったんです。
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